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【短編】のぞき部屋

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/10/15

長野市権堂の路地裏に、その店はあった。


古びた雑居ビルの地下へ続く階段。その入口に、小さな看板が掛かっている。


のぞき部屋


看板の下には、手書きの文字が添えられていた。


――あなたの気になる人の、知らない一面をお見せします。


「……怪しすぎるだろ」


営業職の田中修司は、看板を見上げて呟いた。


そもそも、のぞき部屋といえば、そういう店ではないのか。


ところが、扉の横に貼られた料金表には、奇妙なことが書かれていた。


『一回三千円。対象者の氏名、または顔写真をご用意ください』


何を見せられるのか、さっぱりわからない。


だが、修司には気になる女性がいた。


同じ会社の営業事務、森川美咲。


入社して三年。仕事で何度も助けてもらい、昼休みには他愛のない話もする。笑顔が素敵で、誰に対しても気配りのできる女性だった。


修司は、彼女のことが好きだった。


しかし、告白する勇気はない。


彼女に恋人がいるのかも知らないし、自分がどう思われているのかもわからない。


そんなときに、この看板を見つけたのだった。


「……まあ、三千円なら」


何の根拠もない言い訳をして、修司は階段を下りた。


*


地下の店内は、拍子抜けするほど普通だった。


受付カウンターに、古いソファ。壁には風景画が一枚掛かっている。


カウンターの向こうにいたのは、黒いスーツを着た四十代くらいの男性だった。


「いらっしゃいませ」


「あの……ここは、何をするお店なんですか?」


「看板に書いてあるとおり、のぞき部屋です」


「いや、それはわかるんですけど……」


男性は慣れた様子で説明した。


「当店では、お客様が気になっている方の運命をご覧いただけます」


「運命?」


「はい。その方が、これからどのような人生を歩むのか。誰と出会い、どんな選択をするのか。そういった未来の一場面を、少しだけ」


修司は黙り込んだ。


「……占いですか?」


「いいえ。占いなら、こちらから未来を予測してお話しするでしょう。当店では、お客様ご自身の目でご覧いただきます」


男性は奥の扉を指さした。


「ただし、いくつか決まりがございます」


「決まり?」


「見えるのは、その方の運命の一場面だけです。いつの出来事なのか、どこで起こるのかは、こちらからお教えできません。また、映像に声が聞こえることはありますが、お客様が話しかけても相手には届きません」


「……本当に?」


「ご覧になれば、おわかりになります」


修司は財布から三千円を取り出した。


美咲の写真なら、スマートフォンに何枚かある。社員旅行の集合写真から、彼女の顔がわかるものを見せた。


男性は写真を確認すると、奥の扉を開いた。


「どうぞ。こちらへ」


*


部屋の中央には、一人掛けの椅子が置かれていた。


正面の壁には、何もない。


「こちらにお掛けください」


修司が腰を下ろすと、男性は部屋の照明を落とした。


「それでは、対象者の運命をご覧いただきます」


カチリ。


正面の壁に、映像が浮かび上がった。


最初は、どこかの駅前らしかった。


見覚えのある街並み。見慣れた交差点。


そして、そこに美咲がいた。


「……森川さん?」


美咲は私服姿で、駅前のベンチに座っていた。


隣には、見知らぬ男性がいる。


修司の胸が、嫌な音を立てた。


男性は美咲に何かを話しかけている。美咲は困ったように笑い、首を横に振った。


やがて男性が立ち上がり、去っていった。


美咲は一人になると、スマートフォンを取り出した。


画面を見つめ、少し考えたあと、誰かにメッセージを送った。


その瞬間、映像が切り替わった。


今度は、夕暮れの公園だった。


美咲が、誰かを待っている。


しばらくすると、一人の男性が現れた。


その人物の顔が見えた瞬間、修司は息を呑んだ。


自分だった。


「え……?」


映像の中の修司は、ひどく緊張した様子で美咲の前に立っている。


美咲は、少し不安そうな顔で彼を見上げた。


修司が何かを話す。


音声は聞こえなかった。


美咲は目を丸くした。


そして――。


彼女は、笑った。


今まで会社で何度も見てきた笑顔とは、少し違う。


頬を赤くして、うつむいて、それでも嬉しそうに笑っていた。


美咲が修司の手を取る。


二人は並んで歩き出した。


映像は、そこで終わった。


*


「……今のは?」


修司は、しばらく椅子から動けなかった。


男性は照明を戻した。


「ご覧いただいたのは、対象者の運命の一場面です」


「俺と森川さんが……一緒に?」


「そう見えたのであれば、そういう未来もあるのでしょう」


「未来って、決まっているんですか?」


「さあ。それは私にもわかりません」


男性は淡々と答えた。


「当店がお見せするのは、あくまで運命の一場面。そこへ至るまでに何があるのか、何を選ぶのか。それは、ご本人たち次第です」


修司は、何度も頷いた。


あの映像が本物なのか、夢なのか、それとも何かの仕掛けなのか。


確かめる方法はない。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


自分は美咲に告白したい。


ずっと言えなかった言葉を、今度こそ伝えたい。


「……ありがとうございました」


修司は深く頭を下げ、店を出た。


階段を上がると、権堂の夜風が頬を撫でた。


手の中には、まだ店の領収書が残っていた。


そこには、店名と料金だけが印字されていた。


のぞき部屋 三千円


*


翌週の金曜日。


修司は、会社の給湯室で美咲と二人きりになった。


「田中さん、今日も残業ですか?」


「ああ、まあ。森川さんは?」


「私はもう終わりました。これから買い物して帰ろうかなって」


「そっか……」


言葉が続かない。


いつもなら、ここで適当な冗談を言って終わる。


けれど、今日は違った。


修司は、思い切って口を開いた。


「あのさ、森川さん」


「はい?」


「今度の日曜日、空いてる?」


美咲が瞬きをした。


「日曜日ですか?」


「うん。よかったら、一緒に出かけないかなって」


言ってしまった。


心臓がうるさい。


美咲は、少しの間、修司の顔を見つめていた。


やがて、頬がほんのり赤くなった。


「……いいですよ」


「えっ?」


「私も、田中さんとゆっくりお話ししてみたいと思っていたので」


修司は、耳を疑った。


「ほ、本当に?」


「はい」


美咲は、照れくさそうに笑った。


「日曜日、楽しみにしていますね」


給湯室を出ていく彼女の背中を、修司はしばらく見送っていた。


それから、ようやく息を吐いた。


「……マジか」


胸の奥が、じんわりと温かくなった。


*


日曜日。


二人は善光寺の門前を散策し、昼食を食べ、城山公園を歩いた。


最初こそぎこちなかった会話も、少しずつ弾んでいった。


仕事の話。好きな食べ物の話。子どもの頃の思い出。


夕方、駅へ向かう途中、美咲がふと立ち止まった。


「田中さん」


「ん?」


「実は、私からも聞きたいことがあるんです」


「何?」


美咲は、少し迷ってから口を開いた。


「田中さんって、好きな人はいますか?」


修司は目を見開いた。


「えっ?」


「いえ、変な意味じゃなくて……」


美咲は、顔を赤くした。


「もし、いたら……その人に、ちゃんと気持ちを伝えたほうがいいと思うんです」


修司は、彼女の顔を見つめた。


あの映像を思い出す。


夕暮れの公園。自分の前で笑う美咲。


けれど、あれはあくまで一場面にすぎない。


未来がどうなるかは、誰にもわからない。


だったら。


「……いるよ」


修司は答えた。


「ずっと前から、好きな人がいる」


美咲は、静かに頷いた。


「そうなんですね」


「その人と一緒にいると、楽しいんだ。仕事で困ってるときも助けてくれるし、何気ない話をしてるだけで、気持ちが楽になる」


修司は、一度深呼吸した。


「俺、その人のことが好きなんだ」


美咲は、黙って聞いていた。


「……森川さん。俺と、付き合ってくれませんか?」


沈黙。


長いようで、ほんの数秒だった。


美咲は顔を伏せた。


そして、小さく笑った。


「……はい」


修司は、思わず聞き返した。


「え?」


「私も、田中さんのことが好きです」


美咲は顔を上げた。


「ずっと、言いたかったんです。でも、会社で気まずくなったら嫌だなって、なかなか言えなくて」


「……森川さん」


「だから、今日誘ってくれて、すごく嬉しかったです」


修司は、しばらく何も言えなかった。


やがて、二人は顔を見合わせて笑った。


夕暮れの空が、ゆっくりと茜色に染まっていく。


修司は思った。


あの店で見た未来は、本当だったのかもしれない。


いや、もしかしたら、あの映像を見たからこそ、自分は一歩を踏み出せたのかもしれない。


どちらでもよかった。


今、隣に美咲がいる。


それが何より嬉しかった。


*


その夜。


権堂の裏路地。


古びた雑居ビルの地下で、店主の男性は帳簿をつけていた。


そこへ、一人の女性客が訪れた。


「いらっしゃいませ」


「すみません。ここで、好きな人の未来が見られるって聞いたんですけど」


「はい。対象の方のお名前か、お顔のわかる写真をお持ちですか?」


女性は、スマートフォンの画面を見せた。


「この人です」


男性は画面を確認し、静かに頷いた。


「かしこまりました。それでは、こちらへどうぞ」


女性が奥の部屋へ入っていく。


男性は、その背中を見送りながら、小さく呟いた。


「さて……今度は、どんな未来が見えるのでしょうね」


彼は、壁に掛かった古い時計を見た。


その針は、いつも正確に時を刻んでいる。


未来が決まっているのか、それとも人の選択によって変わるのか。


店主にも、それはわからなかった。


ただ一つ、確かなことがある。


人はときどき、ほんの少し先の幸せをのぞき見ることで、今を変える勇気を得るのだ。


そして翌週。


修司と美咲は、再び善光寺の門前を歩いていた。


二人の手は、自然につながれていた。


あの日、のぞき部屋で見た未来は、もう未来ではなかった。


それは、二人が自分たちの足でたどり着いた、幸せな現実だった。


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