58:忘れていた記憶
子どもの頃の出来事
「……っく。うぇ……」
「……誰だ、うるさいぞ」
唸るような声に、淡紅色のドレスを着た小さな肩がびくりと揺れた。隣で寝ている少年へと、長い黒髪をハーフアップにした子どもは、おそるおそる赤くなった目を向ける。白い小さな花がびっしり咲く、ユキヤナギの陰で眠っていた少年が身動ぎする。草の上に散っていた銀色の髪が、昼下がりの陽光を受けてきらりと光る。
見た感じ、今は兵役に行っている従兄と同じ年頃みたいだった。ここにいるということはもう少し下かもしれない。ルードヴィクと同じというだけで、なんとなく親近感がわいた。
今は一人でいるのがつらくて、勝手に眠っている彼の横に腰をおろした。大人しくしてたら大丈夫だろうと思ったのだ。
目の上に乗せられていた腕が下ろされて、煙るような銀のまつげの下から灰青の目が現れた。その不機嫌そうな表情に、手に持ってたシュークリームがコロリとスカートの上を転がる。ずずっと鼻をすすって、ベルトルドはそれを拾おうと手を伸ばした。
「ああ待て」
伸ばした手を握られて、ベルトルドはびくっと動き止める。
「その手でキレイなスカートを触るな。帰ったら怒られるぞ」
起き上がった少年が、パクリとベルの指先を咥える。まずは転がった食べかけのシュークリームを皿に避難させ、それから両手でガサゴソといろんなポケットを探り、ハンカチを取り出した。
まずは涙でベタベタのベルトルドの顔を、それから咥えていた手を拭ってくれる。
「どうしてこんなところで泣いてる?」
やわらかい声音に、止まっていた涙が再び湧きあがってくる。大粒の涙がぼたぼたっとこぼれ落ちた。
「お……おや」
「親? ああ、待て、しゃべるな。口の中のものがこぼれる。――ったく、おまえは冬ごもり前のリスか。どんだけ頬袋に詰めこんだんだ。まずは食え。食ってからしゃべれ」
ベルトルドの指を一本一本拭いながら、少年が呆れた声を聞かせる。ベルトルドはむぐむぐと素直に咀嚼する。それからもう一度ずずっと鼻をすすった。
「おやつ、食べてたら、ぼくが食べたら他の人の分がなくなるから、食べちゃダメだって」
チラリと、こんもりと皿に載った菓子の量を見て、ああと少年は真顔で頷いた。うぇとしゃくりをあげると、またボロボロと涙があふれ出した。
「ああもう泣くな。大丈夫、足りなくなったらシェフが追加する。気にするな」
「まだ食べてもいい?」
「まだ食うのか? ――ああ、ああ大丈夫。だから泣くな。それを食べ終わったらまた取りに行こう」
ほっぺたをハンカチで拭おうとして、ハンカチに付いていたクリームがかえって頬を汚す。少年はハンカチをその辺に捨てて、クリームを指で拭ってなめた。
「あま……」
「お兄ちゃんはここでなにをしてるんですか?」
「お兄ちゃんって俺か? おまえと一緒で、パーティに出てるんだよ」
ベルトルドは小首を傾げる。確かにキレイな格好してるが、パーティと寝ているのが結びつかない。不思議そうにしているのに気付いた少年が口の端をつりあげて笑んだ。
「ここで寝てたのは内緒だぞ」
「ぼく、知ってます。ルド兄さまがよくアー……えと、えと、とも――友だちにサボるなって言います」
「ルド? ルードヴィクのことか? おまえ、ジジイのところの身内か?」
「ルド兄さま、知ってますか?」
「まあな。それで、その友だちはどうした? どこかでサボってるのか?」
「今日はしんどいっておうちで寝てます。でもサボりです」
素直に答えたベルトルドに、少年はくつくつと笑う。
「いいのか、そんなこと、俺に話して」
「お兄ちゃんと一緒です――お兄ちゃんはお友だちと遊ばないんですか?」
「トモダチがいなくてな」
「え、かわいそう」
一瞬動きを止めた少年は、ベルトルドを虚をつかれた顔で見る。そしてあぐらを組んだ膝に肘をついて、顔を覆った。
「――大丈夫ですか?」
「いや、その、なんだ、純粋そうな目で言われると……クるものがある」
言っている意味がよくわからなかったベルトルドは、目をぱちくりさせる。あぐらに頬杖をつき、少年はまたお菓子を食べはじめたベルトルドを眺める。
「おまえ、トモダチは?」
「ぼくのトモダチはサボってる友だちと、にゃーちゃん」
「にゃーちゃん?」
「猫だよーー大きいの」
ベルトルドの遙か頭上に伸ばした手の先を、男は膝に頬杖を突いたまま首をひねって見上げる。そして眉根を寄せた。
「猫?」
「猫だよ。呼んだらね、跳んでくるの、ぴょーんて――あ!」
忙しなく菓子と少年の間で視線を行き来させて、ベルトルドはエヘヘと笑う。
「なんだ?」
「お兄ちゃんが呼んでくれたら、ぼくもにゃーちゃんみたいに跳んできます」
「おまえが?」
「うん、ぼく、お兄ちゃんとトモダチです」
きょとんとしている少年に、ベルトルドはしゅんとしおれた。
「――ダメでしたか」
「いや」
手が伸びてきて、指先が黒髪の中に潜りこみ、ゆっくりと梳く。
「じゃあ、呼ぶから、すぐにくるんだぞ?」
うんと頷いたベルトルドは小指を差し出した。
「なんだこれ?」
「指切りだよ。嘘ついたらね、ボコボコに殴られてね、針を千本飲むんだって。――痛くないのかな?」
「痛いだろうな。フォーセル家はなかなかハードだな」
「でも、嘘つかなければ大丈夫だよ」
指を絡めてもらって、その指を振りながら、ベルトルドはエヘヘと笑った。
ベルのヘンな知識は、大抵がアスタが教えたものです。
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