考察9
考察9 この社会について
僕はあえて”世界”という言葉を使わない。世界について語るとはあまりにも傲慢だ。人が世界について語るとき、少なくともこの僕はその世界には含まれていないと感じる。ところで、現にこの世界を生きている人間を含まないように世界について語ることができるとすれば、それはちょうどただ一つしかない世界が二つあると言っているのと同じだ。ならばあくまで社会という言葉を使うのが賢明と言うべきだろう。ただ、僕は世界という言葉を決して使ってはならないとは思わない。世界という言葉は、地球上に生まれた人間を最も普遍的に、包括的に説明しうる言葉として大きな価値がある。多様性ということが謳われるこの現代にあって、あらゆる人間を抽象化しつつ、なおも個々のすべてについて語られているような言説が誕生したならば、まさに大事件としか言う外ないだろう。とにかく僕は、誰かが世界と言うとき、それはあなただけの、条件的にしか成り立たない世界なのだと思うようにしている。
だがその一方で、僕は初めに述べた”社会”という言葉をも注意して用いようと思っている。社会というこの言葉は、所詮”society”という言葉の訳語に過ぎない。いま我々が持っているような”社会”の概念を明治までの日本人は持っていなかったのだ。そのうえ、僕はどうも年端もいかないこの言葉に、現代のこの国とそぐわない”市民社会”の意味合いを読み取ってしまう。個々の果たす役割やその目的が全体の持つそれらに適合しているような有機的な集合の生活空間――――僕はそのように市民社会をイメージするのだが――――そのようなものをいまのこの国は持ち合わせているだろうか。いわば、社会という言葉を用いるとき、人は気付かぬうちに一つの理念について語っているのだ。この国を見渡すだけでも、この社会はその表層だけでなく深層に至るまで異なっていると僕は感じる。社会について語ろうとするだけでも、それなりの妥当性を持つ抽象化を行わなければならないのだ。
しかしながら、僕はここ数年の間に起こった生活様式上の変化を見て、遂にこの国の社会に対し語りうる何かを見つけたように思う。というのも、インターネットの登場がSNS、つまりソーシャル・ネットワーク・サービスの隆盛へと至ったことで、それぞれの社会が実質的な意味においても大都会である東京に紐づけられた様相を呈するようになったからである。もちろん、それぞれの社会はその深層においてまだまだ異なっている。しかし、各社会はただ一つの表層を共有して持つようになったのではないだろうか。いや、正確にはある一つの表層が、すべての社会を覆うべく新しく持ち上がったのだ。そしてこの表層は、裁ち切るにはあまりに薄いものの、それがゆえにまた人々を惑わし、支配し続けているのだ。
僕はいつかこの表層を、いまでは分厚くなりつつある社会の側面を裁ち切り、打ち破りたいと思っている。