表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編

1.

 フコーは突然やってきた。まあジワジワやってくる不幸はあまりないが、私の場合危機感が鈍いのか、失敗の前兆に気付いていながら手を打たず、コトが目前に迫ってから初めて焦り後悔するということがよくあった。例えば急いで家を出ることになって、何か忘れ物をしそうだなと思っていながら持ち物をよく確かめなかったり。そういう時は、自業自得だが、不幸がにじりよってきたように感じられた。

 しかしフコーは不意打ちだった。いや、よくよく考えれば、それまでの人生で伏線のようなものは張られていた気もする。だがそれでも、私は事前にそれに気づくことはなかった。

 もったいぶるのはこれくらいにしよう。

 話は、高校二年生の四月、合唱部の九島(くとう)さんと話していた時から始めようと思う。



2.

 二年一組九島すうこさんは、学年一背が小さいがいつもエネルギーを放射していて、見ていると何だか感心してしまう。成績優秀で社交的、それでいて不謹慎な笑いなんかも解する九島さんに、私は内心敬意を持っていた。ただ一つ九島さんの行動で不思議なのは、私みたいな教室の隅っこがお似合いな奴と友達なことだった。

 その時私たちは、私のクラスである二年四組で、広げた弁当箱ごしに部活について話していた。自分のクラス以外の教室に入り、ましてそこでお昼を食べるなんて私にはちょっと抵抗があるのだが、九島さんはその辺り平気らしい。

「戻ってきてよ。低音が足りなくてキツイんだ。ウルだって楽しかったって言ってたじゃない」

 猫の足跡模様の可愛い箸をふるい、九島さんが熱弁する。

 ウルこと、私、漆口ふたえは昨年度まで、九島さんと同じ合唱部だったのだ。彼女と友達になったのもそれがきっかけと言ってよい。しかし私は、学年が上がるのに合わせて退部していた。

「いやいや、何度も言ったじゃないすか、私にゃ才能がなかったんですよー」

 私はシューマイを突き刺しおどけるが、九島さんは続ける。

「何言ってんの。ウル、いい声してるよ」

 私の声はかなり低い。小さい頃はそれでよくからかわれた。小学校の音楽の授業で歌劇のビデオを観た時など、バスパートが歌い出した途端に「漆口だ!」とクラス中に爆笑されたこともあった。歌手になぞらえたのだから叱るに叱れなかったのだろう、音楽教師の困った顔まで鮮明に覚えている。

 そんな些細なコンプレックスを克服しようという、私にしては記録的に前向きな決意により、高校入学を機に合唱部に入ったのである。実際、遠慮なく声を出せるのは楽しかった。やる気を出させる為のおだてだろうが、ちょっと誉められたりもして、ガラクタと思っていた金屑が宝箱の鍵と分かったような気分すらしたのだ。初めの頃は。

「そう言ってくれるのは嬉しいんだけどさ。やっぱダメだわ。私にアーチストは無理無理」

「何で?」

「いや、単に根気がないってだけ。九島さんから、割と熱心じゃないウチの合唱部。先生も厳しいし。チャランポランな私には荷が重かったんだ」

「……嘘だね。あんな頑張ってたじゃない」

 今日の九島さんはいつになくしつこい。その理由は分かっていた。私の転部先が気に入らないのだ。

 合唱部を辞めた私は、地学部に入っていた。私の高校では全員が何らかのクラブに所属する必要があるのだが、地学部は幽霊クラブの代名詞だった。その幽霊ぶりは徹底しており、勧誘活動はおろかいわゆるクラブ紹介すら行わない。その為、普通の新入生は地学部の存在にすら気付かない。学校生活を送るうちに噂で知り、普通の部活からドロップアウトした者達が籍だけ移していく、という怪しげなクラブである。そこに、今年度春の唯一らしき新入部員として、私が入ったわけだ。

 それを今日まで九島さんに伝えずにきた。きっと何か言われるだろうと思い誤魔化してきたのだが、予想通り合唱部を辞めると伝えた時以上の説得を受けている。

「ねえ、本当にどうしたの。相談……って言葉は何だか重くてあんまり好きじゃないけど、何かあったんでしょ。話してみてよ」

「…………」

 九島さんは本気だ。そして本気の九島さんに対し沈黙を貫けるほど、私は根性が据わっていなかった。

「えっとねえ」

「うん」

 急かす、というほどでもなく、しかし先を促す相槌。九島さんはこういうのがうまいなあと、話しているといつも思わされる。

「……実は、私九島さんに惚れちゃったんだ。」

「!」

 目をむく九島さん。私は目を逸らして一息に続けた。

「そばにいると想いが込み上げてきてさ。でも、あれじゃん、私ら女同士じゃん? そういうのってよくないし、かと言ってこの胸の愛が消えるわけじゃないし、今までみたいに一緒にいたらいつ押し倒しちゃうか分かんないわけ。だから、一緒にいる時間を減らして、この愛をちょっとでも冷まそうと思ったんだ」

「…………」

「とか、そういう理由だったらどうかなって」

「……もういい」

「あ、分かってくれた? いやあ、私も悪いっては思ってるんだけどさあ、」

「もういいって言ったの!」

 合唱で鍛えられた九島さんの怒声はよく通った。

 しんとした教室の中、逸らしていた目をゆっくりと九島さんに戻すと、九島さんは眉を吊り上げて私を睨んでいた。

「もう、ウルなんて知らない!」

 荒っぽく自分の弁当箱を片づけると、九島さんは音を立てて席を立ち、教室を出ていった。

 取り残された私は、周囲からの視線を感じながらため息をついた。

 もう少しやりようがあっただろうか。周囲から向けられる視線の痛みは我慢できるにしても、九島さんを傷つけないやり方が。しかし、この漆口ふたえは、そんな対応を思いつけるほどコミュニケーション能力が高くないのだった。



 いつもに増して居心地の悪い残りの昼休みと午後の授業が終わり、掃除の時間。学校の裏庭を箒で掃きながら、私は九島さんとどうしたらいいか考えていた。

 九島さんと仲直りはしたい。しなければならない。とりあえず私が謝るべきなのは間違いない。けれど仲直りするには手土産が必要だろう。何がいいか。ケーキ? クッキー? 本? CD? 香水?

(そういうもんじゃないだろ)

 そう、九島さんに望まれているのはそういう物ではない。考えるまでもない、私が合唱部を辞めた理由を正直に話せばいいのだ。それで私と九島さんの間の確執は一発解消、私は貴重な友人を失わずにすみ灰色の高校生活を回避できるのでした、めでたしめでたし。でも、そうするわけにはいかない。

(それはなぜか?)

 なぜなら、それでうまくいきうるのは、私と九島さんの間だけだからだ。

「――ちさん。漆口さんっ」

「え?」

 私を呼ぶ声に、背後を振り向いた。

 同じ裏庭掃除当番の女の子が、ごみ袋を突き出して立っていた。やや憮然とした表情になっている。何度も私を呼んでいたのだろうか。こういう表情を向けられるのは慣れているが、昼休みのようなことがあった後だと、責められているかのように感じてしまう。

「向こうの掃除、終わったから」

「あー。お疲れ様」

「それじゃ」

 私がごみ袋を受け取ると、彼女はさっさと踵を返して裏庭から出ていった。ごみ捨て場まで持って行くのは私がやれ、ということらしい。まあ、一緒に行きましょう、などと待たれていても嬉しくない。そんなことになったら、何を話せばいいのか分からず気まずい沈黙が落ちるだけだろう。私はクラスで孤立している。周囲の人間に馴染めないのは昔からだ。それでいいと思っていた。なぜ皆が自然に人と親しくなれるのか、親しくなりたいと思えるかが分からなかった。彼女たちとは決定的に何かが違うのだと思っている。唯一、合唱部の仲間とだけはある程度話せた。けれど。

「どうせ、部活はないもんな」

 そう、もう部活はないから、急いで掃除をする必要はないのだ。かさばる楽譜を持ち歩かなくてもいいのだ。顧問にしごかれて辛い思いをすることもないのだ。コンクール前のストレスで食欲不振にならなくてもいいのだ。私は自由だ。

 ポツリ、と手に雫が落ちた。

「あれ、私泣いてる?」

(……なあんつって)

 こんなことで涙が出るほど私は繊細ではない。空を見上げると、重い色をした雲が垂れこめていた。天気予報では夜から降るという話だったが、早まったらしい。雨に唄う気はない、早く掃除を終わらせよう。

(濡れてブラジャースケスケにして男子どもを悩殺するのもアリじゃね?」

 ありえない。合唱部を辞めて気楽になったのに、何でまたそんな面倒くさくなりそうなことをしなきゃならないんだ。

「恋は若いうちにしとくべきだって言うじゃないか)

 だからって無理に恋をするのはおかしいだろう。

 集めたごみを手早くごみ袋に入れ、私も裏庭を後にした。




3.

 一般的な女子高校生というものは、もしかして寄ると触ると恋愛の話なんかをするものなのだろうか。最近世のメディアで散々披露されているガールズトークとやらは、七割ばかりが恋愛の話題で、残りがファッションや食べ物の話題であるような気がする。私はあまり仲のいい友達というものがいないので、よく分からない。少なくとも、私と九島さんの間では、恋愛の話はほとんど出たことがない。

 私に関して言えば、色恋沙汰に興味がないわけではない。初恋らしきものは一応幼稚園の頃に済ませた。恋愛小説や映画も見る。けれど今、実際に誰か男の人と付き合ったりしたいとは思わない。面倒だからだ。もしも凄く好きな人ができたなら、そんな面倒さなんて吹き飛ぶのかなあと思うけれど、恋をするために手ごろな男とくっつこうという気にはならない。草食系女子(女にも使うのか?)というやつなのかもしれない。まだ自分を干物女とは思いたくない。

 そして、九島さんに関して言えば。惚れた腫れたの話は鬼門だったりする。詳しいことは知らないが、昔、恋愛に関して何か嫌なことがあったらしい。九島さんと話すようになって間もないころ、適当な場つなぎとして好きな人とかいるのか、などと尋ねたところ、九島さんは眉根を寄せて「うーん……私、そういうのちょっと苦手なんだ」と言った。そのつもりで九島さんを観察していると、周囲の話題がその辺りに及ぶと、少しだけ嫌そうな顔になるのだ。嫌そうな、というか、苦しそうな、というか。暗い感情をあまり見せない九島さんが表情に出してしまうのだから、きっとまだひどく痛む傷があるのだろう。だから私は、九島さんの前で恋愛の話はしないできた。今までは。


 早々に家に帰って味の感じられない夕飯を家族と食べた後、私は自分の部屋のベッドに転がって今日のことを思い出していた。

 結局昼休みから九島さんとは目も合わせなかった。

 合唱部を辞めた理由を話したくない、ということの表現として、わざとタブーの話題にかすってみた。結果は、うまくいったと言えばうまくいったが、効果がありすぎた。九島さんを本気で怒らせてしまった。

 九島さんのことだ、あの程度の傷への触れられ方で、頭に血が上るほど痛かった、というわけではないだろう。怒ったのはきっと、弱みを使ってでも九島さんの心配を拒絶しようとした、私の卑怯さと悪意に対してだ。九島さんはおそらく、自分の恋愛に対する苦手意識を私に知られている、と気づいてている。その上で私があんなはぐらかし方をするということは、裏切り、いわば宣戦布告だ。嫌がることを意図的にされたショック。それに九島さんは傷付き、怒ったのだろう。

 などと、勝手な九島さんの分析をして、私は枕に顔を埋めて息を止めた。

 九島さんは今どうしているだろうか。まだ怒っているだろうか。それとも、怒ったことを後悔しているだろうか。だとしたらますます申し訳ない。二重三重に傷付けてしまったことになる。やっぱり謝らなければならない。でもどんな風に?

「だから、やっぱ正直に話すべきだろ」

 それが一番簡単なのは分かる。けれど……。

「何迷ってんだよ、悪いのはお前じゃねーだろ。遠慮するこたないって」

 悪いことをしてなきゃ、悪いことには繋がらない? そうだったらどんなにいいか。でもそんなわけがないことは、たかだか16年の人生でもよく分かっている。それこそ私が部活を辞めた理由だって――。

(え?)

 私は枕から顔を上げた。今まで私は息を止めていた。それなら、今、しゃべったのは、誰だ?

「俺だ」

 ひょこり、と。私の顔の前、ベッドの頭側の枠の上に、そいつは現れた。

 そいつの外見を、どう説明したらいいだろう。大きさは15cmほど。大体は、小人のようだ。背中に四枚の色の違う羽があるから、妖精のようだと言った方がいいだろうか。肌の色は薄緑。どこかの民族衣装のような、クリーム色のゆったりした服を着ている。肩口まで伸ばした銀色の髪。そこから飛び出た尖った耳。顔だちは、小学校高学年の男子程度に見える。右目に青い眼帯をつけていた。

「やっと見つけたな、俺を」

 それが、私とフコーとのファーストコンタクトだった。



4.

「やっと見つけたな、俺を」

「え……あ……」

 わけの分からない物を発見した私は、パクパクと間抜けに口を開け閉めした。

 ベッドの枠に腰掛けたそいつは、ぶらぶらと足を揺らしながら話し続けた。

「気付くのが遅いんだよな。学校でも話しかけたのにスルーしやがって。俺ちゃん淋しかったー」

「あ、あんた……」

 私はやっと言葉を発した。

「あんた何?」

「まあそう聞くと思ったけどよ。何だろうな? 俺も自分が分からん。気付いたらお前のそばにいた」

「え、いや……え?」

「俺を見ることができるのも、俺の声が聞こえるのも、今のところはお前だけらしい」

「そんな……」

「俺がどういう存在かはお前が決める必要があるってこったな」

「…………」

 私はそいつをじっと見つめた。そいつは少し居心地悪げに、腰をもぞもぞと動かした。

「……本当に、いるの?」

「いると思ってるが、証明はできねーなあ。我思う故に我ある、はず、としか言えん」

 話しながらそいつは、羽を動かし、ふい、と宙に浮かんだ。私の目の前まで飛んでくる。とても、こんな大きさの物が飛べるほどの勢いで羽ばたいているようには見えなかった。

「色々試したけど、こうやって触れるのも、お前だけだしなあ」

 そいつは、ツン、と私の鼻をつついた。確かにその感触があった。

 私が反射的にのけぞると、そいつはにやりと笑った。

「へへ……いるだろ?」

「……よし。状況を整理しよう」

「おうそうだな、整理するのはいいことだ。俺も協力するぜ」

「あんたちょっと黙ってて」

 そいつは何だか寂しそうにベッドの枠に戻っていったが、構ってはいられない。

 まず、こいつは見える。それは間違いない。右目で見ても左目で見ても、いる。声も、聞こえる。聞こえるって言うか、半ば頭に響くみたいだけど、とにかく分かる。そいつに向けて人刺し指を伸ばす。

「お、握手か?」

 小さな手で私の人差し指に触れてくる。感触が、ある。

「……この目で見たものは、信じざるをえないよね」

「俺の人権を認めるか」

「……人?」

 私のつぶやきに、そいつは無責任な感じで、さぁ、と首を捻った。

「まあ、俺が何にせよ、ここにいるんだからそれを受け入れるべきだな。この俺が見えるなんて、お前は幸せだぜ。話し相手もロクにいないお前に付き合ってやるんだから」

「何で話し相手がいないって知ってるの」

「俺はお前のことなら大体知ってるんだよ」

「えー……」

 私は顔をしかめた。こんな突然現れたよく分からない奴に、プライベートなことまであれこれ知られてるなんて、凄く気持ち悪い。

「で、お前の数少ない話し相手である九島のことはいいのか?」

 そうだ、こんな奴より、貴重な友達であり尊敬相手である九島さんとのことを考えなければ……いや本当にこいつは二の次でいいのか、こんなものが現れた方が大事件じゃなかろうか。

「俺の意見を言わせてもらうなら、やはり説明するべきだと思うね」

 指を振りながらそいつは偉そうに語った。

「九島に気を使うのもいいが、自己満足になってねえか?」

 妖精だか精霊だか霊魂だか分からないが、今までの私の常識からは大きく逸脱している。どうすればいいんだ。

「おいおいおい、聞いてるか? 俺が相談に乗ってやろうっつう幸せを無駄にすんじゃねーぞ」

 そいつはピーピーわめいた。

 ……よし、やはり九島さんのことを先に考えよう。こいつのことは、考えてもしかたがない気がするし、とりあえず害は無さそうだ。けれど九島さんとは、早く関係を修復しないと、このままズルズル縁が遠くなってしまいそうだ。それは絶対に避けたい。

「うん……聞いてる。でも、九島さん、本当に恋愛の話って苦手そうだし」

「それで無理に誤魔化そうとするから、今日みたいなことになるんじゃねーか。だから自己満足だっつーんだよ。浮いた話がナンボのもんだってんだ」

 恋愛の話、浮いた話。そうなのだ。私が合唱部を辞めた理由も、つまるところそれなのだ。



 ある所に、一人の女の子がおりました。女の子は男の子と出会い、恋に落ちました。女の子は男の子にさりげなく近付きます。女の子と男の子の仲は深まっていきました。そして女の子が勇気を出し、自分の想いをはっきり伝えようとする直前。男の子が、悪い魔女に心を奪われていることが分かりました。女の子は、魔女をやっつけるための冒険の旅に出ました。仲間を集め、様々な苦難を乗り越え、女の子はついに魔女を打ち倒すことに成功、最果ての二人は幸せになりました。ハッピーエンド。

 ――とまあ、私が合唱部を辞めた経緯をおとぎ話っぽく説明するなら、そうなる。しかし残念ながら、私の役どころは女の子ではない。悪い魔女だ。

 普通に説明するならば。合唱部の同学年生である女子Aが、同じく合唱部の男子Aを好きになった。しかし男子Aは物好きなことに、はぶかれっ子な私を好きだったらしい。私を邪魔に思った女子Aは、取り巻きと一緒に嫌がらせをし、私はそれが嫌になって退部した、ということになる。

 よくあるといえばよくある話だろうと思う。大人から見れば、高校生らしくて微笑ましい、なんて言ったりもするかもしれない。だが当然、当事者の私からすれば微笑ましさなど欠片も無かった。

「お前被害者だろ」

「そりゃあ、どっちかって言えばそうかもしれないけど」

 妖精もどきと私の会話は続いていた。

「だから遠慮することはないっつの」

「姫宮たちには遠慮する気は無いけどさあ」

 姫宮高乃ひめみやたかのというのが女子A、私に嫌がらせをしてくれた中心人物である。

「問題は九島さんだって。大好きな合唱部で、そんなドロドロした、しかも苦手な恋愛のもつれがあったなんて知ったら、凄い悩むよ」

「お前が答えをはぐらかしても悩む。何でお前はそんなに九島に対し気を使うんだ?」

「それは……九島さんは、えー、あー」

 何だか言葉にするのが恥ずかしくて詰まった。

「ほう、大切な友達だから、ねえ」

「え、ちょ」

「言ったろ、大体分かるんだよお前のことは」

「…………」

 理不尽だ。

「大切なのは分かるけどよ。過保護なんじゃね?」

「過保護なんて。別に私は九島さんの保護者じゃ」

「保護者ぶってるって言ってんの。っていうかさ、お前」

 妖精もどきは私の顔をビシリと指差した。こんなにあからさまに指を指されたのは初めてな気がした。

「九島のこと信頼してないんじゃないか」

「!」

 ひどいことを言われた、と思った。けれど心の奥では、痛いことを言われた、とも感じていた。

「苦手な話題から守られ続けられる年でもないだろ。まして恋なんてありふれた話から。今日お前がやったみたいに悪意と一緒に触れられたら怒るだろうが、何があったか真面目に落ち着いて率直に言われたらちゃんと受け止める、受け止められるだろ」

「…………」

 私はすぐに頷いたりはしなかった。けれど、否定することもできない。

 妖精もどきはふらふらと飛び上がると、私に背を向けて勉強机の方へと飛んでいった。話はもう終わり、ということらしい。勝手な奴だ。

「……そう、なのかな」

「俺はそう思うがね」

「…………」

 私は迷い、口をつぐんだ。後から考えれば、心の深いところで、私はどうするか決めていたのだろう。それが表面にまで浮かんでくるには、お風呂を済ませ、パジャマに着替えて、眠りにつく直前までかかったけれど。

 私が日常のあれこれをしている間、妖精もどきはフラフラと近くを飛んでいたり、どこかに消えたりしていた。「お、風呂か、よし洗え、ゴシゴシ洗え」みたいなどうでもいいことも言っていた気がするが、よく覚えていない。お風呂場にまで入ってこようとするのは困ったので覚えている。

 ベッドに入り、私は蛍光灯の上で片足立ちをしている妖精もどきに声をかけた。

「ねぇ。……あんたは何で現れたんだろうね」

 妖精もどきは軽い調子で答えた。

「さあ。だが多分、お前が凄く困ってたからじゃないか?」

「私が、困って?」

「だが安心しろ、俺が来たからにはきっちり幸せにしてやるからよ」

「……怪しい」

「なんだと」

「おやすみ」

 妖精もどきはまだ何か言いたげだったが、私はリボンを使ってベッドまで延長してある照明の紐を引っ張り、明かりを消した。妖精もどきが何かどうでもいいことを言っていてうるさかったが、私は九島さんとのことを考えている内に、いつの間にか眠りについた。



5.

 翌朝起きると、妖精もどきは消えていた。

 あれは丸ごと夢だったのだろうか、と思った。だが、あれが夢だったとしても、私はあの妖精もどきの言葉で決めたのだ。

 九島さんに、何があったか話そうと思う。

 九島さんは、性格の曲がった私でも尊敬の念を抱かされる、本当に立派な人だ。ちょっとやそっと苦手な話だからといって、子供みたいに逃げ出すとは思えない。私がなぜ退部したかを、冷静に受け止めてくれるだろう。あのよく分からない妖精もどきの言葉に従うのは何だか癪だが、でもこれはちゃんと私が考えたことなのだ。自分で責任を持って決めた行動なのだ。だから、話をする。

 ……なんて。目を覚まして、服を着替えるまではそんな強い決意とともにあったのだが。朝ごはんを食べて、家を出るくらいになると、みるみる憂鬱になってきた。私はややこしい関係のもつれというのが、大変苦手だ。シリアスな空気も苦手だ。

 天気はよかったが、私は小さい頃から雨の方が好きだった。雨の日は、あまり活発さが求められないような気がするからだ。その気楽さに比べれば、髪がやたら跳ねる程度どうということでもない。どうせ私はオシャレに興味はないのだ。しかし今日は天気がいい。朝日が私を脅しつけているようで心が縮む。

 私はいつもに増して肩を落として通学路を歩いていた。すると、声が聞こえた。

「お前本当に根性ないのな」

 不意の声に辺りを見回すと、近くにある塀、の上にいる痩せた猫、の首の上、に、妖精もどきがまたがっていた。なんかドヤ顔で。

「……何で猫?」

「いや、なんかインパクトのある登場の仕方をしたいと思ってな。そしたらちょうどいいナマモノがいたもんで。どうせ俺が触ってもこいつらは気付かんわけだし、それなら存分に利用させてもらおうかと。帝王学だな」

「それは帝王学に対する大きな誤解だと思うけど」

「そんなことより問題はお前の根性のなさだ」

「う……」

 妖精もどきは猫の首から飛び上がると、私の目の前に飛んできた。大して苦もない様子でホバリングをしている。

「俺のありがたい言葉で幸福への一歩を踏み出そうとしてるのに、何をためらうことがある」

「幸福なのかなあ」

「話を逸らすな。決めたんだろ。大切な友達をなくしたくないんだろ。だったら話すしかない」

「……分かってるよ」

 妖精もどきの大げさな言葉は、しかし私の内心へは響いていた。大切な友達。なくしたくない。その通りだ。九島さんは学校でほぼ唯一の私の友達だし、もしも私にたくさん友達がいたとしても、九島さんほど素敵な人は他にいないだろう。かけがえが、ないのだ。

「うん。話す」

 私は自分の心を決めなおした。それしかないのだ。

「ありがと、フコー」

「いやいやどうってことないぜフコーってなんだ。萌え語尾か」

「あんたの名前。夢で考えた」

「おお、ついに俺も登場人物として人格が認められたか。どういう意味の名前だ」

「不幸。不幸せ。ハードラック」

「なんだと。ファック。ファァーック!」

 妖精もどき改めフコーは、小さな中指をつきたててきた。

「だって、私を幸せにするために現れたってことは、私が不幸せだからあんたがいるってことでしょ。『世界が皆幸せなら歌なんて生まれないさ』って感じ? あんたは不幸の化身。だからフコー」

「なるほど、理屈だな」

 何度かうなずくフコー。

「って、だからってお前他人にフコーってひどいだろ。虐待だろ」

「いいの。あんたは私からしたらわけ分かんないんだから、そういう名前がお似合い。どうせ私しか呼ばないんだし」

「これがパワーハラスメントか……。む、見ろ」

 フコーが空を指す。そちらを見ると、太陽が輝いていた。今日は快晴だった。

「何? 飛行機?」

「いや、太陽の位置的に、果たして学校に間に合うのかという疑問が浮かんでな」

「あ!」

 慌てて腕時計を見る。時間はギリギリだった。

「ヤッバ!」

 私は、本当はまだ少し残っていた躊躇いをその場に捨てて、学校に向けて走り出した。





「ごめんなさい、九島さん」

 昼休み、学校の裏庭にて。私は九島さんと二人だけで立っていた。

「昨日、心配してくれてるのに、わざと嫌がるようなこと言ってごめん。私が悪かった」

 そう言って私は頭を下げる。

 私の言葉を、九島さんは眉を下げ、少し困ったような表情で聞いていた。それから、ゆっくり首を振った。

「ううん……いいよ、私も、無理に聞こうとしてごめん。ウルにも色々、事情があるよね。もう聞かないから」

 九島さんは、昨日はあんなにしつこかった追及を、あっさり止めた。やはり、昨日一晩、後悔したのだろう。悪いことをしたと思う。

「いえ。聞いてほしい。何があったか。話したいから。聞いてくれれば、だけど」

 九島さんは、驚いた表情になった。

「……大丈夫なの?」

「うん。私は」

「じゃあ、聞かせて。やっぱり、聞きたいから」

「よしきた」

 重くなった空気が嫌で、わざと少し軽く言ってみた。九島さんも、それに合わせるように、少しだけ微笑んでくれた。そして私は話を始めた。

「実は……」

 私の話は、かなり細かい物になった。誰が私にちょっかいをかけてきたのかなどは、ぼかした方がいいだろうかとも少し思った。だが、この期に及んで変に隠し立てするのは相応しくないと考えて、正直に姫宮の名前を出した。誰かにこのことを話すのは初めてだったが、午前中の授業を聞き流しながら、何度も頭の中で話の仕方を確認してきたから、スムーズに話せたと思う。

 九島さんは、相槌を打ちながら聞いてくれた。意外なというべきか、やはりというべきか、恋愛が原因だと話しても、あからさまに嫌な顔はしなかった。私が姫宮たちにされたこと、例えば楽譜を一部分抜き取られ掃除バケツに突っ込まれていたことに始まり、囲まれて罵声を浴びせられたとか、もっと嫌なことをされたとかのくだりの部分で、痛ましそうな表情になったくらいだ。

「……まあ、そういう感じで。私が合唱部にい続けても状況は変わんないかなと思って、辞めさせてもらったってこと。今更まともな他の部に行っても、ほら私って浮いてるから馴染むのに苦労するだろうし、また似たような揉め事が起きても嫌だから――まあ私が男に惚れられるなんてもうないだろうけど――、気楽な地学部に入ったの。以上っ」

 そうやって私は話を結んだ。

 九島さんはまた一つ、小さくうなずいた。

「ありがとう、ウル。話してくれてよかった」

「そうかな」

「うん……私に惚れたなんてめちゃくちゃな話よりは少なくともいいよ」

「いやあれはその苦し紛れというかイッパイイッパイの産物というか」

 くすり、と九島さんは笑った。それだけで私は救われた気分になった。

 九島さんはまじめな顔に戻り、

「じゃあ、ウルは、合唱自体が嫌いになったんじゃないんだよね」

「それは。…………」

 少し、詰まった。けれど、言いたかった。

「……合唱、好きだよ」

「……本当は、辞めたくなかったんだよね」

「…………」

「ごめんね、気付いてあげられなくて」

「やめてよ、九島さん。九島さんのせいじゃないよ。今日謝るのは私の方なんだから」

「ウル……」

 九島さんは、私に歩み寄ってきた。そして、私の背中にそっと手を回した。

「辛かったよね。孤独だったよね。ウルは悪くないのにね」

 九島さんの小さい体は、私を抱擁するというより私に抱きついているようだった。けれど、とても柔らかく暖かかった。

「う……うう」

 私は姫宮たちに嫌がらせを受けている時も、一度も涙を流さなかった。人の前でも、一人の時も。だから私はまだまだ平気だと思っていた。だから誰にも言わなかった。小学校の高学年頃から高校に入るまでの友達のいない年月は、私にそれを自然なことだと受け取らせていた。むしろ、九島さんとおしゃべりして笑えているし、ご飯も食べられるし、幸せで余裕があると信じていた。姫宮たちの行為をくだらないと見下して、心の安定を保てているつもりだった。

 でも、私は気付いた。違うんだ。外に出さなかった涙は中に溜まる。それは外に出すより始末が悪い。足の先から段々と水位を増して足取りを重くし、腰を越し、やがて息がまともにできなくなる。私はそうなる寸前だったんだ。限界は近かった。気付いてしまった。九島さんが気付かせてくれた。私は、とても、辛かった。

 鼻の奥がつんとし、目頭が痛くなり、呼吸がひくりと痙攣するのを自覚したら、もう耐えられなくなった。

 私は泣き始めた。

「嫌だったよ……辞めたくなかったよぅ……」

「ごめん、独りにしてごめんねウル」

「戻りたい……合唱したいよ……悔しいよ……!」

 九島さんはもう何も言わず、昼休みの間、ただ子供のように泣きじゃくる私を抱きしめていてくれた。



6.

 そんなこんなで、九島すうこさんとの仲を戻したっぽい私、漆口ふたえ。友達の前でカッコ悪いところ見せようが、よく分からない妖精もどきが見えようが、学校生活は続いていく。

 県内二番手という微妙な位置の進学校である私たちの高校は、テストが頻繁にある。一番の進学校に行けない程度のやる気と能力の生徒達を、なんとかいい大学に行かせるための尻叩きである。

 九島さんと仲直りした翌日の金曜日も、困ったことに実力テストだった。春休みにどれだけ勉強したか――私のようなやる気の無い生徒にとっては、どれだけサボったか、を見るための、新学期早々のテストだ。

 実力テストなんだから無勉でそのまま実力を見せりゃいいんだよ、なんてことを言う生徒もいる。しかしそんなことを言うのは、実力だけで十分高得点を取れる者か、勉強に関して自他共に諦めてしまった者である。中途半端な位置にいる私などは、教師からの圧力を回避するためにそれなりにテストに備えなければならなかった、のだが。

「だー」

 一校時目の数学のテスト用紙を前に、私は小さく呻いていた。分からない。

 昨日は家に帰ったら妙に眠くなってしまい、仮眠のつもりで横になったらそのまま今朝まで寝てしまっていた。精神的に疲れていたということだろう。おかげでテスト勉強を全くしていない。昨日以前はどうかと言えば、部活無しで家に帰るとどうも気持ちが落ち着かず、それを紛らわせるためにパソコンで遊んだり漫画を読んだりお菓子を食べたりして、ろくに勉強できていなかった。

 などと理由を付けてみたところで、学生の本分である勉強をサボっていたことに違いは無い。 

(まいったな)

 基本的な解法がスッポ抜けていて、大問に手も足も出ない。数学が得意なら自分で考えて解法を導き出せるのかもしれないが、私は数学が苦手だった。

(うー……どの要素から式を立てればいいんだっけ……もうやだなあ……)

「式にするのはそれとあれだな」

「ひっ!?」

 突然耳元で声が発せられ、私は悲鳴のような息を漏らした。

 監督教師の視線が私に向く。

「……ヒック。ヒク」

 慌ててしゃっくりのような音を出し、誤魔化す。多分誤魔化せた、と思う。

 答案の盗み見と思われないよう注意しながら声の聞こえた方に視線をやる、私の肩にフコーが乗っかってテスト用紙を指差していた。

「テスト中に声を出すのはカンニングが疑われるぞ」

(誰のせいだと……!)

「まるで俺のせいだとでも言いたげだな」

 フコーはぬけぬけとそんなことを言った。

 そして私は気付く。

(あれ? 私今しゃべってないのに)

「思ったことも伝わるらしいな。俺とお前の絆の深さ故か」

(どこに絆があるって?)

「あるだろ、絆。こうしてピンチに俺が現れるのがその証左よ」

 フコーは私の肩から机に飛び降りた。問題用紙にまで歩いていく。万が一誰かに見えたり聞こえたりするんじゃないかと私は気が気ではなかったが、フコーは堂々としたものだった。

「いいか、こういう問題の場合はだな」

 しゃがんで問題文を指しながら、問題の説明をするフコー。私ははじめ半信半疑だったが、聞いているうちにフコーの解説が授業で聞いたこととほぼ同じだということが分かってきた。それなら、とフコーの説明に沿って答案を書いていくと、書ける。書けるのだ。

(凄い、フコー凄いじゃん!)

「まあな。次いくぞ」

 フコーはその後も、問題の解説を続けた。それを頼りに私は解答用紙を埋めていった。フコーも全てが分かるわけではないらしく百点は無理そうだったが、かなりの高得点を取れそうだという手ごたえがあった。

(サンキュー、フコー!)

 私は心の中でガッツポーズをした。



「他の教科も分かる?」

 数学の試験が終わって、一校時とニ校時の間の休み時間。

 私はトイレの個室でフコーと小声で会話していた。声を出さなくてもいいとは分かったが、何となく心を読み取られるのは気持ちが悪いからだ。ここで会話をして外の人に聞かれる危険はあるのだが。

「他の教科か、大体いけるだろうな」

「やった! さすがフコー!」

「……お前随分現金だな」

「合理的なの」

 言葉に被せて水を流し、用を足したかのように見せかけて個室を出た。

 そのタイミングが、悪かった。

 トイレの入り口から入ってきた姫宮高乃と、目が合った。

「!」

 私は自分の体が強張るのを、屈辱とともに自覚した。私は、姫宮とその取り巻きに泣いて許しを請うほどに負け犬でもない。心が折られてはいない、と思いたい。ただそれでも、さまざまなことをされた記憶が、反射的に私に身構えさせてしまう。

 姫宮も立ち止まって私を見つめている。いや、睨みつけている。

「…………」

 姫宮から、目が逸らせない。目を逸らしたら、何をされるのか分からないと感じてしまう。こんな人目のある場所で変なことはしないはず。しかし、男子トイレで暴行があったと噂がある。もしかして。いやまさかそんな直接的に。もう私を合唱部から追い出すことには成功したんだし。でも。

「おい」

 突然、視界の真ん中にフコーが降ってきた。

「何見つめあってんだ。じっとしてれば何もされないとでも思ってんのか? だからお前はヘタレなんだよ」

 その言葉と、姫宮の顔が隠されたことで、私の体にかけられた麻痺が解けた。

(……分かってる)

 息を吸い、フコーの体を回避するように、横に一歩。そして、トイレの出口に向かい歩いていく。絶対に背中を曲げない。

 一歩一歩姫宮に近付く。足が、体が、重くなる。でも進む。

 真直ぐに姫宮に歩み寄り、横をすり抜けた。その時。

「一人じゃ何もできない癖に」

 姫宮の呟きが背後から聞こえた。ソプラノの声が、タールのような悪意と共に耳に届く。

「オシメでも替えてもらってりゃいいのよ」

 私はカッとした。取り巻きを集めて私に嫌がらせをしたのは、姫宮の方ではないか。しかしそんな怒りの力を借りても、私は声を出すことはできなかった。せめて視線で語ろうと、振り向き、姫宮を睨みつけようとする。が、姫宮はさっさと個室に入ってしまった。

(何なのさ、本当に!)

 私は怒りの向け所がなくてイライラしたが、テストはまだまだ続く。姫宮なんかに関わっているのは馬鹿らしい。教室へ戻ることにした。

「…………」

 フコーは、眼帯のついていない片方だけの目で女子トイレを見つめていた。



7.

「お母さん、おかわりもらうよ」

「どうぞ」

 テストがあった日の夜。私は自分の家の居間で、両親と一緒に夕食を食べていた。

 厄介なタスクを片付けた後はご飯も美味しい。九島さんの前であんな風に泣いたのが本当に私だったのか、と思える。

「お、ふたえ、今日はよく食べるな」

 父が声をかけてきた。

「テストを終わらせてきたから。明日から土日で休みだし」

「そうかそうか、それはお疲れ様だな。父さんは明日も仕事だよ」

「……そう。大変だね」

「いやいや、母さんとふたえの為だから平気だぞ」

 父親の言葉を、部活を辞め、勉強もろくにしていない私への当てつけなのか、と反射的に思ってしまう。もちろん、実際にはそんな意図はないだろう。しかし私は、どうも両親の言葉に反感を持ってしまうことが多い。私は反抗期、というやつなのだろうか。しかし小学校高学年の頃からこうなのだ、反抗期にしては長すぎる気がする。

 両親は尊敬に値する、と思っている。人間なのだから欠点はある。しかしそれ以上にいい所を私は知っている。その筆頭が、私みたいなろくでもない娘を育ててきたことだ。それには感謝しないといけない。それは分かっている。分かっているのだが。

「まったくよく食うな。ほらまた食うぞどんどん食うぞ」

(フコーうるさい)

 両親と、と言ったが、正確にはフコーもいる。食べ物を手に取れないフコーは、暇そうにその辺りを飛び回っては私に対して話しかけていた。食卓の上を歩かれたりすると、私以外の物には触れないと分かっていても、ハラハラさせられる。

 テストに関しては、あの後もフコーが活躍してくれた。私が思い出せない知識や解法を次々にアドバイズしてくれる。フコーは思考よりは暗記系が得意らしい。実力テストは、昨年度までに習ったことの復習的な問題が多いので、フコーの力が存分に発揮された。

(土日は何をしようかなあ。フコーは何がいい?)

「何で俺に聞く。大切な友達の九島とでも遊べよ」

(だって今日はフコーにお世話になったから。九島さんは……うーん……)

 今日の昼休み、いつものように九島さんが来ないので、九島さんのクラスをのぞきにいってみた。しかし九島さんはいなかった。あの九島さんがテストの日に体調を崩すような自己管理の失敗はしないだろうから、何か用事があったのだろう。だから今日は、九島さんと会っていない。

(……なんか、あの醜態を見せた後に、学校で会うワンクッションも置かずに一日遊ぶのって、ちょっと恥かしくてさあ)

「せっかく俺の助けで仲を戻せたのに、何で距離を置こうとするんだよ。馬鹿かお前」

(フコーって口悪いよねぇ。いいの、これは仲が悪くなったせいで距離を置くんじゃなくて、急に仲がよくなったための冷却期間なんだから)

「そうかいそうかい。後悔するなよ」

(するもんか)

 ふん、と鼻を鳴らしてフコーを笑ってやる。

(そうだ、明日はカラオケに行こう)

「カラオケ? 一人でか? うっげぇ、寂しい」

(フコーもいるじゃない)

「何でこういう時だけ頭数に入れるんだ」

(久しぶりだなあ、カラオケ)

「聞けよ」

 ふと気付くと、母からの視線が向けられていた。

「ん? 何?」

「いえ、何でもないんだけど。最近元気なかったみたいだから、食欲が戻ってよかったなって思って」

「…………」

 これが親というものだろうか。姫宮たちに嫌がらせを受けていることは一切言ったことがない。こんなくだらないことで心配をかけたくなかったし、両親は私を愛するがゆえに大きく騒ぎたてそうで、それが恥ずかしかったからだ。塞いだ様子も見せなかったつもりだ。だがそれでも、何かあったと勘付かれていたらしい。気にかけてもらえてるということなのだから、嬉しく思うべきなはずだ。でもしかし何だか照れ臭いような、息苦しいような気がして、

「……それは、どうも」

 そんな、およそ親子らしくない、曖昧な言葉を返すばかりだった。

「お、お前の娘、今照れたぞ」

 フコーが母に向かって話しかけた。

(やめてよフコー)

 フコーの言葉は母には聞こえないと分かっているが、何かの拍子に伝わってしまうのではないかという気がして落ちつかない。

 心配されても感謝の言葉すら言えない娘ですまない、と思いながら、私はもう一口ご飯を口に運んだ。



8.

 翌、土曜日。

「いやあ、歌った歌った」

 カラオケで五時間ほど歌った帰り道、私はフコーと話しながらゆっくりと夕暮れの道を歩いていた。

「案外体力あるなお前」

「合唱部は体育会系文化部だもの」

 潰れた元靴屋の前で、スーツを着た女性とすれ違う。こんな世界がくたびれる時間帯なのに、はつらつとした足取りがどこか九島さんを思わせた。

 少し色付いた太陽と、閑散とした通りは、気分を自省に連れて行く。

 一人でも、友達とも(九島さんくらいしかいないが)、しばらくカラオケに来なかったのは、やはり歌うことが合唱部に繋がり、合唱部は姫宮たちのことに繋がってしまうためだったのだろう。些細なことで傷に触れる。でも、もう大丈夫、だと思う。

「合唱部っつっても、元、だろ」

 フコーにそんなことを言われると、まだ胸がキリリとはする。でも大丈夫だ。私は一人ぼっちじゃない。九島さんがいる。フコーもいる。

「まったくだ、俺がいなけりゃ、途中で帰らなきゃならなかったんだからな」

 そう、私は、また忘れ物をする所だったのだ。昨晩、カラオケボックスの会員カードを忘れないように確かめようとして財布から取り出し、机の上に置いて忘れていた。そして今朝そのまま家を出ようとして、フコーに指摘されたのだ。

「うん、それは感謝してるよフコー。ありがとう」

 親には素直に言えないお礼も、フコーにはなぜか言えた。フコーとなら、失敗ばかりでだらしのなかった私も、人並みにやっていけるんじゃないか、と思えた。

「ん? 何か聞こえなかったか? なんか地面に落ちるような」

 フコーが言った。

「そう? 何も気付かなかったけど……」

 私は周囲を見回した。

 背後で、さっきすれ違った女性が倒れていた。

「えっ!?」

 目の前で人が倒れているのを初めて見た私は、驚き立ちつくした。

「ぼうっとしてないで行ってみてやれよ」

 フコーの声に我に返り、女性へと駆けよる。女性は胸を押さえ、苦しそうな表情を浮かべていた。

「ど、どうしたんですか!」

 声をかけると、女性は何か呻いたようだが、よく聞こえない。フコーが、

「とりあえず病院だろこういう時は」

 と言った。それはそうだ。慌てて携帯電話で119にかけ、現在の状況を伝え、電話を切る。

「おい、こいつ息してないんじゃないか」

 まさか、と思いながら女性を仰向けにして呼吸を確かめる。確かに、止まっていた。

「わ、うわわわわ、ど、どうしたら」

「人工呼吸しろよ」

「じ、人工呼吸、でもどうやったらいいか」

 以前学校で、救命講習を受けたことがあった。その際に人工呼吸の仕方も習ったが、頭が混乱して思い出せない。だが、周りには他の人がいない。私が何とかしなければいけない。

「落ちつけ。まず気道確保だ。寝かせて顎を上に上げさせろ」

「う、うん」

「鼻をつまめ。お前のじゃない、こいつのだ。それから口に一回ゆっくり息を吹き込め。なに躊躇ってんだ」

 フコーはよどみなく私に指示を出した。私は必死でそれに従った。

 やがて救急車が来て、私は救急隊員に状況を説明し、女性は運ばれていった。

 その日の夜、運ばれていった女性が無事回復したと連絡をもらった。

 私はおよそ今まで、自分が価値のあることをしたと思えたことがなかった。生きているだけで価値がある、なんていう言葉を見ても、まったく納得できなかった。何をやってもトロいし、うまくいかないし、根気もない。私という人間の歩いた後には、間違った文字列だけがだらだらと残されているような気がしていた。

 でも、今日、私は人を助けたのだ。フコーのおかげで。フコーがいなかったら、私は適切な処置ができなかった。フコーが人の命を救ったのだ。私のことを助けるだけじゃなく、他人の命まで。フコーが何者で、一体なぜ現れたのか、よく分からない。だが、確かに存在する意味があるのだと強く感じた。

 これから生きていくのに、色んな辛いことがあると思う。でも、私は特別だ。フコーがいる。だから、やっていけると思う。



9.

 日曜午後八時のみみずく書店は、あまり人がいなかった。近所に大きな本屋ができて、客をそちらに取られてしまったのだ。確かに向こうの方が品ぞろえは圧倒的だし、見やすいし、椅子なんかが設置してあって本の立ち読みも許されている。だが私は、昔から利用しているこのみみずく書店に愛着があり、できるだけここを使うことにしていた。

「これと……こっちも買っちゃおうかな」

 私は数冊の文庫本を手に抱えていた。

「偏った趣味だな」

「同じ作家なんだからそりゃ偏るって」

「いやそれだけでなく」

「……意味は分かるけど」

 私が買おうとしている作家は、恋愛小説家だった。それも、女性同士の同性愛ばかりを描いている作家だ。あとがきによれば作家本人もレズビアンらしいというから、気合が入っている。

 だがこの作家の本も、しばらく読んでいなかった。姫宮のせいで、恋愛に関することが全部わずらわしく感じられていたからだ。しかし、なんだか吹っ切れた今は、反動で無性にこの作家の本が読みたくなっていた。

「いいじゃない、面白いんだから」

「好きなのは構わんが」

 私がこの作家を好きなのは、心理描写が激しく濃密だからだ。ビアンであるというのは付加的な要素にすぎない、と思っていた。フコーが、

「まあお前、同性愛のケがあるからな」

 などと言うまでは。

「な、なな何言ってんの!?」

 思わず声が出た。他の客や店主に妙な目を向けられる。慌てて顔を伏せ、物陰に移動しながら内心でフコーに抗議する。

(私がビアンだっていうの!?)

「そのケはあるだろ。今だって、わざわざネットでその手の用語集なんかを見て知った、レズじゃなくビアンっつー言葉を使ってるしなあ」

(レズって言葉が侮蔑的だって書いてあったから……)

「そもそもその手の用語集を調べてる時点でなあ」

(そ、それは、この作家の本で興味を持ったからで、別に私のセクシャリティとは直結しないでしょうが! それともあの用語集調べる人全員同性愛者だとでもいうわけ?)

「そこまで否定するなら言わせてもらうが」

 フコーは腕を組んで一呼吸ためて、言い放った。

「お前、三日前に九島に抱きしめられた時、あんだけ深刻に泣いてたくせに、頭の隅っこでいい匂いだなあとか胸大きいなあとかあまつさえ気持ちいいなあとか考えてドキドキしてたろ」

「!」

 私は自分の顔が一気に紅潮するのが分かった。また大声を出しそうになって、何とか口を噤む。

(ああああんたあの時いなかったじゃない!!)

「いなくても分かるんだよ。ついでに言えば昨日の女にマウストゥマウスで人工呼吸する時もドキドキしてたし、おまけにこれが九島だったらとか考えてたな」

 こいつの口はここで封じなければならない。私はフコーに素早く手を伸ばした。しかしフコーはひらりとそれをかわし、手の届かない高さに飛んで行った。

「別に俺はそれが悪いなんて言ってるわけじゃねーよ。ただ、それならそうと自覚しといた方が楽だと思っただけでだな」

(うるさい!)

 私はフコーを無視して、本を抱えてレジへ向かった。会計をしている時、店主が妙に私の顔を見ているような気がした。もしかして今のフコーとの会話が伝わったのだろうか? まさかそんなことはないとは思うが、店主の表情が妙に気になった。後ろからフコーが何か言ってくるし、他の客も気になる。ってみみずく書店を後にした。

 涼しい春の夜気の中を速足で歩く。周囲の色々な物が、私を囃し立てているように感じられて嫌だった。しかしそれでも、しばらく歩いていると頭が冷えてくる。後ろからヒョロヒョロついてくるフコーに声をかけた。

「……ねえ。本当に、私って……そうなのかな」

「今まで俺が間違ったことを言ったか?」

 フコーは自信満々にそう言った。確かに、いままではそうだった。フコーの言うことは的確だった。私が自分でも気づいていない自分のことを言い当ててきた。私のことなら何だって知られている気がする。それなら、今回も?

「で、でも、ただ好奇心からの興味があるだけみたいな」

「お前はガチだと思うぞ」

 断言される。こいつは私の何を知ってるんだ。

「……私が女の子が好きだとしたら、好きな相手って、やっぱり」

 言葉にするのは躊躇われて、一瞬言葉を切った。しかしフコーには言われたくなかったから、一息だけ吸って言った。

「九島さん、かな」

「他にいないだろうなあ」

 妙にしみじみとフコーは言う。私は冷えてきていた頬がまた急速に熱くなるのを感じていた。

 まさか私が。百合とかビアンとかサフィズムとかそんな。孫を待ち望んでるだろう両親になんて言えば。いや言う必要があるのかこんなこと。それより九島さんになんて言えば。いやいやそれこそ言う必要があるのか。言ったらどうなる?

「九島と喧嘩になったきっかけのあの台詞がこの伏線だったんだな」

 伏線っていうかあれじゃ冗談にかこつけて欲求を漏らしてたようなもんじゃないか。恥ずかしい、なんて恥ずかしいことをしたんだ私は。でもその冗談に九島さんは怒ってしまった。ということは私が本気で好きですと言っても怒ってしまうのか。違う違う、怒ったのは私が変な誤魔化し方としてあれを選択したからであって、真面目に告白すれば受け入れてくれる……わけあるか同性愛だぞ何考えてんだ。でもどうだろう、抱きしめてくれたし優しくしてくれたし九島さんもまんざらではないという可能性も。九島さんのことだから同性愛に変な偏見なんて持ってないだろうし……。むしろ九島さんが恋愛の話が苦手なのってそっちのケがあって悩んでるからみたいなそんなこともありえたりなんか。

「都合のいい方向に思考が曲がってきたな」

 都合がいいか、やっぱ都合がいいか、現実はそうそううまくいかないよね。でも、駄目だとしたら、私はどうしたらいいんだろう。この思いはどうしたら……ってこの思いってどの思いだ認めちゃっていいのか。でもフコーも言ってるし。いやでも、ええと。その。九島さんとは。

「どうすんだよ」

「……と、友達から始めよう!」

「あぁ?」

「友情であれ慕情であれ、焦ることはないじゃない。もう既に友達なんだし……これからゆっくり考えていけば……」

「つまり現状維持かよ。チキンチキン」

「うっさいな! あんな醜態見せた後だから私もあんたも勘違いしてるだけって可能性もあるでしょうが! 少なくとも明日九島さんに会ってから改めて考えるべき!」

 しかし、私のこの考えは実現しないことになる。

 ちょうどこの頃の時間だったらしい。

 九島さんが車にはねられたのは。



10.

 月曜日、学校に遅刻ギリギリに登校すると、何となく空気がざわざわしている気がした。ときおり理由もなく周囲の雰囲気が妙に感じられるのは初めてではなかったから、またそれなのかな、困ったな、と思っていた。フコーとの心の中でのくだらない会話もその違和感を打ち消しはせず、むしろなぜかより助長するように感じさせた。

 教師がやってきて、ホームルームが始まった。ある生徒が事故にあった、諸君も気をつけるように、という話をされた。私は、雰囲気がおかしかったのはそのせいか、と思った程度で、完全に他人事として聞き流していた。

 午前中の授業は相も変わらず退屈なものだった。手だけにノートを取らせて、頭の中では九島さんのことを考えていた。

 そして昼休み。普段なら開始五分、授業が遅くなっても十分くらいすれば私の教室にやってくる九島さんが姿を見せない。仕方がないので、弁当を持って九島さんのクラスへと向かおうとした。その途中で、姫宮とその取り巻きたちに出くわした。

「漆口さん」

 姫宮が、目の笑っていない仮初の笑顔で私に声をかけてくる。私はまともに動けない。

「ちょっと付き合ってくれない?」

 そんな。私は四日ぶりに九島さんに会いたいんだ。何でこんな奴らと。

 ちらり、と私は九島さんのクラスの方を見た。姫宮はそれを見逃さなかった。

「あら、もしかして漆口さん知らないの? 親友なのに?」

 姫宮は顔を歪めた。とても嫌な表情だった。私に嫌がらせをしても部を辞めるという言葉を引き出せなかった時の表情、圧倒的優位に立ちながら思い通りにできない苛立ちの表情に似ていた。

 姫宮が私のすぐ前までやってくる。他の誰にも聞こえない囁き声で言う。

「あんたのせいで、九島は車に飛び込んだのよ」

 私はその言葉の意味が数秒つかめなかった。

 分かった瞬間、私は九島さんのクラスに駆けだしていた。

「ちょっと!」

 姫宮たちが声をかけてくるが、それを無視して走った。

 二年三組、二年二組、そして九島さんのクラス二年一組。中に飛び込み、九島さんの席を見る。いない。教室中を見回す。いない。名前も知らず普段なら絶対話しかけられない手近な生徒に対して、九島さんはどうしたのかと聞く。

「え、何? 九島さん? 事故だとかで休みだけど……」

 私は崩れ落ちそうになる足を、壁に手をついて支えた。九島さんが? 何で? どうして?

「姫宮はお前のせいだと言ってたな」

 フコーが言った。そうだ姫宮だ。あいつは何か知っているらしい。聞かなければ。

 二年一組を出る。突然鬼気迫る表情で飛び込んできた私にいくつもの視線が注がれていたが、いつもの様に消えてしまいたくはならなかった。そんなことを思う余裕もなかった。

 教室を出ると、姫宮たちが待ち構えていた。

「嘘じゃないって分かった? じゃあ行きましょう。音楽室に」

 私は姫宮たちに、一見仲のいいグループのように、けれど実は逃げられないように囲まれながら、音楽室に向かった。



 音楽室の鍵は姫宮が持っていた。九島さんほどではないが教師受けのいい姫宮だ、適当な理由を考えれば借りることは簡単なのだろう。

 全員が中に入り、内側から鍵がかけられ、入り口ドアのカーテンが閉められたのを確認して、教師が立つ一段高い場所に立った姫宮が口を開いた。

「漆口。あんたのせいよ」

 姫宮は私を睨みつけてくる。こんな時なのに、私はその視線に体が石になりそうに感じる。フコーを探す。

「固まってないで話を聞け。聞け。いや聞くな。やっぱ聞け。こんな風になるなんて思ってもみなかったな。いや予想できたが。こんなこともあろうかとな」

 フコーも、どこか混乱しているようだ。脈絡がない言葉を並べている。あてにはできない。私はポケットから手を出し、なけなしの勇気で姫宮に聞いた。

「……意味が、分からないんだけど」

「あんたが! 合唱部に戻りたいなんて馬鹿なことを九島に言ったからだっつってんの!」

 姫宮の苛立った声に、私の体が震える。

「おとなしく部を辞めたなら放っといてやろうと思ってたのに。一人じゃ何もできないからって九島を頼るなんてどういうこと? あいつ、あたしの所に来て、恋愛で揉めるなんてくだらないです、部全体のことを考えましょう、漆口に謝って部活復帰を認めてください、だってさ! はぁ?って感じじゃない? 恋愛がくだらないなんてどの口が言ってんのってさ」

 姫宮はまくしたてる。私は理解が追いつかない。

「知ってた? あいつ、中学時代にあたしのダチのカレシを取りやがったの。あの男が友達と付き合ってるって知らずに告白したってのは、まあ空気読めないんだなって許すけどさ。それに男がOKだしたのもあの野郎がクソったれだったから仕方ないけどさ。九島の奴、元々友達が付き合ってたんだって知っても、あの男と別れなかったのよ。最低じゃない? あたしの友達、凄い悩んで苦しんだんだよ。相談とか凄いされたし。あたしが、二股かけるクズ野郎なんて別れろって言っても、それでも好きだとか言ってさあ。なんとか説得して別れさせたけど。その後、なんか九島もあのクソ野郎に散々遊ばれて捨てられたって話だけど、自業自得だよね。そんな奴がさあ、恋愛がくだらないとか言ってくるとか、ホント冗談やめてよねって感じだよ。だから言ってやったの。あたしの友達の恋人を奪ったのは誰でしたっけ、って。それに、あんた自身、部活全体より大事な大事なお友達一人のことを考えてませんか、って。それから」

 姫宮は、私を醜い虫を見るような目で見下ろした。見下した。

「はぶかれてるグズな子と仲良くして優しい自分っていう役割を演じて、自尊心は満たされますか、って」

 私は貧血の時の様に視界が暗く狭まって行くのを感じた。姫宮の声が、遠くなったり近くなったりする。

「そしたら図星だったんでしょうね、逃げてったわ。そのまんま黙ってればよかったのに、何考えたか車に飛び込んだってさ。当てつけっぽくてほんと困るんだけど」

 姫宮は私と違って色々な情報源がある。そこから、普通の事故ではないと知ったのだろう。

「あんたがさあ、変にあたしらを恨んできても嫌だから言うんだけどさあ。ホント、あんたのせいだから。九島に無理なこと言わなきゃよかったのに」

 つまり、それを言いたかったのか。わざわざ。こうやって教えなければ、私は九島さんがただの不運な事故にあったとだけ思っていたかも知れないのに。姫宮たちも本当はショックだったのだろう。自分たちのせいで、という不安。しかしそれをぶつける丁度いいサンドバッグがいた。

「九島みたいな、何でもできるつもりで他人を見下してる奴と、あんたみたいな、何もできないくせに内心で自分は他人とは違うって思ってる奴、お似合いって言えばお似合いだけど。こっちには迷惑かけないでよね」

 ……この辺りで、私の記憶はいったん途切れる。

 断片的に、私が音楽室を出ようとするのを邪魔した取り巻きを殴ったこと、教室でカバンに教科書を詰めたことを、無音の光景として覚えている。

 気が付いた時には、自分の家に帰ってきていた。



11.

 目に入った時計は、まだ午後の授業をやっている時刻を示していた。午後の授業をサボって帰ってきてしまったらしい。サボるのは初めてだったが、何の感慨も湧かなかった。父は仕事、母はどこかに出かけているらしく、家には誰もいなかった。

 鞄が重くて、その場に落とした。制服が重くて、その場に脱ぎ散らした。体が重くて、その場にへたりこんだ。

 ちゃんと考えることができない。断続的な思考が、しかし猛烈なスピードで浮かんでは消えていく。止められない。九島さん。飛び込み。何でそんなことに。姫宮。部活。合唱。人が死ぬ。九島さん。好きな人。お似合い。恨み。余計なこと。九島さん。車。事故。自殺。ひたひたと。信じられない。車にはねられ。死ぬ。九島さん。さようなら。何で。どうして。嘘だ。本当だ。事故。何でこんな。誰のせい。

「お前のせいさ」

 私のせい。私のせい? 姫宮が言った。そんな言いがかり。言いがかりだ。だって私は。九島さんが好きで。そんなわけない。

「お前のせいだ」

 私のせい? 姫宮の声。蔑んだ声。囃し立てる声。私は。違う。九島さんは。そんなことしない。だって。九島さんは。立派な。

「お前のせいだ」

 私のせい。だって。黙れ。姫宮。違う。姫宮じゃない。この声は。私に。九島さんに。打ち明けろといったのは。

「フコー……!」

「お前のせいだよ、ふたえ」

 部屋の隅の暗がりに、フコーがいた。朱色に光る左目で、私を見つめていた。

「九島を殺したのはお前だ」

 喋りながら、フコーが一歩こちらに近づいた。

「ち、違う、だって、私は」

「お前が、九島にすがりついたのが悪い」

「な、何で」

 私には分からなかった。口は悪くてもずっと私の味方だったフコーが、なぜこんなことを言うのか分からなかった。

「私は、私のせいじゃなくて、」

「そうか?」

「だって、そう、そうだよ! 九島さんに話せっていったのはフコーじゃない!」

「姫宮みたいなことを言うんだな」

「っ!」

 フコーが一言しゃべるたびに、一歩ずつこちらに近づいてくる。

「で、でも、そうじゃない! 私は迷ってたのに、フコーが言えって……!」

「俺は、九島に退部した理由を言えとは助言した。だが、それ以上のことも伝えろとは言っていない」

 近づいてくるフコーが、無性に怖かった。

「それ以上って……何」

 答えは聞きたくなかった。でも尋ねずには居られなかった。

「九島が部活に戻してくれることを期待しただろ。姫宮たちに復讐することを期待しただろ」

「やだ……やめてよフコー」

 私は懇願した。それでもフコーはやめてくれなかった。

「嫌なことを全部始末してくれるのを期待しただろ。自分では何もしないでめでたしめでたしになることを期待しただろ」

「やめてよ!」

 耳を塞いだ。それでもフコーの声は手をすり抜け、頭の中で反響する。

「お前は泣きながら九島になんて言った? 辞めたくなかったと言ったな。戻りたいと言ったな。悔しいと言ったな。九島がそれをどれだけ重く受け止めるかを、分かった上で」

「う、うう……」

 フコーは止まらない。私には止められない。

「気分が楽になって飯も美味いはずだよな。お前は、九島にお前の重さを押し付けたんだ。何があったかを伝えるだけにするべきだった。九島への気遣いはそうあるべきだった。だがお前はどうした? どうなってほしいかまで口にした。九島にべったりと頼った」

「……だって……だって」

「九島がお前を可哀想な奴だと思って付き合ってくれてるように、お前は九島を無条件に立派な奴だとしか見てないんだよ」

 フコーは、もう手を伸ばせば届きそうな距離にいる。けれど怖くて手を出せない。

「九島なら立派な奴だから大丈夫、って何回思った? 尊敬するって言葉で、何回九島の人間性を無視した? もし今回大丈夫だったとしても、いつかお前は九島を追い詰めたんだよ」

 そんなことない。私は九島さんを気遣って打ち明けるかどうか迷った。迷った……本当に? フコーに言われなくても、結局は打ち明けたんじゃない? 崇拝という押しつけと共に。

 私にはもう分からなかった。何が正しいのか。私が正しいのか。九島さんが正しいのか。姫宮が正しいのか。誰も正しくないのか。考えることに疲れてしまった。

「フコーは……」

 でも、フコーは。フコーは今まで間違ったことを言わなかった。正しいことを言ってくれた。私の心の底にある欲求を、記憶を、読みとって的確なことを言ってくれた。本当にしたいことを示してくれた。人を救ってくれた。それなら、こんな状況だって、フコーは、私のためになることを言ってくれる。フコーは信じられる。

「フコーは、どうしろって言うの?」

 私は耳を塞いでいた手をどけた。

「責任取れよ。自分で責任を持って決めた行動だ、って考えてたよな。責任を取れよ」

 うん。だから、わたしはフコーのいうことをきくよ。どうすればいい?

「死ねよ」

 分かった。



12.

 ベッドもシーツもどこまでも白いのに、なぜか清潔な気がしなかった。部屋、いやフロア全体に漂っている尿のような匂いのせいだろうか。

「ここがひとまずの漆口さんのスペースですから。もうすぐ夕飯の時間ですね。その時間になったら、食堂前にご飯のお盆が載ったラックが来るんで、自分の名前の紙が乗ってるのを取ってね。食堂で食べてもこの部屋で食べてもいいです」

「……はい」

 ピピ、と脇の下に挟んだ体温計が鳴る。それを看護師に渡す。

「次は、えーと、着物ですね。はい、立って」

 立ち上がり、看護師が持った病院着に体を合わせる。

「上も下もMでいいですね。それから、この紙に書いているのがが規則です。持ち込んじゃダメなのは、危険物と、コンセントを使う物と――」

 看護師の説明を聴きながら、ぼんやりと今までのことを思い出していた。



 フコーの言葉で死ぬことを決めた私は、台所に行って包丁を手に取った。自分の首に刃を当てたところで、母が帰ってきて私を発見した。

 母の行動は俊敏だった。私に駆けよると、腕を掴みあげた。取り落とされた包丁が、鈍い音を立てて床に突き立った。誰の足にも当たらなくてよかったと思った。

 何してるの、と悲鳴のような声で聞かれた。私は曖昧なまま、死のうと思って、と答えた。馬鹿、と頬をはられた後、抱きしめられた。私は、まるでドラマみたいな反応をするんだな、とか、何だか鬱陶しいな、とか考えていた。

 母が仕事中の父に電話をしている最中、私はずっと手を握られていた。母は涙声で父と話していた。

 しばらくして、父が帰ってきた。仕事を途中で切り上げてきたらしい。父も、私を見るなり手を強く握ってきた。よく分からなかった。

 両親が、病院に行こう、と言うので、私は頷いた。面倒だったが、親に捕まえられた以上、逃げることはできないと思った。病院に行っても何が変わるわけでもない、とも思った。

 大学病院の精神科ではしばらく待たされた。両親の悲愴な表情が申し訳なかったが、それをどうにかできそうな気も、する気も起きなかった。フコーは常に視界の隅にいて、時々、お前はいるだけ周りを困らせるんだ、死ねばいいんだよ、と言っていた。

 診察は、まず一人の男性医師と行われた。ほとんどのことは親が話していた。元々私が集団生活にうまくなじめていなさそうだったこと、高校に入り部活に積極的に参加し始めてよかったと思っていたのに辞めてしまったこと、それから元気がなかったこと、元気になったと思ったら食事中などに時折何もない場所を見つめたり一人で笑顔になったりしていること、そして死のうとしていたこと。恥ずかしく、私の実感とは違うことも多かった。しかし、訂正するのが面倒だし、自分の内面をわざわざ話すのも嫌で、私はただ聞いていた。頷くことも、表情を変えることも、ほとんどしなかったと思う。

 それから両親が退席し、私と医師で話した。死にたかったそうですが、どうしてですか、大きな悩みや辛かったことがあったんですか、と聞かれた。姫宮達との関係を説明させられるのも、まして九島さんに迷惑をかけるのも嫌だった。なので、特にはありません、ただ生きると迷惑をかけそうで、とだけ答えた。口にして初めて分かったが、それはただの出まかせではなく、私が昔から持っていた不安でもあった。

 普通の人が普通にできることが、私にはできなかった。例えば机の整頓や、他人に合わせる自然な笑顔や、決まった時間に寝て起きることなんかが。アイドルや、ドラマや、将来やりたい仕事みたいな、みんなが興味を持つことに興味を持てなかった。「お前は欠けてるんだよ」。それがどこであれなんであれ、私と同じグループになった人は嫌そうな表情をしている気がした。私が失敗をして足を引っ張った時、舌打ちなんかをされると心が痛かった。笑顔で、大丈夫気にしないから、なんて言われても、その笑顔の裏では顔をしかめているのだろうと思って胸が苦しかった。私はどこに行っても厄介者だと思われている気がした。「実際そうだ」。私に大きな愛情を向け、投資をしてくれている両親に対してさえ、その愛情に全く報いることができなくて、反動で愛情を鬱陶しく思っている。私はどこに行っても、自分がはまらないパズルのピースのように感じていた。いるだけで私は見苦しいのだと感じていた。高校で合唱部に入って、九島さんに会って、それは少し変わったはずだった。でもそれも駄目になった。

 ……私はそんなことを考えながら、医師の質問に笑顔を作って、適当に答えていた。考えていた自分の不安については伝えなかった。この、医師という肩書を持つらしい知らない人には、助けてほしいとも頼ろうとも思えなかった。

 いない人の声が聞こえたりしますか、と聞かれた。私は、いいえ、と笑顔で答えた。親の説明から、私がフコーに反応しているのは明らかだ。つまりこの「いいえ」は、みえみえの嘘、拒絶の嘘になる。ちょうど九島さんに、九島さんを好きになったから部を辞めたんだ、と言ったようなものだ。さすがに医師は怒ったりせず、困ったように微笑んで、そうですか、と言った。

 それから医師が三人に増え、私の両親も呼び戻され、六人で面談をした。今までの確認の様な問答の後、医師たちが何か相談した。そして私に、任意入院が勧められた。いわゆる閉鎖病棟、外界と隔絶された空間、そこへの入院。両親はその提案に動揺しているようだったが、私自身は不思議と他人事のように感じられていた。ご両親も心配なさっているようですし、安全な場所でゆっくり休んでもらえるようにという処置です、との医師の説明に、両親は戸惑いつつも頷いた。私は、別にいいですよ、とやはり他人事のように答えた。拒否できるとも思えなかったし、入院した所で何が変わるとも思わなかった。その場で契約書を渡され、流し見てサインをした。父が、「ふたえぇ、戻ってこいよぉ……」と涙声で言っていた。ここにいる私は彼にとって娘ではないのだろうか、と思った。

 そして、あっという間に病院側の受け入れ準備が整えられ、私は病室に案内された。



「――大まかな規則は、これくらいですね。あとは自分で読んでおいてください」

「はい」

 私は従順に頷いた。噛みつく要素などないのだから当たり前だが。

「それじゃあ、また先生から説明があると思いますから、それまでは休んでいてください」

「はい」

 言い残し、看護師は病室を出て行った。

「こんな所にいたって無駄だ」

 フコーの声が頭で響く。そうなのだろうか。きっとそうなのだろう。

 ベッドに座って私は周囲を見回す。

 ベッドが4つ並んでいる、白い部屋。ベッドとベッドの間はカーテンで仕切れるようになっているが、今は開いている。どのベッドも使われているらしい。私の分のベッドの空きがあったのは幸いと言うべきかどうなのか。ベッドの横には、腰ほどの高さのキャスター付きの床頭台。中に物を入れられるようになっていて、机と棚を兼ねる。この床頭台とベッド下の空間が、患者に許された収納スペースなのだろう。窓を見ると、網が入っていていかにもという感じだ。嵌め殺しではないようだが、きっと少ししか開かないのだ。入り口横の壁には、何かとがった物でもぶつけたようなへこみがあった。

 見まわしていると、正面のベッドにいる女性と目があった。私は外見で年齢を判断するのは苦手だが、三十代の後半あたりだろうか。浅黒い顔をしている。軽く会釈をすると、彼女は躊躇いがちに口を開いた。

「ど、どうも、はじめまして」

 少しどもりがあった。そして、何とはなしに、例えば目線の動き方などに、違和感を感じる。

「新しく、は、入られたんですか」

「ええ、そういうことになりそうです」

「なんで、ですか」

 いきなり踏み込んだことを聞くもんだな、と思った。しかし、私はここでいつまでか分からない時間を過ごすのだ。この閉じた環境で。それなら、精一杯人当たりよくしておいた方がいいだろう。私は笑顔(とその時の私は思っていた表情)で答える。

「いやあ、よく分からないんです。ただ、死にたいと思っちゃって」

「ああ……。わ、私も、死にたくって」

 流石は精神病棟、自殺願望なんて有り触れているらしい。

「何歳?」

「……十六です」

「若いですねえ。私は、よ、四十二」 

 その後も、女性は他愛ない会話を続けてきた。誰もが中空を見つめて会話が成立しないようなイメージを閉鎖病棟にはもっていたため、意外だった。ところどころ話題が飛ぶ所はあるが、会話はできている。私のイメージは偏見だったのだろうか。それともこの女性が特に話し好きなのだろうか。

 しばらくして、医師からの説明を受けていた両親がやってきた。できる限りいつも通りに接そうと努力しているのが分かって、痛々しかった。私はそれにどう応じればいいのか分からずに、ぼそぼそと、家から持ってきてほしい物を頼んだ。両親はそれを承諾して帰っていった。残された私はセンチメンタルになるかなと思ったが、そんなことはなかった。思考が感情から遊離しているような感覚があった。

 向かいの女性がまた話しかけてきた。それをしばらく聞いていると、最初に一人で診察をした医師がやってきた。彼が私の主治医となるらしい。

 個室に連れて行かれ、これからのことについて説明を受けた。と言っても、詳しいことは語られず、ゆっくり休んでください、という意味の話をされて病室に戻された。

 それから、夕飯を食べたり、他の患者の人と話したりした。食堂やホールなどにいる人たちは、話し好きの傾向があるようだった。この病棟での生活のコツ、例えば医師にあまり後ろ向きなことは言わない方がいいだとか、朝と夕方にホールのタンクに補充されるお茶を自分のペットボトルに汲んでおいたほうがいいだとか、そんな話をされた。誰かの話を聞いていると、フコーの私を責める声から少し気がそれた。相手からすると、私は自分ではほとんど喋らないし、時々頭の中で反響する声に耐えるため黙りこむので、奇妙に感じられたかもしれない。それともこの場所では、そんなこといちいち気にされないのだろうか。

 そうこうするうちに、消灯時間の九時近くになった。薬を取りに来てくださいとアナウンスされてナースセンターに行くと、二錠の薬が渡された。睡眠導入剤と安定剤だという。なるほど病院らしくなってきた、と思いながら、その場で水を渡され飲んだ。

 ベッドに戻り、病院着に着替えていると、照明が落ちた。廊下の灯りはついたまま、病室の扉は開けっぱなしであり、真っ暗ではない。

 ベッドに横になってもなかなか眠くならずに、影の中で白く浮かぶ自分の腕を見ていた。

 こんな所に入れられて、これからのことが不安になるはずだよなと思いながら、その感情は湧いてこなかった。

 幻聴が聞こえるかという医師の問いに、頷くべきだったろうか。けれど私は、はい、と答えて、フコーがただの幻だと、精神科で治療されるべき病気の症状だと認めるのが嫌だった。

「九島を苦しませておいて、何がゆっくり休むだ?」

 フコーの声が響く。フコーは今も私を責める。けれどそれは、私がそうしたいと思っているからだ。フコーは間違ったことを言わない。いぜん変わりなく。

 これからどうなるのだろう。分からない。分からないけれど、幸せに生きることはできないと思った。幸せになるには、私は臆病すぎるし、怠惰すぎるし、わがまますぎるし、醜すぎるし、弱すぎるから。

 フコーは私を幸せにするために現れたのだということを、信じられる気がした。幸せになるには、死ぬしかないのだ。できる限り静かに、迷惑をかけず、死んでしまいたかった。

「そうだ、そうしろ、早くしろ」

 フコーは急かす。けれど、この空間で命を絶つのはひどく難しい。そこまでして死のうという気力がなかった。

「根性無しが、それだから駄目なんだ」

 何を考えるのも面倒だった。薬のおかげか眠気がやってきた。そのまま私は意識を手放した。



13.

 入院を開始して、十日ほどが経っていた。

「ふたえちゃん、もうお風呂入った?」

「いえ、まだです」

 同室の患者に声をかけられる。その程度にはここに馴染んでいた。ここは、基本的には、他人に対して友好的にふるまう人が多い。私に対して親しく声をかけてくれる人が学校よりも多くいるのが、何だか不思議だった。とは言え、みんながみんな仲良しではないらしいことも、何となく分かってはきていたが。

「今お風呂空いてるみたいだよ」

「そうですか、ありがとうございます」

 今日は基本的に二日に一度の入浴の日だった。病棟内につくられた浴室は、男女が一日交代で使用する。二人入れば一杯になってしまうため、空いている時間を見計らって入る必要があった。

 タオルにシャンプー類、それに着替えを持って浴室に向かう。

 浴室には言われた通り誰もおらず、少しほっとした。自分の体に自信のない私は、同性相手でも、裸を見られるのが嫌だった。脱衣場で手早く服を脱ぎ、中に入る。

 中は湯気がこもっている。いつもそれがなんとなく気持ち悪い。シャワーの前に座って、体にお湯を浴びる。十人以上の、病状も様々な人たちが使う。中には日常生活で排泄物を漏らす人や、湯船に浸かっても決して体を洗わない人もいる。そのため、湯船につかるのには正直抵抗があり、私はシャワーで済ませることにしていた。

 シャンプーを手に取り、髪を洗う。大きく息を吐く。

「……なんだ? ため息なんかついて……」

 脱衣場から、フコーの声がした。

(別に)

 私は心の声で答える。

 数日前から、フコーは明らかに不活発になっていた。現れる時間が少なくなり、姿を見せても眠そうにしている。私にいやな言葉を叫ぶことも少なくなった。恐らく、入院してから飲まされている薬のせいなのだろうと思う。九島さんが事故にあったと知る前のフコーに近い、普通の会話もできる時期もあった。しかし今はそれを通り越し、ほとんど眠っているようで、会話をすることはほとんどなくなっていた。

 恐らく、このままいけばフコーは消えるのだろう。それが私に対する治療の前進なのだろう。

 安定剤という物の効果だろうか、私の感情も、どこか起伏の少ない、凪いだような物に変わりつつある気がした。

「……よかったな……マトモに戻れるぜ」

「…………」

 マトモ。マトモとは、何をもって言うのだろう。私が今までマトモだったことがあるのだろうか。



 入院してから、何度か主治医と面談をした。その際に一度、何かの病気の代表的症状らしき物が並んだチェック用紙を渡された。そこには、私とフコーについて心当たりのある現象もいくつか含まれていた。

 たとえば、「部屋の上方、隅から、自分に誰かが話しかけてくる。それに応答してしまう」。フコーと会話しているのは、そのものだろう。

 たとえば、「自分の思っている事が聞こえてくる。静かにするとそれが高くなる」。フコーの声が結局は私の思考だとすれば、一致する。

 たとえば、「食事をしようとすると、そら食べるよ、そら又、ガツガツ食べるという声が聞こえる」。フコーは食事中に似たようなことを言っていた。

 たとえば、「自分は何も言わなくても、他の人に自分の考えている事が分かる。それは周りの人達の顔つきで分かる」。フコーが他人に話しかけた時、私の思考が伝わってしまうのではと心配になった。

 たとえば、「『奇怪、憑き物』に支配されている」。フコーの存在がそうだ。

 たとえば、「もう一人の自分がいるように、とりとめのない思考が頭の中に次々に浮かんでくる」。フコーがもう一人の私のようなものだとすれば、当てはまる。

 これらの合致から、医師からすればフコーは妖精でも奇跡でもなんでもない、ただの精神病の症状とされるのだろうと知った。フコーが見えて会話していることを話した方がいいだろうか、とも思った。けれど私はそうしなかった。主治医には、ただなんとなく色んなことが面倒になって、死にたくなったんです、という話だけをしていた。



 コンセントを使った道具が禁止されているここでは、ドライヤーなど使えない。タオルで髪を拭きながら浴室を出て病室に戻ると、ベッドの上に、母からの書き置きがあった。食堂で待っているらしい。

 両親が、お菓子や本、電池に着替えなど、色々な物を持ってきてくれるのはありがたい。ほぼ毎日、父か母かどちらかが様子を見にきてくれるのは頭が下がる。話している間はフコーの声も小さくなる。けれど、やっぱり私は、どんな顔をして二人に会えばいいのか分からず、会うことが気が重いと感じてしまうのだった。

 とはいえ、会わないわけにはいかない。タオルをベッドの枠に干し、食堂に向かった。

 母は窓際の席に座って文庫本を読んでいた。私が近づいていくと、顔をあげて笑みを見せる。その笑みの受け止め方が分からない。笑顔を返せばいいのだと頭では分かっているのだけれど、それが顔に現れる前に何かに妨害されてしまって、私は妙にこわばっているだろう表情で母の向かいに座った。

「どう、何かあった?」

 母が、この十日でお決まりとなった質問をしてくる。

「……先生と面談したけど、特に何も変わってないよ」

「そう……。あ、ほら、ふたえが読みたいって言ってた作家の本、見つけたから持ってきたよ」

「あ、ありがとう」

 その後、他に持ってきてくれた物についてや、家で何があっただとか、天気がどうだとか、雑談をする。雑談と言っても、毎日会っていれば話題もなくなりそうなものだが、両親は何かしら話をつなげる。私にはできないことだな、と思う。

 話が一区切りしたところで、母が聞いた。

「他の患者さんと話したりするの?」

「……うん、まあ。よく声をかけてくれる人、いるよ。昔、学校の先生だった時の事を話してくれる人とか」

「ああ。そういう人って、誰でもいいんでしょうねきっと」

「…………」

 私はうつむいた。言いたいことがあったけれど、言っていいのか分からなかった。

「そうそう、庭のエサ台に、ヒヨドリがくるようになったんだよ」

 母は気付かぬふりで次の話題に移った。そうなるともう、私には何も言えなかった。

 そのまままた少し話をした後、母はそれじゃまた明日ね、と言って帰っていった。

 残された私は、周囲を見回した。食堂には他にも何人かの患者がいて、テレビを見たりジグソーパズルをしたりしていた。私と母の話は聞こえてしまっていただろうか。

 母の、他の患者を異常な人と決めつけているような言葉が悲しかった。確かに、ここにいるのは精神の病気を患っている人ばかりだ。彼ら彼女らはどこかおかしいのだろう。けれど、だからと言って、新入りの私に対して話しかけてくれる行為までも、異常さの表れとして見てしまうのはよくないことのような気がした。精神の治療を受けている人間は、マトモな行動を一切とれないのか? 人格が尊重されないほどに、おかしいとでも言うのか? そんなことはないと思う。まして、他の患者たちの耳のあるここであんなことを言うなんて。

 そこまで考えて私は、何だか、母にひどく裏切られたように感じている自分に気付いた。ちょっと迂闊なことを言われたというだけなのに、とてもショックを受けていた。裏切られたという感覚は、信じているから生まれる。私は母を全面的に、信じているのだ。人間なのだから欠点があるということを、頭では知っていても心が納得していない。だから、少しの瑕疵を見ても大きく動揺する。

「……苦手意識があるくせに崇拝してるとか……めんどくせーなお前」

 フコーの声だけが、小さく呟いた。その通りだ。

「これじゃあ……相変わらず九島を完璧超人だと思ってねーか……怪しい……も……」

 途中で言葉はかすれ、聞こえなくなった。

 九島さん。九島さんはどうしているだろうか。心配だった。両親に聞けばどうなったか分かるかもしれないが、九島さんの事故と私の自殺未遂が関係があると思われて迷惑をかけるのが不安で、聞けないでいた。フコーがいれば何かいい案を教えてくれたろうに、私一人では何も思いつかなかった。心細かった。

 それからの時間は、親のことや、私のこと、そしてフコーのことを考えて過ごした。



 消灯時間の30分前が、私が薬を飲む時間だった。ナースセンターに行き、薬を渡された。薬を口に含み、もらった水をその場で飲む。

 私はそのままトイレに行く。個室に入る。

(……フコー。聞こえる?)

 フコーの声は返ってこない。

(私、このままフコーを消すのは、嫌だ)

 トイレは静まり返っている。聞こえる音は、トイレの外からの物ばかりだ。

(フコーは私と1セットでしょう? 私を幸せにするために現れたんでしょう? まだ、全然幸せになってないよ。フコーが私のつくった幻でも、こんな、自分の一部を無理やり眠らせるみたいなこと、やりたくないよ。だから)

 便器に、口の中に入れたままにしておいた薬を吐きだした。

(だから、薬を飲むのをやめる。フコー、戻ってきて)

 水を流す。薄紅色の錠剤が飲みこまれていく。

(……フコー。私は、フコーを消すことがマトモになることだとは思わない。フコーと一緒になって初めてマトモになれる)

 フコーはまた私に死ねと言うだろうか? でもフコーがあんな状態になったのは、九島さんが事故にあったと聞いた私が動揺していたからではないか。今なら、大丈夫かもしれない。いや、きっとそうだ。

(そうだよね)

 他人から見れば、フコーは狂気の産物でしかなかろうと、私にとっては奇跡だったんだ。生きるために必要な存在だ。フコーがいなければ、九島さんとの関係を保てない。勉強もできない。両親とどう付き合っていけばいいか分からない。

(フコー、助けにきて)

 私は祈るように思った。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ