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第四章 tactics

 夜の帳が下り、昨夜と同じく星々が空に瞬いている。

  酒場の木窓からは蝋燭の明かりと食欲をそそる肉や魚の焼ける香りが漏れ、飲み比べでもやっているのか同時にわいわいと囃し立てる男たちの声も壁を隔てた奥から聞こえてきた。昼間ならば親方の怒鳴り声ばかり響く通りも、暗くなれば明るい笑い声に包まれる。

 セイムとミーナはそんな生活観漂う路地裏を歩きながら、人目を忍びつつ情報を集めるべく、一軒目の酒場の扉を開いた。

「いらっしゃい。何にします?」

「ビールをジョッキで一杯」

「あたしはグラスで」

「かしこまりました」

 二人が選んだのは、盛り上がっている客同士の輪に入るのではなく、カウンターで客たちを遠巻きに眺めながら食器を磨いている店主の前だった。

  酒場の店主なら様々な噂話を客から聞いている。その中に、アイロアの潜伏先の手掛かりがあるかも知れない。

  そう思って口を開いたセイムの背中の剣に気づき、二人の目的が酒を飲みに来たのではないことに感づいた店主は、奥の厨房に注文を伝え、すぐに届いたビールと銅貨を交換すると軽く彼と目を合わせる。

「……どんなご用件ですか?」

「ここ最近、町で妙なことはなかったか?」

 念のために誰かが聞き耳を立てていないかにも注意を払い、セイムは小声で話す。

「さあ……昨夜にどこかで火事があったとかなら聞きましたけど……」

 その原因をセイムはよく知っている。

 ただしそれを口に出せば、この酒場まで火事に見舞われる恐れがある。

「そうか……。ならば変な奴の溜まり場とかは知らないか」

 銅製の食器を置いた店主は、視線を店内で一周させる。

「んー、まあ貧民街には時々そういう人がいますけどね。色んな人が流れてきますから」

「分かった、ありがとう」

 これ以上何かを知っている様子もないので、礼と共にビールを一気飲みし、ミーナも休み休みながら急いで飲み干すと、何事もなかったかのように歓声を上げた酔客の脇を通って店を出る。

「やっぱり一ヶ所だけじゃ足りなさそうだ。何軒か回ってみよう」

「だね。あたし酒弱いから、次からはあんただけ飲んでよ」

 早くも頭を抱えながらミーナはセイムに丸投げをしてしまった。

 夜風を身に受けながら、二人は次の酒場を探す。

 しばらく通りを歩いて目についたのは、立派な造りの扉に、中は一軒目と同じく賑わいを見せていた酒場だった。と言っても庶民的な雰囲気は変わらず、度の強そうな酒を黙々と飲み続ける壮年の男性や、坂を転げ落ちる石ころの如くぼそぼそと話をしている旅人の二人連れ、そして会話が成り立っているかも疑わしい大声とろくに回っていない呂律で喋っている三人の人夫風の男たちがいるくらいで、閑古鳥が鳴いていると言って差し支えがない。

 一軒目と違ったのは、カウンターについて注文を済ませた二人に、近くの席ですっかり出来上がっていた三人のうちの一人が声を掛けてきたこと。

「よう兄ちゃん、かわいい娘引っ掛けてるなー。もしかして嫁さんかい?」

 顔を上げたセイムに、逞しい体に似合わぬ気軽な様子で男は並々と注がれたビールをぼたぼたとこぼしながら隣に腰を下ろす。口調からは他の二人ほど酔いが回っている風でもなく、セイムは主人からジョッキを受け取って当たり障りのないように言葉を返す。

「ん? 生憎だが単なる旅の連れだ。別にあんただって嫁さんくらいいるだろ」

 ミーナは酔客が苦手なのか、度々届く酒臭い息に顔を背け、露骨に眉を潜めていた。

「ああ旅人かい。そりゃ俺だって女房と子供はいるが、若い娘はいつだっていいもんだ」

セイムには、男の顔が上気しているのが酒のせいか性的興奮か分からない。

「なあ姉ちゃん、この兄ちゃんとは付き合い長いのかい?」

「そうでもないけど……」

 分厚い口髭に泡をつけながら、男はミーナに話を振る。浮かない表情のままちらりとセイムへ瞳を向けた彼女へ、静かに耳元で囁いた。セイムもそれなりに世を渡ってきたので、酒飲みの窘め方程度は心得ている。

『無難にあしらえ。万一揉めたら俺が何とかする』

『うん……』

 小さくうなずいてから視線を上げ、笑みを作って改めてセイム越しに男へ顔を向ける。すると男はただでさえ緩んだ頬を余計に緩ませて、歯を見せてにんまりと笑った。

「若い男女が二人旅っていいねえ、うらやましい限りだよ。俺なんか毎日荷揚げ場で文句とほこりと麦粉にまみれて、家に帰ったら嫁にどやされるのが日課だからなあ」

「あっはっは。あんたも大変だな、家族のために一生懸命働いてるってのに」

「全くだよ。だからこうして、酒でも飲まなきゃやってられないってんだ」

 ひとまず褒めておけば、事を荒げる心配もなく、上手くいけば面白い話を聞ける。

 セイムからすれば、自分から進んで話し掛けてくる酔客ほど扱いやすいものはない。

 男の語気は誰かを責めると言うより、ただ単に酒を飲む口実が欲しいようだった。現に彼はそう言いながらジョッキをあっさり空にすると、早くも次のビールを主人に注文していた。

「よっこいしょーっとお! なあ、俺たちもいいかい?」

「ああ、もちろん」

 しばらく三人のやり取りを眺めていたらしい残りの二人もセイムらに歩み寄り、すぐ側の小さな丸テーブルをぐいっと寄せて、重いずた袋を落とすように座り込む。二人も同じ仕事をしているのか、酒に混じってかすかな汗や土ぼこりの匂いがして、またもやミーナは顔をしかめていた。

「姉ちゃん、そんな顔しなさんな。別に取って食いやしないさ!」

 三人の中で最も大柄な男がタコで硬化した大きな手で小さなミーナの肩をぽんぽん叩く。彼は最も彼女に近い位置に座ったため、表情の変化は丸分かりのようだった。

「ミーナ。この人たちは盗賊じゃないんだから、そんなに緊張すんな」

「そうだそうだ! けどこいづは本物の女好きだから気をつけろよなあ!」

「何だと! お前なんかこないだ修道女に袖にされてたくせにい!」

  セイムの真正面に座った比較的小柄な銀髪の男が、隣の大男を指差して大笑いする。ミーナは相変わらず引いていたが、ようやく自然な笑みを見せ始めた。

「修道女はお固いだろ。口説くなら町娘かその辺をぶらぶらしてる女中にしとくべきだ」

「兄ちゃんいいこと言うね! 神様に祈りを捧げてる無愛想な姉ちゃんより、活き活きと酒を飲んで美味そうに飯を食う娘を口説くべきだ!」

 聖職者を侮辱しているに等しい台詞だが、当のセイムはまともに女性を口説いたことはほぼない。軽い口論を始めた二人を放置して、ビールで口を湿らせる。

「ところでお二人さんは、こんな時期にこの町に何しに来たんだい」

 椅子の背もたれに腕を乗せながら、口の回る人夫は二人に問い掛けた。

「人探しよ。ところでこんな時期って、町に何かあったの?」

 意を決したのか、はたまた雰囲気に呑まれたのか、ミーナは彼に前のめって聞き返す。胸元に出来た谷間に生唾とビールを飲んで、男は理性に抗うように視線を彼女の顔に避けながら言った。

「知らないのか? 最近変な連中が町に集まっててなー。暴動でも起こす気だろうかと町中の噂になってんだ。だから自警団の連中も、夜は血眼になって見回りしてやがる。そのせいで俺たちまで夜は早く帰る羽目になっちまうのさ!」

「町で騒ぎが起きたら、真っ先に迷惑をこうむるのは当然町の人間だからな」

 セイムがビールを飲み切って独り言のように言うと、いつの間にか口論の収まっていた二人が横槍を入れる。

「そうだそうだ! 先週なんか安息日の前だったってのに、見回りの強化とかで酒も飲めずに帰らなきゃいけなかった! 何が安息日だ! だったら酒を飲ませろっ!」

「ほんとだよ、なあ姉ちゃん!」

 魚の干物をつまみながら曖昧にうなずくミーナに、男たちの暴走は止まらない。

「こんなに可愛い女の子が目の前にいるのに口説けもしない! 全部あいつらのせいだ!」

「おうよ! 兄ちゃんももっと飲みな! いいことなんかありゃしねえ!」

 毎日仕事場で叫び倒しているのか、声の通りもいいので、彼らが声を張るたびに目尻にしわを寄せるミーナ。それでも精一杯、顔に引きつりながらも微笑みを浮かべるのは忘れていない。

「でも、そういういかがわしい人たちって自然と集まる場所が決まってるんじゃないの?」

「まあなあ。よそ者で後ろ暗いことを持ってる奴はだいたい貧民街に流れちまうからな」

 セイムは二人の言葉に聞き耳を立てながらも、横槍を防ぐために新しく注がれたジョッキに口をつけ、盛り上がった二人の注意を引く。

「貧民街って言ったら、乞食や家のない人のたまり場でしょ?」

「普通はな。けど俺は昨日見たんだ。夜遅くに剣をぶら下げた身なりのいい金髪の男が仲間みたいなのを連れて、こそこそ貧民街の方へと歩いてくのを。ありゃ明らかにおかしい」

「……!」

 セイムとミーナは揃って笑みが消え、目を細めた。

「ねえ、それって何時くらいか覚えてる?」

「あ? 何時だったかな……。だいぶ酔っ払ってたからはっきりとは覚えてねえが、日付は変わってたと思うぜ。見回りの連中もちらほら現れてたからな。俺も帰り道に連中に捕まって説教食らっちまったからな」

金髪の人間はこの地域には少ない。まして自警団が町を見回る時間に剣を持ち人目を避けて貧民街に向かったとなれば、それはアイロアと見てほぼ間違いない。

「そんなことより姉ちゃん、この兄ちゃんとデキてないなら今度俺とどうよー?」

「何抜け駆けしてんだ!? 姉ちゃん、こいつなんかより俺はどうだ!?」

「あ、あはは……」

とうとう目尻がけいれんし始めたたミーナとは対照的に、セイムは思いがけない情報に礼を尽くさねばと、金袋から銀貨を取り出して気前よく三人に高い蒸留酒を振る舞ったのだった。




  日付が変わると、酔客の話通りに町の自警団が見回りを始め、道端に眠りこけた者や時間を忘れて騒ぐ者たちを家に無理矢理帰していく。宵越しからまた日が昇るまでに理由もなく外をうろついていれば、最悪の場合夜盗と間違われて捕まる恐れもあるので逆らう者はいない。

 セイムとミーナもそんな時間に彼らを横目に見ながら宿へ戻り、主人から新しい水差しをもらって部屋へと入る。

「あー、疲れたね……」

「俺もだいぶ飲まされたからな」

「はー……」

 ミーナは部屋に入るなり、糸が切れた傀儡のようにセイムのベッドに座り込んだ。疲労困憊になってしまったのは酒場独特の喧騒に当てられただけではない。

 セイムも剣を壁に立て掛けて、ミーナに軽く笑い掛ける。多少は世渡りの仕方を心得ているとはいえ、彼は別段話術に優れているわけでもない。

 それが年頃の女の子を一人連れているだけであっさりと男たちの口は軽くなり、アイロアの有力な情報を得ることが出来た。何より彼が一人で酒場を回っていたら、あの三人の酔客はセイムに声を掛けることはないはずだった。

 背中を丸めてしまったミーナへ、セイムは心から労いの言葉を贈る。

「けどミーナのおかげで思った以上に話が聞けた。助かったよ」

「出来ればもう勘弁して欲しいわ。酔っ払いに絡まれるのは嫌だもん」

 全部で四軒の酒場を回って情報を集めていたが、四軒目でもまたうら若い女性が珍しがられたのか数人の酔客がミーナの周囲を取り囲み、町の様々な話を聞けた代わりに質問攻めを受けてしまい、たびたび泣きそうな顔でセイムに視線を向けていたのだった。

 無論手を出してくるならばセイムの出番だが、目的が目的なのでデレデレとした顔で色々と話してくれる男たちを邪険に扱うわけにもいかない。ミーナも店の看板娘のように可能な限り愛想を振り巻き、聞き役を演じ抜いた。

 ただし途中で我慢の限界に達したのか、ミーナの周囲に赤みを帯びたものが漂い始めたので、自分たちがお尋ね者になる前に金を置いて逃げるように彼女を引っ張って最後の酒場を後にした。

セイム自身、男たちの気持ちはよく分かる。見た限り彼女に声を掛けた者のほとんどは職人や人夫といった汗水垂らして働く者ばかりで、普段女性と接する機会などろくになさそうだったからだった。もちろんセイム自身もそれは全く同じで、髪を解いて自分のベッドでうなだれているミーナへ色気を感じずにはいられない。顔全体が熱を持っているのも散々飲んだ酒だけが原因ではなかった。

 しかしセイムはいくら酒が入って体が変に軽いとは言え、飢えたけだものとは違う。ひとまず水差しを彼女に渡して飲むように勧め、ミーナはため息とも礼とも取れる声だけ漏らしてごくごくと呷り、水差しを彼へ返した。

「分かったことが一つだけあるな」

 セイムもぼんやりとし始めた意識を保つべく水差しの水を一口飲んでから、少しだけ間を空けてミーナの隣に座ると、呆けたように天井を仰いでいたミーナへ話を振った。

「貧民街の話?」

「そうだ。あの酔っ払いが見間違いをしてなければ、アイロアはその付近に隠れてる」

 間に置いていた水差しの水を飲んで、ミーナがセイムへ顔を向ける。

 セイムの言う通り、予想以上の収穫があった。貧民街から比較的近い二軒目の酒場で聞けた話を元に、三軒目と四軒目でさらに情報を集めて回った。酔客の証言が大半を占める以上確証はないが、後半に回った町の中心地に近い酒場ではその手の情報が得られなかったことを考えれば、十分可能性はある。

人の口に戸は立てられない。ましてアイロアが人の目を引きやすい容姿をしている以上、見掛ければ必ず覚えている者がいる。

「それにしても、酒場って意外と人は少ないものなのね」

「たぶん町全体に嫌な噂が広まってるんだろ。実際、前に来た時は夜でも通りも酒場ももう少し人は多かったはずだ」

「そっか。それにしても、あたしはやっぱり酔っ払いは苦手だわ」

 酒場でのことを思い出したのか、ミーナは髪をかき上げながら肩をがっくり落とす。

「お前、最後の店で魔法を使いそうになってただろ。頼むから町で火事を起こすのは止めてくれ」

 酒が回って口を滑らせたセイムに、ミーナは不敵に笑いながら胸を張った。

「大丈夫よ、魔法ならアイロアの本拠地で存分に使ってあげるから。頼りにして」

「……俺が今頼りにしてるのはお前だけだよ」

「あんた……ちょっと酔っ払ってるでしょ。早く寝なさい」

 ともすれば先ほどの酔客の口説き文句と変わらない台詞にも、ミーナはまんざらでもなさそうにほくそ笑んで、自分のベッドへと戻る。

 酔った勢いで膝枕を頼もうかと言い掛けたが、いくら酔っ払って口元が緩んでいようとも生存本能だけは正常に働いている。言葉を飲み込んだセイムは上衣を脱いで身軽になると、火照った体とこみ上げる睡魔に身を委ねていった。



 二人がティルに着いてから三日目の朝。

 彼らを起こしたのは小鳥のさえずりや宿の主人の呼び掛けでも、通りで荷車を威勢よく引っ張る馬のいななきでもない。

 組合の使いが宿を訪ね、「ショーンさんが午前中に宿に来て欲しいとのことです」と言伝を残していったからだった。

「意外と早かったな」

 使いの少年を窓越しに見送りながらセイムが言う。

「まあ、魔道士のことならほぼ内輪の話だからね。ティル在住の魔道士の名簿を調べるのは、そんなに難しくないと思うよ」

「早速行くか?」

「うん、セイムこそ酒残ってるんじゃないの?」

「まさか。そこまで深酒はしてねえよ」

 善は急げとばかりに二人は身支度を整えて、ショーンの宿を目指す。

 自分の宿を一歩出て足を止め、ふとミーナが呟いた。

「そう言えばショーンさん本人には宿を替えたことを伝えてなかったね」

「組合の誰かが伝えてると思うけど……知らなくても別に問題はないだろ。今さっきみたいに組合を通して使いが来るんだから」

 気だるげに言葉を返すと涙のたまった目尻を擦り、背筋を伸ばす。

通りの反対の太陽を掲げた教会からは盛大に鐘が鳴り渡り、祈りを捧げる者たちが続々と開かれた扉を抜けて中へ入っていた。

 以前より宿の距離がやや遠くなったとは言え、二人の足ならば二十分と掛からずに宿へ着き、ショーンの部屋をノックして入室する。

法衣さえ羽織ればいつでも外出出来そうな装いで彼は二人を出迎え、部屋の中心のテーブルを手で示す。

「来たか。普段なら広場に行こうと言うところだが、君たちが先日襲撃に遭ったのは聞いている。無事で何よりだが、とりあえず先に座ってくれ」

 用意された椅子に二人はつき、外を見張りつつ扉を閉めたショーンが遅れて席に座る。

「慎重ですね……もしかしてショーンさんも狙われたんですか?」

「僕の方は何事もないが、これから先もそうとは限らない。下手に外を出歩くのは得策じゃないからな。今後の打ち合わせはここでしよう」

 ミーナがテーブルの上の丸められた紙束に目が行くのと同時に、ショーンの右手が紙へと伸びる。

「早速話に入ろうか。先に言っておくが、アイロアの居場所はまだ掴めていない。代わりに、この町で名のある魔道士を数名絞ることが出来た」

三人が囲む真四角のテーブルにはショーンの手によって広げられたティルの地図が置かれ、住宅の多い区画、工房の多い区画、娼館の多い区画などが詳細に書き加えられていた。

「この赤いのがそいつらが住んでるところか」

 ところどころに赤いインクで打たれた印を指差すセイム。

「ああ。ただし、あくまでまだ可能性があるというだけだ。しばらくは見張りをつけて様子を見る。もしアイロアと組んでいれば、何かしらの接触を図るはずだ」

「アイロアや仲間が動きを見せなくなる可能性はありませんか?」

「それもあり得るのが困ったところだが……他にいい案がないからな」

「酒場を何軒か回ったが、酔客の話だと、アイロアに似た奴が貧民街の方へ行ったって話を聞けたぞ」

ショーンは目を丸くし、一呼吸空けて軽く責めるような口調で言葉を漏らす。

「自分たちで情報収集をしていたのか。敵に見つかったら危険だろう」

「それならそれで良かった。その時は叩きのめした奴から情報を聞き出せたはずだからな」

 ぎょっと肩を強張らせたのはミーナだった。

「え、あんた最初からそのつもりだったんじゃないでしょうね!?」

 気まずそうに目を逸らしたセイムの肩を、ミーナは血の気の引いた表情で激しく揺さぶっている。

「危ない真似は止めて欲しいな。町中で襲ってくることはそうそうないとは思うが、尾行された上で先日みたく夜襲を仕掛けられたら今度こそ危険だ」

「ああ、悪かった」

「ちょっと、あたしの顔を見て謝りなさいよ!!」

明らかに無視されたことに余計に腹を立てたミーナは、歯を剥いてセイムの胸ぐらに両手を移して締め上げるが、セイムの体はびくともしない。

「一つ気になることがあるんだが」

 独り言のように呟いたセイムの言葉に、ミーナの手が襟からするりと抜ける。

「何でアイロアは隠れてるんだ?」

「何でって……堂々としてたらあたしたちに見つかっちゃうからでしょ。相手はお尋ね者なんだから」

 セイムはミーナの返答に静かに首を振った。

「そういう意味じゃない。確かに俺も最初は、隠れるのが当たり前だと思ったよ。だが、相手は自分をかつて破った傭兵に腕利きの魔道士が二人。町から出られないのは奴も分かってるだろうから、何の策も持たず隠れたままなのは不自然じゃないか?」

「……言われてみればそうだな。機を伺っているにしても、あまりもたもたしていれば仲間を呼ばれてさらに状況が悪化する可能性だってある」

「もしかすると仲間が集まるのを待ってるんですかね」

 ミーナはそう言いながら、貧民街の区画を視線を何度も行き来させる。

「再び反乱を企んでいるとすれば、それも考えられる。元部下や腕の立つ荒くれを集めれば、僕らに数で対抗することも出来るし、奇襲も掛けやすくなる。そして然るのちに資金や兵力を整えて挙兵するつもりかも知れない。仮にも奴は元貴族だ。国に内心不満を持ってる貴族を後ろ盾にするのは容易い」

「となると、時間稼ぎをしてるのか……」

 あるいはそう考えるのを見越して罠を張ってるのか、との言葉はまだ口にしなかった。

 いずれにしろ、セイムにはまだ確証はなかったから。

「ひとまず魔道士の様子を見るしかないんじゃないですか?」

「だな。まだ分からないことが多い以上、判断するには材料が少ない。魔道士の件は何か分かり次第追って連絡しよう」

 ショーンは仕方なさそうにうなずき、地図を丸めて細い紐で縛ってテーブルの隅に避けた。セイムも異論を挟むことなく立ち上がり、「じゃあ、また」と席を立ち、ミーナも彼へ続いて部屋を去った。




 それから丸二日が経ったのだが、未だショーンからは一向に連絡が入らない。書き物をしながらやきもきするミーナをよそに、セイムは一日のほとんどを鍛錬か、ベッドに寝そべっての読書に費やしていた。彼のベッドの隅には読破された小さめの本が三冊置かれ、今現在は聖書のように分厚い装丁の本を読み耽っていた。

 文字を間違えたのか、ミーナは紙をぐしゃぐしゃと丸めて足元のごみ箱に投げ捨てる。落ち着かない様子の彼女など意に介さず、セイムは逆さになった本のページを器用にめくり、反対の手の指ですくい上げてまた活字へ目を通していく。

 ミーナは一度椅子に腰を下ろしたまま背筋を伸ばし、かれこれ四、五時間は読書に熱中していたセイムを見つめた。

「ねえセイム」

「ん?」

「意外と読書好きなのね。って言うか、文字が読めるのはちょっと意外だったわ」

「育ての親に教わったからな。組合でも契約書があったりするから自然と覚えるさ」

 読み書きにはそれ相応の勉学が必要なため、文盲は別段珍しくはない。まして傭兵や兵士といった腕っ節で稼ぐ者は識字などとは縁遠い人間ばかりになってしまうので、ミーナの先入観も無理はなかった。もちろんセイムもそれは理解していたので、目くじらを立てはしない。

「それに、読書は好きだからやってるってだけでもない」

「何か調べ物でもしてるの?」

「調べ者はほぼ正解だが……」

「何よー、もったいつけずに教えなさいよ!」

 とっくに止まってしまったペンを置いて、好奇心一杯の瞳がセイムへ向けられる。

 セイムは口を滑らせたことを後悔するように右頬をさすって、ミーナをじっと見つめる。

「……言ってもいいが、笑うなよ?」

 妙に真剣な表情のセイムに何度か瞬きを繰り返し、ミーナはこくりとうなずく。

セイムの視線がミーナから窓よりもずっと彼方へ流れ、本をぱたりと閉じる。

「ずっと昔に見た見上げるくらい大きく澄んだ水晶。それをもう一度見てみたいんだ。そこがどこだったのかが分からないし、思い出せない。ってより、小さな頃の記憶はそれしかない。それでも、もう一度だけこの目で見てみたい」

 まるで遠い故郷に思いを馳せるように語ったセイムは、空にぽつんと浮かぶ雲をじっと見据えている。

「じゃあ、傭兵の仕事も……」

「そうだ、仕事柄あちこちを回るからな。各地の本を読めるし、仕事さえ終わればいくらでも自分の足で探し回れる」

「……手掛かりはあったの?」

「今のところはぱっとしない。調べるほどに似たような言い伝えや伝説が増えてきて、どこから手をつけたらいいんだかって感じだ。例えば、遥か東の国に祀られた巨大な宝石の話とか、町の至るところに氷の柱を立てた年中雪の積もる北国の話とかだな。場所がどこかの前に真偽の確認が先だよ」

「そっか……」

 問い掛けたことを後悔した風にも取れる、ため息を搾り出したようなミーナの言葉。セイムは彼女の表情が沈んでしまったことに何故か罪悪感を覚えてしまい、間を持たそうと言葉を投げ掛けた。

「ミーナは……どうして魔道士に?」

 しかしそれはセイムの率直な疑問だったことに、すぐ彼自身気がつく。

 数日前の質問とは似て非なるもの。

 同時に、もっと彼女を知りたいと思い始めた。

「あたし? んー、信じてくれるか怪しいとこなんだけど……」

 セイムはあえて何も言わず、ミーナが言葉を続けてくれるのを待つ。

「あたしは物心つく前に実の親が流行り病で死んでさ、当時ミラドで有名だった豪商夫婦の養子に迎えられたの。魔法学はその時から学び始めて、生活にも不自由しなかった。けどその両親も旅先の事故で帰らぬ人になってね」

 噂話をするような口調の軽さとは裏腹に、前髪の間から覗くミーナの瞳はどこか寂しげな光を放っている。

「その時六歳だったからあたしは遺産なんか相続出来なくて、お義父さんの弟が遺産と両親がまとめてた商会の権利を手にしたんだけど……あたしが疎ましかったんでしょうね。以前から仕えてた召し使い共々追い出されかけた。でもあたしが魔法学を学んでるって知って急に掌を返したの。『十年以内に魔法学校を卒業出来れば、家に置いてやる』って言われて、ひたすら厳しかったけど、召し使いたちの応援もあって必死に勉強したわ」

 セイムは、眉一つ動かさずミーナの話に耳を傾けている。ミーナは一度うつむき、すぐに彼の目を真っ直ぐ見返した。

「頑張った甲斐あって三年前にどうにか魔法研究所に入れたんだけど、それからもなかなか辛くて。どうしても研究所は男社会だから、肩身狭いんだよね。あたしが若いのもあるんだろうけど、何かにつけて仕事押しつけられるもんだから、自分の研究も進まなくて。あのショーンさんすら最初の一年くらいはあたしに辛く当たってたもんね。あの人に限らず入所してしばらくは、すぐに逃げ出してしまいたいくらいみんな冷たかったよ」

 普段ははきはきとしているミーナの声が途中でかすれ始め、セイムは近くの水差しを取って彼女へ渡す。「ありがと」とミーナが言って、今度は遠い視線で話を続けた。

「けどそんな折におじさんも病に倒れて、商会はそのまま他人に売り渡された。年齢的にはもう大丈夫だったんだけど、商売はあたしもよく分からなくて継ぎようもなかったから。無力感も感じたけど、嫌われてたと思ってたおじさんに『立派な研究者になれ』ってベッドの上から諭されて、同時にその時に気づいたんだ。あたしは色んな人のおかげでここにいられてる。可愛がってくれた両親やずっと支えてくれた召し使いたち、何だかんだ言って学校に行かせてくれたおじさん。何よりあたし自身、魔法が好きなんだなって実感したよ」

 口を引き結んで重苦しい顔を見せていたセイムに、勘違いしたのかミーナは目を点にして束ねていない髪を振り乱し、口をパクパクさせる。

「あ! ごめんね。長い愚痴になっちゃって……」

「いや、そんなことない。むしろ話してもらえて嬉しいよ、ありがとう」

 ミーナは頬の下にえくぼを浮かべ、熟れた果実のように顔を紅潮させて笑った。

「へへ、恥ずかしいな。何か、セイムは不思議と信頼できるんだよねー。肩の力を入れずに話せるって言うか。魔道士って周りといがみ合うことも多いから……ってこの話はショーンさんには内緒だよ?」

「分かってるよ」

空になった水差しを振り回して、セイムは静かに笑い返したのだった。




 その日の夜、二人は再びショーンから呼び出しを受けた。

 例によって人目を忍び、何とも言えない雰囲気を漂わせる路地裏を通り、彼が滞在する部屋の扉をまた叩く。先日と同じようにテーブルにつき、広げた地図を中心に据えて、ミーナは待ち切れないとばかりに口を開いた。

「ショーンさん、どうでした?」

 ショーンは椅子を引いて席に着き、一枚の紙を胸元へ寄せて淡々と読み上げる。

「ようやく突き止められた。やはりあの中に一人、アイロアと繋がっている奴がいた。名はレストン・ドーク。元ミラド魔法学校卒業生で、普段は写本で日銭を稼ぎながら、自宅で魔法の研究に耽っていたようだ。学校の成績を見る限り、元は〝地〟の資質の持ち主で、瞬間移動トランスファーも得意だったらしい」

 ミーナの目元がかすかに動き、ショーンの顔と紙を視線が上下する。

「つまり、そいつを問い詰めれば、アイロアの居場所が分かるってことか」

「そこまでしなくても問題ない。レストンの足取りから、アイロアの正確な居場所まで掴むことが出来た」

「ってことは……」

 セイムがテーブルに食い込むように前のめり、鷹の如き視線をショーンに向ける。

「打って出よう。すぐにでも」

 両肘を突いた格好で、ショーンが二人をぐるりと見渡した。セイムが勢いに任せてうなずきかけたところへ、それを制したのはミーナの落ち着き払った声だった。

「今夜は早過ぎると思います」

 ショーンは顎をすっと引いてミーナの眼差しを受けながら肘を下ろした。

「しかし、不意を突くのは今が好機だろう。レストンもこちらの動きにはまだ気づいていない。察知される前に行動を起こすべきだ」

「相手は仲間の防具に瞬間移動トランスファーを仕込むほど慎重な魔道士です。本拠地にも何らかの罠が仕掛けられていると思って間違いないでしょう。策もなしに突撃するのは無謀です。せめて、レストンが張りそうな罠とその対策を済ませてからでないと、返り討ちに遭うかも知れませんよ」

 ミーナの反論は、敵意を抱いているかのような強い口調だった。

「……それもそうだな。念には念を入れておくに越したことはない。セイムくんはどう思う?」

「俺は魔法のことはさっぱり分からない。ただ、敵襲に備えて部下を配置してる可能性は十分あるだろうな。アイロアからすれば、こないだ襲われたばっかりだし」

 ショーンはしばし目を閉じ、居眠りでもするようにうつむいた。そしてまぶたを開き、紙をようやく置いて、手を胸の前で力強く組む。

「では、これはどうだろう。これからすぐに対策を整え、完了次第今日中に攻め込む。今日中と言うのは、アイロアが町を脱出する可能性が出てきたからだ」

「え?」

「……根拠は?」

「昨夜からレストンが門近くをうろうろしていたらしい。まさか正面突破する気はないだろうから、レストンの魔法に頼るつもりだろう。その気になれば、門を破らずとも町を出る方法はある」

 セイムは隅に置かれたアイロアの胸当てを見ながら呟く。

「……瞬間移動か」

「そうね。瞬間移動にも種類があるから、〝地〟の持ち主なら地面を伝って壁の向こうに瞬間移動、って芸当も可能のはずよ。その手を使えば長ったらしい詠唱文や複雑な魔法陣を地面や壁に書く必要もなしで、術者がその場にいさえすれば行使出来る」

「それでも地の利や多少の準備は必要になるからな。わざわざ本人が出向いて調べたのだろう」

「だから時間がないってことだな。遅くとも、今日中には動かないと、夜更けにはもぬけの殻になってるかも知れないじゃないか」

「だからこそ、早速作戦会議に入りたい。二人とも異存はないか」

 一度町の外に逃げられたらこれ以上の追跡は難しくなる。

二人は静かにうなずいた。




 灰色の雲が月光を覆い隠し、窓から漏れる蝋燭の明かりも見当たらない貧民街の道。中央とは打って変わって土を固めただけの家や、どこから持ってきたのか分からないぼろぼろの板を屋根代わりに被せただけの粗末な雨よけ、その中で身を寄せ合うセイムたちの半分も生きていないだろう子供たち、ござも布も敷かずに道端に寝そべって、一見すると生死すら疑わしいやせ細った男。

町が大きければ、栄えた中心地に対してこうした負の側面もにじみ出てしまう。

 日付が変わるまであと一時間を切った頃合で、三人は彼らに目もくれずに目的地へ一直線へ歩いていく。

セイムは動きやすさを重視した革鎧レザーアーマーを装着し、ミーナはすっかり見慣れつつある真っ赤な上下の服、ショーンはぼさぼさの髪を夜風になびかせつつ、先日と同じ丈の短めな法衣をまとって杖を右手に携えていた。

「念のためもう一度手はずを言う。ミーナ、君は僕と一緒に、アイロアがいると思われる屋敷の周囲を調べる。不審な文字や魔法陣がないかを念入りに調べる」

「はい」

「そしてセイムくん。君は僕らの合図を見届けたら、先に中に入ってくれ」

「了解」

 セイムの返事と同時に辿り着いたのは、全体的に狭い通りと寂れた一角では完全に浮いており、確かに屋敷と呼ぶに相応しかった。彼らの身長の倍以上はある石壁に囲まれたその屋敷は、角越しで遠巻きに見ている上宵闇も手伝って細部は分かり辛いが、それでもしっかりした造りだったのは三人にも見て取れた。

「何か、あれだけ周りに比べて立派ですね」

「昔はとある貴族が住んでたらしい、しかしその一族が没落してから、巻き込まれるように一帯が寂れ、自然と住居や金を持たない者、流れ者などが集まって、現在の貧民街が成り立っていったとのことだ」

「元貴族の家に元貴族が隠れ住んでるのか。何て言うか……やれやれ。まあそこそこ広そうだから、剣を振り回すには不自由しなさそうだ」

 呆れるように笑ったセイムは背中の剣を真っ直ぐに直して、臆することなく屋敷へと近づいていく。形式上誰もいないことになっているためか大きな鉄格子に似た門の前に見張りもおらず、セイムは二人を手招きする。

「よし、僕はこっちを調べよう。ミーナは反対側を調べてくれ」

 呼び出しに応じた二人が屋敷の外周を半分ずつ回る。わずかな月光だけを頼りに魔法陣や詠唱文が描かれていないかを確かめていく。案の定、ミーナは石壁の隙間に挟まれた罠らしき魔道紙を何枚も回収していった。

 ほんの数分だったが、二人はほぼ同時に門の前に戻る。

「どうだった?」

「やはり、罠らしきものがあった」

「あたしも見つけた。しかも、分かりにくいように石壁の石の隙間に入ってたわよ」

 二人の手にそれぞれ握られていたのは、数枚の魔道紙だった。

「魔法陣や文字の配置から見た限り、屋敷に侵入した人間を外へ弾き飛ばすものだろう」

「しかも中の人間に魔法が発動したことを知らせる機能までついてるみたい。不用意に侵入したら、間違いなく逃げられてたでしょうね」

 ミーナは言いながら、屋敷の二階部分を見上げた。たゆたう前髪の先の表情は月が霞む夜空よりも曇っており、見かねたセイムが声を掛ける。

「気を抜くなよ。一瞬の油断や一手の遅れが、死に繋がる」

「……ええ」

 じっと門の奥を見据えるショーンを一瞥し、ミーナは呟いた。

「中に人の気配はあるか?」

「……屋敷の中からは感じるが、少なくともすぐ近くには人っ子一人いない」

 今度は石壁を見上げたショーンは、呆れがちにセイムに尋ねる。

「なるほど。しかし、どうやって侵入する? まさか門を壊すわけにもいかないだろう」

「あれくらいならいける。少しだけ待っててくれ」

 セイムはそう返してから丈夫そうな荒縄の端を足元に置いて、残りを腰に下げたまま石壁のところどころの出っ張りに足を掛け、すいすいと上がり、ひょっこりと顔を出して軽く庭を見渡す。やはり急襲の甲斐あってか見回りはおらず、てっぺんを乗り越えて草むらを避け、堅そうな土の地面へと着地した。

 声を張り上げるわけにはいかないので腰の荒縄を側に生えていた樹に体重を掛けつつしっかりとくくりつけ、石壁をこんこんと叩いて合図を送る。しばらくするとミーナが先ほどとは違う意味で表情を凍らせて縄にしがみつきながら、樹の隣で待っていたセイムの手を借りつつおっかなびっくりといった体で彼の側に降り立った。

「ごめん、時間掛かっちゃった」

「謝るのは全部済んでからだ」

 もう一度セイムが石壁へ合図を送ると、石を叩き返す音と共に縄がぐらぐら揺れる。

「セイム」

「何だ? 敵地であまり喋らない方がいいぞ」

 あえて威圧するような語気で言ったセイムだったが、ミーナはかけらも怯まない。

「分かってる。だけど大事なことなの。これを持ってて」

「?」

 セイムが首を傾げる間に、ミーナは左耳のピアスを外し、彼に差し出した。

「何だこりゃ。これをどうしろって?」

「いいから持ってて。後で分かるから」

 セイムが鼻の頭をかきながらピアスをポケットに突っ込むと、慣れた様子でショーンが大した時間も掛からずにするすると壁を越えていた。ミーナよりも荒事に慣れているのか、はたまた運動神経の違いなのかはともかく、懸垂の体勢で両手を動かしつつ縄を伝って、程よい位置に到達したところで手を離し、自然に着地して手のほこりを払っている。

「これ以上逃げられるのはさすがに面倒だな」

 ショーンは屋敷の入口へ顔を向けながら、冗談っぽく笑う。

「行こう、今度こそ決着だ」

 剣を抜き放ったセイムの一声と同時に、三人が一斉に走り出す。

 今度こそ逃がさない。その思いを胸に秘めながら。




 主を失い、長い月日が経過して人の手が掛からなくなった屋敷。大陸選りすぐりの羊毛を使って仕立て上げられた絨毯は虫に食われ、趣味に明かして集められたであろう絵画は絵の具の油が剥げ落ちて元の絵の輪郭すら判然とせず、色褪せた壁や床に同化し始めている。浮浪者すらろくに寄りつかず、ひたすら朽ちゆくのを待つはずだったそれは、突如として静寂を斬り裂かれた。

 三人はアイロアを探すため、広間を突っ切って二階への階段を探すべく回廊を走っていた。床はいつ踏み抜いてもおかしくないほどみしみしと軋みを上げ、行き止まりにもうすぐ差し掛かるところに、分かれ道の右側から武器を構えた男たちと鉢合わせた。

「いたぞー!」

「ぶち殺せ!」

「早速か! 『水矢ウォーターシューター』!」

 手前にいたショーンが杖を薙ぎ払い、先端から敵の数に合わせた三本の水塊がそれぞれの顔面を直撃し、廊下に派手な音を立てて倒れる。

「やはり敵がいたな……」

「急ごう。敵が集まると面倒だ」

 不意打ちでのびた三人を見下ろしながらまたぐと、敵が来た方とは反対側に緩やかな螺旋を描いた階段にあることに気がついた。きっちりと敷き詰められた広間と同じようなぼろぼろの絨毯、汚れに汚れが重なって透明性が失われつつある高級そうな窓硝子と、錆びて茶色く変色した燭台が階段に沿って壁に点々と設置され、手すりも体重を預けるには危険そうなくらい腐食が始まっている。

「月明かりが差し込んでるとはいえ、暗いな……」

「出会い頭に斬られないようにしろよ」

「階段でつまずかないようにもね」

 足を乗せると思った以上に階段は軋み、早足で進みつつも足元を見ながら一段一段を慎重に上がっていく。しかし敵が待ってくれるはずはなく、どこからともなくたくさんの足音が響き、古びた屋敷がにわかに殺気立っていった。

 二十段ばかりの階段を上りきり、廊下を歩きながら三人はそれぞれ身構えていた。ショーンは息を呑み、ミーナは短い杖を強く握り、セイムは周囲の気配を探るべく感覚を研ぎ澄ませている。

『おい、しっかりしろ!』

 階下から響いた声で、角の手前で足を止めて三人は顔を合わせる。

「ばれちゃったかな」

「倒れた奴らが見つかったんだろう」

「……俺たちも見つかったがな」

 二人がはっと顔を上げる前に、セイムは脆い床を蹴って飛び出していた。眼前に二人の敵が顔を出した途端に手前の男の左脇腹を斬り下ろし、男が床に膝をつくことすら待たず腹に蹴りを入れて吹き飛ばす。ぶつかった弾みで後ろの男が怯んだ隙に、真横に回って右肩へ一太刀入れて、足を払いつつ後頭部を柄を離した左手で石膏の壁に食い込むほどの勢いで叩きつける。

ミーナとショーンは、口をぽかんと開けたまま、加勢に入る間もなく武器を持った手を離して意識を失った一人と、意識はあるが脇腹から血を流して立つのもままならないもう一人へ視線をやった。

「……あんた一人で突破出来るんじゃないの?」

 ミーナは呆れ半分でセイムに話し掛けるが、彼は意に介さず剣を握り直し、血を払って辺りを見回す。

「他にまだ敵がいるはずだ。今の騒ぎでここに来るはずだろうから、急ぐぞ」

 倒れた二人を尻目に廊下を駆け抜け、途中の部屋も調べながら三人は奥へ進んでいく。

 途中で見つけたもう一つの広間。そこの入口でセイムが一歩足を進めたところで、眉間にしわを寄せて再び足を止めた。

 ショーンはセイムに鋭い視線を向けて問い掛ける。

「どうした?」

 セイムは一点を見据えたまま、返答代わりに剣をゆっくりと正面へ構えた。

 二人が彼の視線の先へ目を凝らすと、金髪に鉄の肩当と胸当て、背中には外套と伊達を絵に描いたような男が優雅に佇んでいる。天窓から差し込んだ月光で照らされた顔は、紛れもなくあの男だった。

「やあ諸君。三日ぶりかな?」

「アイロア=テッド=サニーストック……」

「失礼、厳密には爵位を失くした時点で〝テッド〟の名はもう名乗れないのだ」

ミーナの呟きにも律儀に返したアイロアは、相変わらず腰の剣を収めたまま、両手を広げて踵をこつんと慣らす。

「こんなところまでわざわざ来たということは、私の忠告は無駄になるのかな。セイムよ、私と共に戦わないか? 君ほどの実力者なら大歓迎だ」

「誰が受けると思うか? それと俺の名を気安く呼ぶな!」

セイムが両手に剣を構えて床を踏みしめたまさにその瞬間だった。

 部屋全体が壁まで水晶を敷き詰めたように輝きを放ったかと思うと、二人の足元が氷の腕に絡め取られ、膝の下まですっぽりと埋まってしまう。

「……これは……何なんだ……!」

 余波である氷の結晶が粉雪のように周囲をひらひらと舞う中、セイムは目を見開き口を大きく開けて、死霊に憑かれたかの如く足元を見下ろす。

ミーナもまたブーツまで氷に覆われながらも、ある人物を鬼の形相で睨みつけている。

 アイロアではない。彼はまだ顔を上げなければ見えないくらいの間合いであり、そもそも魔法など使えはしない。

そこにいたのはなぜか、平然と二本の足で立ち、あまつさえ道化師の仮面にも似た怖気の走る笑顔を浮かべていた、ショーンだった。

「残念だよ。ここで朽ち果てるがいい」

 仰々しく外套を翻したアイロアの元へショーンは散歩のように歩いていき、頭上に巨大なシャンデリアの如き氷塊が顕現する。アイロアの隣に着いて振り返ったショーンの顔はもう表情が消え、杖を振り払うと同時に氷塊は二階の床もろとも二人を叩き潰した。

 屋敷全体を揺るがす轟音ののち、風と氷が消え失せると、広間の一角にはぽっかりと大穴が空いていた。

 舞い上がる粉塵と共に再び訪れた静寂を破ったのは、ショーンの高らかな笑い声。

「ふっ……はっはっはっは!! はっはっはっは!! あーはっはっは!!」

 抑え切れない感情がむき出しになったかのように、舌どころか奥歯まで覗けそうなくらい大口を開けて喉を引きつらせている。

「音に聞こえた傭兵と魔道研究所きっての女魔道士も、こうなってはあっけないな……」

 どこか悲しそうににうつむいて真っ暗な穴を見下ろすアイロアに対して、ショーンは喜色満面で長い杖をくるくる回し、先端を床に当てる。

「セイム=ワドルには気の毒だったが、我々と共に来たことを後悔してもらうしかないな。もっとも、一瞬にして死ねただろうから、後悔も苦しみも感じはしなかっただろう。これも僕のためだ。どうか恨まないでくれ」

『誰が死んだだって?』

 ショーンは正面を向いたまま笑顔が消え、アイロアは顔を上げて剣に手を掛け、弾かれたように後ろを振り返る。

そこには、主催者が演説を行なえるように設けられた小さな壇の上に、セイムとミーナは並んで傷一つなく、二人を見据えて仁王立ちしていた。

 思い出したようにショーンもセイムたちを一瞥し、杖をぎりぎりと握り締める。

「何故……生きている?」

「あたしの瞬間移動ですよ」

「馬鹿な!! お前が詠唱もなしで瞬間移動など出来るはずがないだろう!」

 杖の先端を震わせて床に擦りつけながら、唾を撒き散らすショーン。

 対するミーナは、ショーンの視線などどこ吹く風でブーツに残っていた氷を払う。

「ええ、苦手ですよ。だから下準備として、アイロアが現れた時にこっそり魔道紙から詠唱文を展開して広げました。魔法文字は発動するまで光りませんし、アイロアの周り以外は薄暗かったですから、気づかれる心配もありません。あとはあなたが罠を発動させた隙にあたしも魔法を発動させただけです。セイムも一緒に移動するよう、間接的に魔力を飛ばせるものを事前に持たせましたし」

 片眉を吊り上げて話を聞いていたセイムが「あー、これか」とポケットに手を突っ込んで思い返す。

アイロアは二人のやり取りを両腕を組んで見守っていた。

「……しかし、そうだとするとお前は最初から僕がアイロアに通じてると気づいてたのか。どこで気づいたんだ?」

「あなたからレストンの話を聞いた時です。レストンの持つ属性は〝地〟。瞬間移動には属性がありませんから、普通に発動させれば術者の本来持つ属性の色、つまりレストンならば〝地〟の茶や土色の発光をするはずなんです。なのに、アイロアが脱出した時の胸当ては青く輝いていました。青系の発光は術者の属性が〝水〟であることを示してます。そこで初めてあなたに疑いを持ちました。恐らくですが、レストンという人物は実在するんでしょうけど、この一件には無関係なんでしょう? あなたたちの仲間なら、わざわざあなたが自前で瞬間移動トランスファーを仕込む理由がありませんから。まあ、何となくセイムもあなたのことを警戒してたみたいですけど」

 ショーンの険しい視線が、今度はセイムへと移る。

「お前は地下道を抜けた後にこう言ってたな。『昨日君たちを襲った魔道士とは……』ってさ。なぜお前がティルに向かう途中で俺たちがごろつきに襲われたことを知ってたんだ? しかも、その中に魔道士がいたことまで」

 ショーンへ向けられるミーナの瞳がかすかに絞り込まれた気がした。

「あの時は顔を合わせてすぐ別行動し、次に会った時はほとんど無言で地下道へ向かった。どこにもそんな話をするところはなかっただろ。……でそれを聞いて思ったんだ。あの時のごろつきは俺たちに差し向けられたものだったんだってな。そうするとお前がそのことを知ってて当然で、アイロアと組んでる魔道士も、自然とお前を疑うことになる」

 舌打ちをして、ショーンは苦々しく「くそ」と呟く。

 だがアイロアは、並び立つショーンとは対照的に口元を緩ませ、腰の長剣を抜いた。

「やはりこうでなくては……。私は腐っても騎士の端くれだ。決着はこの剣でつけてこそのものだろう」

 騎士とは思えないほどのむき出しの闘気を放つアイロアへ、言葉で返すのではなく、セイムも剣を正面に構えて応える。

「止むを得ない。こうなれば……はっ!」

 わずかに流れる赤みを帯びた魔力を目で追うと、ショーンは足元に散らばったいくつもの単語に気がつき、声を上げた。

「アイロア、下がれ!」

 とっさに二人が後ろに飛び退いた瞬間、たった今まで彼らがいた場所から天井に届かんばかりの火柱が二つ立ち昇った。

「……負けませんよ。やれるものならどうぞ!」

「巻き添えで貧民街を火の海にするのは止めとけよ」

 二つの爆音に鼓膜を揺さぶられ、セイムはついミーナに悪態を突いた。

 セイムとアイロア。

 ミーナとショーン。

 舞い上がっていたほこりがようやく治まり、それぞれが向かい合い、一人一人が武器をその手に構える。

 今度こそ逃がさない。

 四人ともが同じ思いを抱きながら、月だけが見下ろす戦いの火蓋が切って落とされた。

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