森の中の住民
深い深い森の中に、恐ろしい化物が住んでいるという噂がある。それは、黒い影のようなものだという人や、獣だという人など、噂は様々だった。だが、実際に会った者は一人もおらず、ただ噂が独り歩きしているだけだった。私はその噂を、他の森の住民から聞いていた。
人というものは面白いものだなぁと、つくづく思う。私は黒い影でもないし、獣でもない。私の姿は人に似ている。だが、似ているというだけであった。なろうと思えば何にだってなれたし、姿を消すことだってできた。私は何者でもないのだ。
だが、不思議なこともあるもので、最近私のところへ来る変な奴がいる。それは、人の子だった。この森に迷い込んでしまったのか、私の住処の近くでうるさく泣いていたので、仕方なく森の外まで案内してやったのだ。その時に何を勘違いしたのか、人の子は「お兄さんありがとう!優しいんだね」と言い、また来るね、と言って行ってしまった。
それからというもの、人の子は毎日私のもとへやってきた。今日あったことを私に話し、夜になれば帰っていく。私は独りの方が好きで、人の子は苦手だったから、できれば来ないでほしいと思ったが、人の子は懲りずに毎日必ずやってきた。そして、たまに人の食い物も持ってくることがあった。
「おい、人のものは食べられないぞ。私は人ではないのだ」
「そうなの?じゃあ私が全部食べちゃお」
そう言い、人の子はそれをおいしそうに頬張る。その姿を見ていると、私はほんの少しだけ、食べてみたくなった。だが、決して食べない。食べて死んでしまってはどうしようもないからだ。
そうして季節は移り変わり、春になった頃、人の子は恋をしたようであった。人の子は頬を赤らめ、その相手のことを私に語って聞かせた。
「すっごく優しくてかっこいいんだよ。君にも見せてあげたいな。ねぇ、ここから出られないの?」
「何を言う。私はここの住民なのだ。私はここから一歩も出る気はない」
「でも、ずっとここにいるなんて、退屈しない?私だったら、暇で嫌になっちゃう」
「私は人とは違う。ここから離れるなんてことは考えたこともない。そんなことをすれば、きっと罰が当たる」
「そうなの?残念だなぁ。すっごく素敵な人なのに」
人の子は口を尖らせ、空を見上げる。きっと、その相手のことでも考えているのだろう。
私には、人の違いというものが分からない。おそらく、人の子が想う相手を見ても、人の子と大差なく感じられてしまうだろう。だから、私は人の子が少し羨ましく感じた。他人のことを想う気持ちとやらを一度体感してみたいと思ったのだ。
そんなことを考えて、私はふと思いとどまった。何を考えているのだ私は。私は人ではないのだから、そんなことは考えなくてよいのだ。何を馬鹿なことを考えていたのだろう。私は自分が恥ずかしくなった。
それから時が過ぎ、突然人の子が来なくなった。私は不思議に思ったが、もとの生活に戻っただけで、他にはとくに気にすることもなかったので、人の子のことは考えないようにしていた。
けれど暫くして、人の子がやってきた。背丈はだいぶ伸び、顔立ちも大人っぽくなっていた。そして、傍らにはもう一人の人の子がいた。
「久しぶりだね。実は私、結婚したの。前から話してた人だよ。たぶんもう、ここへ来ることはなくなっちゃうと思うから、最後に会おうと思ったの」
人の子は幸せそうに笑う。その笑顔を見て、私はなぜか胸のあたりが熱くなった。そうして痛みだした。私は何か悪いものでも食べてしまったのかと思った。だが、私は特に変わったものは食べていない。得体の知れない病にでも罹ってしまったのだろうか。
「そうか、それはめでたいことだ。用事が終わったなら、さっさと帰ってくれ」
私は、人の子を見ているのが耐えられなかった。見ていると、胸が張り裂けそうで苦しいのだ。やはり何かの病なのかもしれない。人の子は私を見て、悲しそうに眉を下げる。
「どうしてそんな冷たいことを言うの?寂しくないの?」
「寂しい?」
私には、その感情が分からなかった。今まで私はこの森の中で独りで暮らしてきた。その間、寂しいなどという感情は一度も感じたことはなかった。
私はとにかく、人の子を早く帰らせたかった。なぜかは分からないが、私は無性に腹が立っていた。人の子ではなく、その隣の人の子の方に。
「早く帰ってくれ。さもないと、お前たちを殺してしまいそうだ」
「何を言うの。君はそんなことしないよ。何をそんなに怒っているの?」
そう言った人の子を、隣の人の子が止めた。もう帰ろうと、人の子を説得してくれているらしい。人の子は渋々言うことを聞き、私の方をたまに振り返りながら、もと来た道を帰っていった。
人の子が帰っていくと、私の胸のあたりはさらに熱くなり痛みだした。そうして、頬が濡れた。唇の隙間から嗚咽の声が漏れだし、私はその場に崩れ落ちてしまった。
それ以来、人の子が私を訪ねてくることはなかったが、私は一日も人の子を忘れる日はなかった。忘れようと思っても忘れられなかったのだ。人の子が私と毎日会いに来てくれた日々を想っては、私は独り、頬を濡らしていた。
それから時は流れ、私は人の子が亡くなったという話をどこかで聞いた。森の化物の噂は、いつの間にか消え失せていた。