そして、越えてきた
北国の王子をなだめすかし、ようやく落ち着かせた頃。もうそろそろ昼になろうかという時分になっていた。
ディカルドは相変わらず不機嫌そうだ。自分は悪くないの姿勢を崩さないまま両腕を組んでいる。記憶が確かなら今年十八歳になるはずだが、中身は一桁足りないように思えた。
それでも大分冷静さを取り戻したのが功を奏したか、ユークレッドの庭を視認できるようになった。
女性二人が庭で待機していた。
ケリィの赤い頭が静かに下がる。細い髪がさらりと垂れ、風に舞った。
「先刻は失礼が過ぎました。お客様への対応として相応しくなかったと思います。申し訳ございません」
冷静な謝罪だった。
顔を上げた彼女は、申し訳なさそうに困ったような笑顔を作る。その取り繕った笑顔が不格好で、それでいてあまりにも必死に見え、何だか愛らしく感じられた。
「……」
対して荒野側の空気はいまだ張り詰めている。
従者が疲れた声音を隠そうともせずに主人をいさめた。
「殿下」
「……はあ、許そう」
「は?」
ケリィは辛うじて口元の笑みを崩さなかった。しかし碧の目が据わっている。
「こちらも気がはやって、少し乱暴な物言いになった。悪かったな」
ディカルドの言葉は投げやりにも聞こえるが、嘘のなさそうな声だと思う。彼はよく言えば裏表のない、嘘がつけない性格なのだろう。そうフィンアは推察した。あまり王族には向かなさそうだ。
「まずはお庭へでもお招きするべきと存じますが、事情があって……その、貴方様はこちらに入れないのです」
「はぁ?」
今度はディカルドの目が据わる。この二人はあまり相性が良くないかもしれない。
しかし彼だけ、というは自分も気になるところだ。
「ディカルド王子だけ? どうして」
ケリィは腹の辺りで手を重ねている。何かに祈るように、強く握っているのが見て取れた。
「皆様、不審に思われるのはご尤もですが、まずはこちらの事情をお話しさせてください」
「さっさと話せ」
「……王子様にのみ条件が付与されています。庭に入るための条件。恐らく師匠がかけた魔法でしょう」
「会ったこともないのにそんな事ができるのか」
「正確にはこの庭、領域内にかけられた魔法になりますが」
なるほど。
しかし問題はその条件だ。それをどうにかしなければディカルドだけが永遠に荒野で野宿になる。
「弟子のお嬢さん、どうすれば殿下はそちらへ入れるのでしょうか」
「……それは」
その。あの。えっと。
ケリィが言い淀んでいる。
余程難しい条件なのか。それとも口にするのが恥ずかしいかしいとか、そんな理由だろうか。
「早く言え、どんな条件でもすぐに乗り越えてみせるぞ」
本人は自信満々だ。
妙に不安になるのは自分だけではないはず、とフィンアは思った。見回すと、ルネはもちろんラグランジェ嬢も「大丈夫か?」と目で語っていた。
「私が」
意を決した様子でケリィが口を開いた。
皆、ディカルド以外は固唾を飲んで見守った。
「……私が、貴方様を招きたいと思うか否か、です」
ディカルドが鼻をならす。
「おい」
「はい」
「ふざけているのか?」
「私は真面目です。そしてこれは非常に深刻な問題です。だって私、貴方様をお招きしたいと全く思えないんです」
再びディカルドが庭から絶縁されたらしい。
「また見えなくなったぞ! あの小娘、どこへ行った!」
今のはケリィ嬢が悪い。言いたくなるのは分からなくもないが。
従者の冷静な声すら聞こえないようで、ディカルドはまたぎゃあぎゃあと騒いでいる。
このやり取りは終わりが見えない。
庭の方を窺うと、銀髪の美女が口元に手を当て、肩をふるわせていた。笑っているらしい。想像より肝が据わっているというか、大らかな女性のようだ。
ケリィは頭を抱えるように、右手で額を押さえている。彼女もこの状況を作ったの本人なのだが。本当に頭を抱えているのは従者、もしくは自分だと思う。
喧嘩を売ったようなケリィ嬢だったが、改めて深呼吸をしている。
そして女性に一言何か伝えてから家の方へ駆けていった。武器でも持ってくるのだろうか。
「破壊力のある魔道具でも持ってこられるのでしょうか」
ルネがぽつりと呟いた。彼とは意見が合いそうだ。
「危険と判断しましたら、私は殿下をお連れし撤退いたします」
「それがいいだろうな」
「ラグランジェ嬢は後ほど迎えに来ますので、待っているよう伝えてください」
「ああ、引き受けよう」
「お手数をおかけします」
ディカルドに聞こえぬよう、こそこそと今後の相談をする。
何となく察してはいたが、ラグランジェ嬢はあまり身分が高くないらしい。彼の中では、最悪見捨てるのもやむを得ないといった感じだ。それなら多少時間は掛かるが、彼女は自国を経由するかたちで正式に送り届けても構わない。少なくともディカルド王子にとっては特別な存在のようだし。
「おや」
もはや声をかける気にもならないままディガルドを見守っていると、ケリィ嬢が戻ってきた。特に武装はしていない。代わりに腕に大ぶりのバスケットを掛けている。
「あれはただの籠、と見ても構わないでしょうか」
ルネが身構えながら聞いてくる。
「さあ、どうだろう。しかし本人に敵意などはないように見える」
走るでもなく、けれど急ぎ足でこちらへ向かってくる。その足取りは重くはなさそうだ。
随分時間がかかったような、むしろあっという間のことだったような。感覚の掴めない時間をかけて、ケリィが荒野の手前までやってきた。
「お待たせしました」
そう言って、まずラグランジェに外へ出るよう促した。
「ランジー! 良かった、無事だったか」
「……」
あからさまに機嫌の良くなる金色の王子。彼女の手を引いて側まで引き寄せた。ラグランジェ嬢は王子の好きにさせている。
「ケリィ嬢?」
庭へ振り向くと、ケリィは空間の狭間に手を伸ばしていた。その手は固く震えている。そして食いしばっていたらしい口元を、小さく開いた。
「……私が、そちらへ行きます」
「え」
ああ、彼女が外へ出ることは出来るのか。
そう思い至るより早く、ケリィは荒野へ踏み出した。
「……っ」
「ケリィ嬢、大丈夫か? 目眩などは」
「庭から出るときは平気です。皆様そうだったでしょう」
確かに。
ケリィを間近で見るのは初めてだ。きめの細かい白い肌。気の強そうなキリリとした赤い眉がよく見えるようになった。
しかし彼女はどこか調子悪そうに見える。荒野の空気が合わないのだろうか。
「いい度胸じゃないか」
ああ、そういえばまだ解決していなかった。
「あれだけ俺をコケにしておいて、良くここまで出て来れたな」
「私は正直に申し上げただけです」
「なんだと」
気の短い王子が腰の剣に手を伸ばす。
「ディカルド殿」
ケリィを庇おうとしたが、自分より反応の早い者がいた。ラグランジェがその腕を静かに掴み、首を横に振っている。
ケリィはあまり気にした様子もなく、話を続けた。
「しかしながら、王子様方も事情がお有りでしょう。それを伺えばお招きする理由として、私の気持ちも変わるかもしれません。……ですから、空間の魔女ユークレッドに代わり、この不肖の弟子がお客様方をおもてなしさせていただきます」
そう言って、バスケットにかけていた布を取ってみせた。
中にはパンや果物、チーズ、干し肉が入っていた。奥に茶葉の詰められているらしい瓶も見える。
そうか。もう、昼時か。