桜が咲く頃に
あたりはまだ少し暗い。
川浦有斗は、ウォーキングにしては少し早いスピードで、全くと言っていいほど車が通らない車道を歩いていた。
特にこのスピードに意味はないが、年々出てきている腹を少しでも引き締めようと思ってのことだ。
天気予報によると、今日はそこそこ暑い日になるらしい。薄い雲に隠れた太陽の光が、川浦に突き刺さる。
「しかし..........」
川浦は小さく呟いて、額の汗をタオルで拭きとった。
歩きはじめてから10分とたっていないが、足はギシギシと痛むし、滝のように流れる汗は止まる気配を見せない。
走ることに限らず、普段からやっていないことをやると無駄に体力を使うものだ。
「喉乾いた........あれ?さ、財布は...?」
ポケットを探すが、家を出たとき確かにポケットに入れた財布が、ない。
肌に触れる服の感触は、川浦の持ち物に財布がない事を告げていた。
「ま、まずいな.........」
喉の渇きは限界に近づいている。いや、すでにもう限界を突破しているかもしれない。
川浦は目の前の自動販売機をチラリと睨むと、大きなため息をついた。
どうやら家に帰るしかなさそうだ。
帰りのコースはここに来るまでのコースとは違い、どちらかといえば近道だといえる。
桜の木が立ち並び、それらの前に設置されているフェンスに沿って歩いていくと、家の近所にたどり着くのだ。
そんな中、ほんの一分ほどの出来事だった。
雲に隠れていた太陽が顔をだし、あたりが一気に明るくなる。
川浦はもちろん、歩くことのみに集中していたのだが、ふと顔をあげるとフェンスの向こう側に太陽の光に反射する「何か」があった。
フェンスに近づいてみる。
目を凝らして見てみると、どうやら500円玉のようだ。
「ど......どうする......?」
自分に言い聞かせるようにして川浦はカラカラの口で呟いた。
喉は相変わらず乾いていて、全身が水分を求めている。独り言を言うのも辛いほどだ。そんな状況での500円玉。運命と言っても過言ではない。
しかしそれを拾って、飲み物を買うというのは、盗みに等しい。
困り果てた川浦はスマートフォンを取り出して「ネコババ 犯罪」と検索をかける。
「ダメだよな、そりゃ.....」
川浦はいくつかの検索結果を見て、肩を落とした。ネコババは「遺失物横領罪」という立派な犯罪である。
だとしても落ちているお金を放置しておくわけにもいかない。警察に届けるのは市民の義務である。
とりあえず川浦はしゃがみこんで500円玉を拾おうと試みた。
しかし当然のことながらフェンスの針金で複数作られている穴は、川浦の手首よりはるかに狭い。
「いててて......」
無理やり押し込むが、骨が邪魔をしてうまく掴むことができない。
一分ほどの格闘の末、手に針金の跡がくっきりと残ったところで川浦は諦めることにした。喉の渇きのせいか、体に力が入らない。
「はぁ〜......」
膝に手をついて立ち上がり、目の前の桜に目を向けると、川浦はある違和感を覚えた。
桜の木の緑色の中に薄いピンク色が混じっていたからだ。
いわゆる桜花というのだろうか。
しかし、本来、桜というのはたくさんの桜の花がいっせいに咲いているものである。それを見てはじめて「美しい」というものである。
たった一つで咲いているというのもおかしな話だが、違和感の正体は季節にあった。
今は、もう春を通り過ぎた五月である。
「綺麗だよね〜。こんなに暑いのに咲いてるって珍しいし。咲き遅れちゃったのかな?」
「ひゃっ」
気配を消し、いきなり低い声で話しかけてきた声の主は川浦の地声とは対照的な高い声に大笑いしたのち、改めて川浦の前に立った。
「すごい驚いてんじゃん!驚かしがいあるわ〜。まあ、いきなり話しかけたことには謝る。すんません」
全く謝る気のないその男を見て、川浦は恐らく今日一番驚いた。
年は中年そこら。高身長で真っ黒に日焼けした肌にサングラスをかけ、シャツ、パンツ、靴下、靴、ボディーバックまでもがピンク色で染まっている。
話しかけた相手が女子小学生あたりであれば、普通に通報されるレベルの怪しさMAX男だ。近づかれたら何されるか分かったもんではない。
川浦は男からジリジリと距離をあける。
「そんなに離れないで〜。あ、俺ね。近所の子供にはピンクおじさんって呼ばれてるの。にいちゃんもそう呼んで!」
距離をあける川浦に気がついた男は慌てて言うが、怪しさは増すばかりである。ピンクおじさんとは一体なんなのだ。
そんなピンクおじさんはふと気がついたように川浦に方に歩きはじめた。
「わわ.....」
川浦は両手を前に突き出して体を守るような体勢を取るが、川浦と衝突するギリギリのところで方向を変え、近くの自動販売機で麦茶といちごみるくを買う。
この行動に意味をつけるとしたら、高確率で川浦をからかっているのだろう。
「ん」
「え....あ、ありがとうございます」
差し出された麦茶を川浦はありがたくいただき、一気に飲みほした。水分を求めていた体が満たされていくのを感じる。
「......喉乾いてるってよく分かりましたね.....」
「今にも死にそうだったしな」
ストローを「ちゅー」と言わせながら、どんどんといちごみるくを飲んでいく。
「.....つけてたんですか?」
「......たまたまにいちゃんが前にいただけだ....」
飲み終えた空のパックを優雅にバックにしまうと、ピンクおじさんはフェンスに肘をついてもたれかかり、川浦を手招いた。
麦茶を奢ってもらった手前、逆らうわけにもいかない。
川浦もピンクおじさんの隣に並んだ。
太陽を隠していた雲は、少しずつ太陽から離れていき、涼しい風が通り過ぎる。
ピンクおじさんは持っていたカメラで写真を数枚とると、顔をあげ、川浦に問いかけた。
「なあにいちゃん。この桜の花ってさ、どうして咲き遅れたんだろうな?」
急な質問にドギマギしながら、川浦はなんとか返事を返す。
「ええ......哲学ですか?考えたこともないですよ.....」
「ん〜。俺は単純なことだけど、この桜の花が、一番美しく咲けるタイミングが今だったってだけなんだと思う」
ピンクおじさんは足をブラブラとさせながら続ける。
「季節とか、時期とか、それは基準にしか過ぎなくて、桜だって美しく咲きたいだろ」
桜には、美しさに隠された力強さが感じられる。独特な暗い色の太い幹、その色とは対照なピンク色が映えるからだろうか。
「あの太い幹も合わせて桜って言うのは聞いたことありますが、桜の花一つ一つも桜なんだなって気がつかされますね......」
「そうだなっ!ところで.....お腹が空かないか?なんか買ってお花見しようぜ〜」
この小さな桜で花見をするというのだから、目的は「花よりだんご」なのだろう。
「え.....でも自分、財布をどこかで落としてしまって.....」
「あー....それなら俺がもってるぞ」
「え.........ええええ!!!???」
衝撃である。全くこの男は何を考えているのだ。
「え!ええ?どういうことですか?」
「いやぁ、財布をにいちゃんが落とすところを見て、届けようと思ったんだけどな。それで声をかけたはいいが、にいちゃんはまたどうせ落とすだろうと思って、俺が預かっておくことにしたわけよ」
ピンクおじさんの適当な説明を充分に理解できてない川浦に強引に財布を渡すと、ピンクおじさんは川浦の服を掴んで近くのコンビニに押し入る。
「にいちゃーん!どれにするよ?これとか美味しそうだな〜」
コンビニに入ったピンクおじさんのはしゃぎようは普通に営業妨害であったが、本人は気にしていないようだ。
「自分は、あんまり買いませんよ。給料日前なんです」
「つまんないの〜」
口を尖らせるピンクおじさんを見て呆れつつ、スイーツを選んでいると、ぎゅううううと川浦の腹から音がした。外とコンビニ内の温度差で腹を下したのである。
「ちょ、自分、トイレ行ってきますねっ」
そんな中、食材に吟味を終えピンクおじさんは、食材を詰め込んだカゴを持って、レジに向かおうとしていた。
「え?俺お金ないぞ?財布だけ置いて行って!」
「え!あ、はいっ!」
財布を手裏剣のごとく投げると、川浦はトイレに駆け込んだ。
「ありがとうございました〜」
後ろから店員の声がして、二人はコンビニをでた。
地面に座り込み、広げられた食べ物にいっせいに手をつける。
食べながら、川浦はふと思ったことを言ってみる。
「来年もまた、この花は咲き遅れるんですかね...?」
「分からんなぁ。もぐもぐ。でも、美しければいいと思うぞ俺は。もぐもぐ。どんな形であってもな。それが桜ってもんだろ?もぐもぐ。」
「そうですね〜。やっぱり桜は美しいです」
おそらく川浦の話を聞いていないであろうピンクおじさんは、必死に食べ物を口に詰め込み、立ち上がる。
「また会えたらいいな。来年。また桜が咲く頃に」
「ま、まあ、会えたらでいいですけどね」
もう自分のお金をピンクおじさんのために使うなんてことはしたくない。というのが、川浦の本音である。
じゃ!っと手をあげ、走り去っていくピンクおじさんの後ろ姿を見て、川浦は何かを忘れている気がした。
少し強めの風が川浦を包み、桜花の花びらが一枚、地面に落ちたと同時に川浦は思い出す。
「おじさん!自分の財布、返してください!」
あたりはすでに明るくなっていた。
藤夜アキさんと共に、創作企画に参加させてもらいました。
自分の書きたいように書いてしまって、テーマと微妙に噛み合っていません。お許しください。
テーマは「咲き遅れた一輪の桜花」です。