両手に花を
手紙に書かれた文字は、歪な形をしていた。
「なんて書いてあるんだ?」
「見るなよ、クソ兄貴!」
信人は背中に便箋を隠した。
「クソはないだろ、クソは」
紅茶のカップをサイドテーブルに置いた綾人は、ロッキングチェアに身を預けた。以前は、彼らの父が座っていた椅子だ。今は、綾人の居場所として馴染んでいる。
「あいかわらず、じじい臭いな」
「じじいで結構だ。ほら、今日はお前が食事当番だろ。早く、作れ」
「わりぃ、兄貴。今日はパス!」
信人は部屋を飛び出した。
「彼女か。……彼女だな」
綾人は寂しそうに椅子を揺らした。
信人は夜の公園の空気を吸った。街灯に照らされた夜桜がしっとりと佇んでいた。
「早かったのね」
「おわ、びっくりした」
振り返ると、青い目の女がいた。彼女が現れるときはいつもこうだ。気づくと、そばにいる。歩いて来る姿を見たことがなかった。
「手紙、見たよ」
「読みにくかったでしょう。日本語は難しいわ」
濡れた眼差しが信人を見つめていた。赤い唇の奥で、小さな舌が見え隠れする。透き通った肌から立ちのぼる香気が、彼の鼻をくすぐった。
信人は唾を飲み込む。そうでもしないと、感情の赴くまま、肩を抱き寄せてしまいそうだった。
「手紙さ。次からはラテン語でもいいぜ。俺、勉強、始めたんだ。ネブラもそのほうが楽だろ」
「ありがとう、信人」
信人の頬に細い指が触れた。脳が痺れた。
「ご褒美」
唇が重なる。冷たい指先とやわらかい口唇に、信人の意識に霞がかかった。
「こっちに」
彼は茂みの奥に誘われた。
信人がキッチンでフライパンを振っていた。
「また、チャーハンか」
皿を持っていくと、フライパンが傾けられた。
「またって言わないでくれよ。今回も、自信作なんだぜ」
「週に三回も作っていれば、うまくもなる。いい加減、飽きたけどな」
「新作に挑戦しようか?」
「いや、チャーハンでいい。やっと食べられる味になったことだし」
信人が口を尖らせるのを無視して、綾人はテーブルについた。
「なあ、兄貴」
「なんだ」
綾人は胡椒を振りかけて、味の調節をした。弟のチャーハンは微妙に味が足りなかった。
「ここだけの秘密なんだけどさ」
「ここだけって、俺たち以外に誰がいるんだ?」
塩も少し足した。
「なんとなく、親父がいる気がするんだよね」
信人はロッキングチェアを指さした。綾人もつられて目を向けるが、何もおかしなところはない。
「幽霊なんてこの世にいないぞ」
彼らの両親はすでに他界している。
「そうかもしれないけどさ」
信人はだるそうに頬杖をついた。
「兄貴はさ。お化けじゃなくて、何か別のものっていると思う?」
「別のもの? 犬でも猫でもそこらにいるだろ」
「そうじゃなくて。例えば……吸血鬼とか」
「お前、熱でもあるんじゃないか?」
綾人は弟のおでこに手をかざす。
「熱くはないな。というか、冷たいぞ。上着を着ろよ。風邪引くぞ」
兄の言うことを聞いてパーカーを羽織った信人は、食事には手を付けず、テーブルを見つめた。
「それで、吸血鬼がどうしたって?」
綾人は無口になった弟を気にして話を促した。
「やっぱ、いいや」
信人は肩の筋肉を揉んでから、スプーンをもぞもぞと動かし始めた。
「信人、良く聞けよ。兄ちゃんは隠し事が嫌いだ。言いたいことがあるなら、ちゃんと言え」
「……うん」
信人はスプーンを置いて指を組んだ。じっと身体の前の手を見つめる。少ししてから彼は口を開いた。
「実はさ。俺、彼女ができたんだ」
「なんだ、そのことか」
「知ってたの?」
信人は顔を上げた。弟である自分が、兄に先んじて、彼女を作ったとはなかなか言えなかった。どうしようか悩んでいるうちに一週間が経ち、一ヶ月が経過していた。
「そりゃ、わかるさ。最近は夜も遅いし、お疲れ気味のようだったからな」
綾人は皮肉を交えて笑った。
「手紙の彼女だろ」
「なんで、わかったんだ。兄貴って、霊能力者だったりする?」
「お前の机の上に、ラテン語の辞書が置いてあったのを見つけたんだ。いつも赤点だったお前が、自分から勉強するなんて、おかしい。何かあったと考えると、女しかない」
弟が隠した便箋には、片言の日本語が書かれていた。相手が日本人でないことが、それでわかった。
「そういうことか。あ、彼女はネブラっていって、青い目のめっちゃ美人さんなんだぜ」
心のつかえが下りた信人は、明るい声を出す。
「よかったな。言っておくが、金は貸さないぞ」
「金は大丈夫だって。バイト増やすからさ。なあ、なんで、そんな不機嫌なのさ?」
「心配してんだ。お前、馬鹿だから騙されやすいものな」
「兄貴、嫉妬してんの?」
「違う!」
「ごめん」
気まずい空気を解消しようと、綾人はお茶を飲んで咳払いした。
「あのな。お馬鹿な信人くんに教えてあげよう。ラテン語ってところがおかしいんだ。あれは、学問以外では普通使われない。世界中探してもバチカン市国くらいで、それも特別な場でしか使用されない。不自然なんだよ」
「わかったぞ、兄貴」
信人は何かに気づいて、拳を叩いた。
「お前はバカチンだって言うんだろ」
「ああ、間違いなく馬鹿だな」
綾人は、信人のチャーハンに塩と胡椒をたっぷりかけた。
信人は寝返りを打った。真夜中を過ぎても眠くならなかった。むしろ目が冴えてくるような気もする。
夜は、ネブラを思い出させる。
信人は肩の傷に触れた。指先にでこぼこしたものがあたる。痛くはない。見ればはっきりわかるほどの傷だが、痛みどころか、感覚があまりない。そこだけ、自分の身体ではないようだった。
肩にある傷と同じものが、二の腕にもあった。どちらも、ふたつの穴が同じ間隔で穿たれていた。
傷は、ネブラが付けた。彼女には噛み癖があり、抱き合うと、知らないうちに噛まれていた。
逢瀬を重ねるたびに、傷痕は増えていた。今では至るところにある。おかげで温泉にもスパにも行けなくなった。
ネブラと会った後は、決まって体調が悪くなる。頭がぼうっとして、気力がなくなる。味覚もおかしくなる気がした。数日で元には戻るのだが、噛まれたことが原因かもしれなかった。
彼女に聞いてみようと思ったが、性癖を口にすると嫌われる気がしてやめた。兄に相談しようとした時は、どう切り出せばよいのかわからなかった。
喉の渇きを覚えた信人は、布団から出て起き上がった。立ちくらみがした。貧血のようだ。
ちかちかする視界にネブラの顔が浮かんだ。
「会いたいな」
昨日の今日でも、彼女が恋しかった。
傷に触れる。彼女の温度を感じた。冷たい肌触りだった。
ネブラは目覚めた。
夜着についた土を払い、脱ぎ捨てる。
カーテンを押し開き、月明かりを裸身に浴びる。
「満月」
深い青色の目に、白い月が映っていた。
チャイムの音がして、綾人は本をサイドテーブルに置いた。
「こんな時間に誰だ」
ロッキングチェアから立ちあがり、玄関先に向かった。ドアスコープを覗くと、コート姿の女が立っていた。
異様なほど白い肌にはっとした。紅い唇と、目元を縁取る長い睫毛が本能を刺激する。
綾人は彼女が誰なのかすぐに気づいた。会ったことはないが、弟の恋人であるネブラという女性だ。彼女が訪ねてくることについて、弟からは何も知らされていなかった。
「どちら様ですか」
念のために聞いてみた。緊張しているのか、声が震えた。
彼女は、弟にはもったいないくらいの美人だった。平凡な弟と、釣り合いが取れていない。もちろん、兄弟である綾人にも当てはまることだ。住む世界が違うというのは、このことを言うのだろう。
信人はからかわれているに違いない。恋人と思っているのは彼だけで、彼女はただの友だちということもありえる。
「こんばんは。ネブラと申します。信人さんとお付き合いさせていただいています。彼はご在宅ですか?」
当事者に事実を告げられ、綾人は言葉を失った。おそらく、彼らにしかわからない何かの相性がよいのだろう。そう思うことにした。
彼女は流暢な日本語を話した。片言ではなく、アクセントも聞き慣れたものだ。
「いますが、体調が悪くて休んでいるのですよ」
信人は、今朝から具合が悪いと言って寝込んでいる。
「お見舞いをさせてくださらない?」
彼女は少し砕けた物言いをした。やや強引な節が垣間見える。
「いや」
綾人の目蓋がぴくりと震えた。警戒心がわいてくる。
「私が会いに来たと伝えてもらえない?」
彼女は、頼めばなんでも言うことを聞いてくれると思っているのか。自己中心的な女という印象を受けた。
「風邪がうつったら申し訳ない。今日はやめたほうがいいでしょう」
夜半を過ぎて訪ねてきたのは、彼女の都合だろう。信人にも連絡を入れていないのかもしれない。そう考えると、事前に弟から話がなかったのも頷ける。
彼女は身勝手な女なのだ。綾人の苦手なタイプだ。信人との付き合いも、考えなければならない。
「ねえ」
女の声が変わった。しっとりとした囁きが耳の奥に忍び寄ってきた。耳元に吐息が吹きかけられたような錯覚がした。
後ろを振り返ったが誰もいない。綾人は耳をいじりながら、再びドアスコープを覗いた。
青い目が出迎えた。
綾人は瞬きを忘れた。
「彼に用があるの」
深い青色が視界いっぱいに溢れていた。綺麗で、冷え冷えとした青が押し寄せてくる。
綾人の頭の中に霞がかかる。今まで何を考えていたか忘れてしまった。
「ドアを開けて」
甘い言葉とは裏腹に、首筋に氷の欠けらを突きつけられて脅されている気がした。それが、嫌ではないのだ。不快感は跡形もなく消え失せていた。
綾人は家の鍵を外した。その間も、彼女から目を離せなかった。ドアスコープを通して、二人は見つめ合い続けた。
「開けなさい」
綾人は、彼女をずっと見ていたくて動けなかった。ためらった後にドアを開ける。その間だけ、視線が途切れた。
「あれ」
ハーフコートを着た女が待っていた。綾人は、彼女を追い返そうとしたはずだった。それなのに、ドアを開けた理由が思い出せなかった。
こうなると仕方がない。彼女を家の中に招き入れるしかなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
ネブラがドアの縁を越えた。
彼女は微笑んでいた。綾人はつられて笑み返した。
「綾人さん」
告げたはずのない名を呼ばれた。弟が話したのだと思い至る。
「はい?」
彼女の指が脇腹に触れた。冷たい。服を通しても感じるほどだ。
綾人は恐怖に襲われた。反射的に払いのけた。できなかった。手首を握られていた。氷の枷をはめられたようだった。
「何をするんだ」
首筋を撫でられた。指先の冷たさに筋肉が引きつった。
ネブラが身体を寄せてきた。顔を背けて逃れようとするが、強引に引き戻された。女の力ではない。
「私を拒もうとするなんて、ひどいわ」
彼女は何をしようとしているのだろう。弟の恋人が、自分に触れている。驚きよりも、嫌悪を感じた。
「離れてくれ」
「どうしようかしら」
ネブラは必死に抵抗する綾人を面白く見ていた。
「あれ? ネブラ?」
信人が部屋から顔を出した。二人の話し声を聞きつけたのだ。
「兄貴……何してんだよ!」
兄と恋人の距離が近いことに気づいて、信人の表情が険しくなった。
「信人、助けて!」
ネブラが救いの声を上げた。綾人を拘束した手は巧妙に隠している。
「兄貴!」
信人は二人の間に割って入った。兄を突き飛ばしてネブラを庇う。
「なんてことするんだ! ネブラは俺の彼女だぞ。兄貴でも許さない」
「待て。勘違いするな」
綾人は痛む手首を押さえて首を振った。弟に疑われるほど、辛いことはなかった。
「そうよ、勘違いよ」
ネブラは信人の背中に抱きついた。シャツの襟に手をかけて引き裂いた。あらわになった背筋に唇を寄せた。
「ちょっとネブラ! それはあとで」
「今日は満月なの知ってる? 血が欲しいの。我慢できないから来ちゃった。お遊びの手紙も飽きたしね」
傷だらけの背中に、牙が突き立った。信人は身悶えして膝をついた。
「おい、信人に何をした!」
今度は、綾人がネブラと弟の間に割って入った。目の前で何が起きたか理解できない。ただ、弟が倒れた事実は確かだ。
「何って」
ネブラは唇についた血を舐めた。
「すぐにわかるわよ」
彼女は綾人に飛びかかり、彼の肩に顔を埋めた。抵抗する間もなく、綾人は腰砕けになった。
「やめろ……」
綾人の抵抗は一瞬で砕けた。
冷たかった。そして、熱い。痛くて、気持ちがよい。奪われながら、与えられていた。
身体の感覚がめちゃくちゃだった。
「あら、いいじゃない。やっぱり兄弟でも味わいは別ね。信人の血は飽きてきたから、ちょうどよかったわ」
虚ろな表情の綾人を胸に抱き、ネブラは唇をあわせた。
「今日からあなたも私のものよ」
ネブラは彼の了承を得ずに決めつけた。わがままで身勝手な行為だ。
彼女は右手で信人を、左手で綾人を引きずった。行き先は寝室だ。
「さあ、私をもてなしなさい。あなたたちが思うより、夜は短いのよ」
皎々とした月明かりの下で、饗宴が始まる。




