一 邂逅・swapper
ロシュの両手首には、縄が巻かれている。きつく縛られた縄は天井に向かって伸びており、梁に括りつけられていた。
ここは王宮内の一角、老朽化が原因で普段は使われていない物置だ。周辺は滅多に人が来ることはないため、何をしようと助けが来ることはないだろう。
現状、ロシュは座った姿勢だ。そこから立ち上がることは可能だろうが、そうしたところでできることは何もなかった。
そもそも眼前にいる男、大臣グレハを制圧し、大臣の手下である兵士たちを撒いて脱出することは困難だろう。今ロシュにできることといえば、邪悪かつこちらを挑発するような笑みを浮かべるグレハを、睨みつけることくらいだった。
このような状況に陥った経緯は、非常に簡単だ。ロシュがしくじったのである。
グレハは、大臣という地位にありながら、禁忌とされている黒魔術に関わっていた。術具や術式を秘密の地下室に集め、魔術を用いて自身の地位と利益の為に多くの人間に危害を加えていたのだ。
王女がその悪事に気づき、大臣の息がかかっていないことがはっきりしていたロシュに、極秘の調査を命じた。
ロシュは近衛騎士で、そういった調査は管轄外だ。しかし騎士として、王宮内の不正を看過することはできない。
王宮内に大臣の内通者がいることを想定し、一人で悪事の証拠を探していたのだが、どこからか情報が洩れ、大臣に捕らえられたのだ。
「まったく、私の計画を嗅ぎつけたのが君一人だけで助かったよ。君一人処分してしまえば全て元通りなんだからね」
勝ち誇ったような声に、ロシュは最大限の侮辱を込めて、
「ハッ!」
とせせら笑いを返した。
「俺を見くびるなよ、これまでに見つけたあんたの悪事は全て資料に纏めて隠してある。場所を知っているのは、俺と信頼できる人間一人だけ。俺の身に何かあった時は、王女殿下に文書が開示される手筈だ。どのみちあんたの計画はここまでなんだよ」
啖呵が物置の壁に反射しつつ、闇の中に消えていく。その後は静寂が場を包んだ。
グレハの顔からは、先ほどまでの笑みが消えていた。ゆっくりと、椅子のひじ掛けを支点に頬杖をつく。
「貴様こそこの私を甘く見すぎだ。その程度の事を想定していない筈がないだろう。私はあくまで君の事を”処分する”と言ったのだ」
「俺を王宮から放逐するか? それとも嘘の罪を作って処刑でもするか? どのみち資料は開示されるぞ」
再び、グレハの口角がいやらしく引き上げられた。
「君に紹介したい人らがいる」
グレハが手を叩くと、彼の傍にあった扉が開き、人影が二つ、中に入ってきた。
一人は、長身痩躯、黒髪で冴えない容貌をした、20代後半と思しき男。服装からして王宮内に勤める使用人らしい。
薄っすらとだが、ロシュの記憶にある人物だ。ここ最近、王女の許に軽食などを運ぶ使用人の中に、顔を見たような気がした。
無表情で立ちつくす男だが、何故か両手を背中側に回している。ロシュのいる場所からはよく見えないが、両手を拘束されているらしい。
そしてもう一人は、ロシュと同様10代後半から20代と思しき女。壁に掛けられた松明の明かりに浮かぶその顔は、使用人と違ってはっきりと、ロシュの記憶にあるものだった。
「プレナ……?」
10年近く見ていない顔だったが、すぐにわかる。大臣グレハの娘、プレナだ。
幼少の頃から近衛騎士の一族として王宮で育ったロシュにとって、王女アリス同様数少ない友人とも言える存在がプレナだった。
それぞれが身分や立場の違いを意識するより前の幼少期、ロシュとプレナ、そしてアリスの三人は、よく時間を共に過ごした関係である。
しかし、ロシュが本格的に騎士としての訓練をするようになった頃、プレナは病死したと伝えられていたのだ。それだけに、今目の前に彼女が現れたことは、ロシュにとって非常に大きな驚きだった。
グレハはロシュの表情を見て、満足気に目を細める。
「覚えてくれていたのは素直に嬉しいよ。私の娘は、私の計画の中でも特に重要な役割を持っていてね、世間的な存在を抹消していたのだよ」
グレハが話している間、プレナは一切表情を動かすことが無かった。彼女の隣にいる男性も同様だ。二人とも壁にかけられた松明の炎の動きに合わせ、顔の影が揺れる以外、微動だにせず立ちつくしていた。
「それは……どういう意味だ。重要な役割?」
流石に動揺を隠せないロシュ。
「説明なら、全てが終わった後にたっぷりしてあげるさ……」
グレハが言い終えると同時に、プレナが動いた。ゆっくりとロシュの傍に歩み寄る。
そしてプレナは、徐に右の手のひらをロシュの方へと向けた。
刹那、閃光がロシュの視界を包む。あまりの強烈な光に、ロシュは一瞬目を瞑った。
瞼の裏からでもわかる光は、すぐに収まる。
ロシュは恐る恐る目を開いた。目が眩んでいてはっきりとは分からないが、物置の中から移動していないこと間違いない。
次の瞬間、ロシュの両足が急にぐらつき、倒れそうになる。一歩前に足を踏み出し、倒れるのを止めた。同時に強烈な違和感に襲われる。
直前まで、ロシュは座っていた筈だ。それが突然立った姿勢になったため、足がそれについていかなかったのだ。
視界がはっきりしてきて、映るものが一変しているのにも気づいた。目の前に石壁がある。先ほどまでは物置の入り口と、そのそばに置かれた椅子、そしてそこにすわるグレハが視界にあった筈だ。それがなぜ、扉を背にしていないと見えない石壁が目の前にあるのだろうか。
更に視界に入るものが一つ。天井から延びる縄に両手首を縛られ、壁際に座り込んでいる男の姿。近衛兵の制服を着て、白い長髪を後ろで結わえたその姿は、普段鏡で見ているロシュ自身の姿そのものだ。
「いい表情をしているな」
横からグレハの声。そちらを向くと、先ほど同様椅子に腰かけたグレハが、嫌らしい笑みを浮かべながらロシュのほうを見ていた。
「これは……?」
口に出した声にも強烈な違和感。
兵士の一人が、ロシュの前に立つ。その腕には、鏡が抱かれていた。ロシュの正面で、鏡面をロシュに向ける。
そこには、先ほどプレナと共に部屋に入ってきた、使用人が映っていた。
「ど……どういうことだ……?」
ロシュは、もう一度よく鏡を確認した。鏡像の動きは完全に一致している。間違いなく今のロシュの姿を映しているようだ。
その様子を見て、グレハは愉快そうに笑い声を漏らす。
「そういえば、名前を紹介していなかったね。今君が使っている体はマロクといって、私に忠誠を誓っている使用人だ。彼の中身は、今そこにいる」
グレハがロシュの体を指さした。兵士が近づいて、彼の拘束を解く。
拘束が外れると、ロシュの体はグレハの前に跪いた。
「フフフ、つい数分前まで愚かにも私に吠えていた男のこの姿、非常に愉快だな」
ロシュは、思わず大臣に詰め寄ろうとする。しかし両手首を縛る縄を掴んでいる兵士が、彼を引き戻した。
「おい! 一体何をしやがった!」
グレハは再びロシュに視線を向ける。
「そうだな……君と話せるのもこれが最後だ。最後に教えてやろう。これは私の娘が持つ力だ」
「力?」
「そうだ。特定の二者の精神を自由に入れ替えることができるのだよ。これで私の黒魔術研究に勘づいた厄介な近衛騎士は居なくなり、私の従順な僕となった近衛騎士と、哀れな使用人が残るというわけだ」
グレハの話はにわかに信じがたいものだ。しかし実際にロシュは使用人の体になってしまっていて、ロシュの体はグレハに跪いている。信じる他なかった。
「そ……その場しのぎだろう。この王宮には俺を幼少から知っている者が大勢いる。全員を騙しとおせる筈が……」
「それも想定していない筈が無かろう。……マロク、いや近衛騎士ロシュよ」
名を呼ばれ、ロシュの体のマロクが顔を上げた。
「私の黒魔術研究に纏わる資料は何処に隠してある?」
「何聞いてるんだ。そいつが知ってるわけ……」
マロクは、静かに口を開く。
「王女殿下が使用されている、宝物庫の中です」
ロシュの背筋が凍った。自分が資料を隠した場所を言い当てている。
グレハは今日一番の高笑いをした。
「驚いたかね? 私の忠実な僕は、君の体の記憶を知ることができるのだよ。君には使用人の記憶は分からないようにしてあるが……。これも私の娘の力だ」
言葉を失うロシュ。この後自分がどうなるのかは、容易に想像がついた。
今ロシュが殺されても、ただの使用人が死んだだけとみなされる。そしてロシュがまとめた証拠の資料は、ロシュの体を使うマロクによって処分されてしまうのだ。そしてあろうことか、近衛騎士のロシュはグレハの悪事に加担する者として成り代わられてしまう。
ロシュはここまで、あくまでロシュが独断で調査したことという体を守ってきた。自分に下命した王女の安全を守るためだ。しかしそれも、バレてしまうということになる。
一瞬これ以上ない絶望に襲われるロシュだが、すぐに気を取り直した。どのような状況であろうと、国に、そして王女に仇なす存在を、許すわけにはいかない。
一縷の望みをかけて拘束をほどこうと抵抗したが、多勢に無勢だった。当て身を喰らわされ、ロシュは床に崩れ落ちた。
「さて……」
倒れるロシュを見下し、グレハが口を開く。
「ロシュ、君に命じる。この使用人を綺麗に処分してくれたまえ」
「かしこまりました」
マロクは、深く頭を下げた。
――
頬を撫でる風で、ロシュは目を覚ました。意識がはっきりするのと同時に顔を起こす。周囲には、見慣れない景色が広がっていた。
どこかの廃墟の中だ。使われなくなってからかなり時間が経っているらしい。屋根や壁などは辛うじて姿を保っているが、いつ崩れてもおかしくないといった様子だ。地面には瓦礫や家具の残骸が転がっていた。天井の形や家具の残骸から察するに、教会のような建物の跡らしい。
既に硝子が嵌っていない窓から差し込む陽光は、傾いて紅く染まっていた。気絶させられてから、数時間ほど経っているらしかった。
朽ちかけた扉を開いて、廃墟の外に出る。
廃教会の周辺は、木立に囲まれていた。教会の正面側には一本道が延びている。その一本道の遥か向こう、遠くにある小高い丘の上に、夕日に浮かぶ王宮の影がそびえていた。
王宮が見える位置からして、ロシュは今王宮の遥か東方、恐らく貧民街が広がる場所にいるらしかった。
念のため、体を確認する。背の高さや手の形、服装まで、全てロシュのものとは違った。使用人と精神を入れ替えられたというのは、夢や幻覚ではないらしい。
何故このような場所に放置されているのか、ロシュにはさっぱり理解できなかった。グレハの口ぶりでは、使用人の体になったロシュを殺すつもりだった筈だ。それがどうして、このような辺境の地に放置されていたのだろうか。
そして同時に、希望も感じた。どんな形であれ死を免れたということは、まだグレハの悪事を暴くことができる可能性があるということになる。依然状況が悪いことに変わりはないが、できることをしようと、ロシュは考えた。
とりあえず身につけているものを確認する。自分に有益なものがあるとは思えないが、現状を確認することは重要だ。
服はごく一般的な薄手のもの。最低限必要なもののみで、余計な装飾品なども一切ついていない。
この体の持ち主、使用人マロクは、やはり20代後半位の年齢だと思われた。ロシュよりも背が高いらしく、普段とは地面からの距離感が違うことに違和感がある。
ズボンのポケットの中に手を入れると、妙な感触があった。取り出してみると、折りたたまれた小さな紙片だった。
―教会前の道を西進。酒場デダーファー―
非常に簡単な文章が書かれているだけだ。
何の目的で書かれた文章なのか、皆目見当がつかなかった。しかし、他に拠るべき情報はなにもない。
ロシュは紙片に示された場所へと向かうことに決めた。
教会正面にある道は、そのまま貧民街の露店や古い建物が並ぶ通りに通じていた。
始めは半分廃墟のような建物に、簡素な露店や天幕が並ぶような街並だったのが、西に進むにつれて次第に形を保っている建物が増えていく。貧民街は王都の東端、王宮から最も遠い場所にあるため、西進して王宮に近づくほど、治安や住民の生活がマシになっていくらしい。
王家を守る近衛騎士とはいえ、ロシュは国を守る騎士の一員である。自国の民がこのような環境で生活している光景に、心が痛んだ。
暫く行くと、一軒の酒場の看板が見えてきた。既に周囲に露店は殆どなく、店はきちんとした建物で経営されているものばかりだ。この辺りは貧民街の中でも比較的栄えている場所らしい。
看板には、デダーファーと書かれていた。紙片に書かれていた店に間違いない。
恐る恐る扉を開ける。カラカラという高い音がした。音のしたドア上部には、小さな金属片がいくつか吊り下げられていた。来客を知らせる鈴の代わりらしい。
ロシュのイメージする酒場は、内装や設備が質素で、酒以上のサービスを求める客が一人もいないような、騒がしい空間というものだ。しかしこの酒場は、そういったイメージとはかけ離れている。
入口向かって右側の壁沿いには酒瓶や酒樽が積まれた棚が並び、それに沿うようにカウンター席がいくつかあった。反対側の壁沿いは、奥までテーブル席が並んでいる。内装全体は質素ではあるものの小綺麗な状態で、ランタンや蝋燭による照明は少し薄暗い程度に抑えられている。とても落ち着いた空間だ。
「いらっしゃい」
店内の雰囲気同様、落ち着いた男性の声。
カウンターの中に、店員と思しき男が一人立っていた。声をかけた瞬間こそロシュのほうを向いたものの、すぐに手元の作業に戻った様子。
これからどう店員に声をかけるべきか悩みつつ、とりあえずカウンター席に座るロシュ。
すると店員の男は、再びロシュに目をむけた。
「連れのお客さんなら、先に奥で待ってるよ」
そういって、店の奥のほうを指さした。
「ええと……。わ、私のことをご存じで?」
状況が読めないロシュ。
「とにかく、行けばわかる」
店員はそう一言言ったきり、ロシュへの興味を失ったように作業に戻った。
一先ず、ロシュは店員に言われた通り店の奥に向かった。カウンター、テーブルのどちらにも、他の客がいるようには見えない。
少し見て回ると、店の奥の暗がりに、ひっそりと扉があることに気づいた。試しに開けてみると、地下へと通じる階段がある。
ちらりと店員のほうを見ると、店員は先ほどと同様こちらに一切興味を示していなかった。少なくとも、入ってはいけない場所ではないらしい。
店内よりも更に薄暗い階段を下る。その先には廊下が延びており、一枚の扉があった。扉の隙間からは光が漏れている。中に誰かが居るらしかった。
ゆっくりと、中を覗くように扉を開ける。
中は、広めの部屋になっていた。色々なものが置かれているようだが、ロシュの目にまず飛び込んできたのは、部屋の中央に置かれたソファに腰掛ける男の姿。
ソファのひじ掛けに頬杖をつき、不敵な笑みを浮かべているその男の容姿は、ロシュの姿そのものだった。
「よう、遅かったな。忍ばせた紙に気づかなかったのかと思ったぞ」
男は、ロシュの姿を見てそう声をかける。
「お、お前……マロク……?」
やはり状況がさっぱり分からない。
「とりあえず座れ、何が起きてるのか説明してやるから」
マロクと思しきロシュの姿をした男は、部屋の奥に倒れていた椅子を引っ張りだし、ソファのすぐ傍に置いた。
王宮の物置で見た時は、こんな軽薄そうな雰囲気は微塵も感じられなかった。彼のあまりの変貌ぶりに、ロシュの混乱は一層深まる。先ほど忍ばせた紙と言っていたが、この酒場の場所を示した紙片を忍ばせたのが、彼だったということなのだろうか。そしてなぜ今ロシュの近衛騎士という立場を演じている筈の彼が、こんな酒場の地下にいるのだろうか。
椅子に座れと示されたものの、あまりに奇妙な状況についていけず、ロシュはその場に立ちつくしていた。
マロクらしき男は、その姿を見て呆れたように肩を竦めてみせた。
「ったく、これだから王宮育ちのお坊ちゃんは面倒くせぇ。いいか、一つイイコトを教えてやる。俺がこれからあんたに話すのは、あのクソ大臣の悪事をバラして、監獄送りにする方法だ。もしあんたが大臣の悪事を暴く気があるんなら、そこに座って俺の話を聞いたほうがいいと思うぜ」
「大臣の悪事を暴く……? 何でお前がそんなことを」
「それも知りたきゃさっさと座れ」
つい数刻前、彼がグレハの前に跪いていたのを目の当たりにしたばかりだ。完全に信用するのには無理がある。しかし、この男が何者かは、大臣を打倒し元の体に戻る為にも知っておかねばならないと、ロシュは考えた。
ぎこちない挙動で、男が差し出した椅子に座る。
「よし。じゃあまず改めて名乗るが、俺はマロクという名でもないし、王宮の使用人というのも嘘だ。本名はクロマ。ゴミみてぇな金持ちから金を騙し取る、詐欺師さ」
【メモ】
ロシュ・ベグシナー
とある王国の近衛騎士。
代々近衛を務める家系の長男であり、非凡な武術への才能を持つ。その才能から、齢二十に満たないながらも王女付き近衛騎士長の役職を持つ。
幼少より多くの時間を共に過ごした王女アリスを、密かに恋慕している。