終章 gift
「セイム! セイム! 入るよ!」
暖かな夕焼けと太陽を教会が打ち鳴らす鐘の音に耳を傾けていたところへ、聞き慣れたがなり声にセイムは宿のベッドで体を起こす。
ミーナはセイムの返事など待たずに入室すると、椅子をベッドの前に持ってきて座り込む。湯屋に寄ったのか、嗅ぎ慣れない石鹸の香りがふわりと鼻に届いた。
どうせ開けるならわざわざ外から断りを入れるなよとも考えるが、そんな忠告に意味がないことはこの数日の間でもう分かっている。
「あ、もう起きて大丈夫?」
「傷は深くないらしいからな。安静にしてろとは言われたが」
あれからセイムは精根尽き果てて立つこともままならなくなり、辛うじて動けたミーナがアイロアとショーンを縛り上げると、セイムを運ぶために騒ぎを聞きつけて貧民街へ来た自警団に事情を話して診療所へ運んだのだった。
樹に寄り掛かってその様をのんびり眺めていると、アイロアが紐でぐいぐい縛られながらも、大した抵抗もせずセイムとミーナを交互に見やりつつ笑っていたのが腑に落ちなかったが、きっと傷が深くて強がるのが精一杯だったのだろうと自身の中で結論をつけておいたセイムだった。
「無理はしないでね。はー、あたしも疲れちゃった。やっと一段落つけそうだわ」
そしてミーナは、別の医者に診てもらってから、セイムを組合の人間に任せて代わりに組合や自警団の詰め所を回り、後始末に奔走していたのだった。一方午前中に診察が終わって宿に送り届けられたセイムは、特段やることもなく昼過ぎまで眠り、歩けるかを確かめるために部屋をうろうろとしたり、もらい物のパンをかじりながら読書をして過ごしていた。
しかし目立った傷は打撲のみで医者の見立てでも異常なしだったとはいえ、魔道士と一戦を交え、全身に痛々しいすり傷やあざを残したミーナが疲れていないわけはない。事実彼女は、肩を軽く上下させてほぐしながら、宿の主人からもらったであろう温かい蜂蜜入りの酒を飲み、目元に疲れをためていた。
セイムは不甲斐なさがこみ上げて、ため息ではない大きな息を吐きながら言う。
「悪いな。余計な手間掛けて」
「何言ってんのよ。あの時あんたが助けてくれなかったら、今頃あたしは死体置き場に並んでたんだから。これくらい大したことじゃないもの」
視線を落としてしばし口ごもったセイムは包帯をきつく巻かれた腹を叩き、傷の具合を確かめた。
「それにさっき二人とも無事使者に引き渡したし、敵含めて死人も出なかったし、屋敷にたむろしてた連中も逃げ出したか捕まったみたいだから、一件落着じゃないの。後は怪我が落ち着いたら組合に行って報酬の話でもしなさいよ」
「……ショーンはあれで生きてたのか」
「上級魔法は撃ったけど、あれでも加減はしたもの。魔道士なら何もしなくても無意識にまとう魔力のおかげで魔法への抵抗力が多少あるし」
セイムからすればどう見ても縛る必要などなさそうな重体だったが、魔道士の彼女が言う以上正しいのだろうと曖昧に返した。
「しかしいい匂いだな、俺も祝いに一杯飲みたい」
酒の香りに鼻を鳴らしながら、思わずセイムは呟いてしまう。
「駄目に決まってんでしょ! 傷開くわよ!」
ミーナが睨みを利かせながら水差しを彼に押しつけてきた。それを素直にもらって一口含むと、セイムはたなびいた彼女の髪に目をやった。
「そういや、髪飾りはどうしたんだ? 昨日からしてなかったみたいだが」
ミーナはすっと自分のうなじを撫でる。
「黒焦げになったわよ。緊急時に備えて魔法仕込んでたんだけど、追い詰められて使っちゃって。予備もないから当分このままね」
セイムはミーナの黒髪に見とれつつも、頭をかきながら思い立ったことをそのまま口にしていた。
「だったら飯の前に近くの露店に装飾品扱ってるとこがあったよな。まだ開いてるはずだから、買いに行くか?」
「……え? いいよいいよ。ミラドに戻ってから買うわ。急いでるわけじゃないし」
「その割には肩がそわそわしてるが」
「う」
普段は束ねている関係だろうか、毛先が触れる肩口や背中が落ち着かないのはセイムも気づいていた。
悩む心中を映すように毛先をしばらく弄ぶミーナ。
セイムが彼女の思考回路を理解しているように、ミーナもまた彼がここで譲るような性格ではないのはもう分かっていた。
「……ありがと。言葉に甘えるね」
「よし、じゃあとっとと行こう」
「え、立てるの?」
「それくらいは問題ない。さっき試したところだし、そろそろ夕飯が食いたいとこだ」
「あんたが大丈夫ならいいけど……」
上衣を羽織り、ややぎこちない足取りながらもセイムは手すりを伝いながら階段を降りていく。途中で手を貸してきたミーナに傷が熱を再び持ち掛けたが、降り終わるとすぐ手を離して蜂蜜酒の器を主人へ返した彼女に肩をすくめて脇腹に手を当てた。
外を行き交う人々は心なしかここ数日より増えていた気がした。早速噂が広まったのかたまたまそうだったのかは彼らには分からないが、二人はそんな日常の光景に安堵しながら露店へ真っ直ぐ向かっていた。
そこは数日前に、セイムが冗談交じりにミーナへ指輪を勧めた場所だった。
「いらっしゃい……あれ、こないだの方々ですね」
「ん、覚えててたのか」
「そりゃもちろん。何か気に入っていただけたものはありました?」
「いや、今日は髪留めを見に来たんだ。見ての通り、彼女が前の髪留めを失くしてな」
「なるほど、色々お勧めはありますが……どんなのがいいですか?」
「なるべく束ねた髪が肩に掛からないようなのがいい。それとこいつは魔道士だから、粒は小さくてもいいから、赤い宝石があしらわれてるものを」
話を覚えていてくれたのが嬉しかったのか、ミーナは恥ずかしそうに頬を染めてうつむいていた。主人も「かしこまりました」と空いた場所に小さな敷物を敷き、後ろの箱から一つ一つが丁重に布にくるまれた品々を取り出して、細長い指を使って二人の前に広げていく。
「えーと、前に使ってらっしゃったのは丸みを帯びたものでしたね。今回も似たようなものがよろしいですか?」
屈んだ二人の前には既に二十品ばかりの髪留めがずらりと並んでおり、形も丸いもの、四角いもの、色も銀や茶色、宝石も大きなものから小さなものまで、在庫が相当あるのかどんどん並べられていく。
当然値札も桁や単位がばらばらで、中には金貨で売られているものまであった。
「どうしようかな。具体的には考えてないんですよね」
「品の値段は気にすんな。好きなのを選んだらいいさ」
それに気に入ったものがなければ、日や時間を改めて他の店で探すのもいい。
これは主人の立場を考えて心にだけ留めたが、セイムはふとミーナが一つの髪留めを食い入るようにじっと見つめていることに気がついた。
「良かったら装着してみて下さい。王都ミラドの銀細工師の手作りの品なので耐久性もばねの強さも折り紙つきです。鏡も二枚ありますので着けた状態も見れますよ」
主人に髪留めを差し出され、ミーナはおずおずとそれを全方位から眺める。色こそ同じ銀色だが、以前とは違う三角形に中心ではなく角に三つ、小さな赤い宝石がはめ込まれていた。セイムにはそれが本物なのかは区別がつかないが、ミーナも宝石そのものではなく色が大事だと言っていたのを思い出して深く考えることはしなかった。
髪を整えて、二段になっている留め具を差し込んで引っ張り上げた髪を挟み込む。後頭部まで押し上げて留める種類のものなので、これまた前のものと違い、髪が背中や肩に垂れずにうなじが露出している。
「あ、これいいな……欲しい……」
ミーナが主人から借りた四角い銅鏡を両手に持って後頭部を確認しながら、顔を綻ばせた。
「じゃ、それにするか。ご主人、これいくらだ?」
「はい、いつもなら三十五のところですが……三十デムトでいかがですか?」
「えっ!」
「それで頼む」
「ええっ!?」
主人とセイムを交互に見てから、ミーナは開いた口が塞がらない。痙攣したように唇をひくつかせると、「ちょっと待って下さいね」と鏡を返し、とんでもない早業で髪留めを外して敷物に置いた。主人に断ってから慌てて彼の首根っこを引きずり、声の聞こえない物陰まで隠れると濡れた仔犬のように首を振り続けてひそひそと言った。
「いいよいいよ! 高過ぎるって! デムト銀貨の価値分かってるの!? 三十デムトもあったらミラドでも半年は食べ物に困らないんだよ!? 前の髪留めだって十デムトくらいで買ったんだから!」
凍りついたミーナの表情を目にしても、セイムは全く動じていない。
「知ってるよ。別にアイロアたちを生け捕りに出来たんだから、俺への報酬は銀貨どころか金貨が入るだろうからな。ミーナがいなければ俺は罠に掛かってやられてたんだし、髪留めにはまた魔法を仕込むんだろ? 命を預けるならけちけちせずにいいものを買うべきだ。それとも、あの髪留めが気に食わないか?」
「そんなんじゃないけど……」
露店の後ろの積まれた木箱に囲まれた場所なので、誰からも見られも聞かれもしない。
申し訳なさと恥ずかしさが同居したようにうつむいてしまったミーナへセイムは思いの丈を言葉に出した。
「あれと引き換えにってわけじゃないが、頼みがある。もし俺が魔法に関して分からないことがあったら、これからも相談を聞いて欲しい」
ミーナは、怪訝とも疑念とも取れる表情でセイムを見つめ返す。
思いのほか強い表情だったことに驚いて、しばし空いた間に耐えかねたセイムが言葉を続けようとしたその時、ミーナはしょうがないなとでも言いたげに目を閉じて笑った。
「何みずくさいこと言ってるのよ。そんなの当たり前じゃない、だいたいさっきも言ったけど、あたしが助かったのはセイムのおかげでしょ。むしろあたしからこれからも手伝わせて欲しいってお願いしたかったのに」
「……それは悪かった」
「それにさっきは言いそびれちゃったけど、あの時は見苦しい姿を見せちゃってごめん」
大量の氷柱が彼女を貫くべく先端を向け、一度は生きることを諦めかけた。
涙を溢れさせ、助けようと怪我を押して剣を取ったセイムへ、錯乱と彼を心配してのこととはいえ拒絶の意思を示した。
今度はミーナが気まずそうにセイムから顔を背け、建物の壁にごつりとおでこを当てる。
「はっ、だったら俺だってあの後へとへとになって、周りの手を借りっ放しだったじゃねえか。二人ともこの程度で済んだのは、むしろ幸運だよ」
またもや数瞬の間が空いてしまったが、お互い降参したように揃って笑い、先にミーナがぼやく。
「結局……おあいこ?」
「そうみたいだな」
「へへ。そしたら、ありがたく髪飾りはいただきます」
「ああ、そうしてくれ」
思い立ったセイムは、いきなりミーナの手を取り、愛を囁く詩人のように言葉を紡ぐ。
後にいくら考えても、何故ここでミーナの手を取ったのか未だにセイム自身さえ分からなかった。
「ミーナ、お前と出会えてよかったよ」
握られた右手を見ながら熟れた桃の如く顔を染め、何やら熱を帯びた汗を流すミーナ。
「は、恥ずかしいこと言わないでよ……。でも、あたしも、セイムに出会えてよかった」
怪しまれる前に店へ戻ると、主人は二人に気づいて悟り切ったように腕を組んでいた。濃い眉毛の下から覗く瞳には、全てを聞かれていたのだろうかとさえ深読みしてしまう貫禄を備えている。
「主人、銀貨は手持ちがないから、ラサン金貨でいいか?」
「はいよ、毎度」
一枚だけ入れていた金貨を払って数枚の銀貨で釣りをもらい、髪飾りを彼女へ手渡した。
ミーナは早速髪留めを装着し、頭をわざと振って髪の納まり具合に満足気に毛先を指で跳ねてみせる。
「うん、これが落ち着くな。ありがとう、セイム!」
髪留めの隙間からちょこんと飛び出した髪を揺らして、とびきりの笑顔。主人はだらしのない笑みを浮かべ、セイムも主人の表情が視界に入らなければ、思わず陥落しそうになっていたくらいだった。
「若いっていいねえ……」
セイムには主人の独り言が聞こえたが、ただただ咳払いを繰り返す。
「何、喉痛いの?」
「何でもない」
パンを買って宿に戻り、食事を終えると二人はぶり返した疲労にあっさりと夢の中へ誘われた。
胸のつかえが取れたのか、肩の荷が降りて気が軽くなったのか、朝日に瞳を刺激されたセイムは昨日腹を斬られたとは思えないほど軽々と腹筋を使い、上体を起こす。
だが、不思議と心にもやが掛かったような感情の正体は、彼自身分かっている。
「さて、ここでの仕事は片づいたし、そろそろミラドに戻らないと。研究も再開したいし、さすがに命賭けの仕事は懲り懲りだからね」
「お前も怪我してるだろ。そんなすぐ帰れるのか?」
それでもミーナとの別れに空虚感を抱いたセイムは、自問せずにはいられなかった。
「これくらいなら馬にも乗れるから大丈夫よ。セイムはしばらく休んでくの?」
「ああ、しばらくここで療養するよ。元々決まった家も持ってないし、怪我が治るまで時間が掛かる。二週間もあればある程度治るらしいから、その間はのんびり過ごすさ」
扉を叩く音が聞こえる。
仕事は片づいた。任務での問題も特に起こしていない。
なのにこんな早朝から誰かが尋ねるのは、きっとろくなことではない。
セイムの不安をよそにミーナが扉を開けると、そこにいたのは見慣れた組合の使いの少年だった。
「セイムさんはいますか?」
「ベッドにいるよ。入って」
会釈をしてミーナの後へつき、セイムの前に立つ。握られていた封筒と少年の表情で、予感は的中したのだと察してしまった。
「ん? 何かあったのか?」
それでもあえて知らん顔で言った。
「いやー、少々心苦しいのですが……」
やれやれとため息をついて、差し出された封筒を手に取って内容をあらためる。
手紙を封筒ごと放り、がっくりとうなだれた。
「他をあたってくれ。俺はこの仕事が終わったら当分休むと言ったはずだ」
「生憎腕の立つ方は近くにはおりません。国家にも我々にも信頼を寄せているのはセイムさんだけなのです」
「知るかーっ……うぐっ!」
脇腹に激痛が走り、セイムはうめき声をあげている。
「大声出すからでしょ、全く。諦めなさい」
「ミーナさん、あなたにもなんですが……」
「へ?」
歯車の詰まった機械のような動きで体を起こしたセイムが小首を傾げるミーナに手紙を渡す。慌てて文章に目を通した彼女は、文章のとある一節を読み上げてから、使いの少年に怒号と何ら変わらぬ声をぶつけていた。
「『なお、前回の一件では、セイム=ワドルとミーナ=ビットの絶妙な連携によって無事任務をまっとう出来たと思われる。ゆえに今回も、ぜひミーナ=ビットに同行していただき、迅速な案件の処理にあたっていただきたい……』ってどういうことよーっ!?」
「は、腹に響くから叫ぶな……」
ミーナ自身も大声が体に響いたのか、セイム共々痛みに身をよじる。
「えーっと、とりあえず、傷が治り次第、お二人は王都ミラドに向かって下さい。こ、これも勅命なので、依頼の譲渡や拒否は出来ませんので……」
怯えきった少年は伝えることは伝えたとばかりに開いた扉から逃げ出し、手紙を握ったまま棒立ちのミーナが残された。
「あーあ、結局仕事させられるのか。まあ傷が治るまで待ってくれるだけ……え!?」
彼女の全身から立ち昇った魔力とうすら輝く瞳の矛先は、一人の傭兵へ向けられる。
そしてセイムは、怪我でここから逃げられない。
「セイム……どうなってんのよ……説明しなさい……」
「え、いや、これは俺も……ちょっと待て、俺怪我して……うあーっ!!」
暮れなずむ町の片隅で、腕利きの傭兵の情けない悲鳴が響き渡る。
主人はただの痴話喧嘩としか思っていないのか、二階を見上げてくすくす笑うばかり。
傷さえ癒えていない体で必死に炎を避け続けながら、セイムは独り思った。
この旅も悪くはない。仲間と過ごす楽しさはよく知っている。
助け、助けられる喜びは強い相手と剣を交えるのとは違う安心感がある。
それでも、俺を燃やそうとするのは止めてくれ。
「逃がさないわよ……」
「だからそれは俺に言っても……あーっ!」
床をゴキブリのように這いまわった挙句、セイムは壁際へ追い詰められて仁王立ちの女王から理不尽な罰を受けた。
それでも、しおらしい表情で髪飾りを眺めているのを思い返せば、これもいいかと思ってしまう。
それが男の性なのか、ミーナに惹かれているのかは、彼には分からない。
またミーナと旅を共に出来るのは、まだ見ぬ故郷を思うよりずっとずっと心が躍るのだから。
終わり