始まりの章 3
始まりの章 3
たちまちのうちに小柄な少年の体は、大人二人に両脇から押さえ込まれ、呆気なく追跡者の目前へと引きずり出された。
「放せっ…!」
「このような時間に、他所様のお部屋を訪ねるものではありませんよ」
囚われた少年の前に男がゆっくりと歩み出た。
この地でよく見られる肩から下をすっぽり覆ったティエンジェと呼ばれる衣に、湘綉にて龍神を縫い取ったサッシュ。頭から肩へと絹のトーがを纏っている。
神官の出で立ちだ。
「随分と梃子摺らせて下さいましたね、和泉様」
ねっとりとした声には、明らかな苛立ちが含まれている。
丁寧な言葉遣いだが、子供の悪戯を嗜めるにしては随分と殺気も露だ。
部屋の主は、思わず息を呑み潜める。
捕らえられた少年の怒りに青ざめた顔から、事態が何やら緊迫していることを感じずには居られなかった。
「お前こそ何の真似だ!」
幼くも美しい顔は、怒りと恐怖に歪みながらも、その黒い瞳だけは屈服の色なく相手を射抜き、膝を付くことを拒んでいた。
「父や母を陥れ、次はこの俺か!」
「お独りでは寂しいでしょうから、お父上たちの所へ送って差し上げるのですよ」
男の殺意はを孕んだ言葉に少年の身体が一瞬だけ硬直する。
少年の両親はもうこの世に居ない。つい夕刻まで彼と一緒に幸せな時間を過ごしていたというのに。
それというのも、ここにいる男たちが有らぬ罪状を並べ立てて地下牢へと連れ去り、何の審議も為さないまま惨殺してしまったのだ。
「このような…っ」
事態の圧迫感に少年の咽が呻くような言葉を零す。
「このような非道…、御神の逆鱗《逆鱗》にふれないとでも思っているのか!」
湧き上がる怒りと恐怖に、陶器のような白い頬はますます色を失っていく。
「口をお慎みなさい!」
無骨な大人の手が細い顎を力任せに上げさせする。
少年の言葉など少しも気に留めていない、蛇の如き陰湿な眼が彼を舐めるように見下す。
「ここを何処だとお思いです」
勝ち誇ったような忌々《いまいま》しい喋り方。
「御神の采女にお上がりなさいます巫女姫様の御寝所ですぞ」
「!」
和泉と呼ばれた少年は弾かれたように寝台の上に視線をやる。
ヴェールの中では先ほどの美しい少女が、こちらの様子を何事かと緊張した面持ちで窺っていた。
「姫は、まだ何も知りませんよ。御両親の罪状の事を…」
勿体ぶった物言いに、少年は鋭い視線を男に返す。
「大人しくなさい。
姫に知られたのでは、貴方も一族も肩身が狭くなりましょう?」
耳元で囁かれた言葉に、両親にかけられた罪状が改めて脳裏に浮かぶ。
御神に仕える炎一族の宗家当主「紅玉」を毒殺。
それが和泉の両親が犯した罪だと男たちは云う。
ここに居る巫女姫の親を殺したのだと……。
(嘘だ! 信じない!)
父と母に振り下ろされた剣の閃きと鮮烈な赤を思い出し、和泉は張り詰めていた糸が切れたように力無く膝を付く。
『逃げなさい!』
父親が彼に投げかけた最後の短い叫びだけが今も鼓膜の奥で木霊している。
聡明で立派だった父が天意に背く大罪を犯すなど、例え身体を切り刻まれる脅しを受けたとしても起こす筈がない。
和泉は固く信じている。
だが両親を救う手立てを持たなかった自分の無力さに、まだ6歳の幼い彼は酷く傷ついていた。
「さあ和泉様、別室に参りましょうか」
静かに崩れ落ちてしまった少年の姿に満足したのか、男は唇に皮肉を含んだ笑みを浮かべる。
「それでは巫女姫様、突然の入室でお騒がせした事、お許し下さいませ」
事の顛末をジッと見つめていた部屋の主へと向き直った男は、殊更に恭しく一礼を済ませると従事に少年を引き立てさせ寝所を退出していく。
「………」
この物々しい捕り物は一体なんだったのか。
父親の死を未だ知らない巫女姫は、突然に起きた騒動に取り残されたような疎外感を味わされていた。
普段から異性の者は勿論のこと、専用の侍従意外の者とは直に言葉を交わすことも儘為らぬ身である。
会った事もない神官に声をかけ引き留めるなどという事は考えも及ばない彼女は、ただ黙って一行の後ろ姿を見送った。
本当は、小さな台風の目であった少年の事がとても気がかりではあったけれど。
巫女姫の元に悲しい知らせが運ばれて来たのは、更に十日の時間を費やしてからであった。