05:王子に存在を忘れられていたようです
「――……ぅえ? 好物?」
ぽかんと口を開けて動かなくなったベルトルドを、シグヴァルドが真顔で見下ろす。たっぷりと数十秒は動きを止めていたが、ふるっと睫毛が震えると、忙しなく瞬きを繰り返した。
「そうだ。朝はなにを食べた?」
穏やかな声が真っ白になったベルトルドの頭の中に染み入って、今朝食卓に並んだ物が浮かびあがる。
「え……と、パンケーキを食べました」
「続けろ」
「……果物とヨーグルトが添えられてて」
「ふむ」
「蜂蜜をかけてた食べま……あ」
形の良い眉が跳ね上がって、ベルトルドは口をつぐんだ。当然だがすでに遅い。アストリッドが好みそうにないものをあげてしまったのだ。失言を悟ってまたまた固まったベルトルドは、忙しなく目だけをキョロキョロと周囲を彷徨わせた。だが廊下には誰もいない。逃げ場を見つけられなかった目はシグヴァルドの所へと戻ってくると、へにょりと眉を垂らした。
とりあえずアストリッドの好きな物を言ってみる。
「……そのあとコーヒーを飲みました」
くっと小さくシグヴァルドの喉が震えた。ようやく顎を解放してもらえたかと思えば、今度は腕が肩に絡みついてきて、ベルトルドはますます硬直した。
両腕に挟まれた首が、ガチガチに固まって、うなじが痙攣した。身動ぎもできないまま立ち尽くしていると、影が落ちる。顔がゆっくりと近づいてきて、頭からバリバリと食われる自分の姿がありありと脳に浮かび、ベルトルドは再び卒倒しそうになった。
ぎゅっと目をつむったベルトルドは、触れた場所から伝わる振動に、おそるおそるシグヴァルドを確認する。肩に乗せた腕へと顔を伏せた彼は、丸めた背中を引きつらせるように揺らしながら笑っていたのだ。
今の会話に笑える要素はあったっけ? と、喉を鳴らして笑っている男に全神経を集中させながらも、頭の中がハテナマークであふれかえる。もしかして笑い上戸な人なのだろうかとか考えながら、ベルトルドは息を詰めて解放されるのを待つ。長くシグヴァルドの傍に留まるのはよろしくなかった。
顔を合わせたら絶対にバレると思ってたのに、なにの幸運かバレずにすんだ。結局はバレてしまったようだが相手は怒ってはいないし、なんだかわからないがとても機嫌がよさそうだ。それもまたとても幸運だ。でも幸運というものは、そうそう何度も続くものではない。今の幸運を失わないために、次は一刻も早く彼の傍を離脱すべきだ。
だってベルトルドにとっての最大の問題は、祖父にバレることなのだ。
アストリッドとシグヴァルドの問題に首を突っ込んだこと、それもアストリッドの格好でとなると、その怒りはきっと天井知らずとなるはずだ。祖父の怒髪天を想像して、ベルトルドはふるりと慄いた。
ベルトルドの震えが伝わったのか、シグヴァルドの頭がかすかに動いた。耳に吐息があたる。
「名前……」
笑いの余韻を残したまま、低音が柔らかく言葉を紡ぐ。
「なま……?」
肩に乗せられた手はそのままに、顔を起こしてシグヴァルドが目をのぞき込む。鼻がぶつかりそうな距離で、形の良いの氷青の双眸が柔らかく細められた。温度感の低い色の目が熱を帯び、艶めいて色味を深くする。すっと通った鼻筋の、眉目が整った男らしい美貌が、とろりと甘やかに蕩けた。耳に甘いささやきが耳に吹き込まれ、ぞくりと体がわなないた。
鼓動が早鐘を打ち、カーッと頬に熱が集中する。
「そう、名乗れ」
だが言葉の意味を理解した途端、頬に集中した熱が一気に引いていく。
「な……まえは」
「名前は?」
青褪めたベルトルドは、うろうろと視線を彷徨わせた。狼狽えるベルトルドに眉を寄せ、シグヴァルドが首を傾げる。口がはくはくと何度か開閉して、ベルトルドは震える声で返した。
「……困ります」
「は……?」
しん……と全てが凍りついたような静寂が落ちた。
温もりを伝えてきていた氷青の瞳が、温度感を失った。シグヴァルドの上体が静かに離れていく。長めの前髪が目元を、薄いベールのように覆い、その下でけぶるような睫毛がゆっくりと伏せられた。
耳が痛くなるほどの静けさの中で、痛みを和らげようとしてか、ベルトルドの耳がチリチリと幽かな幻聴を拾う。目の端に銀沙を撒いたかのような光の燦めきが踊り、緊張もいよいよ限界来た様な気がした。血の気が引きすぎたせいか、震えがきて肌が粟立つ。
「くそジジイの意向だろうと思っていたが……」
さらりとシグヴァルドの首の動きに合わせて、癖のない髪が揺れた。アストリッドの声で聞き慣れた単語を、茫然としたベルトルドが復唱すると、重たげな昏い銀の睫毛がゆっくりと持ちあがる。凍てつく氷のような瞳が現れ、同時にゆらりと彼から鬼気が溢れだした。
ベルトルドは気圧されて一歩、後退る。
「――おまえの意思だったのか?」
握りしめるように前髪をかきあげ、男はベルトルドを睥睨する。静かに問う声音は冷ややかで、背筋が凍りつく。
また一歩後退ったベルトルドは、背中にぶつかったなにかに縋るようにその場にずるずると崩れ落ちた。恐怖にか歯の根が合わない。カチカチと歯が鳴り、全身総毛立ち、震えが止まらなかった。
「なにが気に入らなかった?」
男が一歩近づく。ベルトルドの背後に手をつくと、腰を折り、かがみ込むように男がのしかかってきた。ますます大きくなる震えに体を抱きしめ丸くなると、凍りついたみたいに固まった首を懸命に振った。
「ちちちちが……」
「気に入らなかったから会いに来なかったんだろう」
「ああああああの……」
なあ、と頭に近い位置で声がして、ベルトルドは悲鳴をあげそうになって、口の中で噛み殺した。
――……殺されるんだ、あの王子に、断罪されて。
アストリッドの言葉と、夢の中の断頭台が、今日何度目か、また脳裏によぎる。
ごくりと喉がなった。
小さくなって震えているベルトルドに、覆い被さっている男が喉の奥でくつくつと笑った。
「……お笑い種だな」
ぽつりと落とされた言葉の意味はわからなかった。ただひどく悲しく聞こえた。
強張る手をぎゅっと握りしめて、ベルトルドはそろりと顔を上げた。
「あの……」
なにを言えばいいかもわからぬまま口を開いたベルトルドを、コツコツコツと、壁を叩く音と続く軽い口調が遮った。
「殿下、公共の場でナニやってんすかね?」
周囲を威圧していた鬼気がふっと途切れた。同時に暖かい空気が押し寄せてきて、体の強張りが解けていく。そのタイミングで、足下からゴロゴロと喉を鳴らす声が聞こえてきた。にゃーちゃんの裏切り者、と、ベルトルドは自分の影を睨みつける。だが、睨まれた方は一度だけにゃあと甘えた声を上げただけで、相変わらず喉を鳴らしていた。
姿勢を戻し、シグヴァルドはギロリと背後の声の主を睨めつける。
「取り込み中だ、ルド」
ほっとしたのも束の間、シグヴァルドが呼んだ名前に、ベルトルドは今日何度目かまた固まった。
「殿下がその辺で婦女子を襲ってるとか、妙な噂になったらどうしてくれんですか」
「俺は気にしない」
「俺が気にすんですよ。火消しが大変で」
「どうせ誰も通らんさ」
「これだけ盛大に魔力を放出してると、すぐに誰か駆けつけて来るに決まってんでしょう。どうするんですか、こんな盛大に廊下を凍らせて」
二人で軽口を叩きはじめたのをこれ幸いと、ベルトルドは退路を探して素早く周囲を確認する。廊下がまるで氷穴のようになっていて、物理的に寒かったのかと妙に納得した。
「こんだけ暖かいんだ、すぐに溶ける」
「溶けたあとの惨状をわかって言ってんでしょうね?」
そろりそろりとベルトルドは後退を始めた。二人の気がそれている間に逃げ出さなければならない。たが、甘い考えだった。
「待て。アーシャはどうした? ベル」
背後にあったのは壁ではなく太い氷柱で、尻でずって迂回していたところを見咎められて、厳しい声が飛んでくる。新しく現れた男にあっさりと隠し事を暴露されて、ベルトルドは観念した。
この男に見つかったということは、祖父にバレたということと同じだ。彼に見つからないうちに撤退したかったのだが、遅すぎた。
焦茶の髪に垂れ目がちなヘーゼルの目の男は、シグヴァルドの従者であるルードヴィク・クロンバリーという。ベルトルドの九歳上の従兄である。
立ち上がってべしょっとした尻をはたき、黒髪を引っ張ってウィッグを外す。そして従兄に向き直るとベルトルドは首を竦めた。
「え……と、その、体調がよくない? らしくて……」
「……ベル? ベルトルド? アストリッドの兄の? ジジイのところの惣領孫の? コレが?」
ちらちらと頭上のシグヴァルドの方をうかがいながら答えていると、シグヴァルドがまじまじとベルトルドの顔を覗きこんだ。まだ両親が健在だった幼い頃、顔を合わせたことはあるはずだが、すっかり忘れられていたのかもしれない。もしかしたら存在ごと忘れられていて、そのせいでバレなかったのだろうか。
「あーあの、えと、その……ヒジョーニゴブサタシテオリマス?」
言葉の最後に特大のトゲがあった気がした。普通に話しているように見えるがまだ怒っているのだろうシグヴァルドを、ベルトルドはえへへと引きつった笑顔で見返す。そんなベルトルドをジロリと見下ろすと、シグヴァルドは顔をしかめてふいと視線を背けた。
「……シーデーン公爵家の長男坊は、第一王子に思うところがあるともっぱらの噂だったが」
「ぅえ?」
「間違えた。シーデーン公爵家の兄妹は、そろって第一王子に思うところがある――だったか」
「ぅえぇぇえぇえ?」
「シグヴァルド殿下、アーシャは単に病弱なだけ、ベルはオヤジ殿の意向で露出を減らしてるだけです。変な勘繰りはやめてください」
だいぶん無理がある対外向けの言い訳を、ルードヴィクは無表情で押し通す。
「ジジイの……な」
シグヴァルドがひょいと片眉を持ち上げる。図らずも、くそジジイの意向かと訊いていたシグヴァルドの答えになったらしい。それがいいことなのかどうかは判断がつかず、向けられた含みのありそうな視線にベルトルドは無言を通した。有難いことにそれ以上突っ込むつもりがないらしいシグヴァルドは、まあいいとルードヴィクに目を戻す。
「会議の準備は?」
「最後の約一名を除いてそろってます」
「わかった。なら急ごう。ルド、部屋から書類を持ってこい。書類を取りに戻ったのにごたごたしてまだ部屋に戻れてない」
「わかりました。すぐにお持ちします」
「あ、じゃあ僕はこのあたりで」
ルードヴィクが階段を上がっていくのにあわせて、ベルトルドもフェードアウトしようとして、しかしシグヴァルドに首根っこを捕まれた。
「なに言ってる、お前も会議に出る予定だろ?」
「ぅえ!?」
「最後の約一名はお前のことだ、ア ス ト リ ッ ド」
にやりと意地悪そうにシグヴァルドは口角を上げた。
シグ怖い、ベルくんカワイソウ
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