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死のうとして死ねなかった彼は、異世界からの侵略者と名乗る彼女の手を取った

作者: パッタリ

 生きている。

 それが、今の俺にとって一番不本意な事実だった。

 苦しい。喉が焼ける。肺が痛い。

 涙と唾液で顔はぐしゃぐしゃになっていて、床に這いつくばったまま、俺は咳を繰り返していた。


 「げほっ、ごほっ……」


 この部屋は死ぬために用意した。

 ガスが漏れないように、浴室の隙間はガムテープで徹底的に塞いだ。

 混ぜるな危険──と書かれた洗剤と漂白剤を混ぜ、俺はただそこに座っていた。


 「……くそ、死ねなかった……」


 自分の声がひどく遠くに聞こえる。

 失敗した理由は、単純だった。怖かったんだ。

 死ぬのが、じゃない。死ぬ“直前”に起こることが、だ。

 呼吸できなくなる、焼けるような感覚、それが限界を超えた瞬間──俺の本能は裏切りやがった。

 生きてる。この期に及んで、まだ生きようとしている。

 ふらふらと冷蔵庫まで這っていく。

 目に入ったのは、昨日の夜買った半額シール付きのサンドイッチ。


 「……腹、減ってんのかよ。バカみてえ」


 生きるつもりなんてなかったのに、身体は容赦なく空腹を訴えてくる。

 食って、また寝て、朝が来る。

 そういうのに、もう飽き飽きしてたはずなのに。

 サンドイッチを袋ごと取り出し、テーブルに置いた瞬間──


 「死にかけた割には元気そうだね。ちょっといいかな?」


 そんな声が、背後から響いた。

 ぞっとした。

 鍵はかけたはずだ。窓も閉めた。

 なのに、誰かがいる。背後に、人の気配。

 ゆっくり振り返ると、女性がいた。

 長い銀色の髪が、部屋の蛍光灯を反射してかすかに光っていた。

 瞳は深い青。透き通るような肌。そして、背中には……。


 「……は?」


 翼が生えていた。

 白くて、大きくて、わずかに羽ばたいている。

 現実味がない。

 それが最初の感想だった。

 夢かと思った。幻覚か、あるいは死の間際に見ている妄想。

 けど、その女性はあまりにも、はっきりと俺の目の前に立っている。


 「君の名前は?」

 「……は、ユウ、だけど……。いやいや、誰だお前……」


 俺がそう言うと、彼女はふわりと微笑んだ。


 「初めまして、私はツィアラ・レーリ。オーティフィア帝国の尖兵として、この世界を侵略しに来た」


 ……今、なんて言った?


 「お願いがあるんだ。案内役になってほしい。君、死にかけてたし、ちょうどいいかなって」


 状況が理解できない。言葉が追いつかない。

 なのに、彼女はまるでカフェで注文するみたいに軽い口調だった。


 「侵略って……あの、文字通りの?」

 「うん、他の世界を制圧して、支配するって意味の」


 言葉に詰まっていると、彼女は部屋を見回した。


 「この部屋、よく密閉されてるね。隙間という隙間をガムテープで丁寧に閉じてる。死ぬ気だったんだ?」

 「……お前、俺の部屋で何を勝手に分析してんだよ……」

 「うん、君みたいなのが、ぴったりなんだ」


 そう言って、ツィアラは俺のすぐそばに腰を下ろした。

 その動作はまるで、友達の家に遊びに来た女の子のようで──けれど、その背中の翼が“異物”であることを否応なく主張していた。


 「この世界、面白いけど不思議だらけでさ。魔法も使えないし、城壁もないし、みんな細い小さな板を見つめてるだけ」

 「……スマホのことか?」

 「たぶん。それよりもほら、君が協力してくれたら、すごく助かるなって」

 「お前、俺のこと……何でそんなに信用できると思ってんだよ」


 ツィアラは少しだけ考えるようにして、こう言った。


 「だって、君は死ぬほど絶望してた。なら、死ぬよりマシな選択肢をあげれば、飛びつくでしょ?」


 俺は口をぽかんと開けて、何も言えずにいた。

 少し、いや、非常にむかつくが、的を射ている。


 「ま、しばらくここに居候させて。どっちにしても、拠点が必要なんだ」

 「いやいや、なんで当然のように……」


 その時、彼女の翼がふわりと揺れて、天井に光を反射させた。

 ──ああ、本当に、死ぬどころか、とんでもない非日常に巻き込まれたらしい。


 「……マジで、なんなんだよ……」


 俺は頭を抱えた。

 けれど、心のどこかで、この部屋に誰かがいることに、わずかな安堵を感じていたのも事実だった。


 「この世界、想像していたよりずっと脆いね」


 ツィアラはそう言って、空中に魔法陣を浮かべた。

 淡い青い光が、薄暗い部屋の中で静かに回転する。

 回転する先は、日常生活で溜まったゴミの山と、コンビニ弁当の空き容器。

 生活感とファンタジーが同居する、異常な光景が現れている。


 「たとえばこの町。魔力感知結界どころか、都市防衛の基盤すら存在しない。まともな封印術もないし、王権機構も弱い。うん、悪くない」

 「……お前な」


 俺は頭を抱える。さっきから、こいつの口から出てくる言葉が全部、割としゃれにならないんだが。


 「普通、“お邪魔します”とか、“しばらくよろしく”とか、あるだろ……」

 「私は侵略者だよ? 丁寧にする必要ある?」

 「…………」

 「ふふふ、冗談だよ。しばらくよろしくね」


 とびきりの笑顔でそう返されて、俺はため息しか出なかった。

 ──とりあえず、こいつが本気でこの世界を侵略するつもりなのは、間違いない。


 「君の部屋、なかなか居心地いいね。電気も通ってるし、空調も整ってる。帝国でもこれほど快適な基地はなかなかないよ」

 「帝国……?」


 ツィアラは、俺の問いに「うん」と頷いて言った。


 「私が所属している、オーティフィア帝国。君たちが異世界と呼ぶ、こことは異なる世界の広い範囲を統治してる大国。魔法文明が栄えていて、十を超える種族が共存してる。まあ、君たちにとっては“ファンタジーな世界”ってところかな」

 「なるほど。で、その帝国が、わざわざ別の世界を攻めに来たと……」

 「そう。帝国は強い。だから、まだ見ぬ世界を征服したくなった。それだけ」


 まるで観光でもするかのような口ぶりだった。

 そこに危機感も、切迫感もない。帝国は余裕があるからこそ、侵略に来ているのだ。


 「危機があるわけじゃないのか?」

 「ないよ。むしろ安定してる。領土も、経済も、民衆の満足度も。だからこそ、征服活動が次のステージに進んだの」

 「あんた、悪びれないんだな……」

 「そっちはそう見えるかもしれないけど、私たちにとっては発展のための行動だもの。ねえ、ユウ」


 唐突に、彼女は俺の名を口にした。


 「君にお願いがあるんだ。現地の協力者になってくれない?」

 「協力者?」

 「そう。この世界の構造、制度、戦力、文化……いろいろと教えてほしいな。外から見ただけじゃわからないこと、たくさんあるから」


 ツィアラの顔は穏やかだった。でも、その奥にあるものは違う。

 俺の視線を射抜くような、強い意志があった。


 「君は死にたがってた。けれど、死ねなかった。それってさ……」

 「……なんだよ」

 「その命、余ってるってことだよね?」


 言葉が出なかった。

 彼女はまっすぐ俺を見ていた。軽口ではない。本気の眼だった。


 「生きたいわけじゃない。でも死にきれなかった。そういう命を、私に貸してくれない? ただ無為に終わらせるより、少し面白いことに使ってみない?」

 「……何が“面白い”だよ。人の人生をおもちゃにするな」

 「おもちゃにする気はないよ。君が選ぶの。拒否するなら、それでもいい。私は他の手段を探すだけ」


 それは強制じゃない。けれど、逃げ道でもない。

 このまま生きていても、きっとまた自分の命を持て余す。

 それなら──何かに、誰かに、巻き込まれてみるのもアリなのかもしれない。

 俺は、視線を落とした。

 自分の手を見つめる。

 ガスで荒れた皮膚。痙攣した指先。

 まだ、生きてる。


 「……協力したら、どうなる?」

 「この世界が帝国の一部になる頃には、君はそれなりの立場になると思うよ。正式な協力者として記録されるし、功績は階級として残る」

 「でも、人間側からすれば、俺は……」

 「──裏切り者。きっと、そう呼ばれる。生き残った人々からは、恨まれるだろうね」


 ツィアラは、はっきりと言った。

 逃げも隠れもせず、曖昧な言葉にも逃げずに。


 「それでも、君が望むなら選んで。命を持て余したまま生きるか、それとも“何か”のために使ってみるか」


 部屋の外では、誰も俺のことを必要としていない。

 でも、目の前の異世界人は、俺の命を「貸してくれ」と言った。

 たとえ、それが世界の終わりに繋がるとしても──


 「……少し、考えさせてくれ」


 するとツィアラは微笑んだ。

 その顔が、どうしようもなく美人なのがむかつく。




 「なんで……お前、そんなに普通なんだよ……」


 気づけば俺は、コンビニの袋を両手に持って、侵略者と一緒にエレベーターに乗っていた。

 部屋の中、いろいろ減ってきたので買い出しに行こうとした時、ツィアラが「散歩がてらついて行ってもいい?」と言い出したからだ。

 誰も彼女の羽に突っ込まなかったのは、「魔法で見えなくしているから」とのこと。

 いや、それでも銀髪に青い目とか目立ち過ぎるだろと思ったが、意外と誰も気にしない。

 それくらい彼女は馴染んでいた。口調もノリも、ごく自然に。


 「うーん? 普通って何? 私、けっこう頑張ってるんだけど」

 「いや、世界を侵略しに来たって奴が、サンドイッチの種類で五分も悩むか……?」

 「だってコンビニ楽しいんだもん。エビカツとコロッケ、両方入ってるパンとかズルいでしょ」


 なんなんだよ、この異世界人。

 いや、“異世界人”というカテゴリでくくっていいのかも怪しい。

 異質なはずなのに、妙に肌が合う。

 部屋に戻ると、早速ツィアラは低いテーブルの上にコンビニ飯を並べ、綺麗に整えはじめた。


 「はい、こっちカツ丼、これサンドイッチね。お茶を出してくれると嬉しいな、ユウ」

 「……へいへい」


 俺は渋々冷蔵庫から麦茶を取り出し、それぞれのコップに注いだ。

 なんだこの生活感。

 ついさっきまで俺、自殺未遂してたんだけど。


 「改めて話すけど、私はオーティフィア帝国の尖兵、ツィアラ・レーリ。君を協力者として指名したのは、運命だと思ってる」

 「……どうして俺なんだよ。死にかけてたってだけで?」

 「それもあるけど、感覚的な話かな。“目”が良かった」

 「目?」

 「うん。君の目、今にも全部投げ出しそうな死にかけの目だった。でも、ちゃんと“見てる”。現実から逃げてない。そういう目の人、珍しいんだよ」


 クソッタレな現実から逃げようとしたけど、逃げられなかっただけだ。

 そう言い返そうとしたが、やめた。

 サンドイッチをかじる音だけが、しばらく部屋に響く。

 俺はなんと答えていいかわからず、お茶をすする。


 「で、なんだっけ? そっちが望む“協力”って具体的に何?」

 「この世界の制度、構造、生活サイクル、国家の力の分布。そういう“足元”の情報を知りたい。帝国の上層部が使いたがってるのは、現地データ」

 「要は内側から崩すわけか」

 「うん。いきなり全面戦争をやるより、内部から掌握する方が効率的」


 言い切った彼女の声に、悪意も迷いもなかった。

 ただ、それが正しい手順だからそうする、という風だった。


 「それって……悪くないのか?」

 「君の世界の言葉を借りるなら、悪いとは思ってない。必要だと思ってるだけ」


 躊躇いもなく出てくる言葉に、俺は乾いた笑いを漏らした。


 「まっすぐだなお前。清々しいくらいに」

 「でしょ? で、ユウはどうする? 協力する? やめとく?」


 軽く問うような口調だった。けれどその目は真剣だ。

 俺がふざけて答えたら、即座に関係を切られそうな、そんな眼だった。


 「……協力したら、どうなる?」

 「君の功績は記録に残る。帝国がこの世界を完全に支配したあと、君には地位と報酬が与えられる。希望があれば、帝国籍も」

 「なるほどな。こっちの世界から見れば、“裏切り者”だ」

 「うん。でも、歴史なんてそんなものでしょ? 勝てば官軍。負ければ賊軍」


 彼女はまるで、現代社会を前もって知っていたかのようにスラスラと話す。


 「どうしてそんなに、こっちの文化に馴染んでんだよ」

 「観察してたからね。侵略先の文化、言語、流行……二年くらい前から少しずつ解析進めてたんだ」

 「事前に準備してたのか……」

 「当然でしょ。私たち、そこまで暇なわけじゃないし。帝国は今、特に困ってるわけじゃない。強くて、豊かで、余裕があるからこそ外へ出るの」


 そう言ったときの彼女の笑顔は、美しさよりも底知れなさを感じさせた。

 強者の余裕。選ぶ者の理屈。奪う側の論理。

 そして俺は、それに乗ろうとしている。


 「……一つだけ、条件がある」

 「なに?」

 「俺を切り捨てるな。利用するのはいい。でも、そのあとも責任取れ」


 ツィアラは、少しだけ目を見開いてから、ふっと表情を緩めた。


 「了解。契約として記録しておくね。──よろしく、ユウ」


 彼女が手を振ると、空間にふわりと淡い光が浮かび、簡易な契約魔法陣が現れた。

 俺が指を伸ばすと、光は瞬く間に消え、部屋にはいつもの空気が戻ってきた。

 ──そうして俺は、異世界から来た侵略者と、正式に契約を結んだ。




 ツィアラとの同居生活は、思っていたよりスムーズに始まった。

 とにかく、やることが手早い。

 部屋の隅に、即席の魔導装置とかいうものを設置し、空間魔法で収納スペースを作り、ベランダには魔力遮蔽の結界まで張りやがった。


 「誰にも覗かれないし、音も漏れないし、魔力も感知されない。完璧でしょ?」

 「……俺の部屋、いつの間にか“前線基地”になってないか?」

 「もうなってるよ。だから一緒に掃除もしよう?」


 俺は雑巾を投げた。

 それでも、彼女との生活は不思議なほど穏やかだった。

 朝は俺より早く起きて、ベランダで空を見上げてる。

 昼は都市構造を把握するために市街を歩き回り、夜はコンビニ弁当をつまみながら魔導端末でデータをまとめてる。

 異世界から来た侵略者のはずなのに、その姿は妙に人間くさかった。


 「この世界の冷蔵庫、便利だよね。魔力の維持がいらないし、電気で勝手に冷える」

 「お前んとこ、魔力で生活してたんだっけ?」

 「うん。でもコストがそこそこ高くて。帝国の家庭用結界って維持に結構なお金かかるし、魔力量の調整も必要だし」

 「金かかるのかよ。魔法って万能じゃねーんだな」

 「むしろ非効率かも? 自動販売機の方が魔導器より優秀だなって思う時あるし」


 そんな雑談が、いつの間にか日常になっていた。

 俺は、死に場所を探していたはずなのに──気がつけば、今日を生きることを当たり前に思っている自分がいた。




 ツィアラの“仕事”は、着々と進んでいた。

 市街地の監視カメラの位置や死角、交通量の多い時間帯、鉄道網や発電所の配置……。

 俺がPCを使って地図やデータを引き出すたび、彼女は魔導装置でそれを記録・変換していく。


 「こっちの常識に合わせて話してくれるのは正直助かる。お前がそうしてくれるから、俺もまだギリ人間でいられる気がする」


 そう言った時、ツィアラは少し目を細めて笑った。


 「じゃあ、もっと話そっか。こちら側の人間がどう考えるか、私は興味あるんだよ」

 「じゃあ逆に聞くが、なんでお前、そんなにこっちに馴染んでんだよ。最初っから現地人みたいじゃん」

 「秘密の訓練を受けたから、って言いたいところだけど、実はね──」


 ツィアラは少しだけ口元を歪める。


 「私は、帝国の中でも“過剰適応型”なんだって。どこの世界に行っても、だいたい適応しちゃう。性格的に、らしい」

 「それって……いいことなんじゃないのか?」

 「ううん。“個性が溶けやすい”って意味でもある。私、自分の国よりこっちの文化の方が好きになりそうなんだよね」


 彼女はそう言って、テレビのワイドショーをぼーっと眺めていた。

 特集は“自販機で買えるカニ汁”だった。これを楽しんで見ているのは、さすがに外見とのギャップがありすぎる。


 「……でさ、そろそろ聞いときたいんだけど」

 「ん? なーに?」

 「侵略って、どこまでやるつもりなんだ。この世界を丸ごと奪うのか? それとも、一部だけとか?」


 ツィアラは少しだけ考える様子を見せたが、すぐ答えた。


 「基本的には完全支配が理想。流れ次第では、地上の国家体制を崩壊させるだけで済むかもしれない。単なる武力征服より、文明を吸収する方が効率的だし」

 「つまり、目に見える戦争じゃなくて、静かに溶けていくような侵略?」

 「うん。理想は“気づいたら帝国の領地になってた”みたいな形かな」


 俺は苦笑した。

 けど、なぜかその方法に、恐ろしさよりもリアルさを感じていたからだ。


 「……協力してる俺、どんどんタチ悪くなってる気がするな」

 「じゃあ君は、“タチの悪い協力者”って肩書きで帝国に記録しておくよ」

 「せめて“忠実なる案内人”とかにしろよ……」


 笑いながら話せていることが不思議だった。

 この状況が異常なのは間違いない。

 けれど、それでも俺は、誰かと一緒に生きているというだけで、どこか救われていた。


 ──そう、“生きている”。


 あの浴室で死に損なった俺は、今この部屋で、死ぬよりマシな毎日を送っている。

 カツ丼を分け合って、笑って、たまに魔法を見せられて、異世界の尖兵と並んで暮らしている。

 こんな日々が、いつまで続くのか──それを思えば怖さもある。

 でも、終わるとしても、それまでの時間が少しでも長くあれば、きっとそれでいい。

 そんな風に思い始めていた。




 その日は、いつもの夜と変わらないはずだった。

 俺はコンビニの袋を下げて帰ってきて、ツィアラは部屋で魔導端末を弄っていた。

 変化があったのは、ドアのチャイムが鳴った時だ。


 ピンポーン。


 「……誰か呼んだ?」

 「呼んでないよ。けど……そろそろ来ると思ってた」


 ツィアラは静かに立ち上がり、ドアの前に立つ。

 チェーンを外し、ゆっくりと開けたその向こうにいたのは、全身を黒い外套に包んだ人物だった。


 「ツィアラ。久しぶりだな」


 低く渋い声。見た目は三十代前後の男性。

 金属のように鈍く光る瞳と、魔力を編んだような銀の髪。

 その後ろには、従者らしき人物がもう一人。完全に軍人然としている。


 「紹介するね。彼はゼルト・ウィンター。帝国軍本部所属、上位観察官。今回の作戦での“私の監督役”だよ」

 「観察官……?」

 「つまり、私の仕事ぶりを見張る役ってこと。成績によっては減点されたり、査問されたり……最悪、帰還命令が出ることもある」


 ツィアラが肩をすくめると、ゼルトは室内を見回してから俺を一瞥した。


 「……貴様が、現地協力者か」

 「まあ、一応」

 「“一応”ではない。ツィアラの報告書には、お前の名が三度出ていた。“極めて順応性が高く、情報提供も正確。帝国への理解力も備える”と」

 「おい、ツィアラ、お前そんなこと書いてたのか……」

 「だって事実だもん」


 やめてくれよ、恥ずかしい。

 ゼルトは俺から視線を外すと、荷物を持った従者に合図を送り、まるで持参した資料のように魔導結晶を机に並べ始めた。


 「ユウ・カガミ。帝国の記録において、貴様は地球側での協力者第一号として登録される予定だ」

 「第一号……」


 俺以外にも、大勢の協力者を集めるのか。

 いや、当然か。なにせ世界すべてを取りに来てるんだから。


 「侵略が完了すれば、貴様には“現地案内官”の地位と、基本報酬、各種の保護や保証が与えられる。帝国市民としての定住権も、望めば与えることができる」

 「待遇いいな……」

 「だが」


 ゼルトの声が静かに落ちる。


 「貴様は、この世界において“裏切り者”となる。生き残った者たちは、お前の名を憎むだろう。記録にも、歴史にも、敵として名が残る。我々の最初の協力者であるがゆえに」


 ……ああ、来たか。

 わかってはいた。

 この道を選んだときから、いつかは誰かに、そう言われる日が来るって。


 「ツィアラからも聞いてる。……それでもいい。俺は、自分で決めた」

 「そうか」


 ゼルトは、それ以上なにも言わなかった。

 責めるでも、褒めるでもなく、ただ確認しただけのように。


 「ツィアラ」

 「なに?」

 「貴様の任務は順調だ。だが、貴様は“異質”だ。現地文化への過剰な適応傾向があると、中央は懸念している」

 「私はただ、侵略対象と向き合ってるだけ。相手を知らずに征服なんてできないでしょう?」

 「そうだな」


 ゼルトはそれきり何も言わず、部屋をあとにした。

 足音すら響かないほど静かな去り際だった。


 「……なあ、ツィアラ」

 「うん?」

 「お前って、本当はどう思ってるんだ?」

 「どのへんを?」

 「俺のことも。この世界のことも。──侵略って行為そのものも」


 ツィアラは少しだけ黙って、コンビニのプリンのふたを剥がす。


 「……任務だよ。帝国の指針は正しい。私は帝国の尖兵だし、それはこれからも変わらない。だけど」

 「だけど?」

 「だけど、君がいてくれてよかったとは思ってるよ。感情で言うなら──私がこの世界で初めて好きになったの、君だから」


 背中がぞわりとした。まっすぐすぎる言葉に、むしろ怖さを感じる。


 「好きって、お前……」

 「もちろん“現地の存在として興味深い”って意味だよ? 変な期待しないで?」

 「……わかってるよ、バカ」


 夜の静寂が、二人の間に落ちる。

 遠くで車のクラクションが聞こえた。


 「恨まれる覚悟はある?」


 ツィアラがそう聞いたとき、俺はすぐには答えられなかった。

 でも、時間をかけて、こう返した。


 「死ぬよりマシって言ったのは、お前だ」

 「そうだったね」

 「だったら、最後まで責任取れよ。生きるって決めた俺の面倒、ちゃんと見てくれ」

 「ふふ……了解」


 ツィアラは、プリンのスプーンをくるくる回しながら、軽く笑った。




 雨が降っていた。

 濡れたアスファルトの匂いが、ベランダ越しに部屋へと漂ってくる。

 テレビでは、今日だけで三件目となる爆発事故のニュースが流れていた。

 原因不明、調査中、という定型句ばかりが繰り返されている。


 「ずいぶん賑やかになってきたな」


 俺は缶コーヒーを飲みながら、ぼそっと呟いた。


 「うん。北関東から関西圏まで、もうほぼ準備は終わったって。帝国の主戦派が、今夜にも転送要請を出すらしい」


 ツィアラはあくまで淡々と語る。

 俺たちの目の前にある世界が、明日には“違う形”になることを。

 スマホには一日中、災害警報や緊急通知が入り続けていた。

 誰もが不安を感じながらも、はっきりとした正体が見えないせいで、何もできずに日常を過ごしている。

 そう──この世界はまだ、“気づいていない”。


 「今夜か……もう止まらないのか?」

 「止まらないよ。止める理由もないし、私にその権限はない。……でも」

 「でも?」

 「ある意味で最後の夜だし、夕食くらい、ちゃんとしよ?」


 ツィアラが笑って、買ってきたコンビニ袋の中身をテーブルの上に並べる。

 トンカツ弁当、サラダ、インスタント味噌汁、プリン。そして、俺の分にはさらに焼きそばパン。


 「高校生かよ、って言いたくなる献立なんだが……」

 「私たち、立派な前線兵だよ? スタミナが要るからさ」


 ツィアラはそう言って、湯気の立つ味噌汁を飲んだ。

 その動作はあまりにも自然で、近隣の住人と変わらない。


 「ねえ、ユウ」

 「ん?」

 「後悔してない? この世界の人間を裏切る側に立ったこと」


 俺は少しだけ考えてから、焼きそばパンをもぐもぐ噛みながら言った。


 「後悔っていうか……考えすぎたら、動けなくなるだろ」

 「ふふっ、ずるい答え」

 「でも、お前の隣にいて、それでもまだ生きてる俺がいる。それがすべてじゃないか?」

 「──そうだね」


 ツィアラは、穏やかに笑った。

 その顔は、初めて出会った時とはまるで違っていた。

 あの時は、怖かった。異質で、異常で、世界の外から来た侵略者。

 けれど今は──隣にいる誰かとして、ちゃんと理解できる気がしている。


 「お前、帰らないのか? 帝国に」

 「もう“帰る場所”はあっちじゃないよ。少なくとも、私はそう思ってる。……ねえ、ユウ」

 「なんだよ」

 「君は、もしこの先、帝国に地位を与えられて、望んだものを手にできるとしたら……何を選ぶ?」

 「……そうだな」


 考えるまでもなく、俺は答えた。


 「今日みたいに、夕飯が週に二、三回ある生活。あと一緒に食べる相手付きで」

 「……地味だね」

 「けど、死に損なった俺には、それくらいがちょうどいい」

 「……そっか。じゃあ、がんばって生き延びてね」

 「お前もな」


 二人して笑ったあと、しばらく無言で食べ続けた。

 テレビの音も、街の喧騒も、雨の音も、何も聞こえないほどに。

 カツの衣がしんなりしていた。味噌汁が少し冷めていた。

 でも、こんなに温かい時間は、人生の中でそうなかった気がする。

 それは、終わりを待つ食卓。

 滅びを前にして交わされる、たった一つの静かな契約。


 「ツィアラ」

 「うん?」

 「明日から、世界が大きく変わる。俺も、たぶん変わる。でも、今日だけは──」

 「今日だけは?」

 「今日だけは、ただの俺でいさせてくれ」

 「うん……わかったよ」


 雨音が遠くに消えていく。

 まるで、世界が最後の静寂を迎えているかのように。

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