幕間壱 転換点
私の最も幼い記憶は家族との記憶だ。
父が居て母が居て、そして歳の離れた兄と乳飲み子の弟、五人皆で囲炉裏を囲んでの楽しいひと時。
幼い私はこんな日々が永遠に続くと思っていた……そうあの日までは。
まだ幼く言葉もよく発せられなかった私でもあの日の事は今でも鮮明に覚えている。
家族で夕餉を食べている時、地響きかと思える怒号と共に一人の男が家に飛び込んできたのが全ての始まりだった。
「総大将! 一大事です」
「何事か騒々しい」
応対に出た父が飛び込んできた男の話を聞く。
幼い私にはよくわからない話を父とかわしているその男は、怪我をしていないのに重度の病を負ったような顔をしていた。
すると次第に父の顔は険しいものに変わっていくのが見て取れる。
父は険しい顔をして、母に何かを伝えた。
すると母は家の奥に飛んで行って何かを始める。
私もそのあとを追おうとしたら、不意に手を引き留められた。
引き留められた手を見てみれば大きな父が私の手を掴み、私に笑いかけているところだった。
そして、私を大きな手で抱きしめ、生き延びろ、とそう私に語りかけた。
当時の私は何を言っているのかわからなかったが、父の優しい目を見ていると不思議と安堵したのを今でも覚えている。
それから父は兄に何かを伝えて、兄はその言葉を顔を引き締めて聞いていた。
そして、父はすぐさま家に飛び込んできた男と一緒に家を出て行く。
父の後姿にいつものように手を振って見送る。
いつもは私の見送りを振り返ることなく出ていく父が珍しく、一度振り返り私の見送りに手を振って返した。
私はそれがうれしくてあうあうと言いながら、父の姿が見えなくなるまで見送った。
見送る私を兄が優しく髪をなでてくれていた。
それから私たちは乳飲み子の弟を抱いた母と私を背負って歩く兄に連れられ、三日三晩道なき道をひたすらに駆けた。
幼い私でも何かがおかしいとわかったが、だが何をすることもできず兄に背負われ付いて行った。
家を出て三日後、やっと休息をとった母たちの顔は非常に険しかった。
今の私なら疲労の色だとすぐにわかり、母たちに休息を進言していただろう。
だが、あの時の私は何もできない幼子だった。
それが今でも悔やまれる。
そして、やっとまともな休息を取ってまた母たちはさらに道なき道を駆ける。
何日かが過ぎたある日視界に飛び込んできたのは見渡す限り青い水の一帯だった。
後で知ったがその水は海というらしい。
その時の私はこんな見たこともないものが世界にはあるのかと思っただけだった。
それから闇夜に紛れて木でできた小さな手漕ぎの船に乗り海を渡った。
波はそれほどでもなく日が出て沈むころには無事に海を渡り切る。
あとで知ったが海をあのような小さな船で渡るのは自殺行為にも等しい行為だったらしい。
陸地に着いた時の母と兄の安堵した顔のなんとも気の抜けたことか、そこが転換点だったのをその時は知らなかった。
先を急ごうとする母に兄が休もうと進言したのだ。
母と兄は言い合いをしたようだがしばらくして、結論が決まったのか休むことにした。
そして、地に足をつけてしばらくして夜が更けるときに私たちは襲われた。
山賊なのか海賊なのか、今ではわからないが襲われたのは覚えている。
兄が剣で応戦し、母が必死に私と弟を抱えて逃げた。
だが、大男の斬撃が弟を抱えた母の腕に食い込むのを二つの瞳ではっきりと焼きついている。
母は弟を取り落としながら、一瞬ためらうようなそぶりを見せながら、しかし私を抱える手に力を入れて男に応戦した。
私にはどうなったかはよくは判らない。
だが母と私の二人はうまく逃げのびられたようだ。
木のうろに体を預けた母は私の髪をなでながら、コノエの血を絶やさないで、そういって力なくそう言い続けた。
そして私の人生で第二の転換点が訪れる。
木のうろの中で髪をなでられていると足音が聞こえてきた。
母は私をうろの中に押し込め自分の背中で蓋をした。
その母の背中が何かで濡れているのを今なら何で濡れていたのかはっきりと分るが、幼い日の私はわからなかったのは致し方ないことか。
母が誰かと何かを話しているのを母の後ろで聞きながらしばらくじっとしていた。
すると、急に母が体を動かした。
いや、誰かが母の体を動かしたのだ。
母の体の横から見せた手に引かれうろの中から外へ出される。
そこには剣を腰に佩いた数人の女たちが月明かりに立っていた。
怯える私にその女たちの一人がしゃべりかけてくる。
「お前の名は?」
しゃべりかけてきた女は興味なさげに私に問いかけた。
私はまだうまく舌が回らなかったので自分の名を言えなかった。
だが、先ほど母が繰り返していた、コノエ、という言葉だけはなぜか発音出来た。
「コノエ? 言いにくい名だな……」
私は訳も分からずただ怯えていたのを覚えている。
あまりの怖さに母に縋りついたが、母はピクリとも動かなかった。
私に名を聞いた女は私のその姿に一言、ついて来るか来ないか選べ、と言って踵を返す。
周りの女たちもしばらくの間私を見ていたが一人、また一人と踵を返していった。
そして最後の一人が私に背を向けたとき、私の体は無意識にその女たちの後を追った。
「団長、もうすぐ王都に到着しますね」
そう、ディアナにしゃべりかけられ、私の意識は今に引き戻された。
馬に乗りながら器用に物思いにふけっていた私はごまかすように言葉を紡ぐ。
「王国直轄だとしても気を引き締めろ先日も襲われたばかりだぞ」
「は~い」
気の入らない返事に怒鳴ろうかと思ったが、私も気を抜いて物思いにふけていたので強く言わずにそのままにしておく。
幼かった私が付いて行った先は、アマゾネス騎士団の一つ黒の騎士団という女所帯の一団だった。
非常に厳しい生活であったが、あのまま母と二人であの場に留まっても死を迎えるだけだったと思うとあれはあれでいい判断だったのだろう。
あれから何年たったかわからないが、いつしか私はその騎士団で団長と呼ばれる地位まで上りつめていた。
騎士団の命を一手に預かる重責だがそれでも恵まれた環境だ。
先の大戦に中立で参戦し多くの仲間と敵の血に濡れた私の手だが、それでも恵まれた環境だと思える。
この世界に争いは絶えない。
それは治安が安定してきた今でも全てが安定しているわけではないこの世界で、必然ともいえる当たり前の事。
だが、その当たり前を当たり前としたくないと言った元主。
戯言と言えば簡単なその一言になぜか魅かれた、あれが私の三度目の転換点だったのだろう。
そして、四度目……
あの時、私は自分の直感を信じた。
争うそぶりを見せずただ許しを請うた子供、だが何か違和感を感じ普段なら絶対に手を上げない子供に切っ先を振り上げた。
そのあとの決闘で負けた時は私のプライドよりもそれまでの主の理想をまっとう出来なかったそれだけが気になった。
しかし、新たに主となったその子供ははっきりとは言えないが元主と何か似ている。
そして二年間見続けたその幼い背中は、どこか私の本当の父とどこか似ていると馬鹿馬鹿しいとは思いながらそう感じてしまう。
自分が何者かよくわからぬ身の上で、血に汚れたこんな私だが、賊に襲われながら賊に情けをかけた新たな主は、血に染まった私たちを家族と言ってくれた。
本当の家族と別れてから騎士団という多くの家族に身を寄せ、生きることしかできなかった私を家族と言った幼き主。
誰に言うでもないが、私は幼き主のその言葉を胸にどんな困難でも乗り越えてみせる。
そう心に誓い主たちの護衛をこれからも続けることだろう。