プロローグ
プロローグ
20XX年――全人類の九十パーセントに、ICチップの埋め込みが完了した。
日本では、それぞれに端末の機能を持たせたNTICを採用したことで、人間は他の電子機器を利用することなく、他者との通話、メールのやり取り、インターネットへの接続などを可能とした。携帯電話やタブレットPCは過去の産物となったのだ。
NTICは網膜に画面を投射し、脳波で操作を可能とする。画面を「見る」必要はなく、音を「聞く」事も必要としない。操作キーどころか、画面のタッチすら必要としなかった。しかし、それも万全ではない。可能なのはあくまでもそれら最低限の機能のみであり、普及当初は、多機能に溢れた端末が当たり前となっていた時代にはそぐわなかった。
しかし、それを拡張するデバイス、ADDを、Gentianが開発したことでその評価は一変した。ADDはNTICと通信・連動し、NTICだけでは不可能だった多種のソフトウェアの起動を可能とした。それにより、NTICと共にADDは世界中へ広まった。ADDは、その本体だけなら数センチ程度でしかなく、そのため身に付けるデバイスとして発表された。ペンダントとして、またブレスレットとして、その他様々な形へと変えることの出来るファッションアイテムとしても、老若男女問わず人気を得た。
人の手により作られたこれらの機器は、人間を今までとは異なる領域へと上昇させた。その果てにあるのは、完全なるデジタルの世界――……世界すべてが電子へと変換されるその時に、また一つ、近づいたのだ。
学校からの帰宅道を、少年は自転車で滑走する。心持ちいつもより速度が高い。気持ちの高揚が抑えきれないのだ。少年の名は佐久間亮。地元の高校へ通う二年生。物心ついた時にはコントローラーを握っていた、筋金入りのゲーマーだ。
家に到着し、自転車を片す。少々飛ばし過ぎたか、汗の一筋が、首後ろのICチップの上を流れていくのを感じた。自室へ入ると、すぐさま鞄をベッドへ投げ捨て、机の上に置かれた眼鏡状の機械を手にとった。
これは、Flat Mount Drive――FMDと呼ばれるハードウェアで、身に付けることで、NTIC・ADDと連携し、VR技術を用いた様々なソフトを利用することができる革新的な物だ。
VR――拡張現実という、世界を変えた革新技術。本来なら味わえない事を、擬似的に体験できる。今では医療から教育、ゲームなどの娯楽に至るまで、様々な用途にその技術が使われる。しかし、それをさらに上回るVR技術が生まれた。それが、Trance Virtual Reality――TVRだ。
今までのVRは、「そこに無い物を在るように錯覚させる」技術だったが、TVRは、「在る場所へ移動させる」技術だ。と言っても、当然、肉体を物理的に移動させるわけではない。移動させるのは精神だけだ。専用の機械を用い、精神――つまりは心・意識をコピーする。それを基に、各目的に応じたアバターを作成し、それを操作することで様々な出来事を体験できるのだ。
そして、その技術を利用した最新のオンラインゲーム――それが、『The Earth』だ。現実と見紛うグラフィックはもとより、作りこまれた世界観や、出来ないことはないと思わせる自由度、地球の名を冠するに恥じない広大な大地は、世界中のゲーマーたちを震撼させた。国内限定の抽選クローズドβでは、五千人の募集の中で十万人の登録――当選倍率二十倍という数字を叩き出した。本公開後はたった一年にして数百万人が集い、現在では全世界合計、千五百万人のプレイヤーが世界へ足を踏み入れている。
FMD左耳部の電源を入れる。すると、ICチップを通して、画面が直接視覚へと投写された。FMDの前面部、眼を覆う箇所は、厳密には必要ではない。だが、これは眼球部分の防護と、外へ持ち運んだ際、他の人間がFMDを装着していることをわかりやすくするための物だ。また、外部の映像情報を遮断することで、ゲームへの没入感を高める作用もある。
創作でしか有り得なかった、剣と魔法、モンスターとドラゴンの世界――そんな夢の中へ、亮は今まさに旅立とうとしていた。そう、それは、泡沫の夢。亮は、それがその果て無き旅路へのスタートボタンとは知らず――『The Earth』を、起動した。