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04:王子に好物を聞かれました

 ドン、と肩口を突かれて、ベルトルドはうしろへとよろめいた。

 閉まりかけの扉の向こうで、アストリッドがにこやかに手を振る。呆然と見つめながら、ベルトルドは一歩、二歩と姿勢を崩しながらも後退った。だが三歩目の足が空を切った。ぐらりと体が大きく(かし)ぐ。

「ぅえ、わ……わっ」

 バランスを取ろうとして腕が宙をかく。けれど崩れた体勢は戻らない。視界の端を、見慣れてはいるが自分のものではない長い黒髪が、ふわりと舞った。




 頭でも打って意識を失えば……と、やけに間延びした感覚の中で、ベルトルドはゆっくりと瞼を伏せる。

 足下の影からにゃあと鳴き声が聞こえる。助けようとする意志が伝わってくるが、ベルトルドは出てこないようにと伝えた。

 だって、このあとの面倒ごとはなくなるのだ。王子に会わないですむし、お祖父さまにだって怒られないですむだろう――そんな、ヨコシマだが断然魅力的な考えが脳裏を(よぎ)ったのだ。




 だが世の中というもの、そんなに都合よくはいかないものである。

 まぶたを下ろしきった途端止まった落下に、はて? と、内心首を傾げる。

「……――あれ?」

 おそるおそる目を開けたベルトルドは、息をのむ。間近でのぞき込む男の顔が、視界いっぱいを占めていた。

 目が惹きつけられる。




 わあ、すごくキレイな顔……。

 作り物めいて感じるほど端正な美貌の持ち主だった。白い顔にかかった癖のない銀の前髪が乱れ、氷青の双眸が大きく瞠られている。その目がベルトルドの目と合った瞬間、安堵に緩んだ。

 対照的に、ベルトルドの方はビシリと固まる。




 北方出身者特有の色素の薄い青年は、我が国の王太子にして、トゥーラ総督兼同駐屯軍最高司令官、そしてアストリッドの八つ年上の婚約者、シグヴァルド・バリエンフェルトである。成人前という短い人生ではあれど、そのおよそ三分の一、アストリッドの頭を悩ませ続ける人物だ。

「おまえ……」

 心構えする時間さえないまま、息がかかるような至近距離で、妹の人生最大の悩みの種と相対してしまったのである。なのにこちらの装備はといえばウィッグ一つと、たいそう心許ない。




 さーっと血の気が引いていくのを感じながら、目の前の形のいい眉間にシワが刻まれるのを見つめる。出会いも最短だったが、バレるのも一瞬だった。それはそうだろう。こんなウィッグ被っただけのずさんな変装に、だまされる人なんているわけが……。

「どうしてここに……?」

 ぽすんと尻が柔らかい物の上に着地した。それがなにかと意識にも昇らないまま、目の前の男をただ見上げる。向けられる目を見返して、ぱちぱちとベルトルドは瞬いた。

 嵐の海に漕ぎだした小舟のように翻弄されていた気持ちが、すんと凪ぐ。




 えっと、もしかしてバレてない?

 ベルトルドはぎこちなく目を逸らす。バレてないというなら非常にありがたい状況だ。でもなんだか、納得がいかない。

 もうすぐ成人なのに、未だに女の子と区別がつかないなんて……と、ぴくぴくと感情に反応しようとする表情筋をなだめていると、さらりと銀の髪が頬をかすめた。遅れてコツンと額になにかがぶつかった。




「会いに……来たのか?」

「ぅえ……?」

 目を戻したベルトルドは、ますます間近に迫った顔にぎょっとする。白皙の美貌がゼロ距離にあって、長いまつげが皮膚をかすりそうだった。まっすぐに目をのぞき込んできた灰青の目が、とろけるように甘く細められる。得も言われぬ色気にあてられて、かぁっと頬に血がのぼった。




「あのー……」

 遠慮がちにかけられた声に、触れた額がピクリと動く。甘くとろけていた瞳が、一瞬にして氷に戻った。一瞬目を細め、それから小さく息を吐く。シグヴァルドは額を離すと、抱えていたベルトルドごと立ちあがった。尻の下で筋肉が隆起して、自分が初めてシグヴァルドの腿の上に座っていたことに気づいた。




「わたしはこれで……失礼します」

「次は迷うなよ」

 少し離れたところに少女が立っていた。返された言葉を受け、ありがとうございました、と、ぴょこんと跳ねるように頭を下げたのは、アストリッドと一緒に見かけた少女だった。

 少女は最後にチラリとベルトルドに視線を投げてから、小走りに去って行く。




「あの子……」

「庭を見に来て迷い込んだらしい」

 夢の中でシグヴァルドの背中にすがって目を潤ませていた――世界に一番愛されているとアストリッドが評した女の子だ。

 迷って……と、口の中で呟いて、ベルトルドは辺りを見回した。




 ニフランテ宮は中央棟を社交のために、左翼棟を執政のため、そして右翼棟は公邸として使用されている。現在の公邸を使用しているのは、護衛の一人、従者の一人も付けずに、非常に身軽すぎる様子で一人歩きしている彼――トゥーラ最高権力者のシグヴァルドである。

 今ベルトルドたちがいる場所はその右翼棟を出たすぐの場所である。アストリッドは顔パスだったし、何故か彼女の侍女までもが潜り込んでたとはいえ、一般人がふらりと迷い込めるような場所ではない。




 それはシグヴァルドが一番よくわかっているはずなのに、それでも無罪放免したのは、彼女にアヤシイそぶりがなかったのか、それとも……。

 ここで(アストリッド)に会ったから――とか?




 ふと顔が離れていくときの微かに歪んだ顔を思い出す。アストリッドとの時間を邪魔されたのが嫌だったのだろうか。首をひねりつつ、ベルトルドはちらりと隣をうかがい見た。

 じっとこちらを見つめていた目が、視線があった途端すぅ……と細められ、ベルトルドは顔を引きつらせてそろりと目を戻す。




「なにを考えている?」

「ええっと、その……」

 前髪を引っ張るようにしてベルトルドは視線を遮った。さっきまでのとろけそうだった雰囲気は今はもうなく、氷色の目には感情の色が見えない。少なくとも好ましく思っている相手に向ける目には見えなかった。

 距離を置こうと一歩足を引いてベルトルドは、再び固まった。背中へ回った手に阻まれて逃げられない。添えられているだけのようなのに、まるで後ろに壁があるかのようだ。




 もしかしてバレてしまったのかと、蛇に睨まれた蛙よろしく、だらだらと汗をかいているベルトルドを見下ろし、シグヴァルドの口元が笑みを刻んだ。

「一緒に来い」

 その声は穏やかで、それでいて有無を言わせぬ響きを持っていた。震えあがったベルトルドの背を、添えられた手が先を促す。押されるがまま、アストリッドに突き飛ばされた扉から中へ入り、脇の階段を上がっていく。




 バレているのか、それとも疑われているだけなのか。隣から向けられる視線が、やけにまとわりついて、ベルトルドは目が合わないよう慎重に真横へ目を滑らせた。ちょうどタイを緩め着崩した首元が目に入る。長めの銀の髪がかかる、筋が目立つ太い首と、浮き出た鎖骨はとても男らしくて、ベルトルドは少しばかり落ち込んだ。

 時折、遠目に見かける司令官閣下といえば、整いすぎた白皙の美貌や色素の薄さから氷で造られた彫像のような印象だった。大柄な軍人に囲まれているせいもあってか、彼に特に大きい印象はなかったのだが、間近で接してみると背は高いし、軍服が似合うだけの肩幅があって、厚い胸板に引き締まった腰、長い手足と、均整がとれていたため細身に見えていたのがわかる。

 確かにシグヴァルドと比べたら、ベルトルドの薄っぺらい体なんて女の子に見えたっておかしくない。




「ずっと顔を見せなかったのに……」

 ぽつりとシグヴァルドが口を開いた。

「なにかあったのか?」

 巨木がよく見える吹き抜けの階段を上りながら、シグヴァルドが柔らかい声で問う。

 会話の内容だけ聞いていると、やっぱりバレているという感じはしない。だけど、だったら出会い頭の喜びようといい、うちの妹は婚約者に、ろくに顔さえ見せてやらなかったということなのだろうか。




 とはいえアストリッドは今期入隊した訓練生の主席で、一期訓練生の代表を務めている。その立場上、上役と接する機会が多いはずだ。だから会う機会が全くないとは考えられない。領地と旧都で分かれていたころよりは、顔を見る機会があるはずなのだ。

 ただ恋愛関係なわけだし、毎日会いたいとかそういう話かも知れないが。

 でも、やっぱり――と、ベルトルドは思う。

 どうにもシグヴァルドの視線が気持ち悪い。




 疑われているのだと考えるのが妥当だとは思う。言葉数は少ないが、内容自体はおかしくない。なのに視線だけがやけにまとわりつく。疑われているからではなく、普段からこの妙に探るような視線が通常なのか。

 だとしたらアストリッドのあの態度もわからないでもないかと、ベルトルドは妙に納得した。ベルトルドは二人には関わらないように祖父に厳命されていて、トゥーラに来てからは別に暮らしていた。アストリッドのことは心配していたのだが、離れているとどうしても疎遠になってしまう。




 双子の祖父、シーデーン公爵イングヴァルはシグヴァルドの後見人だ。母を早くに亡くし、息子に興味がない父を持つシグヴァルドには、その高貴な身分に反し味方と呼べる相手は少ない。それは彼の母が北方の辺境領民であることに起因する。国の貴族は、まつろわぬ辺境国を蛮族と呼び、さげすんでいた。

 そんな味方がいない彼の結婚相手として、地位的にも、立場的にも、後見人の孫娘であるアストリッド以上の存在はない。ここでアストリッドが結婚相手から外れてしまえば、今でさえ非常に微妙な立場であるシグヴァルドの、次期皇帝の座は大変危うくなるだろう。彼が玉座に就かないとなると、契約反故で辺境との亀裂は決定打となってしまうだろうし、次のスタンピードで国は存続の危機にまで追い込まれてもおかしくはない。

 だから祖父は、アストリッドの願いを受け入れることができない。




 シグヴァルドだって自分を取り巻く状況を了解していないわけがないのだから、彼が後見人の愛孫(アストリッド)との婚約を自ら破棄するとは思えない。ましてや彼女を罪に問い、あまつさえ斬首しようものなら、破滅への道をまっしぐらである。

 彼が破滅願望の強い性格かどうかは、ベルトルドにはわからない。でも少なくとも祖父にも、彼の傍で仕える従兄姉たちにも聞いたことがないから、普通に考えるなら破滅に向かってひた走るような行動はとらないだろう。




 難しい政治の問題を置いておいたとしても、シグヴァルドがアストリッドを手放したりするとはベルトルドには思えなかった。二人の婚約話が持ち上がった9歳の時から婚約するまで、3年の年月を要しているのである。もっぱらアストリッドの抵抗のせいだが、ベルトルドなら絶対途中で諦めて他の人を探すだろう。その間を待っていられたのだから、忍耐力と寛容さ、そして執着があるのだと思っていた。




 ――……殺されるんだ、あの王子に断罪されて。




 アストリッドの言葉がふと耳に返る。同時に白昼夢で見た断頭台が脳裏に返り、自然と眉根が寄る。

 生まれてこの方、予知夢なんて見たことがないし、あの白昼夢にも意味なんてないと思う。なのに夢の内容が変に符合するのは、とても気持ちが悪い。

 アストリッドと話していたときは笑い飛ばせた夢の中のシグヴァルドだって、実際彼に会ってみると話を聞いていただけの時とは印象が違った。




 まあ、可愛さ余って憎さ一〇〇倍なんてことも聞いたりするから、そういうことなのかもしれない。だからって恋愛のもつれに、断罪とか、処刑とか、断頭台(ギロチン)なんてものまで引っ張り出してくるのは遠慮して欲しいなぁとは思うが。

「やっぱり……」

 ほう……とベルトルドが知らずため息を落とすと、ぼそりとシグヴァルドが頭上でつぶやいた。同時に背中を押していた力が絶えて、ベルトルドは立ち止まる。

「まだるっこしいな」




 低く落とされた声が紡ぐ言葉に、ギクリと心臓が竦んだ。

 青褪めるベルトルドの顎をつかむと、シグヴァルドはぐいと顔を上げさせた。のぞき込んでくる薄青の目の奥底が冷たい光を放って、ベルトルドはひゅっと息を呑む。

「好物を言ってみろ」

シグにドキドキしたら

☆やブクマなど応援していただけたうれしいです

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