シーとウルトラマン
《序章》
朝、目覚めると階下からかすかにいい匂いがする。国鉄官舎の狭い台所で、母が朝ご飯の用意をしていた。いつものように北側の窓から、薄明どきの朝霧に霞む「森」を眺めると、濃密にしげる樹々が朝陽に乱反射し、光の鍵盤からピアノソナタが奏でられているようだった。
母と向かい合って朝ご飯を食べながら、昨晩の最終回の放送において、ついに闘いに敗れたウルトラマンが、生まれ故郷のM78星雲に帰っていくシーンを思い出していた。まだ小学生だったオレが、まるで喪神した人のように……
レースのカーテンの隙間からのぞく、朝陽に満たされた薄青い空からはすでに星たちの姿は見えるはずもなかったが、それでもオレは、M78星雲を追い求めるように見上げずにはいられなかった。
──化学特捜隊のハヤタ隊員が、小型ビートルで青い球体と赤い球体を追跡中に、赤い球体と衝突したうえに墜落死をしてしまう。ウルトラマン(赤い球体の正体)は、宇宙の墓場へ護送中だった怪獣ベムラー(青い球体の正体)が逃亡したため、地球まで追ってやって来ていた。自分の不注意でハヤタ隊員を死なせてしまったウルトラマンは、罪の意識から自分の命を分け与え地球の平和を守るため戦うことを決意する。こうして、ウルトラマンとハヤタ隊員は一心同体となった。──
《第1章》
夏風に穏やかに靡く稲穂が陽光に眩く輝き、ウミガメが産卵で流す涙のような澄み切った空が広がっていた。朝の清涼な風を頬に感じながら、オレと幼なじみのカナエは、松林が続く農道を浜辺へと自転車を漕ぎつづけた。しかも、近隣ではなく北へ数キロ離れた「サンライズビーチ」と呼ばれていた浜辺まで……
とても夏の太陽が烈しい日だった。「サンライズビーチ」は、村の田んぼに水を供給し川のように幅の広い「大排水」の河口にもなっており、隣接する松林には小さな別荘地もあった。しかし、このあたりの海は波が荒く遊泳禁止になっていたため、夏でも訪れる人は多くなかった。
海は蒼く澄んで広大だった。人類の叡智をも無にしてしまうほど深淵だろう。ほんの僅か湾曲した水平線まで海原が眩く揺れ動き、白い飛沫を上げた波が終わることなく海辺に押し寄せていた。
──大きいなー
浜辺にはさまざまなものが流れ着き、とくに白いものと黒いものが目立つ。白いものの大半は発泡スチロールの塊で、黒いものの多くはプラスチック製のブイだった。ハングル文字の瓶やロープ、網も多い。
オレとカナエは、とくに面白そうなものを見つけては比べ合ったり、よく白っぽい大きな巻貝の殻を耳に当ててみた。ボーっと音がする。それは風の音のようでもあり、深海の水の流れの秘密の音のようでもあった。
少し離れた砂浜の中頃に、大きな燻んだ色の塊が砂をかぶっていた。近づくと大きなウミガメの死骸だった。甲羅の縁が破損したくさんの傷がついている。ウミガメはよく「泣いている」といわれるが、それは眼球の背後に肥大化した涙腺があり、これにより体内に取り込んだ余分な塩分を濾過し、常に体外に放出することで体内の塩分濃度を調節しているからだ。
この時の、砂をかぶったまま動かないウミガメの閉じられた瞳にも涙痕があった。
──かなしそう
カナエは、そう静かに呟いた。
それから、「大排水」河口の穏やかな浅瀬で、デニムの半ズボンのオレとピンクのミニスカートのカナエは、膝上まで水に浸かって遊んだ。オレが石ころに躓いて転んでしまい全身びしょ濡れになると、
──ユウちゃん、ドジだなー
と、お下げ髪のカナエは楽しそうに眩く笑った。何でもオレの真似をしたがるカナエは、この時もすぐにおどけてよろける振りをしながら、そのまま躊躇なく水面に倒れ込んだ。小さな花弁のような飛沫があがった。
──冷たくて気持ちいい
頭から全身ずぶ濡れになったカナエの華奢な身体の腕や脚から、いくつもの真珠のような水滴が滴り落ち、わずかに膨らみはじめた胸に白いTシャツが張りついた。
眩しかった。
カナエの笑顔は、夏の烈しい日差しを浴びて眩い美しさだった。しかもそれは、向日葵のような明るい眩しさというよりも、まるで白い月下美人のような儚い清冽な眩しさだった。
そしてその10日後、カナエはまるで朝陽が昇る前に萎んでしまう白い月下美人のように、田園を流れる「大排水」に落ちて死んでしまった。ひとりでふざけたりけっしてしないはずなのに……
カナエが常に携帯していた白い仔猫のぬいぐるみが、「大排水」の水面に浮かんでいたため、すぐに父親が飛び込むと水底にカナエが沈んでいた。父親は狂ったように嗚咽したが、カナエがウミガメと同じ涙を流したのかはわからなかった。
激しく蝉が鳴く杉林に囲まれたお寺で、カナエの葬儀が終わると、オレはすぐに着替えて「サンライズビーチ」へと自転車を漕ぎ出した。いくぶん陽射しが弱くなった晩夏の太陽がやや傾きはじめ、潮の香りが漂っていた。
最後にカナエと「サンライズビーチ」の砂浜で見つけた燻んだ色の大きなウミガメの死骸を、もう一度確かめたいと思った。あのウミガメの涙の跡こそが、カナエの涙のような気がしたから……
しかし白い波が止むことなく打ちよせる砂浜で、10日前に発見した燻んだ色の大きなウミガメを、もうどこにも見つけることはできなかった。落胆したオレは、ウミガメの死骸を見つけた辺りの砂浜に体育座りをしまま、ほんの僅か湾曲した水平線をぼんやりと眺めつづけた。カナエが肌身離さず携えていた白い仔猫のぬいぐるみを、震える手に握りしめながら……
《第2章》
ウミガメが産卵で流す涙のような澄み切った空と、陽光に眩く揺れ動く海原を前にしてようやくオレは、すっかり忘れていたカナエの言葉を思い出した。カナエの清冽で美しい顔が、喜びに満ちあふれていたそのときの印象的な表情とともに……
──ユウちゃん!
この白い仔猫のぬいぐるみを見て思い出さない?
ほら、前にふたりで「ひょっこりひょうたん島」で遊んでいた時に、「大排水」に溺れた白い仔猫が浮かんでいるのを見つけたでしょう。ほんとうにかわいそうだった。
ワタシこのぬいぐるみをはじめて見た瞬間、あの時の白い仔猫だと思ったのよ! だからすぐにパパに頼んで買ってもらったの。
あの時は、仔猫を助けてあげられなくてとてもかなしかったから。もうワタシは、この白い仔猫とずっと一緒にいるつもりよ!
──「ひょっこりひょうたん島」とは、村を流れる「大排水」が、西に向かって二手に分かれる間にある島のように見える陸地のことで、同名のNHKの人形劇の島と似ていることからそう呼ばれていた──
《第3章》
その晩、父が腎臓を患って長期入院していたため母がひとりで床につくと、オレはそっと布団から抜け出し国鉄官舎の裏にある濃密に樹々がしげる「森」へ向かった。青銅色の夜空には白い凛とした満月が浮かび、樹々の樹冠を平かな峰とする小さな山脈のような「森」を照らしていた。雑草に覆われたケモノ道を、懐中電灯の明かりを頼りに「森」の中心へと向かって歩いた。すぐに懐中電灯の明かりに小さな虫が群がり、どこかで野鳥が啼いていた。
「森」の中心を流れる幅の狭い小川 ──まさに清流を思わせる── まで来ると、懐中電灯をショルダーバックにしまいシューズと靴下を脱いで小川に入った。水深が膝下までしかないため、オレはそのまましゃがみ込み、「森」の中心の樹々の、少し大きな丸い空間から漏れる月明かりにはっきりと照らされた水面をのぞき込んだ。
流れのない水面に、オレの顔がほのかに映った。それからオレは樹冠の丸い空間を見上げて、カナエの形見である白い仔猫のぬいぐるみを右手で宙空に突きあげた。しばらくはそのままの格好で、樹冠の丸い空間の向こう側にある月明かりに薄められた青銅色の夜空=宇宙を、じっと見つめつづけた。
いちど命を失ったウルトラマンが生き返り故郷であるM78星雲に帰ったように、右手で宙空にかざした白い仔猫のぬいぐるみに命が与えられ、カナエが生き返ることを懸命に祈りながら……
当然ながら、白い仔猫のぬいぐるみが呼吸をし命を与えられることはなかった。オレは声をあげて泣きながら、ふたたびしゃがみ込んで涙を拭った。月明かりに照らされた水面にほのかに映ったオレの顔は、ひどく歪んでいた。
ふと、そのひどく歪んだ顔の色が、じょじょに変わりはじめているのに気がづいた。やがて月明かりに照らされた水面に映ったオレの顔は、なんとほのかな銀色に変わっていた。まるでウルトラマンのように……
《終章》
オレと愛犬シーズーのシーは、早朝の散歩の途中で、国道4号線沿いにあるラーメンチェーン店の待機用ベンチに腰かけてひと休みをする。先ほどより、東の空がパステル画のような不思議な色に染まりはじめていた。スカイブルーのショルダーバックのなかのiPhoneからは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れている。
ラフマニノフが、うつ病から何とか立ち直って作曲したというピアノ協奏曲第2番。とくに精神が解放された歓びを謳い上げる最終盤の第3楽章において、以前よりオレは宇宙の鐘の音が響いているように感じていた。
小学校の頃、オレは「森」の中央の、幅の狭い小川ではじめて神の存在を感じたような気がした。そのとき感じた感覚を恥ずかしくもそのまま伝えれば、ウルトラマン=イエス(神)という公式だったと記憶しているが……
いまオレはスカイブルーのショルダーバッグから、朝陽に白とゴールドの体毛が眩く輝く、もうひとりの神の子、シーのオヤツを取り出そうとして、小さなぬいぐるみを地面に落としてしまった。そうカナエの形見の、もうすっかり古びてしまった白い仔猫のぬいぐるみを……
そして最後に朝陽に向かって誓いたい。いつの日にかオレはもう一度、青銅色の夜空に煌めく星たちに向かって、カナエの形見であるこの古びた白い仔猫のぬいぐるみを右手で宙空に突きあげることを。白とコールドの体毛の、シーの顔がまさにほのかな銀色に変わるだろうと確信しながら……