四話 戻る方法
亜空間を包んだ閃光からとっさに目を守った俺が、視力を介せずナノマシンによる周囲光度の平常値を確認してから目を開けるとそこは、見知らぬ空間だった。
右も左もうずたかく積まれた本の山で、インクと紙の匂いが充満するまるで図書館の様な暗い部屋だったのだ。
ナノマシンの権限移譲も解かれ俺は、突然起こった事に何があったのかナノマシンで状況把握と周囲警戒を行ったが、状況把握は回答不能と言う答えが返ってきた。
しかし、周囲警戒には収穫があり、本で出来た壁の裏におそらく人と思われる熱源があることが分かった。
俺は警戒をしながら、その熱源に近づく方法をナノマシンで捜索する。
さらには、この空間は本で出来た迷路のような構造だと分かった。
それならば話が早い。
俺が出入りできる通路を検索し、気を抜かずに探知出来た熱源に近づく。
積まれた本の間を抜け、ここを曲がれば人と思しき熱源まで距離二メートルと言う位置まで近づいた。
俺は手にしていた木刀をナノマシンで短剣状に形状を変えて、人がいると思われる本の奥の様子を窺う。
のぞき見た先に見えたのは大きな青いモニターとその前で何か作業に没頭しているくせ毛の強いパーマのかかった赤髪の人の後ろ姿だった。
その人物はせわしなく指を動かしキーボードのような物をひたすらに叩いて何かをしている。
モニターは俺には何が表示されているか全く理解ができないが、その人物の動かす指の動きより速く目まぐるしく何か画面が消えたり出たりしている様子だ。
俺はこの見知らぬ人物が何者かと物音を立てずに、その場でナノマシンをそいつに向けて放った。
うまくいけばこの位置からでも相手の顔を拝める。
全くナノマシンとは便利なものだ。
しかし、俺の思いとは裏腹に放ったナノマシンはその人物に到達する前に機能を停止させた。
その報告を網膜で認識した俺は、今まで経験したことのない事態に焦る。
しかしそのすぐ後に目の前の人物は姿勢を変えることなく。その体勢のまま声を発した。
「雄一か? すまない今は手が離せないのだ。ちょっと待っててもらえるかな」
なぜ俺が分かったのか……いやこの世界ではナノマシンは一般的だと教授が言っていた。
ならばこの人物もナノマシンを使って俺を認識したのかもしれない。
俺は周囲も警戒しつつ、その場でこの謎の人物を観察する。
おかしな動きがあればすぐに動けるように気を配り五分ほどが経過したとき、その人物はモニターの前で一際大きな動作でキーボードの様なキーの最後を叩いた。
「迎撃成功だ」
謎の人物はそう言うと同時にモニターに映し出されている全画面が緑の画面に切り替わったのが見てとれた。
そしてその人物はそのまま俺の方にゆっくりと体ごと振る向く。
「やぁ、雄一無事で何よりだ」
振り向いたその顔はとても整っていて、一際目立つ癖のある赤い長髪と、髪の色と同じように紅蓮と言うのが似つかわしほどの力強い赤い瞳。
そして褐色の肌をして内側にはタンクトップとショートパンツに身を包み白衣を羽織った外見年齢二十歳前後の女性だった。
「あなたは誰だ?」
「私が判らないのか?」
その人物に質問をしたら疑問で返されてしまった。
こいつはよほどの有名人なのだろうか……普通初対面の人間にかける言葉ではない。
しかし、この女性にはそんなことは関係ないと言うそぶりで、俺が黙っていると本当に判らないのか、と再度聞かれてしまった。
この世界での知り合いなんて一人しかいない俺が知る由もない。
いや待て。
「まさか、教授か?」
「何だ、判っているじゃないか」
当たったらしい。しかし、本当に教授なのか? 俺が本当に目の前の女性が教授かと疑っていると、その女性は俺の心の中を読み取ったようにこう言葉をかけてきた。
「まぁ疑うのも無理はないね。何せ今まで本体ではなくメタルノイドで接していたからね」
「何か証拠はあるのか?」
俺は周囲警戒も忘れずに、そう言ってその女性に質問してみた。
「自己の証明かそれは難題だな」
確かに俺が教授のことを良く知らないのに、俺を納得させようとするのは難しかもしれない。
俺もどう認めるかと悩んでいるとその女性はこう言ってきた。
「それならば君のナノマシンに強制介入して君を自由に操るって言うのはどうだろう」
明らかに茶化しに入っている。この一年近くの付き合いで、教授の変に俺で遊ぶ性格は熟知しているつもりだ。
それから云わせてもらえれば、今の発言は明らかに教授のそれだった。
「いや、やらなくていい。あなたが教授だと今判った」
俺がそう言うと、その女性もとい教授は、もう少し遊ばせろと言うような溜息をついた。
俺で遊ばれても困るのでその溜息を無視する。
「ところで、何で俺と直接会う気になったんだ?」
教授がまた妙な気を起させないうちに、俺は全力で話を逸らせることにした。
「ああ、それは緊急事態が生じてね。メタルノイドは使えなかったのだ」
緊急事態とは何だろうか。俺がそう思っているとまたもや見透かしたように教授は言葉を続ける。
「先ほど戻ってきた探索機の存在が当局の人間に見つかってしまってね。ナノマシンを用いて隠ぺい工作をしていたんだよ」
当局って響きが何かヤバい気がするのだが大丈夫だろうか。
俺はそれとなくそれは大丈夫なのかと聞いてみる。
「なに、ばれてもほんの十年ほどの刑期だ問題はないさ」
すると教授はあっけらかんとそう言い放った。
「それって法を犯してるってことか?」
そんな危険をしてまで次元移動とはやりたいものなのだろうか。
「人聞きが悪いな。探究心の末、今敷かれている法がちょっと邪魔になっただけだよ」
犯罪心理などは良く分からないが、好奇心は猫をも殺すのだろう……
「それはいいとしてその当局は上手く誤魔化せたのか?」
俺は念を押して聞いてみた。
「安心しろ、隠ぺいは万全だ」
教授は満面の笑みでそう明言する。
それならとりあえずは安心して話が出来るだろう。
俺は先ほどの悪趣味な演出について問いただす。
しかし、教授は鳩が豆鉄砲を食らった様にキョトンとして何がだと逆に質問してきた。
「何がだじゃない。さっきの七つの影のような人間型の話だ。どうせ教授の抜き打ちだろう?」
「私は先ほど君の所に行った後は、戻ってきた探索機の解析と当局への隠ぺいで君の所には何もしてないぞ」
では先ほどの七人はなんだったのだ。
すると突然教授の後ろにある緑一色のモニターが聞いたことのないアラームと共に一斉に赤一色に染まった。
「あ……」
教授は即座にモニターに向かい指をせわしなく動かすが、すぐさま俺の方を振り返り笑顔でこう言った。
「すまない、雄一。当局にばれてしまった様だ」
教授がそんなのんきに宣告した矢先、俺達の居た本で埋め尽くされた空間は突如として何もないがらんどうな体育館の様な広さの部屋に変わった。
俺はとっさに臨戦態勢に入るが、教授はそれが予期していた物のように悠然と佇んでいる。
「執行官のお出ましだ。君は何もしない方がいい。すまないがナノマシン権限をもう一度剥奪させてもらうよ」
やめろと言う間もなく脳内アラートと共にナノマシンの全ての権限が委譲されていった。
こうなってしまえば俺はお手上げだ。後は教授をただ見つめることしかできない。
俺と教授の間にそんなやり取りをしている間、周りでは先ほど俺を襲った七つの影と全くそっくりな影が一つ二つと現れその数を増やしていった。
教授はその増えていく影に動揺も見せずに悠然としている。
目視で三〇体ほどの影が出てきた後、教授と距離を取った先頭に影と同じ服を着て、しかし顔は隠さず緑の長いストレートの髪をした少女とも取れる容姿の人物が現れた。
その人物は毅然とした態度で教授を睨みながら、しかし声音は淡々と喋り出した。
「ようやく尻尾をつかまさせてもらいました。執行官アナスタシア・グリモアです。リリィ・マクドウェル教授、あなたにはアストラルダイブ法に抵触および、証拠隠匿の嫌疑がかかっています。速やかにナノマシンの権限を我々に委譲していただきたい」
「私一人に盛大な歓迎のしかたですね。一度引いたのは私を安心させるためですか……それにしても強制的に権限の剥奪でもすればいい物を」
アナスタシアと名乗った人物の発言に全く物怖じしている様子は見せない教授が、軽い調子で手をひらひらと振るとアナスタシアの後ろに控えていた十数名の黒ずくめの団体が一斉に臨戦態勢に入るのがわかった。
しかし、臨戦態勢に入った団体をアナスタシアは片手をあげたジャスチャ―だけで制する。
「ナノマシンの母ともいわれるあなただからこそ、剥奪たところでいくらでも上書きは可能でしょう。そうなれば私たちの命すら危うい。ですからこうやって平和的に話し合いに参りました」
アナスタシアは悠然と教授の前で一礼して見せた。
俺は動けない状態でその様子をただ見ている。
平和的にとか言っているが明らかに教授に対して敵対心を持っていると俺は感じているが、この状態ではどうすることもできない。
「それはご丁寧なことだね。しかしそれならば態度で示すべきではないか。大勢で押しかけて来たのではその誠意も見えないのだが」
教授はあくまで軽い調子でアナスタシア側の上げ足を取る形だ。
「そう言うわけにもいきません。なにせそこのアンノーンにうちの隊員が七名負傷させられています」
そこで初めてアナスタシアは俺の方に明らかなる敵意を向けて睨みつけてきた。
「それならば私とこのアンノーンとそちら側の代表者による秘密会談を要求するがどうだろう」
教授のその提案に会談が平行線で終わった場合はどうするつもりだとアナスタシアからの苦言が入った。
「その時は当局に特許権の一つを差し上げよう」
アナスタシアは少し考えている様子だったが、暫くして良いでしょうと言う返答が返ってくる。
「では決まったな」
「そうですね、では執行官アナスタシア・グリモアの権限の名のもとにリリィ・マクドウェルとの間の秘密会談をここに発令します。指定者以外の者は即刻この空間よりの退去を。従わない者は秘密会談法の規定によりナノマシンでの生命活動の停止をいたします」
アナスタシアがそう宣言すると黒ずくめの一団は一斉に霧のように消えていった。そして、この空間には俺と教授、そして執行官のアナスタシアだけが残る。
そこで教授は一旦大きな溜息を吐いてから俺のナノマシンの権限を戻して俺に向かって振り返った。
「何とかここまで持ってくることができたよ。雄一これで一安心だ」
そう言う教授の額には大量の汗が噴き出していた。
相当緊張していたのだろう、教授は非常に疲れた顔をしている。
だが俺には一安心といった教授の意味が理解できない。数少ない話を繋ぎ合わせれば法の番人との対立になっている様に思えるのだが、それで本当に大丈夫と言えるのだろうか。
残った対話相手アナスタシアは相変わらず、俺を睨み続けている。
「とりあえず秘密会談だが、お茶でも飲みながらゆっくりやりたいね」
教授は相変わらずお気楽にそう言って、アナスタシアに語りかける。
「秘密会談は遊びの場ではありません」
しかし、教授の提言はあっさりと切り捨てられてしまった様に見えた。
だが、アナスタシアは話は長くなりそうですねと教授の提言を飲んだのだった。
この空間でのナノマシンの順列はアナスタシアの方が上の様で、空間を弄って薔薇庭園にした教授のナノマシンをあっさりと凌駕し、アナスタシアは簡素な部屋に机と言う形で会談の場を設定していた。
俺は始めてみるナノマシンの攻防に目を見張りつつその様子を突っ立って眺めている。
そして、不貞腐れつついる教授がアナスタシアに薔薇庭園での会談をと要求しているのをよそに、アナスタシアは俺に席を勧めてきた。
俺はその誘いに従い丸テーブルの一角に腰を落ち着ける。
アナスタシアも俺に席を勧めてから席についた。
教授は最後まで不貞腐れていたがしぶしぶ席に着きそれと同時に教授は顔を引き締めた。
「さて、やっとお話合いが出来ますね。きちんと理由をお聞かせ願えるのでしょうねマクドウェル教授?」
アナスタシアは教授に向けて先ず釘を刺したような形だろうか。
しかし俺にはなぜあの黒ずくめの団体が退いたのかなど謎が多い。
それを知ってか知らずか教授はアナスタシアにこう話を持ちかけた。
「その前にこの秘密会談の意味を彼に説明してもらえるかなスターシャ」
「その愛称はやめてもらえるとうれしいわねマクドウェル教授」
つれないなと教授は明らかにオーバーリアクションで机に突っ伏す。
それを、全く冷ややかな目で見ながらアナスタシアはこう問いかけた。
「今さら秘密会議の意味など無意味に思えるのですが、このアンノーンと秘密会談の意味が関係するのでしょうか?」
すると教授はアナスタシアの顔を見ながらおおいにあるのだと力説した。
数瞬考えるそぶりを見せたアナスタシアだったが、淡々と秘密会談の意味を説明しだした。
要約すると、どうやらこの秘密会談と言うのは執行官との間に当事者と直接話し合う会合の場で、何かしらの結論を出さねばならぬものらしい。
話が平行線に終わると当事者は金品などを提出しなければならない。
しかし、この場での会話は決して外部には漏れないようになっていて、だから秘密会談なのだと言うことだった。
俺がその話に納得していると、教授は突っ伏した顔をあげてさも当たり前とお茶の用意をしていた。
アナスタシアも少し呆れたような顔をしていたが黙って教授の入れたお茶を受け取ると口を付ける。
俺は教授から出されたお茶の毒味をナノマシンでしてから口に運ぶ。
相変わらずこの世界のお茶は独特な味だ。毒ではないのだが未だに慣れない。
俺がお茶の味に苦い顔をしていると、教授は俺の説明をアナスタシアに始めた。
異世界人であること、教授自身が事故を起こしてしまったこと、そして俺を元の世界に返すと約束したこと。
それらをアナスタシアは必要最低限の相槌をうってお茶をすすりながら静かに聞いていた
「と、以上が経緯だ。そちらの隊員を負傷させてしまったのは彼が私の放ったメタルノイドだと勘違いした云わば事故なのだ」
そして最後に教授は俺が危害を加えた当局側の隊員に触れて話を締めくくる。
一気にしゃべっていた教授は自分の分のお茶を一気飲みしてさらにお代りをしてアナスタシアの様子を窺う。
だが、アナスタシアは特に感情を表に出すことなく沈黙を続けた。
俺はその沈黙にどうしたらいいものかと戸惑う。
教授は話し終えてからずっとアナスタシアの一言を待っている様子だ。
「私達側の調査でも彼の素性は全く不明、確かにその説明なら納得できますね。それにこの世界の人間でないのなら我々の法で裁くのも難しいでしょう」
やっと喋ったと思うとそう淡々と現状説明をしてくれた。そして最後に前例がありませんしとボソリと呟いてそれ以上の不要なおしゃべりはしない。
教授はアナスタシアの態度にここは攻め時と思ったのか、さらに言葉を畳み掛ける。
「そうだろう、雄一には全く非がないのだよ」
教授はそう満面の笑みでお茶をすする。
しかし、アナスタシアは意気揚々としている教授に向けて非常に冷ややかな目をしながらこう続けた。
「確かに彼には非はないのでしょうが、あなたは別ですよマクドウェル教授。話を聞く限りアストラルダイブ法には抵触していませんが、全く法の未整備分野の事柄です。なぜ我々に報告をしないでこんな独断をしますか」
問われた教授は一言、彼を見せものにする気か、と非難めいた返事をする。
アナスタシアはちらりと俺の方を向いてから確かに新たな人権の問題になりえますねと言う言葉が帰ってきた。
正直俺にはこの世界の法律などは全く知らない。
完全に蚊帳の外だ。
だから、俺は二人の会話に言葉をはさまず、しかし一語も漏らさずに聞いていた。
会話からしてとりあえず俺の安全はこの二人は保障してくれるように思える。
この世界の他の人間はどうだかわからないが、それは後のことだろう。
俺がそんな思考を巡らしていると、アナスタシアは俺の方を向き質問をいくつかして来た。
これからどうするつもりなのかとか、あなた自身はどうしたかなど、俺の意志を確認するつもりの質問だったのだろう。
ここで嘘を言ってもしょうがないので正直に元居た世界に帰りたい、そのためには教授の世話になるつもりだと答えた。
それを聞いた教授とアナスタシアの反応は正反対だった。
教授は満面の笑みでそうだろうと言いながら頷き、逆にアナスタシアは顔色を変えずにただ一つ溜息をつく。
教授の満面の笑みも何をされるか怖いものがあるが、アナスタシアの無表情もそれはそれで怖いものがあった。
しかしそれ以上俺が何かを考える前にアナスタシアはこう言葉を投げかける。
「あなたの意思は分かりました。しかし、我々には残念ながら沿うことはできません」
俺はなぜかと疑問をぶつける、すると淡白だがしっかりした回答があった。
「これは既にマクドウェル教授とあなただけの問題ではありません。下手をすればこの世界の根幹すら揺るぎらせかねない事態なのです。あなたが説明を受けているか分かりませんが、物質の次元転移など前代未聞です。大きな功績とトラブルがセットで来てしまえば我々は自分達の利を取りざろうえません」
俺は一瞬アナスタシアの云う意味が理解できなかった。
「それはつまり……」
「利益のためには君は抹殺されるかもしれないと言うことだな」
俺が言葉を紡ぐ前に教授はとんでもないことをあっさりと言ってくれる。
アナスタシアも言葉には出さなかったが、教授の言葉に強く頷いた。
「俺はどうすればいいのだ教授?」
抹殺されるかもしれないと言う不安から、教授に一縷の望みを見つけたくて聞いてみた。
「スターシャどうにかならないかな。私ではお手上げだ」
しかし、教授はアナスタシアに丸投げする形で俺の言葉を真摯に受け止めてくれない。
「今の私はあなたを取り締まる執行官なのよリリィ。昔の呼び方は止めてちょうだい。下手に慣れ合うと癒着とも取られかねないわ」
話を振られたアナスタシアはちょっと困り気味にそう言う。
「秘密会談だし良いではないか」
「それでもねリリィきちんと立場はわきまえた方がいいわ」
先ほどとは打って変わってとても打ち解けて会話している二人。
「昔の呼び方ってまさか二人は知り合いなのか?」
ふと出てきた単語にそう疑問を漏らすと教授は一言、幼馴染だと返した。
だからさっきもう大丈夫という発言をしたのだろうか。
俺がそんな疑問を抱いているとアナスタシアが困った顔でこう切り出す。
「今はその立場が歯がゆくあるわね全く、リリィ一人なら穏やかな解決方法もあるのだけれどあなたが入られると事は重大だわ」
「そう言わずに昔の好で助けてくれよスターシャ」
教授は相変わらずの軽い口調で遊び半分でそう懇願する。
「そう言われてもね~。まさかリリィが異性に興味を持つなんて、惚れでもしたの?」
アナスタシアは軽い口調の教授にそう軽口で返す。
そのやり取りが本当に親しい仲なのだと思わせたが、そのアナスタシアの言葉に教授はいきなり狼狽しだした。
「ば、馬鹿な事を言うもんではないよスターシャ!」
そう言って勢いよく椅子を倒しながら立ちあがった教授は、アナスタシアの首根っこを引っ掴んで部屋の隅まで行ってしまった。
ご丁寧に俺のナノマシンの権限を剥奪した上での行為だ。
動けなくなった俺はそのまま事の成り行きを見守ることしか出来なくなった。
時折教授の焦った大声やアナスタシアの教授をからかう様な声が聞こえてくる。
それにしても教授が俺を好きなんてアナスタシアも面白いことを言ってくれる。
この一年の教授の対応が好意からとはあまり考えたくない。
俺で遊んでる感があった教授だ。
それが好意だと言われても受け入れられない。
俺がそんなことを考えていると二人の会話は終わったらしくナノマシンの権限が戻ったのがわかり二人の方に顔を向けると、満面の笑みのアナスタシアと、今までの笑顔がどこへ行ったのかと思うくらい無表情の教授が居た。
いや、なぜか教授の顔は若干高揚している様に見える。
まさか本当にっと先ほどの言葉が思い起こされるが、それより速くアナスタシアは笑みを消して真剣な表情で俺に詰問して来た。
「さて、話は出尽くしたように思いますが、もう一度聞きます丸佐和雄一さん。あなたとしては今後どうされたいおつもりですか?」
「俺は元の世界に帰りたい。ただそれだけです」
俺の答えにアナスタシアはただ一言そうですかと言って押し黙った。
俺が何か変なことを言ってしまったのだろうか。
しかし、暫くしてアナスタシアは言葉を続ける。
「それなら時間はあまり多くありません。リリィ次元転移はすぐ準備できる?」
「ああ、万全ではないが行うことは可能だ」
「ならばすぐ準備に入ってちょうだい」
俺を蚊帳の外に二人だけの通じる取りで話を進めてしまっている。
俺がそれに異を唱えようとした時、何かを準備をしだす教授がどこかに行くのを見ながら、アナスタシアはやんわりと俺を制した。
「ごめんなさい。突然で何を言っているか分からないでしょうけど、とにかく時間がないのです。今の状況で上に報告をあげると高い確率で物質の次元転移に何らかの法律が施行される可能性が高いのです。しかも最悪次元転移禁止になるでしょう。そうなってしまえば私達二人ではあなたを異世界に送る道は絶たれます。ですから今の内にあなたを送ってしまうのです」
「時間がないっていったいどのくらいないんだ?」
俺はアナスタシアの説明にそう言葉を返した。
すると最短で十二時間と言う答えが返ってくる。それは確かに短い。
しかし、それでもその法律の施行前に何かやらかすと言うのもまずいのではないかと思ったが、アナスタシアにこう言われた。
「もとはと言えばリリィが原因で起きてしまった事態です。話を聞く限り執行官としてではなく私一個人として、あなたの意見は出来る限り尊重したい。いざとなれば私が責任を負えばいいだけの話ですから」
今しがたあったばかりの俺を助ける云われは無いと思うと正直に伝えたが今度は笑顔で返された。
「それはリリィが思いを寄せる人ですから特別です。あの子が異性に興味を持つなんて本当に稀なことなんですよ。あの子の親友としては微力ながら応援したいの」
それは教授の意志を無視した告白であった。
アナスタシアもそれに気が付いたらしく、声をひそめて今の話は秘密でと言ってくる。
そこへ準備をしていた教授が戻ってきた。
「どうした、もう少し準備はかかるが大丈夫かい。スターシャ?」
教授もまさかそんな会話がされているとは知らずに呑気に質問してくる。
「ええ、でもそろそろ秘密会談は終了しないといけませんね。さっきの打ち合わせ通り特許権の一つは貰って行くわね。これで少しは時間を稼げるでしょう」
アナスタシアはそう言ってここに来た時の様な顔をした。
どうやら気を引き締めたらしい。
しかし、その顔で教授のもとへ歩いて行って耳元で何か囁いた。
すると教授の褐色の肌が明らかに赤くなるのが分かる。
それを見てアナスタシアは満足したのかすぐさま教授から離れるとこう言って去って行った。
「リリィ・マクドウェル教授、今回の一件上層部と折衝の結果、追って採決を下します。そこのアンノーンも下手な行動はしないように。以上」
この空間から去ったアナスタシアを見ていると、教授は俺の耳を引っ張りながらこれからの行動を説明していった。
「いいか、私は君にありったけの技術をナノマシンで持たせて次元転移させる。まだ次元転移の到着先などは不確かだから、どうなるか分からない。だがどうか生き延びてくれ」
それから背骨のナノマシン生産プラントを増設させたり執行官用のナノマシンに変えたり、次元転移のシステムをナノマシンに組み込んだりとやることは多かった。
そして、アナスタシアが予告した十二時間が経とうとした時やっと準備が整ったのだった。
「あとは君が自ら転移システムを起動させれば転移は完了するな」
教授は満足そうな顔だったがどこか寂しげだと俺は感じた。
「今までお世話になりました教授」
「もとはと言えば私のせいだしな。気にすることはない。むしろ私の方は謝ることばかりだが時間もないしな、ほら早く行ってしまえ」
教授はとてもハキハキと言っていたがやはり寂しげに感じる。
それを追求しようとしたら、教授は目を潤ませながら俺に近づき、いきなり俺の口を塞いだ。
俺の目前に教授の顔のアップ、そして唇に触れる柔らかな感触。
俺はアナスタシアが言っていた事を思い出し、それが教授の本心なのかと顔を赤面させる。
そして短くも長く感じられる時間は無粋にもけたたましいアラートによって遮られた。
すると教授はすぐさま俺から飛び退く。
「リリィ、急いでこれ以上は止められないわ」
その声と共に起動したモニターにはアナスタシアが切羽詰まった表情でそう訴えかけていた。
「教授……」
俺はどう言葉をかけていいか分からない。
しかし教授はすがすがしい顔でこう言った
「リリィ……だ」
不思議に思い聞き返すと、教授は今度はハッキリと明言した。
「私の名前はリリィ・マクドウェル、偉大にして最高の科学者だ」
それは教授なりの俺への別れの言葉だったのか、それとも自分の事をいろんな世界で広めろと言う事なのかは分からない。だが、俺はその言葉にただ感謝の言葉をかけた。
「ありがとう。お世話になりました。リリィ」
俺のその言葉が教授に伝わったのかどうか、俺はそのまま次元転移をして激流中をもまれる体験をした。
我ながら懐かしいことを思い出したものだ。
同じ旅立ちと言う事で教授との生活を思い出すとは、俺は出立の準備を自室でしながらそんな想いを巡らせていた。
今回の出立の準備もあらかた終わり最終確認に入っている。
そこでふと思い出したかのようにマリエルに語りかける。
「そう言えばマリエルも今回の王都へは同行するのだろ。準備は大丈夫なのかい?」
するとマリエルは簡素に問題ありませんと返してきた。
マリエルが言うなら大丈夫だろう。
俺は今一度持ち物を確認してトランクケースを閉じる。
そして袖机に置いてあった、鞘に白薔薇に剣と盾の装飾が施されたナイフを手に持って自室を後にする。
トランクケースはマリエルに持たせ俺は悠々と玄関へ向かう。
玄関ホールでは警備騎士の面々や屋敷で働くメイド達が両脇に控えていた。
その中に兄上の姿は見えない。
俺は使用人達に囲まれながらしっかりとした足取りで玄関扉まで歩く。
「いってらっしゃいませ」
使用人の皆にそう言われ玄関扉をくぐると、そこにはフランツ父上が既に待っておられた。
「お待たせして申し訳ありません。父上」
「待ってはいないよ、さて行こうか」
「はい」
用意された馬車に父上が乗り込み、続いて俺も馬車に乗り込む。
こうして父上と同じ馬車に乗るのは二度目か、そんなことを思いながら馬車で座っていると、父上は馬車の窓を開けて屋敷の皆にこう告げる。
「用件を済ませたら私はすぐに戻る。それまでアルフォンスのことをよろしく頼んだぞ」
見送りに来ていた皆は父上の言葉にハイと答えて俺達を見送った。
ここから丸佐和雄一改め、マルサス・ローゼンバーグの新たなる旅が今始まるのであった。