死のうとして死ねなかった彼は、異世界からの侵略者と名乗る彼女の手を取った
生きている。
それが、今の俺にとって一番不本意な事実だった。
苦しい。喉が焼ける。肺が痛い。
涙と唾液で顔はぐしゃぐしゃになっていて、床に這いつくばったまま、俺は咳を繰り返していた。
「げほっ、ごほっ……」
この部屋は死ぬために用意した。
ガスが漏れないように、浴室の隙間はガムテープで徹底的に塞いだ。
混ぜるな危険──と書かれた洗剤と漂白剤を混ぜ、俺はただそこに座っていた。
「……くそ、死ねなかった……」
自分の声がひどく遠くに聞こえる。
失敗した理由は、単純だった。怖かったんだ。
死ぬのが、じゃない。死ぬ“直前”に起こることが、だ。
呼吸できなくなる、焼けるような感覚、それが限界を超えた瞬間──俺の本能は裏切りやがった。
生きてる。この期に及んで、まだ生きようとしている。
ふらふらと冷蔵庫まで這っていく。
目に入ったのは、昨日の夜買った半額シール付きのサンドイッチ。
「……腹、減ってんのかよ。バカみてえ」
生きるつもりなんてなかったのに、身体は容赦なく空腹を訴えてくる。
食って、また寝て、朝が来る。
そういうのに、もう飽き飽きしてたはずなのに。
サンドイッチを袋ごと取り出し、テーブルに置いた瞬間──
「死にかけた割には元気そうだね。ちょっといいかな?」
そんな声が、背後から響いた。
ぞっとした。
鍵はかけたはずだ。窓も閉めた。
なのに、誰かがいる。背後に、人の気配。
ゆっくり振り返ると、女性がいた。
長い銀色の髪が、部屋の蛍光灯を反射してかすかに光っていた。
瞳は深い青。透き通るような肌。そして、背中には……。
「……は?」
翼が生えていた。
白くて、大きくて、わずかに羽ばたいている。
現実味がない。
それが最初の感想だった。
夢かと思った。幻覚か、あるいは死の間際に見ている妄想。
けど、その女性はあまりにも、はっきりと俺の目の前に立っている。
「君の名前は?」
「……は、ユウ、だけど……。いやいや、誰だお前……」
俺がそう言うと、彼女はふわりと微笑んだ。
「初めまして、私はツィアラ・レーリ。オーティフィア帝国の尖兵として、この世界を侵略しに来た」
……今、なんて言った?
「お願いがあるんだ。案内役になってほしい。君、死にかけてたし、ちょうどいいかなって」
状況が理解できない。言葉が追いつかない。
なのに、彼女はまるでカフェで注文するみたいに軽い口調だった。
「侵略って……あの、文字通りの?」
「うん、他の世界を制圧して、支配するって意味の」
言葉に詰まっていると、彼女は部屋を見回した。
「この部屋、よく密閉されてるね。隙間という隙間をガムテープで丁寧に閉じてる。死ぬ気だったんだ?」
「……お前、俺の部屋で何を勝手に分析してんだよ……」
「うん、君みたいなのが、ぴったりなんだ」
そう言って、ツィアラは俺のすぐそばに腰を下ろした。
その動作はまるで、友達の家に遊びに来た女の子のようで──けれど、その背中の翼が“異物”であることを否応なく主張していた。
「この世界、面白いけど不思議だらけでさ。魔法も使えないし、城壁もないし、みんな細い小さな板を見つめてるだけ」
「……スマホのことか?」
「たぶん。それよりもほら、君が協力してくれたら、すごく助かるなって」
「お前、俺のこと……何でそんなに信用できると思ってんだよ」
ツィアラは少しだけ考えるようにして、こう言った。
「だって、君は死ぬほど絶望してた。なら、死ぬよりマシな選択肢をあげれば、飛びつくでしょ?」
俺は口をぽかんと開けて、何も言えずにいた。
少し、いや、非常にむかつくが、的を射ている。
「ま、しばらくここに居候させて。どっちにしても、拠点が必要なんだ」
「いやいや、なんで当然のように……」
その時、彼女の翼がふわりと揺れて、天井に光を反射させた。
──ああ、本当に、死ぬどころか、とんでもない非日常に巻き込まれたらしい。
「……マジで、なんなんだよ……」
俺は頭を抱えた。
けれど、心のどこかで、この部屋に誰かがいることに、わずかな安堵を感じていたのも事実だった。
「この世界、想像していたよりずっと脆いね」
ツィアラはそう言って、空中に魔法陣を浮かべた。
淡い青い光が、薄暗い部屋の中で静かに回転する。
回転する先は、日常生活で溜まったゴミの山と、コンビニ弁当の空き容器。
生活感とファンタジーが同居する、異常な光景が現れている。
「たとえばこの町。魔力感知結界どころか、都市防衛の基盤すら存在しない。まともな封印術もないし、王権機構も弱い。うん、悪くない」
「……お前な」
俺は頭を抱える。さっきから、こいつの口から出てくる言葉が全部、割としゃれにならないんだが。
「普通、“お邪魔します”とか、“しばらくよろしく”とか、あるだろ……」
「私は侵略者だよ? 丁寧にする必要ある?」
「…………」
「ふふふ、冗談だよ。しばらくよろしくね」
とびきりの笑顔でそう返されて、俺はため息しか出なかった。
──とりあえず、こいつが本気でこの世界を侵略するつもりなのは、間違いない。
「君の部屋、なかなか居心地いいね。電気も通ってるし、空調も整ってる。帝国でもこれほど快適な基地はなかなかないよ」
「帝国……?」
ツィアラは、俺の問いに「うん」と頷いて言った。
「私が所属している、オーティフィア帝国。君たちが異世界と呼ぶ、こことは異なる世界の広い範囲を統治してる大国。魔法文明が栄えていて、十を超える種族が共存してる。まあ、君たちにとっては“ファンタジーな世界”ってところかな」
「なるほど。で、その帝国が、わざわざ別の世界を攻めに来たと……」
「そう。帝国は強い。だから、まだ見ぬ世界を征服したくなった。それだけ」
まるで観光でもするかのような口ぶりだった。
そこに危機感も、切迫感もない。帝国は余裕があるからこそ、侵略に来ているのだ。
「危機があるわけじゃないのか?」
「ないよ。むしろ安定してる。領土も、経済も、民衆の満足度も。だからこそ、征服活動が次のステージに進んだの」
「あんた、悪びれないんだな……」
「そっちはそう見えるかもしれないけど、私たちにとっては発展のための行動だもの。ねえ、ユウ」
唐突に、彼女は俺の名を口にした。
「君にお願いがあるんだ。現地の協力者になってくれない?」
「協力者?」
「そう。この世界の構造、制度、戦力、文化……いろいろと教えてほしいな。外から見ただけじゃわからないこと、たくさんあるから」
ツィアラの顔は穏やかだった。でも、その奥にあるものは違う。
俺の視線を射抜くような、強い意志があった。
「君は死にたがってた。けれど、死ねなかった。それってさ……」
「……なんだよ」
「その命、余ってるってことだよね?」
言葉が出なかった。
彼女はまっすぐ俺を見ていた。軽口ではない。本気の眼だった。
「生きたいわけじゃない。でも死にきれなかった。そういう命を、私に貸してくれない? ただ無為に終わらせるより、少し面白いことに使ってみない?」
「……何が“面白い”だよ。人の人生をおもちゃにするな」
「おもちゃにする気はないよ。君が選ぶの。拒否するなら、それでもいい。私は他の手段を探すだけ」
それは強制じゃない。けれど、逃げ道でもない。
このまま生きていても、きっとまた自分の命を持て余す。
それなら──何かに、誰かに、巻き込まれてみるのもアリなのかもしれない。
俺は、視線を落とした。
自分の手を見つめる。
ガスで荒れた皮膚。痙攣した指先。
まだ、生きてる。
「……協力したら、どうなる?」
「この世界が帝国の一部になる頃には、君はそれなりの立場になると思うよ。正式な協力者として記録されるし、功績は階級として残る」
「でも、人間側からすれば、俺は……」
「──裏切り者。きっと、そう呼ばれる。生き残った人々からは、恨まれるだろうね」
ツィアラは、はっきりと言った。
逃げも隠れもせず、曖昧な言葉にも逃げずに。
「それでも、君が望むなら選んで。命を持て余したまま生きるか、それとも“何か”のために使ってみるか」
部屋の外では、誰も俺のことを必要としていない。
でも、目の前の異世界人は、俺の命を「貸してくれ」と言った。
たとえ、それが世界の終わりに繋がるとしても──
「……少し、考えさせてくれ」
するとツィアラは微笑んだ。
その顔が、どうしようもなく美人なのがむかつく。
「なんで……お前、そんなに普通なんだよ……」
気づけば俺は、コンビニの袋を両手に持って、侵略者と一緒にエレベーターに乗っていた。
部屋の中、いろいろ減ってきたので買い出しに行こうとした時、ツィアラが「散歩がてらついて行ってもいい?」と言い出したからだ。
誰も彼女の羽に突っ込まなかったのは、「魔法で見えなくしているから」とのこと。
いや、それでも銀髪に青い目とか目立ち過ぎるだろと思ったが、意外と誰も気にしない。
それくらい彼女は馴染んでいた。口調もノリも、ごく自然に。
「うーん? 普通って何? 私、けっこう頑張ってるんだけど」
「いや、世界を侵略しに来たって奴が、サンドイッチの種類で五分も悩むか……?」
「だってコンビニ楽しいんだもん。エビカツとコロッケ、両方入ってるパンとかズルいでしょ」
なんなんだよ、この異世界人。
いや、“異世界人”というカテゴリでくくっていいのかも怪しい。
異質なはずなのに、妙に肌が合う。
部屋に戻ると、早速ツィアラは低いテーブルの上にコンビニ飯を並べ、綺麗に整えはじめた。
「はい、こっちカツ丼、これサンドイッチね。お茶を出してくれると嬉しいな、ユウ」
「……へいへい」
俺は渋々冷蔵庫から麦茶を取り出し、それぞれのコップに注いだ。
なんだこの生活感。
ついさっきまで俺、自殺未遂してたんだけど。
「改めて話すけど、私はオーティフィア帝国の尖兵、ツィアラ・レーリ。君を協力者として指名したのは、運命だと思ってる」
「……どうして俺なんだよ。死にかけてたってだけで?」
「それもあるけど、感覚的な話かな。“目”が良かった」
「目?」
「うん。君の目、今にも全部投げ出しそうな死にかけの目だった。でも、ちゃんと“見てる”。現実から逃げてない。そういう目の人、珍しいんだよ」
クソッタレな現実から逃げようとしたけど、逃げられなかっただけだ。
そう言い返そうとしたが、やめた。
サンドイッチをかじる音だけが、しばらく部屋に響く。
俺はなんと答えていいかわからず、お茶をすする。
「で、なんだっけ? そっちが望む“協力”って具体的に何?」
「この世界の制度、構造、生活サイクル、国家の力の分布。そういう“足元”の情報を知りたい。帝国の上層部が使いたがってるのは、現地データ」
「要は内側から崩すわけか」
「うん。いきなり全面戦争をやるより、内部から掌握する方が効率的」
言い切った彼女の声に、悪意も迷いもなかった。
ただ、それが正しい手順だからそうする、という風だった。
「それって……悪くないのか?」
「君の世界の言葉を借りるなら、悪いとは思ってない。必要だと思ってるだけ」
躊躇いもなく出てくる言葉に、俺は乾いた笑いを漏らした。
「まっすぐだなお前。清々しいくらいに」
「でしょ? で、ユウはどうする? 協力する? やめとく?」
軽く問うような口調だった。けれどその目は真剣だ。
俺がふざけて答えたら、即座に関係を切られそうな、そんな眼だった。
「……協力したら、どうなる?」
「君の功績は記録に残る。帝国がこの世界を完全に支配したあと、君には地位と報酬が与えられる。希望があれば、帝国籍も」
「なるほどな。こっちの世界から見れば、“裏切り者”だ」
「うん。でも、歴史なんてそんなものでしょ? 勝てば官軍。負ければ賊軍」
彼女はまるで、現代社会を前もって知っていたかのようにスラスラと話す。
「どうしてそんなに、こっちの文化に馴染んでんだよ」
「観察してたからね。侵略先の文化、言語、流行……二年くらい前から少しずつ解析進めてたんだ」
「事前に準備してたのか……」
「当然でしょ。私たち、そこまで暇なわけじゃないし。帝国は今、特に困ってるわけじゃない。強くて、豊かで、余裕があるからこそ外へ出るの」
そう言ったときの彼女の笑顔は、美しさよりも底知れなさを感じさせた。
強者の余裕。選ぶ者の理屈。奪う側の論理。
そして俺は、それに乗ろうとしている。
「……一つだけ、条件がある」
「なに?」
「俺を切り捨てるな。利用するのはいい。でも、そのあとも責任取れ」
ツィアラは、少しだけ目を見開いてから、ふっと表情を緩めた。
「了解。契約として記録しておくね。──よろしく、ユウ」
彼女が手を振ると、空間にふわりと淡い光が浮かび、簡易な契約魔法陣が現れた。
俺が指を伸ばすと、光は瞬く間に消え、部屋にはいつもの空気が戻ってきた。
──そうして俺は、異世界から来た侵略者と、正式に契約を結んだ。
ツィアラとの同居生活は、思っていたよりスムーズに始まった。
とにかく、やることが手早い。
部屋の隅に、即席の魔導装置とかいうものを設置し、空間魔法で収納スペースを作り、ベランダには魔力遮蔽の結界まで張りやがった。
「誰にも覗かれないし、音も漏れないし、魔力も感知されない。完璧でしょ?」
「……俺の部屋、いつの間にか“前線基地”になってないか?」
「もうなってるよ。だから一緒に掃除もしよう?」
俺は雑巾を投げた。
それでも、彼女との生活は不思議なほど穏やかだった。
朝は俺より早く起きて、ベランダで空を見上げてる。
昼は都市構造を把握するために市街を歩き回り、夜はコンビニ弁当をつまみながら魔導端末でデータをまとめてる。
異世界から来た侵略者のはずなのに、その姿は妙に人間くさかった。
「この世界の冷蔵庫、便利だよね。魔力の維持がいらないし、電気で勝手に冷える」
「お前んとこ、魔力で生活してたんだっけ?」
「うん。でもコストがそこそこ高くて。帝国の家庭用結界って維持に結構なお金かかるし、魔力量の調整も必要だし」
「金かかるのかよ。魔法って万能じゃねーんだな」
「むしろ非効率かも? 自動販売機の方が魔導器より優秀だなって思う時あるし」
そんな雑談が、いつの間にか日常になっていた。
俺は、死に場所を探していたはずなのに──気がつけば、今日を生きることを当たり前に思っている自分がいた。
ツィアラの“仕事”は、着々と進んでいた。
市街地の監視カメラの位置や死角、交通量の多い時間帯、鉄道網や発電所の配置……。
俺がPCを使って地図やデータを引き出すたび、彼女は魔導装置でそれを記録・変換していく。
「こっちの常識に合わせて話してくれるのは正直助かる。お前がそうしてくれるから、俺もまだギリ人間でいられる気がする」
そう言った時、ツィアラは少し目を細めて笑った。
「じゃあ、もっと話そっか。こちら側の人間がどう考えるか、私は興味あるんだよ」
「じゃあ逆に聞くが、なんでお前、そんなにこっちに馴染んでんだよ。最初っから現地人みたいじゃん」
「秘密の訓練を受けたから、って言いたいところだけど、実はね──」
ツィアラは少しだけ口元を歪める。
「私は、帝国の中でも“過剰適応型”なんだって。どこの世界に行っても、だいたい適応しちゃう。性格的に、らしい」
「それって……いいことなんじゃないのか?」
「ううん。“個性が溶けやすい”って意味でもある。私、自分の国よりこっちの文化の方が好きになりそうなんだよね」
彼女はそう言って、テレビのワイドショーをぼーっと眺めていた。
特集は“自販機で買えるカニ汁”だった。これを楽しんで見ているのは、さすがに外見とのギャップがありすぎる。
「……でさ、そろそろ聞いときたいんだけど」
「ん? なーに?」
「侵略って、どこまでやるつもりなんだ。この世界を丸ごと奪うのか? それとも、一部だけとか?」
ツィアラは少しだけ考える様子を見せたが、すぐ答えた。
「基本的には完全支配が理想。流れ次第では、地上の国家体制を崩壊させるだけで済むかもしれない。単なる武力征服より、文明を吸収する方が効率的だし」
「つまり、目に見える戦争じゃなくて、静かに溶けていくような侵略?」
「うん。理想は“気づいたら帝国の領地になってた”みたいな形かな」
俺は苦笑した。
けど、なぜかその方法に、恐ろしさよりもリアルさを感じていたからだ。
「……協力してる俺、どんどんタチ悪くなってる気がするな」
「じゃあ君は、“タチの悪い協力者”って肩書きで帝国に記録しておくよ」
「せめて“忠実なる案内人”とかにしろよ……」
笑いながら話せていることが不思議だった。
この状況が異常なのは間違いない。
けれど、それでも俺は、誰かと一緒に生きているというだけで、どこか救われていた。
──そう、“生きている”。
あの浴室で死に損なった俺は、今この部屋で、死ぬよりマシな毎日を送っている。
カツ丼を分け合って、笑って、たまに魔法を見せられて、異世界の尖兵と並んで暮らしている。
こんな日々が、いつまで続くのか──それを思えば怖さもある。
でも、終わるとしても、それまでの時間が少しでも長くあれば、きっとそれでいい。
そんな風に思い始めていた。
その日は、いつもの夜と変わらないはずだった。
俺はコンビニの袋を下げて帰ってきて、ツィアラは部屋で魔導端末を弄っていた。
変化があったのは、ドアのチャイムが鳴った時だ。
ピンポーン。
「……誰か呼んだ?」
「呼んでないよ。けど……そろそろ来ると思ってた」
ツィアラは静かに立ち上がり、ドアの前に立つ。
チェーンを外し、ゆっくりと開けたその向こうにいたのは、全身を黒い外套に包んだ人物だった。
「ツィアラ。久しぶりだな」
低く渋い声。見た目は三十代前後の男性。
金属のように鈍く光る瞳と、魔力を編んだような銀の髪。
その後ろには、従者らしき人物がもう一人。完全に軍人然としている。
「紹介するね。彼はゼルト・ウィンター。帝国軍本部所属、上位観察官。今回の作戦での“私の監督役”だよ」
「観察官……?」
「つまり、私の仕事ぶりを見張る役ってこと。成績によっては減点されたり、査問されたり……最悪、帰還命令が出ることもある」
ツィアラが肩をすくめると、ゼルトは室内を見回してから俺を一瞥した。
「……貴様が、現地協力者か」
「まあ、一応」
「“一応”ではない。ツィアラの報告書には、お前の名が三度出ていた。“極めて順応性が高く、情報提供も正確。帝国への理解力も備える”と」
「おい、ツィアラ、お前そんなこと書いてたのか……」
「だって事実だもん」
やめてくれよ、恥ずかしい。
ゼルトは俺から視線を外すと、荷物を持った従者に合図を送り、まるで持参した資料のように魔導結晶を机に並べ始めた。
「ユウ・カガミ。帝国の記録において、貴様は地球側での協力者第一号として登録される予定だ」
「第一号……」
俺以外にも、大勢の協力者を集めるのか。
いや、当然か。なにせ世界すべてを取りに来てるんだから。
「侵略が完了すれば、貴様には“現地案内官”の地位と、基本報酬、各種の保護や保証が与えられる。帝国市民としての定住権も、望めば与えることができる」
「待遇いいな……」
「だが」
ゼルトの声が静かに落ちる。
「貴様は、この世界において“裏切り者”となる。生き残った者たちは、お前の名を憎むだろう。記録にも、歴史にも、敵として名が残る。我々の最初の協力者であるがゆえに」
……ああ、来たか。
わかってはいた。
この道を選んだときから、いつかは誰かに、そう言われる日が来るって。
「ツィアラからも聞いてる。……それでもいい。俺は、自分で決めた」
「そうか」
ゼルトは、それ以上なにも言わなかった。
責めるでも、褒めるでもなく、ただ確認しただけのように。
「ツィアラ」
「なに?」
「貴様の任務は順調だ。だが、貴様は“異質”だ。現地文化への過剰な適応傾向があると、中央は懸念している」
「私はただ、侵略対象と向き合ってるだけ。相手を知らずに征服なんてできないでしょう?」
「そうだな」
ゼルトはそれきり何も言わず、部屋をあとにした。
足音すら響かないほど静かな去り際だった。
「……なあ、ツィアラ」
「うん?」
「お前って、本当はどう思ってるんだ?」
「どのへんを?」
「俺のことも。この世界のことも。──侵略って行為そのものも」
ツィアラは少しだけ黙って、コンビニのプリンのふたを剥がす。
「……任務だよ。帝国の指針は正しい。私は帝国の尖兵だし、それはこれからも変わらない。だけど」
「だけど?」
「だけど、君がいてくれてよかったとは思ってるよ。感情で言うなら──私がこの世界で初めて好きになったの、君だから」
背中がぞわりとした。まっすぐすぎる言葉に、むしろ怖さを感じる。
「好きって、お前……」
「もちろん“現地の存在として興味深い”って意味だよ? 変な期待しないで?」
「……わかってるよ、バカ」
夜の静寂が、二人の間に落ちる。
遠くで車のクラクションが聞こえた。
「恨まれる覚悟はある?」
ツィアラがそう聞いたとき、俺はすぐには答えられなかった。
でも、時間をかけて、こう返した。
「死ぬよりマシって言ったのは、お前だ」
「そうだったね」
「だったら、最後まで責任取れよ。生きるって決めた俺の面倒、ちゃんと見てくれ」
「ふふ……了解」
ツィアラは、プリンのスプーンをくるくる回しながら、軽く笑った。
雨が降っていた。
濡れたアスファルトの匂いが、ベランダ越しに部屋へと漂ってくる。
テレビでは、今日だけで三件目となる爆発事故のニュースが流れていた。
原因不明、調査中、という定型句ばかりが繰り返されている。
「ずいぶん賑やかになってきたな」
俺は缶コーヒーを飲みながら、ぼそっと呟いた。
「うん。北関東から関西圏まで、もうほぼ準備は終わったって。帝国の主戦派が、今夜にも転送要請を出すらしい」
ツィアラはあくまで淡々と語る。
俺たちの目の前にある世界が、明日には“違う形”になることを。
スマホには一日中、災害警報や緊急通知が入り続けていた。
誰もが不安を感じながらも、はっきりとした正体が見えないせいで、何もできずに日常を過ごしている。
そう──この世界はまだ、“気づいていない”。
「今夜か……もう止まらないのか?」
「止まらないよ。止める理由もないし、私にその権限はない。……でも」
「でも?」
「ある意味で最後の夜だし、夕食くらい、ちゃんとしよ?」
ツィアラが笑って、買ってきたコンビニ袋の中身をテーブルの上に並べる。
トンカツ弁当、サラダ、インスタント味噌汁、プリン。そして、俺の分にはさらに焼きそばパン。
「高校生かよ、って言いたくなる献立なんだが……」
「私たち、立派な前線兵だよ? スタミナが要るからさ」
ツィアラはそう言って、湯気の立つ味噌汁を飲んだ。
その動作はあまりにも自然で、近隣の住人と変わらない。
「ねえ、ユウ」
「ん?」
「後悔してない? この世界の人間を裏切る側に立ったこと」
俺は少しだけ考えてから、焼きそばパンをもぐもぐ噛みながら言った。
「後悔っていうか……考えすぎたら、動けなくなるだろ」
「ふふっ、ずるい答え」
「でも、お前の隣にいて、それでもまだ生きてる俺がいる。それがすべてじゃないか?」
「──そうだね」
ツィアラは、穏やかに笑った。
その顔は、初めて出会った時とはまるで違っていた。
あの時は、怖かった。異質で、異常で、世界の外から来た侵略者。
けれど今は──隣にいる誰かとして、ちゃんと理解できる気がしている。
「お前、帰らないのか? 帝国に」
「もう“帰る場所”はあっちじゃないよ。少なくとも、私はそう思ってる。……ねえ、ユウ」
「なんだよ」
「君は、もしこの先、帝国に地位を与えられて、望んだものを手にできるとしたら……何を選ぶ?」
「……そうだな」
考えるまでもなく、俺は答えた。
「今日みたいに、夕飯が週に二、三回ある生活。あと一緒に食べる相手付きで」
「……地味だね」
「けど、死に損なった俺には、それくらいがちょうどいい」
「……そっか。じゃあ、がんばって生き延びてね」
「お前もな」
二人して笑ったあと、しばらく無言で食べ続けた。
テレビの音も、街の喧騒も、雨の音も、何も聞こえないほどに。
カツの衣がしんなりしていた。味噌汁が少し冷めていた。
でも、こんなに温かい時間は、人生の中でそうなかった気がする。
それは、終わりを待つ食卓。
滅びを前にして交わされる、たった一つの静かな契約。
「ツィアラ」
「うん?」
「明日から、世界が大きく変わる。俺も、たぶん変わる。でも、今日だけは──」
「今日だけは?」
「今日だけは、ただの俺でいさせてくれ」
「うん……わかったよ」
雨音が遠くに消えていく。
まるで、世界が最後の静寂を迎えているかのように。