第5話 生命
「寿命があるなら
勿体ぶらないでよ……今、教えてよ」
自分でも驚くほど、声が大きくなった。
思わず机の縁を掴むと、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
尾嵜は一瞬、何か言いかけて、それを飲み込んだ。
その沈黙が、余計に苛立たしかった。
「……私には、覚悟があります
だから今日会いに来ました」
言いながら、喉の奥がきゅうっと締めつけられる。
言葉が、自分を奮い立たせているようだった。
小さく目を伏せた。
そして、重い口をゆっくりと開いた。
「……わかりました。
けれど、あなたが“この話”を聞いたあと
今のように立っていられるかどうか、それは保証できません」
そう言い終えた瞬間、ふすまが音を立てて開いた。
「ごめんなさい、ちょっと時間かかっちゃったわね」
望月先生だった。
両手にお盆を持ち、どこか気まずそうに、それでいて場の空気にはあえて触れないような顔で部屋に入ってくる。
「お茶と……あとは、ほら、和三盆の干菓子がちょっとだけ。
冷たいのも持ってこようかと思ったけど、今日は冷えてるから、温かいものでいいわよね?」
その“普通”が、かえって現実味を遠ざけていく。
まるで今のやりとりが全部、どこかの舞台の上で起こっていたかのように。
静かに一礼し、先生が置いた湯呑みの縁に指を添えた。
空気の重さにはあえて触れないように軽く笑い、
「じゃあ、私はもうちょっと外で。ごゆっくり」とだけ言って、ふたたび襖の向こうへ姿を消した。
戸が閉まる音が、やけに響いた。
静けさの中で、湯呑みに立ちのぼる湯気が、微かに揺れていた。
その向こうに座る尾崎の顔は、少し影になっていて、表情までは見えない。
「……この話をすると、私はきっと、あなたに嫌われるでしょう」
そう前置きをしてから、尾嵜は目を閉じるようにして言葉を選び始めた。
「来回しの儀――その名を、聞いたことはありますか?」
私は首を横に振った。けれど、心のどこかで、聞いてはならない気がしていた。
尾崎は湯呑みに目を落としながら、ぽつりと呟くように語り出した。
「…あれは元々、島の神事だったんです。
五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄──理由はいくらでも後から付けられた。
けれど実際は……ただの“風習”でした。
島という狭い共同体の中で、どうにかして血を繋ぎ止めるための、強制的な仕組みです」
喉が、カラカラに乾いていた。
お茶に手が伸びる
そこまで語ったところで、尾崎は小さく咳き込んだ。
そして、目を伏せたまま、続けた。
「一人だけ。“初潮”を迎えた少女が選ばれるんです。島の中でね」
尾崎の声は、まるで古い記録を読み上げるようだった。
それが現実の話だとは、とても思えなかった。けれど――
ふと、何かが胸の奥で引きちぎられるような感覚がした。
尾崎は机の端に指先を置いたまま、じっとこちらを見つめていた。
ぐっと唇を噛みしめた。頭の奥がじんじんする。
「理由は、“新しい命を授かる器”として最もふさわしいと、そう言われていました。
守り人として選ばれることは、島では“誉れ”とされていた。
でも実際は……ただの、犠牲です」
私は喉の奥が焼けるような感覚に襲われていた。
お茶を飲もうとして、手が震えているのが自分でもわかった。
尾崎は言葉を選ぶように、ゆっくりと語り出した。
「……半年に一度、“あの家”に閉じ込められるのです。
『御籠』と呼ばれていました」
「御籠……?」
私は思わず聞き返した。
「“神の加護を授かるため”という名目で、守り人となった少女は、ひと月もの間、閉ざされた家の中で暮らさなければならない。
外に出ることも許されず、食事も寝所も、すべてその場で完結します。
守り人には“島全体の祈り”が集まる。
それは、時に……容赦のない“行為”として、降りかかってくるんです。
朝も昼も夜も。若者だけでなく、中年も、老人も、名家の男も──
それが島の“しきたり”だった」
喉の奥が、キュッと締めつけられるようだった。
「……もし、子が授からなければ」
尾嵜は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「その年だけじゃないんです。
半年後も……またその次も。
“宿らなければ、まだ足りぬ”と。
同じ守り人が、何度でも、繰り返される」
私は息を呑んだ。意味がすぐに理解できなかった。
「つまり……?」
「“一人”に固執するんです。島全体の期待と願いを、その身体に押しつける。
“神に選ばれたのだから耐えられる”と……。
本人の身体が壊れるまで、心が壊れるまで」
私の手の中の茶碗が、かすかに震えた。
「誰と、何度、どう過ごすのか――それは、守り人には選べません。
ただ“産む”ことだけが求められる。
必要とされるのは、心ではなく、身体。
ひと月の間に、どれほどの男が通い、どれほどの時間が奪われるのか……」
尾崎は、目を閉じた。
「日を追うごとにあなたのお母様は、ほとんど歩くこともできないほど、衰弱していました。
それでも、誰も止めようとしなかった。
“守り人”に、誰も手を差し伸べることは許されなかったけれど、それでも終わらなかった。」
息が詰まりそうだった。
吐き気のような何かが喉にせり上がってくる。
「私は体が弱く、何の役にも立たなかった。
けれど、学はあった。だから、島の記録係のようなことをしていた。
あなたの母様にはよくしてもらっていた
から、見ていられなかった」
尾崎は深く、深く息を吐いた。
「私は、その家を――燃やしたんです。
混乱の隙に、彼女を抱えて船を出しました。
……それが、あなたの母が島を出た理由です」
尾崎の声が遠くなった気がした。
胸の内をかき乱すような言葉の連続に、思考が追いつかない。視界がにわかに歪み、天井がぐらりと揺れたように感じた。
――視界が、朦朧としている。
「……里奈さん?」
尾崎の声がすぐそばで聞こえたが、まるで水の底から聞こえるように遠い。
「今日は、話しすぎましたね……深く考え…」
身体が傾く。
尾崎の声が何かを告げていたが、もう言葉として聞き取れなかった。
視界がぐにゃりと歪み、世界が暗く染まっていく。
次の瞬間、体は床に倒れ込んでいた。
仰向けに倒れたまま、天井の木目がぼやけて、
そのまま、深く、深く――眠りに沈んでいった。