嫌悪は恋に至る
「こんにちは古川さん。今日は雨ですね! 以前は嫌いだとおっしゃってましたが今はどうですか?」
病室の扉を勢いよく開けながらそう問えば、真っ黒な瞳がこちらを向いた。薄く驚いたような感情が乗り、瞬きの内にかき消え視線が窓へと移ろう。
「……好きです。嫌になりますね」
皮肉げな言葉が静かに紡がれた。それに笑って返して、ベッドの隣へ椅子を動かし座る。
彼女は絶えず移り変わる。容姿も、その中身も。この病院に入って来た当初は茶髪だった髪色は黒に戻っている。派手だった化粧もスッピンへ。変わらないのは気の強そうなツリ目と、天邪鬼な性格くらいだろうか。
変わるのは彼女の意志ではない。望んで変わったものなんてない。変えられる理由はたった一つで、そしてひどく単純だ。
――彼女が病気だから。
好き嫌いが逆転していく、脳の病気らしい。そういう判断をする細胞が死滅するからだったか変異するからだったか、僕は覚えていない。担当医なんて名ばかりの存在だ。この病院自体も。
「でもほら、春に降る雨って風流じゃないですか? ハルサメスープは美味しいし」
「またテキトーなこと言いますね。その癖治した方がいいと思います。あと、春の雨は桜の花びらを落とすし、ハルサメは年中おいしいです」
僕の心無い言葉が彼女の心を上滑りする。全てに無関心な僕と、無関心でいたい彼女。僕と古川さんは、担当医と患者の枠組みには嵌らない。お互いを思いやるなんて程遠い。
「そうかもですね!」
「……ところで、今日の本はなんですか?」
会話が面倒になったらしい彼女が話題を移す。僕は手元の本を掲げてみせた。
「いつもどおり恋愛小説です! でも、今日は僕のチョイスじゃなくて、他の患者さんのオススメですよ!」
「患者さん、ですか?」
小さく首を傾げた彼女に説明を追加する。
「はい。最近入院した女性なんですが、身体が溶けていく病気でして。だから読書や刺繍くらいしかすることがなかったらしく、読書家だし手先が器用なんですよ!」
古川さんはかすかに眉をしかめた。
「そうなんですね」
――以前ならもっと大騒ぎしただろう、と考えて首を振る。昔の彼女と今の彼女はもはや別人だ。比べたって懐かしんだって意味がない。
「暇なとき読んでみます」
「じれったくなるような話でしたよ! お互い好きなのに関係性は進まない……みたいな」
「へぇ」
そこで、やっと彼女は本に興味を移したらしい。僕の手から本を取り、ぱらぱらとめくっている。
これは古川さん好みな話だった。彼女はピュアな恋愛もの、特にすれ違いが起こるものを好む。焦れったい流れの後で二人が幸せに結ばれる、そんな話。そして一番嫌うのはヒロインかヒーローが死ぬものだ。
もしかしたら既に好き嫌いが反転しているかも、と僕にしては珍しく気を回し、どっちも含まれるものにした。つまりこの本では、すれ違いの果てにヒーローへ思いを伝えたヒロインが、結局病気死ぬ。全ての描写が残酷で美しい。ヒロインの愛おしいという感情が、そして遺していかなくてはならないという悲しみが心に迫る作品だ。
「読むのが楽しみです」
「僕も感想を聞くのが楽しみです!」
ちゃんと面白かったと言ってもらえるだろうか。今からワクワクしてしまう。そんな期待が、そのまま表に出てしまっていたらしい。
「ほんと、恋愛小説が好きなんですね」
感想を分かち合えるからだと勘違いしたのだろう古川さんが、そう小さく呟いた。
「そうですね。わかりにくいので、好きです。好きって種類も大きさも違うじゃないですか。しかも嫌いとか憎いとか、マイナスの感情とも混ざり得るじゃないですか。それが難しくって、面白くて、好きです」
僕はそれが分からないから、尚更かも知れない。人間に対して恋とか愛とか、好きとか嫌いとか。僕にはよく分からない。
「その、バカみたいに素直なところは長所でも短所でもありますね」
そう言って、古川さんは笑った。薄くだが、確かに。
「……久しぶりに笑顔を見ました」
「そうですか」
「はい」
「ところで、さっきのことですけど、わたしも好きとか嫌いとか、難しいと思いますよ。こうなってからは、特に」
今日、古川さんは機嫌がいいらしい。たぶん。いつもより、ひどくおしゃべりだ。
「そうですか」
動揺して、古川さんのような言い方をしてしまうと、彼女はまた少し笑った。
「わたし、先生のこと嫌いですよ。すごく」
脈絡があるようでない。彼女が何を言いたいのか分からない。けれど、話をしたい気持ちを汲んで返事をする。
「最初にも、言ってましたね。『あんたみたいに他人を思いやれない男なんて嫌いだ』って」
「今も思ってますよ。これからも思います」
ふと、何かを思いついたらしい古川さんが、僕を見つめる。
「賭けますか? わたしが死ぬ前に、先生を好きになるか」
「賭けになりません」
反射的に、否定した。
「だって、始まった時から終わっています。古川さんは言ったじゃないですか。僕のことが嫌いって。貴女においては、それはもう告白ですよね?」
「忘れてますか? わたしの病気は確かに好き嫌いが逆になる、ってものですが、全部じゃないんですよ」
楽しそうに古川さんが喋る。
「好きになったら嫌いだったことですし、嫌いなままだったら嫌いってことですよ。つまり、わたしの勝ちが決まってる勝負です。大人なら、これくらいハンデでしょ?」
――そう、か? そうなのかも知れない。僕には好き嫌いが分からないから、この賭けが有効かどうかも分からない。
どこか腑に落ちないが何が間違っているのか分からない。けれど彼女の珍しく楽しげな表情を崩すのが勿体ない気がして、曖昧なまま頷いてしまう。
「じゃあ、成立ですね。わたしが死ぬ前にわたしが先生を好きになったらわたしの負け。逆に、先生がわたしを好きになったら先生の負けですよ」
「なら、どっちつかずなまま終わりそうですね」
「そうかもですねぇ……これはヒントですけど、先生はもうちょっと、テキトーに話す癖というか、自分のことを考えない癖を止めた方がいいですよ」
とっ散らかった頭に、古川さんの忠告が混ざる。
「――わたしのこと、好きなのが丸わかり」
好き? 好きって、どこが。
「まあいいです、わたしは先生のこと嫌いですし。期限は、わたしが死ぬまでですからね」
そんな彼女の思いつきで賭けが始まった。これがどこに辿り着いて終わるか、僕には分からない。
――彼女好みのエンドにならないことだけは、きっと確かだけれど。
終