相談
最初の夜は正面玄関の横の明かりだけがついていた。
今夜――いやもう昨夜と言っていい頃合いだが、この夜は長い時間、一階が明るかった。人影も時々動いているのが見えた。少なくとも見張りで火の番をしている間はそれを確認している。
何をしていたのだろう。気になったため、という訳ではないが随分早くに目が覚めてしまった。
起き抜けすぐに魔女の家へ視線を上げた。庭にいるより外からの方が近く感じるのは不思議だった。中々慣れそうにない。
カーテンの向こうは相変わらずほの明るい。もしかしたらケリィ嬢は一晩中起きていたのかもしれない。
「もう起きられますか、フィンア様」
「ああ、おはよう」
酒を飲み交わしながら話したところ、ルネ・テーリングは男爵家の長男らしい。テーリング家は代々武人を多く輩出しているらしいが、ルネ自身は文官として交易に関わる職に就いているとのことだった。体格が良いのは家系的なものだったようである。本人は未婚の三十歳だが、年の離れた弟と妹が騎士団で日々励んでいるとのくだりは機嫌良さげに話してくれた。
特に意味はなく、二人で同時にディカルドを見遣った。彼は何の不安もなさそうに、健やかに寝ている。静寂の中、一定の呼吸がかすかに漏れる。起きている時の賑やかさとは大違いだ。
「長時間の見張り役、感謝するよ。もう俺は寝ないから、テーリング殿も良かったら少しでも休んでくれ」
「有り難く存じます。それでは少し身体を横にさせていただきます」
「ああ」
「眠りはしないので、何かありましたら声をお掛け下さい」
返事してやりながら火の世話をする。太陽が昇る前だ。いくらか冷え込みそうだし、少し火加減を強くしておいても良いだろう。
それでも白んできた空が心躍らせる。フィンアは一日の始まりの時間が一番好きだった。
「?」
魔女の家から物音がした。本当に小さな音で、気を付けていなければ聞き逃していただろう。きぃっという、あれは恐らく裏戸の開閉音だ。
「……ケリィ嬢か」
他の二人に聞こえない程度の声量で呟く。
僅かな水の音が聞こえる。井戸を使っているのだろう。それからまた裏戸の閉まる音。しばらく眺めていると、煙突から細く煙が上がり始めた。最初は白く棚引いていたが、段々と灰色、黒と濃くなっていた。しばらくするとそれが紫っぽく見えてきた。
「んん?」
昇り始めた陽光のせいではないだろう。見れば見るほどしっかり紫だった。魔女の家から上がる煙としてはぴったりな気がする。なんとも怪しい色である。
ぼんやりと眺めていると、ディカルドが寝返りをうった。「ランジー」と聞こえた気がした。夢でも彼女にベッタリなのだろう。
「……おや、あれは」
家の方から黒く艷やかな塊が向かってくる。黒猫のアリスだ。
彼女はラグランジェ嬢の側を、うろうろと困ったように歩き回る。しかし割とすぐに踵を返した。
「アリス」
猫に声を掛けた。自分にしか聞こえないような小声だったが、それでも猫の耳はそれを拾ったようだ。三角の耳をピクリとさせてから、彼女は静かにこちらを向いた。
荒野と庭の堺まで行けば、猫もととと、と近寄ってくる。愛らしい。
「ラグランジェ嬢に用事があるのか? 起きたら伝えようか?」
「……」
違う。そう訴えるように、じっとこちらを睨みつけてきた。もしくは余計なことをするな、といったところか。
「そうか。首を突っ込んで悪かった。自分にできることは無いかと思って、出しゃばりすぎたな」
「なぁ……」
「アリス?」
黒猫は思案するように低い位置で尻尾を振っている。そうしながら俯き、家を振り向き、またフィンアに向き直った。
「――なぁん!」
何かを思いついたらしい。
家に向かおうとしながら、何度もフィンアを振り仰いでくる。
「ついて行けばいいのか? ちょっと、待ってくれ」
うつらうつらとしていたルネにひと声かけ、フィンアは再び庭へ足を踏み入れた。
例の目眩は軽くやり過ごした。流石にそう何度も倒れたりはしない。
寝ているラグランジェの横を通り過ぎ、猫の後をつけていく。城下の子供が時々やっているのを見かけたが、これは楽しい遊びかもしれない。
やはり庭に入ると広く感じる。それでも慣れなのか、昨日よりは距離感がつかめて来たように思う。
そのまま井戸がある裏の方へと連れて行かれた。
「なあ!」
一声鳴き、井戸から少し離れた場所で急停止。こちらの爪先にそっと足を当ててきた。もう一度「うー」と声を上げる。待っていろということだろうか。
フィンアが立ち止まったのを確認すると、アリスは裏口の扉に飛び込んだ。よく見ると、戸の下の方に猫用の小さな出入り口があるようだった。
猫が駆け込んだ勢いのせいか、吊戸の開閉が止まらない。パタパタと空気を叩く音だけが響いている。
空は明るく、朝を告げてくる。
「――いや、そんなこと言われても」
ケリィ嬢の声だ。
そう思ったと同時、裏口が重々しく開かれた。
ふっと例の目眩がして、扉と距離が出来る。気の所為ではないはずだ。
「……おはよう、ケリィ嬢」
踏ん張りながら耐える。あの不思議な感覚はすぐに消え去った。
「…………」
ケリィは足元のアリスと目を合わせた他人には分からない、身内だけの遣り取りは一瞬のことだった。
「おはようございます。もうお越しいただいていたとは気付かず、失礼しました」
「いや、こちらこそ早朝から申し訳ない」
猫に呼ばれただけなので、何も悪くはないはずだ。ただ非常識な時間に、非常識な場所での邂逅となったため、形式上は言わなければならない。
「なーう」
猫が急かすように鳴いた。その捉え方は正しかったようで、「わかってるけど」だの「でも守秘義務が」だの、ケリィ嬢はぶつくさ言っている。
それでも待っていると、上目遣いに、不安を隠すこともなく対峙してきた。
「あの……ご相談したいことがあります」
「自分で力になれることなら」
「そもそも、この状況を上手くお伝えできるか分からないんですが」
「思い付くことから話してくれて構わない。分からなければ質問させてもらう。それでいいだろうか?」
「ええっと……では、それでお願いします」
はっとしたように、彼女は顔を上げた。
「これからご相談させていただく内容は、どうかご内密に。出来れば国……政治的なこととは切り離して、王子様の個人的な見解を」
「大丈夫だ。他言はしないと誓う」
魔女などいなくとも誓いは守る方だ。
「ただ個人的に、というのなら」
さっさと本題に入りたいが、一つ引っ掛かる部分がある。何しろここには王子が二人もいるのだ。
「自分のことはフィンアと、名前で呼んでほしい」
気の所為だろうか。
また、ふうっと距離が遠くなったように感じた。