72話 …え?………様?
ミューレィは馬を全速力で走らせていた、障害物の多い森の中でこれだけ早く走らせる事で出来る騎手はディアレスドゥア公国内でも数えきれる程しか居ないと云われている、ギルバレア伯爵領は公国の北部に位置し、広大な自然に囲まれている為、貴族だけで無く其の領地内に済む民の半数以上が乗馬を得意としていた、特にミューレィは貴族の嗜みとして小さい頃から乗馬を習っていた為、練習する機会が他の領地の貴族達より多かった事が彼女の馬術を底上げしたのだと云えるだろう。
今も尚、落下し続けている人影を見失わないように走るミューレィ。
人影は段々近付いてきており姿形がハッキリと見えていた、どうやら落下しているのは女性のようである、しかし走る速度と落ちる速度では雲泥の差がある事は明白であり女性が地面に叩き付けられるのは時間の問題であった。
…っ!間に合わないッ!其れに見える限りではパラシュートも背負っていない様ですし。
女性の命は助けられないのだろうか?そんな疑問が脳裏を過ぎった時。
ピシィィッ!バキバキバキッ!
と云う音が発せられたと同時に巨大な氷の塊が発生した。
「え!?」
北部は年中気温が低く、雪がよく積もったりするが、瞳に映った氷の塊はどう考えても自然に発生したものでは無かった。
少しして、漸く氷の塊の元へ辿り着くと、其処にはミューレィと同い年位の黒い髪の少女が氷の上に座り込んで腰を摩っていた。
「いっ、たたた。」
嘘!?パラシュートも無くあんな高い所から落ちて来たと云うのに大した怪我もしているようには見えない、氷で衝撃を防いだと云うの?有り得ない、子氷は硬いものだし、場所よっては尖っていて寧ろ余計に怪我をしてしまうイメージがあるのに…?
「あ…あの、大丈夫ですか?」
今は考えている暇は無いと思い、少女に声を掛けるミューレィ。
「…?えっと、ごめんなさい、何を言っているか解んないです。」
しかし少女から返って来た言葉はディアレスドゥアの言葉とは違っていた。
リースロート語?クトリヤ国の人では無いの?…いえ、クトリヤ国はリースロート王国の傘下国、ならリースロート語を使用していても不思議では無いですね?其れに、見た事も無い篭手を身につけていらっしゃる。
ミューレィは恐る恐る、リースロート語で少女に話し掛ける。
「あ、あの、私はミューレィ=ギルバレア=ナーディアルと申します、貴女は…クトリヤ国から来られたのですか?」
「!?えっと、態々解る言葉で話してくれて有り難う御座います、私はメルラーナ=ユースファスト=ファネルと言います、気に掛けてくれて有り難う、あ、お礼言うの2回目でしたね、クトリヤ国から来た事は確かですけど、出身はトムスラル国でリースロート王国へ向かう途中なんです、でも飛行艇にまだ2人残っているんです、早く行かないと。」
「え!?大変ではありませんか!?」
メルラーナと名乗った少女は誰にでも解る程、とても急いでいる、仲間があの船に乗っているなら当然と云えば当然である、しかし「大変。」と言葉を綴ったにも関わらず、ミューレィは一瞬ではあったがメルラーナの容姿に見惚れてしまってした、ミューレィ自身はそうは思っていなかったが、周りでは美少女である事が噂となっていた、社交界でもパーティーに何度か訪れた事があったが、行く先々でチヤホヤされる事が多々あった、毎日鏡で自身を見つめる本人からすれば理解に苦しむ事柄ではあったのだが、今正に眼の前に居る少女は、美しかった、自身の美しさ等比べものにならないと思ってしまう程に。
「…あの?」
見惚れてしまい我を忘れてしまっていた。
「ハッ!?ご!御免なさい!飛行艇でしたね、それならば此処に辿り着く前に向こうの方角で墜落音が聞こえました。」
残念そうにそう説明すると。
「有り難う!」
メルラーナは其れだけを言い残して此の場を去ろうとしたのだ。
「お、お待ち下さい!走って行かれるのですか!?」
ミューレィに呼び止められて足を止め、振り返る。
「え?どうして?」
何を当たり前の事を聞いているんだ?と言わんばかりの答えが返って来た。
「え?ど…どうしてと聞かれましても…、そ、その、困ります。」
御嬢様育ちのミューレィには町中で舗装された道なら兎も角、足場の悪い此の森の中の、其れも正確な場所の解らない目的地まで自分の足で走って向かう等、微塵も想像した事が無かった。
「あ、…あの、…馬、私の馬、使いますか?」
「え?ううん、有り難いけど、私馬乗れないから。」
「え?」
…え?…嘘?此の方は、貴族では無いと云うの?立派な御家名が有ると云うのに?
乗馬は貴族の嗜みである、其れが常識であると思っていた、故にメルラーナが貴族では無いと云う疑問が生まれる。
何より『ユースファスト』と云う家名に聞き覚えがあった。
「其れに、乗れたとしても貴女の馬でしょう?」
「…あ。」
至極当然、当たり前の事を言われて目が覚める。
そうだ、此の方は当たり前の事を当たり前に答えていらっしゃるだけなのだ。
「で、では私の後ろにお乗り下さい。」
何故か放ってはおけなかった、何より彼女が何者なのかを知りたかった。
「え?いいんですか?…有り難う、じゃあお言葉に甘えて。」
ミューレィは困惑していた、今自身の背中に居る少女に対して。
初対面の筈なのに…、何処かでお会いした事がある様な気がするのはなぜでしょうか?其れなのに何故か…、私は此の方を無事にリースロート王国へ送り届けなければならない様な気がしています。
其れは只の直感で感じた事であった、其れが何に対して感じた事なのかは解らなかったが、今は彼女を無事に飛行艇の墜落地に連れて行く事に集中する。
「…メルラーナ様、メルラーナ様は何故リースロートへ向かっているのですか?」
突発的に質問をしてしまった、ミューレィの頭の中で先程感じたリースロートへ連れて行かなければならないと思ったのか、其の理由が知りたくて出てしまった質問なのだが、其れは残念乍ら的を射ていなかった。
「…え?………様?」
メルラーナは質問の内容よりも様付けで呼ばれた事に戸惑ってしまった。
「え…さま?ですか?」
どういう意味か解らない上に、メルラーナの態度に何かおかしな事でも聞いてしまったのだろうか?と一瞬思ったが。
「あ、いや、あの、そうじゃなくてですね…、ミューレィさん?その、様付けで呼ぶのは恥ずかしいんですけど…。」
予想していた事に対する答えが明後日の方角から飛んできた、何より何の事を言っているのか理解するまで、少しの間が開いてしまった。
「え?恥ずかしいのですか?申し訳ありません、どなたであろうと敬称を付ける様に育てられ方をしてきたものですから、外してお呼びするのは気が引けると申しますか…。」
と、素直に自分の意見を述べると。
「はあ、じゃあそのままでいいです、リースロートに行く理由でしたね、うーん。」
旅の途中で色々と真実を知った事でどの情報を開示しても問題無いかで少し悩む。
「えっとですね、お父さんにリースロートに住んでいるある人に会う様に言われて、かな?」
今まで経験した事を全て端折って父親に言われた事を略其のまま答える。
「…え?お父様にですか?それが何故こんな遠い所まで来られたんですか?其れも何か事件に巻き込まれている様にお見受けされるのですが…?」
「ああ、まあ、そうですよね…、巻き込まれている様に見えますよね?何をどうしたらこんな事になったのか、私にもさっぱりなんですよ、何なんでしょうね…ホント。」
メルラーナ様が私の背中で何か遠い眼をしている様な気がする、先程までの私の様な…。
自分の置かれた状況とは似て非なるものなのだが物凄い親近感が湧き上がっていたミューレィであった。
メルラーナ様のお父様…ですか、…あら?メルラーナ様のお名前はメルラーナ=ユースファスト=ファネル様でしたよね?ユースファスト様、…ユース…ファスト?………え?ユースファスト様?…まさか、メルラーナ様のお父様って。
「…あ、あの、メルラーナ様、質問ばかりで申し訳ないのですが。」
もう大分、飛行艇の墜落したであろう場所に到着すると思われるのだが、聞いておきたかったのだ。
「はい、なんでしょう?」
「メルラーナ様のお父様なのですが、ひょっとしてジルラード様とおっしゃいませんか?」
「え!?ど!どうして!?」
メルラーナの反応を見て疑問が確信に変わる。
ああ、初対面の筈なのに何処かでお会いした事がある様な気がしたのはそう云う事でしたか、なら尚更メルラーナ様をリースロート王国へ送りと届けて差し上げなければ。
「ミューレィさんは…お父さんの事を知っているんですか?」
父親の名前を出されて少し混乱したものの、此処に来るまでは誰も気が付いた人が居なかったのに何故此の人は気付いたのだろうか?そう思って尋ねてみる。
「勿論です、英雄、五大英霊として有名な御方ではありますけれど、5年前にお会いした事があります、其の時にメルラーナ様のお写真を拝見させて頂きました、凄く自慢されておりましたよ?私も凄く可愛らしい御方だと思っていました。」
真後ろにピッタリとくっついているのでメルラーナからは背中しか見えないが、微笑んでいる様な気がした。
うあああっ!?あの親父ぃっ!何してくれてるんだぁぁぁっ!!
顔を真っ赤にして頭を抱えていた。
大陸中で私の小さい頃の写真を見せて回っているんじゃないだろうな!?
メルラーナが頭を抱えている間に、近くで馬の蹄が地面を蹴る音と、何を言っているのか聞こえないが誰かが言い争っている様に聞こえた。