魔物の森
戦闘らしいものは基本ないです
ケリィに当てないよう、気を配りながら剣を抜いた。
魔法など欠片も使えない自分でも分かる。それほど異様な空気が森に充満している。息は吸えているはずなのに、妙な息苦しさを感じる。
「魔物の森、実際に来るのは久しぶりです」
「来たことがあるんだな」
四方を警戒しながら少しずつ進む。
「本格的に修行を始めた頃に一度だけ。師匠が連れてきてくれました。師匠自身は素材収集のために時々訪れているようですけれど」
霧も発生している。視界はあまり良いとは言えない。
「魔物は危険じゃないのか? というか、そもそも魔物とはどういう生き物なんだ?」
「いくらか誤解があるようですね」
当然かも知れませんが、とケリィは続けた。
「?」
「魔物の森。それはただの生き物を魔物のように凶暴化させる森です」
ケリィは訥々と語りながら石の示す方へと進んでいく。
遙か昔、まだ西の森がユークレッドにより封じられる前のこと。森から流れてくる悪しき霧が原因で、人々や獣の類いはみな気性が荒く、争いが絶えなかった。
些細なことで諍いが起こる。物はもちろん命すら略奪するのが当たり前。常に戦争や内戦が起こっている。獣は農地や人々を襲い、我が物顔で町を荒らし回る。まさに混沌とした時代だったという。みな自分たちをそういった生き物だと、運命は変えられないと、そう信じていた。
それを一変させたのが初代ユークレッド。
原因となる西の森を強大な魔法で封じたのだ。人も獣も、段々と本来の気性を取り戻していった。獣は山や森林で暮らすようになった。しばらく続いていた戦争も、遺恨は残しつつ話し合いによって解決したという。
そして時は流れ、いつしか西の森は、人を魔物にする森ではなく魔物の棲む森と解釈されるようになった。
「つまり、ポーシャネットが危険な目に遭うというより」
「はい。本人が自我をなくして凶暴化している可能性の方が高いです」
とはいえ、この森に野生の生き物が居ないわけでもないだろう。彼女の動向以外も充分に気をつけて進んだ方が良さそうだ。
「彼女が錯乱していた場合、取り敢えず保護して連れ帰れば正気に戻ると考えて良いのか」
「いいえ、そこは大丈夫です」
何か策があるらしい。
「師匠が作ってくれた守り札があります。私がその力を最大限に引き出せば、ひとまずは落ち着きを取り戻せるはずです。森の魔力が完全に抜けるのは多少時間が必要でしょうけど、日常生活は送れると思います」
ケリィが自分の胸元に左手を当てた。そこに守り札というものが仕舞われているようだ。
「この札があれば、私たちも森の魔力に持って行かれることはありません」
なるほど。
「ただあまり離れると効果がなくなるので、フィンア王子も気をつけて下さいね」
「わかった。ありがとう」
しかしまずは少女を見つけてやらなければ。
「……石の反応が強くなってきました」
言われてみればフィンアでも分かるほど石が強く光っている。この先だと教えるように、小刻みに震えているのも見て取れた。
「急ごう」
「はい!」
進めば進むほど霧が濃くなる。ケリィ曰く、この霧に人を錯乱させる魔力が多く含まれているという。あまり吸わないようにした方がいいようだ。
途中で薬草臭い布を渡された。
「口や鼻を覆うように巻いてください。多少はマシになるはずです」
そう言う彼女に一度剣を預け、顔に布を当てた。生地の端を頭の後ろで結ぶ。複数の草の匂いが強烈に臭っている。違う意味で錯乱しそうだ。
「あそこ、大きな樹の後ろ。……何かいます」
布のニオイに鼻を慣らしていると、ケリィが剣をぐいっと返してきた。
「刺激しないように近付きましょう」
湿った苔の多い足元。気を付けながら二人静かに距離を縮めていく。
黒い煙のようなものが一箇所に固まっている。海の小魚の群れに近い動きにも見えた。しかし聞こえてくるのは重い羽音だ。
「虫、みたいです」
「何かに群がっている……?」
ケリィの吊っていた石が一際強く反応を示した。
「……ポーシャ! ポーシャネット!」
大量の虫が攻撃的な動きで群がっている相手は、まさに探し人そのものだった。
「――――!」
少女は何事か叫びながら、それらを追い払おうとしている。いや、逃げようともしないところを見ると、もしかしたら自分から挑んでいるのかもしれない。
凶暴化する。
道中でのケリィの言葉が頭を過った。
「虫は強力な殺虫剤があるので追い払えます」
言いながら腰のポーチを漁っている。
「ポーシャの気を惹いておいて欲しいんですが、お願いできますか」
「ああ。頼まれた」
虫とポーシャから少し離れた位置に陣取る。そして剣を鞘に収めた。
ポケットを探ると小さな硬いものが五個、指先に触れた。食事の前に庭でポーシャが拾った石だ。色が綺麗だとか、艶があるとか、そんな理由でフィンアに見せてきた。よく見つけられたなと褒めたら、嬉しそうにしながら惜しげもなく手渡してくれた少女。
自分に魔力はないが、今回は石の力を借りようと思う。
「ポーシャネット! 迎えに来た!」
こっちを向いてくれ。そう願いながら自分と彼女の中程の距離に小石を投げた。
「――?」
ポーシャが振り向き、石に気が付いた。
暗い森の中にあって、不思議と清廉な様相の小石たち。フィンアには関知できないが、ユークレッドの庭の石である。多少は魔女の力を宿しているのかも知れない。
「えいっ」
ポーシャと虫に距離が出来た。ほんの一瞬のことだった。
ケリィが声を上げ、粉状のものを羽音を立てる虫たちへ投げつけた。粉が広く舞ったと思ったら、つむじ風のように虫を巻き込みながら空へと吹き抜けていった。それは殺虫剤というのだろうか。
「ポーシャ! 大丈夫、怪我してない?」
転がった石を拾おうとしている少女に、ケリィが駆け寄って来た。
「――!」
パシッ。
「痛っ……」
「ケリィ!」
言葉にならない悲鳴のような声を上げ、ポーシャは従姉妹のケリィを振り払った。
「ポーシャ……森の魔力に、飲まれてる」
その目は明らかに正気ではなかった。