それでも、コーヒーを
「信じらんない、アタシとは遊びだったのね」
女性の甲高い声が、室内に響き渡る。
年のころは二十の半ば頃だろうか。
一組の男女が向かい合って座っている。
いや、「座っていた」というのが正しいだろう。
たった今、声の主である女性が勢い良く立ち上がったからだ。
「もう知らない。アタシ帰る」
そう言って出ていく女性を相方の男性は一言も声を発さないまま目線で追っていた。
「ふぅ」
女性が出ていき、沈黙が幕を開けるまで、どれくらいの時間がかかっただろうか。
ため息を吐いた男性は、おもむろに懐から安っぽいライターを取り出すと、カチッカチッと音をさせ、口にくわえた煙草に火をつけた。
ゆっくりと、灰色がかった煙が天井に向かい上っていく。
幸いにして、今は店内の客は彼一人だけだった。
「何が悪かったんだろうな」
沈黙が支配する店内で、そう一人ごちる。
ゆっくり煙をくゆらせる彼を邪魔するものなど、今や一人もいなかった。
「別れよう」
そう切り出したのは彼の方だった。
理由は、一言では言い表せない。
相性は悪くなかった。
間違いなくそれは言える。
「本気だったさ」
誰に言うでもなく、そう口にする。
そう、本気だったのだ。
今までで、一番に。
“出会いがあれば別れがある”
陳腐な言葉だが、まさか自分がここまでそれに見合う存在に成り下がるとは思ってもみなかった。
一口、二口。
ゆっくりと灰の中を煙で満たし、それを吐き出す。
ふと外を見れば、来た時よりもずいぶんと影が長く伸びていた。
「どうぞ、サービスです」
しばらく外を眺めていた自分に、静かに声がかかる。
五十を超えた年配の店員だ。
他にスタッフがいないところをみるに、一人でここを切り盛りしているのかもしれない。
目の前には、一杯のコーヒー。
差し出されたものを断るのもなんなので、ありがたく口をつけることにした。
「苦い、な」
ブラックコーヒーに何を言っているんだという話だが、差し出されたコーヒーは、ひどく……苦かった。
視線は道行く人々の間を縫い、雑踏をかき分けながら、自分を自分と認知しない人の群れの中へ、少しずつ潜っていく。
彼らはきっと、明日も今日と変わらない明日を過ごしていくのだと思う。
自分もまた、そのうちそんな彼らと同じ存在になっていくことだろう。
だが、今はいいさ。
ゆっくりと、コーヒーの苦みを噛みしめる。
「ああ、ほんとうに苦い」
そう言いながらも、今はこの苦さがずいぶんと嫌でなかった。
しばらくして、彼は小銭を机に置き、店内を後にした。