待ち人は……
5分が過ぎた。あいつは戻ってこない。何かあったのだろうか? それともシャッターを壊す適当な棒が見つからないのだろうか? 人を待つ時間は長く感じる。
私は待ちきれなくて、シャッターを蹴り始めた。意外といけるかもと思ったが、すぐに足が痛くなる。
その時、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえてきた。薄暗くて誰か見えないが、金井に決まっている。
「ちょっと金井、遅いじゃない!」
怖さをごまかすために、ついつい声がとがってしまう。しかし、薄闇から現れたのは女性で……。
「あら、あなた?」
その女性が声をかけてくる。
「え……」
私はビクッとした。金井以外の人がいるとは思わなかったのだ。幽霊? まさかね。
「あなた、確か佐藤さんって言ったわよね?」
私の名前を知っている。どこかで見たことがある顔、記憶にかちりと触れる。幽霊ではなく生身の人間だ。
「誰?」
「ほら、こないだ。うちの事務所に来て逃げ出した子でしょ? 私、山田よ。忘れちゃった。私の方では随分印象にのこっているけど」
それで思い出した。アーバン・クラフトの山田とかいう女性事務員。なぜ、彼女が? 物凄い偶然だ。
山田はゆっくりと階段をのぼり、里紗に近づいてくる。
「やだ。ちょっと私のこと怖がってる?」
「ここで、何をしているんですか?」
すると女が踊り場で立ち止まる。彼女は右手に鉄の棒を持っていた。
「何をってあなたもあの終電に乗っていたんでしょ」
「はい。ってことは山田さんも?」
「そうよ。ここまで皆で移動して来たんだけれど。はぐれてしまって」
「はぐれた? はぐれたって何人いたんですか?」
「運転手に、同僚の布田よ」
「布田さんって、そうだ。あの時のスカウトマン?」
山田の顔がふと歪む。
「ええ、そうよ」
当時、私は二階のトイレの窓から逃げ出した。山田が私の顔を覚えている。まずい状況だ。彼らとここで鉢合わせする前にここから出なくちゃ。
山田が、鉄の棒を持って、ゆっくりと上がって来る。それでシャッターを壊すつもりなのだろう。
アーバン・クラフトの実態はモデル事務所などではない。男性に好みの女の子を見繕って紹介し、ホテルや自宅に出向かせる。場合によっては客の意向に沿って撮影にも応じる。そういう事務所だ。
あの時、今の事務所に不満でいっぱいだったから、甘い言葉にあっさり騙された。あのまま契約していたら、今頃……。
それにしてもよく覚えている。あれは「この間」ではなく二年も前の話だ。随分と執念深い。
「あの後ね。大変だったのよ」
「え……」
「あなたが逃げた後よ。私が、あんたのこと逃がしたんじゃないかって、疑われてね。ひどい目にあわされた」
山田の顔は笑っているのに、その声には恨みがこもる。
「だって、そりゃ逃げるよ。あの事務所、違法な事ばかりしてたんでしょ? あなただってその仲間じゃない! 私は騙された被害者よ」
申し訳ない気もするが、ここで謝ったら負けだ。私は強気にでる。
「私だって、好きで仲間になったんじゃないわよ! あいつらに騙されたんだよ」
山田が、怒りの形相で怒鳴り返してきた。
「そんなこと言われたって、私のせいじゃないじゃない」
「あんたも、あの時あいつらの餌食になりゃよかったのに。なによ、涼しい顔して一人逃げ出して。何なのよ!」
いきなり、鉄の棒を投げつけてきた。とっさによけると、大きな音を立てて棒が転がる。女はそれをさっと拾い上げた。
「え、ちょっと、あんた何すんのよ!」
私は叫んだ。当たっていればケガをしていただろう。
「若くて、綺麗でいいわね。それもこれもあの時、逃げ出せたからじゃない。私のお陰じゃない!」
「え? ちょっと何言ってるのか意味が分からない」
そこで、山田がおかしい事に気付く。目の光が異常だ。私はあとじさる。なんなのこの女。
私に絡まれて、かつての友人ヒナも、こんな恐怖を味わったのかもしれない。それを思うと心がちくりと痛む。これは因果応報なの?
それと同時に撮影現場で言われた言葉を思い出す。
「人は思わぬところで恨みをかっている」確かにそのとおりだった。
しかし、そんなことより、金井はいったい何をしているのだろう。遅すぎる。私は女の後ろを見やった。
「ああ、一緒にいた男なら、来ないわよ」
「え?」
「後ろから、これで殴っといたから」
そう言うと女は鉄の棒を掲げ、近づいてくる。次は私に向かって振り下ろすつもりだ。
「そんなことをすれば、あんた警察に捕まるよ」
これくらいで私は怯まない。背を向けて逃げ出したら、相手の思うつぼだ。修羅場ならいくつかくぐり抜けている。まあ、すべて自分が招いたものだから、威張れないけれど……。
「ふふふ、ばっかじゃないの? 今更、警察なんて怖くないよ」
女が耳障りな声で笑う。
「そんな事より、金井はどうしたの? あいつ生きてるの?」
「さあ、殴ったのは一回だけど、動かなくなっちゃったらから、死んでるかも」
怒りで我を忘れた。
「冗談じゃないわよ。あいつは関係ないでしょ? なんで傷つけるよ」
私は彼の安否を確かめるために階段を下りようとした。
「ちょっと待ちなさいよ」
女に腕を掴まれた。驚くほど力が強い。腕が握りつぶされそうだ。
「放しなさいよ!」
金井が気になるので振りほどこうとした。すると女が鉄の棒を振るった。私は階段を数段転げ落ちる。視界がぐるぐるとまわり、一瞬意識が遠のいた。気絶したら殺される。気力を振り絞り意識を保つ。
「ほんと、あんたみたいな要領がいい奴ってむかつく」
ゆっくりと私の目の前に来た女が、棒を振り上げる。万事休す。しかし、女の姿がふと掻き消えた。少し身を起こして確認する。突き飛ばされたのだ。
「ひっ、女性を突き飛ばしちゃったよ。ばあちゃんに怒られる」
そこにいたのは、慌てる金井。
「……よかった、生きてたんだ」
「良くないよ。いきなり後ろから、殴られて」
金井が、私に手を貸し助け起こす。今度ばかりは彼の手に縋る。頭がくらくらした。
「ごめん、こいつ、私のこと恨んでる。あんたを巻き込んじゃったみたい」
そのときドンと大きな爆発音が響いた。
「えっ!今度は何?」
「急ぐよ。下で火が出たんだ」
「え? どうして火なんか出たの?」
「知らないよ。とりあえず逃げよう」
金井はそう言って私を引っ張り上げるように立たせると、転がっている鉄の棒を手に取った。