【短編】のぞき部屋
長野市権堂の路地裏に、その店はあった。
古びた雑居ビルの地下へ続く階段。その入口に、小さな看板が掛かっている。
のぞき部屋
看板の下には、手書きの文字が添えられていた。
――あなたの気になる人の、知らない一面をお見せします。
「……怪しすぎるだろ」
営業職の田中修司は、看板を見上げて呟いた。
そもそも、のぞき部屋といえば、そういう店ではないのか。
ところが、扉の横に貼られた料金表には、奇妙なことが書かれていた。
『一回三千円。対象者の氏名、または顔写真をご用意ください』
何を見せられるのか、さっぱりわからない。
だが、修司には気になる女性がいた。
同じ会社の営業事務、森川美咲。
入社して三年。仕事で何度も助けてもらい、昼休みには他愛のない話もする。笑顔が素敵で、誰に対しても気配りのできる女性だった。
修司は、彼女のことが好きだった。
しかし、告白する勇気はない。
彼女に恋人がいるのかも知らないし、自分がどう思われているのかもわからない。
そんなときに、この看板を見つけたのだった。
「……まあ、三千円なら」
何の根拠もない言い訳をして、修司は階段を下りた。
*
地下の店内は、拍子抜けするほど普通だった。
受付カウンターに、古いソファ。壁には風景画が一枚掛かっている。
カウンターの向こうにいたのは、黒いスーツを着た四十代くらいの男性だった。
「いらっしゃいませ」
「あの……ここは、何をするお店なんですか?」
「看板に書いてあるとおり、のぞき部屋です」
「いや、それはわかるんですけど……」
男性は慣れた様子で説明した。
「当店では、お客様が気になっている方の運命をご覧いただけます」
「運命?」
「はい。その方が、これからどのような人生を歩むのか。誰と出会い、どんな選択をするのか。そういった未来の一場面を、少しだけ」
修司は黙り込んだ。
「……占いですか?」
「いいえ。占いなら、こちらから未来を予測してお話しするでしょう。当店では、お客様ご自身の目でご覧いただきます」
男性は奥の扉を指さした。
「ただし、いくつか決まりがございます」
「決まり?」
「見えるのは、その方の運命の一場面だけです。いつの出来事なのか、どこで起こるのかは、こちらからお教えできません。また、映像に声が聞こえることはありますが、お客様が話しかけても相手には届きません」
「……本当に?」
「ご覧になれば、おわかりになります」
修司は財布から三千円を取り出した。
美咲の写真なら、スマートフォンに何枚かある。社員旅行の集合写真から、彼女の顔がわかるものを見せた。
男性は写真を確認すると、奥の扉を開いた。
「どうぞ。こちらへ」
*
部屋の中央には、一人掛けの椅子が置かれていた。
正面の壁には、何もない。
「こちらにお掛けください」
修司が腰を下ろすと、男性は部屋の照明を落とした。
「それでは、対象者の運命をご覧いただきます」
カチリ。
正面の壁に、映像が浮かび上がった。
最初は、どこかの駅前らしかった。
見覚えのある街並み。見慣れた交差点。
そして、そこに美咲がいた。
「……森川さん?」
美咲は私服姿で、駅前のベンチに座っていた。
隣には、見知らぬ男性がいる。
修司の胸が、嫌な音を立てた。
男性は美咲に何かを話しかけている。美咲は困ったように笑い、首を横に振った。
やがて男性が立ち上がり、去っていった。
美咲は一人になると、スマートフォンを取り出した。
画面を見つめ、少し考えたあと、誰かにメッセージを送った。
その瞬間、映像が切り替わった。
今度は、夕暮れの公園だった。
美咲が、誰かを待っている。
しばらくすると、一人の男性が現れた。
その人物の顔が見えた瞬間、修司は息を呑んだ。
自分だった。
「え……?」
映像の中の修司は、ひどく緊張した様子で美咲の前に立っている。
美咲は、少し不安そうな顔で彼を見上げた。
修司が何かを話す。
音声は聞こえなかった。
美咲は目を丸くした。
そして――。
彼女は、笑った。
今まで会社で何度も見てきた笑顔とは、少し違う。
頬を赤くして、うつむいて、それでも嬉しそうに笑っていた。
美咲が修司の手を取る。
二人は並んで歩き出した。
映像は、そこで終わった。
*
「……今のは?」
修司は、しばらく椅子から動けなかった。
男性は照明を戻した。
「ご覧いただいたのは、対象者の運命の一場面です」
「俺と森川さんが……一緒に?」
「そう見えたのであれば、そういう未来もあるのでしょう」
「未来って、決まっているんですか?」
「さあ。それは私にもわかりません」
男性は淡々と答えた。
「当店がお見せするのは、あくまで運命の一場面。そこへ至るまでに何があるのか、何を選ぶのか。それは、ご本人たち次第です」
修司は、何度も頷いた。
あの映像が本物なのか、夢なのか、それとも何かの仕掛けなのか。
確かめる方法はない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
自分は美咲に告白したい。
ずっと言えなかった言葉を、今度こそ伝えたい。
「……ありがとうございました」
修司は深く頭を下げ、店を出た。
階段を上がると、権堂の夜風が頬を撫でた。
手の中には、まだ店の領収書が残っていた。
そこには、店名と料金だけが印字されていた。
のぞき部屋 三千円
*
翌週の金曜日。
修司は、会社の給湯室で美咲と二人きりになった。
「田中さん、今日も残業ですか?」
「ああ、まあ。森川さんは?」
「私はもう終わりました。これから買い物して帰ろうかなって」
「そっか……」
言葉が続かない。
いつもなら、ここで適当な冗談を言って終わる。
けれど、今日は違った。
修司は、思い切って口を開いた。
「あのさ、森川さん」
「はい?」
「今度の日曜日、空いてる?」
美咲が瞬きをした。
「日曜日ですか?」
「うん。よかったら、一緒に出かけないかなって」
言ってしまった。
心臓がうるさい。
美咲は、少しの間、修司の顔を見つめていた。
やがて、頬がほんのり赤くなった。
「……いいですよ」
「えっ?」
「私も、田中さんとゆっくりお話ししてみたいと思っていたので」
修司は、耳を疑った。
「ほ、本当に?」
「はい」
美咲は、照れくさそうに笑った。
「日曜日、楽しみにしていますね」
給湯室を出ていく彼女の背中を、修司はしばらく見送っていた。
それから、ようやく息を吐いた。
「……マジか」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
*
日曜日。
二人は善光寺の門前を散策し、昼食を食べ、城山公園を歩いた。
最初こそぎこちなかった会話も、少しずつ弾んでいった。
仕事の話。好きな食べ物の話。子どもの頃の思い出。
夕方、駅へ向かう途中、美咲がふと立ち止まった。
「田中さん」
「ん?」
「実は、私からも聞きたいことがあるんです」
「何?」
美咲は、少し迷ってから口を開いた。
「田中さんって、好きな人はいますか?」
修司は目を見開いた。
「えっ?」
「いえ、変な意味じゃなくて……」
美咲は、顔を赤くした。
「もし、いたら……その人に、ちゃんと気持ちを伝えたほうがいいと思うんです」
修司は、彼女の顔を見つめた。
あの映像を思い出す。
夕暮れの公園。自分の前で笑う美咲。
けれど、あれはあくまで一場面にすぎない。
未来がどうなるかは、誰にもわからない。
だったら。
「……いるよ」
修司は答えた。
「ずっと前から、好きな人がいる」
美咲は、静かに頷いた。
「そうなんですね」
「その人と一緒にいると、楽しいんだ。仕事で困ってるときも助けてくれるし、何気ない話をしてるだけで、気持ちが楽になる」
修司は、一度深呼吸した。
「俺、その人のことが好きなんだ」
美咲は、黙って聞いていた。
「……森川さん。俺と、付き合ってくれませんか?」
沈黙。
長いようで、ほんの数秒だった。
美咲は顔を伏せた。
そして、小さく笑った。
「……はい」
修司は、思わず聞き返した。
「え?」
「私も、田中さんのことが好きです」
美咲は顔を上げた。
「ずっと、言いたかったんです。でも、会社で気まずくなったら嫌だなって、なかなか言えなくて」
「……森川さん」
「だから、今日誘ってくれて、すごく嬉しかったです」
修司は、しばらく何も言えなかった。
やがて、二人は顔を見合わせて笑った。
夕暮れの空が、ゆっくりと茜色に染まっていく。
修司は思った。
あの店で見た未来は、本当だったのかもしれない。
いや、もしかしたら、あの映像を見たからこそ、自分は一歩を踏み出せたのかもしれない。
どちらでもよかった。
今、隣に美咲がいる。
それが何より嬉しかった。
*
その夜。
権堂の裏路地。
古びた雑居ビルの地下で、店主の男性は帳簿をつけていた。
そこへ、一人の女性客が訪れた。
「いらっしゃいませ」
「すみません。ここで、好きな人の未来が見られるって聞いたんですけど」
「はい。対象の方のお名前か、お顔のわかる写真をお持ちですか?」
女性は、スマートフォンの画面を見せた。
「この人です」
男性は画面を確認し、静かに頷いた。
「かしこまりました。それでは、こちらへどうぞ」
女性が奥の部屋へ入っていく。
男性は、その背中を見送りながら、小さく呟いた。
「さて……今度は、どんな未来が見えるのでしょうね」
彼は、壁に掛かった古い時計を見た。
その針は、いつも正確に時を刻んでいる。
未来が決まっているのか、それとも人の選択によって変わるのか。
店主にも、それはわからなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
人はときどき、ほんの少し先の幸せをのぞき見ることで、今を変える勇気を得るのだ。
そして翌週。
修司と美咲は、再び善光寺の門前を歩いていた。
二人の手は、自然につながれていた。
あの日、のぞき部屋で見た未来は、もう未来ではなかった。
それは、二人が自分たちの足でたどり着いた、幸せな現実だった。




