02:妹が王子を押しつけてきます1
にゃあと足下から小さな鳴き声がして、目を見開く。くらりと立ちくらみがした。よろけた途端ゴツンと衝撃がきて、遅れて後頭部がジン……と鈍い痛みを訴えてくる。
ぶつけた場所をさすりながら振り返ると、眉を垂らした涙目の少年と目があった。潤むヘーゼルの目、薄茶のふわふわと収まりの悪い髪、身長こそ平均的だが細身の体に、硬いラインを描く濃緑の軍服がおよそ似合っていなかった。
ガラスにうっすら映った自分を、ベルトルド・フォーセルはしかめっ面で見つめ返した。
「僕、なんかおかしな願望でもあったの……?」
ベルトルドは詰めていた息をゆるゆると吐き出す。
そんな自覚はなかったが、夢は願望の表れとか言ったりもする。
相手は、四六時中べったり一緒だった双子の片割れである。ケンカの一つや二つしたことだってある。とはいえ、妹をあんなふうに責め立てなければならないような理由、考えたところで思いつかない。
ましてやシグヴァルド王子は、「婚約破棄」と言ったのだ。そんなことを言われたら彼女はきっと……。
「小躍りして喜んじゃうよ?」
子どもの頃からシグヴァルド王子を大の苦手とし、彼との婚約を巡っては、祖父が本宅に寄りつかなくなるような大ゲンカしたアストリッドである。婚約破棄なんて言ってもらえようものなら、大喜びする様子しか浮かばない。
望んでいる言葉を告げられても喜ばない妹なんて……。
「やっぱりただの夢だよ……ねぇ?」
窓の向こうには、季節のフルーツが盛られたタルトが所狭しと並んでいた。艶々したカットフルーツが、キラキラしてまるで宝石みたいだ。いつもなら心弾む光景なのに、今日はなんだか灰色にくすんで見える。
ベルトルドがはふっとため息を落としたとき、背後がにわかに騒がしくなった。
ぎゃふっ、と、カエルが潰れたかのような悲鳴が聞こえ、遅れてわっと喝采が巻き起こる。ベルトルドが急いで振り返ると、ちょうど男がもんどり打って、坂を転がっていくところだった。
派手に転がっていった男は、腕立ての要領ですぐ体を起こす。が、完全に起き上がる前に再び地面と抱きあう羽目になった。その背中にべったりと張り付いた靴跡の上に、再び同じものをお見舞いされたからだ。ふぎゅっと声を上げて再び地面に逆戻りした男を足蹴にしたまま、周りを囲む人たちと言葉を交わすと、女は足早に戻ってきた。
緩やかに波打つ腰まである黒髪を背に流した、はっきりしたな目元が印象的な少女だ。同じ軍服姿だというのに、ベルトルドとは違い軍服の持つ硬質な感じが、彼女の持つ凜々しさを引き立てている。
彼女こそがベルトルドの双子の妹であり、ベルトルドを呼び出したアストリッド・フォーセルである。
「ご苦労様」
目線が変わらない妹にねぎらいの言葉をかける。
「ひったくりとか置き引きとか、最近多いとは聞いてたけど……ホントに遭遇するとは思わなかった」
「まあ、大量におのぼりさんが出没する季節だから」
「それにしたってこんな本部に近い場所だよ。よっぽどカモだと思われてるんだろうなぁ、貴族の子供って」
前髪をかきあげてアストリッドはからりと笑う。周りを囲んでいた女性たちから黄色い悲鳴があがって、彼女は笑顔でひらひらっと手を振って見せる。その慣れた様子に呆れながら、石畳の坂を登り始めた妹に従って、ベルトルドもまた歩きだした。
ここ旧都トゥーラには毎年春と秋に、国中から成人前後の若者たちが集う。国が募る訓練兵の入隊日がその時期にあるからだ。基本兵士の徴用は志願制だが、貴族の子女に限っては成人前の二年間の兵役は義務となっていた。シーデーン公爵家の双子も、16歳を間近に控えた去年の秋、トゥーラ駐留軍に籍を置いた。
「しっかし忙しいとは聞いてたけどさ、市街地の見回りまでしてたの? それってホントに寮長の職務範囲?」
「警邏隊の人たちに頼まれたんだ。断りにくくって。……まあ、寮生のみんなも助けてくれるから」
路地から馬車が行き交う大通りに出ると、尖塔を持つ建物がすぐそこに迫っていた。かつての王城である高台の上に建つ城も目を惹く。だがそれ以上に目を惹きつけてやまないのは、その背後の天を衝く巨木だ。
その様子はまるで、樹木の前におもちゃの城を置いたかのようだ。まるで縮尺が合わない大木は、大きく腕を広げる葉のない枝に、ぽつりぽつりとこれまたとても大ぶりな白い蕾をつけていた。
「警邏隊にまで目をつけられたの? それに助けてくれるっても、もうすぐ年度末試験だよ」
城へと歩を進めるアストリッドは、おとなしくついてくるベルトルドへと緑色の目を向ける。呆れ顔の彼女が言うとおり、すぐそこへと迫った試験に向けてみんな忙しく、それどころでないのは確かだ。そしてそれはベルトルドもまた例外ではない。
「言わないで。僕、ホント、実技ヤバいんだから……」
「兵役はきっかり二年だし、試験の結果が悪かったからって除隊させないなんて選択肢はないと思うけど……君、連隊長たちのお気に入りだからさ。格好の口実なんて与えたら、兵役の延長とか言いだしかねないんじゃない?」
冗談のつもりか、単に人ごとなのか、物騒なことを言って笑っている妹に、ベルトルドは口を尖らせる。
貴族の子女は基本、二年の兵役課程を修了しなければ成人と見なされない――ひいては貴族の一員として認められないのだ。まあ、未だかつて兵役を終了できず貴族とは認められなかった例なんて聞いたことがないので、自分がその最初の例外になるとは思いたくない。
ただ、兵を率いる三つの連隊の長から熱烈にコールを受けているのは本当のことだ。その理由はベルトルドが優秀だから――なんてことではなく、保護者の爵位が高い雑用係として重宝されているのだ。
貴族が集まるとどこの家の身分が上だとか、うちの方が歴史が長いとか、なかなか大変なのである。命令系統がややこしくなるので、軍内には爵位は持ち込まないことになっているが、聞き分けのいい人ばかりなら苦労はない。そんな中でたった三家しかない公爵家の、それも総領孫というのが、どれほどわかりやすい指標なのかは推して知るべしである。
ベルトルドが自嘲的にそんなことを思っている間も、アストリッドは城前広場を突っ切り、門衛に挨拶して中へと入っていく。城内に入った彼女は殺風景な玄関ホールを突っ切って、まっすぐ右翼棟に繋がる扉へと向かう。彼女を認めた警備兵が、敬礼して扉を開いた。
――やっぱりここなんだ。
アストリッドは片手を上げてみせると、ためらいなく扉をくぐっていく。だがベルトルドはその背を追うことを、さすがに躊躇した。しかし立ち止まった兄を許すつもりがないアストリッドは、振り返って顎をしゃくってみせる。ベルトルドはため息をついて、総督公邸として使われている右翼棟へと足を踏み入れた。