第一章 wizard
夜更けに町に戻った少年・セイムは、借りていた安宿へ帰って年老いて腰も曲がった主人に一礼をすると、まずは大欠伸を漏らした。階段を上ると床が軋み、部屋に戻ると麻袋をベッドに寄せて、剣を背中から外して壁に立て掛け、肩と背中、そして胸を覆っていた革鎧を脱ぐべく留めてある紐を慣れた手つきで解いていく。
「さて……組合が開くまでもう少しだなと」
ぴったりと閉まっていた木窓のわずかな隙間から差し込み始めた朝日を見ながらセイムは呟いて、ばらばらになった鎧の部品を剣の隣へと置き、着込んでいた鎖帷子だけはそのままズボンを履き替え、右頬の傷跡を手でさすってから上衣を羽織る。
セイム=ワドルは今年十八歳になったばかりの傭兵だった。戦いを生業とする者としては小柄ながら、それにそぐわぬほど鍛え込んだ肉体と、傭兵を名乗るに恥じない腕を持っていた。傭兵を始めて三年が経過し、修羅場も幾度かくぐり抜け、まだ若いながらもその体からは既に歴戦の戦士たる風格が漂い始めている。
ただし顔立ちだけは磨き抜かれた剣にも似た鋭さこそ漂わせていたが、その身長と彫りの浅い目鼻立ちのせいで他者には実年齢以上に幼く映ってしまうことも多かった。
着替えが済んだセイムは机に置かれた水差しに入れられた水を口の中に注ぐと、ベッドに腰を下ろし、麻袋の中身を何とはなしに覗き込む。
中にぎっしりと詰まっていたのは、目もくらむほどの何十枚もの金貨だった。
セイムが昨日こなしたのは、三日前に王直轄の両替所から奪われた金貨の奪還。
厳重に保管されていたはずの金庫の鍵が扉ごと破壊され、まんまと賊に荒らされてしまったのだが、事態を重く見た所長が組合に依頼を行なったことでその日のうちにセイムが単独で動き出し、昨日の夜に首謀者の隠れ家を発見し、金庫番を叩きのめして取り返すことに成功したのだった。
「まあ、これだけの金があれば一生安泰だろうなー」
麻袋から一枚の金貨を取り出し、掌に納まるほどのそれを朝日にかざす。
この金貨は、セイムが今滞在しているヴェリモールの町でも一枚あれば半年は軽く遊んで暮らせるほどの大金であり、むしろ一度も手にしないまま一生を終える人も決して珍しくはない。
しげしげと金貨を眺めたセイムだったが、興味を失くしたように金貨を麻袋に放り込んで担ぎ上げると、宿の主人に言伝をして外に出掛けていった。
朝日がすっかり昇って、夜更けとは見違えるほど人の往来が増えている。酒焼けで顔を真っ赤にした職人、どこかの商会か工房の小間使いであろう幼い少年、はたまた旅から旅への貧相な修道女など、馬車でもすれ違えるほど広い通りではあるが決して閑散とはしていない。
通りの片隅に広げられた露店でパンを買い、歩きがてら口にする。これからセイムが向かうのは、通りをいくつか越えた先の裏手に構えられた、小さな傭兵組合だった。
セイムも含めた傭兵は、全て任務をここで請け、完了の報告までを行なう。
食感の重い混ぜ物入りのパンを食べ終わって手を払い、薄汚れた剣と縦の紋章を掲げた石造りの建物の前へと立つ。頑丈そうな作りの木製の扉を開けようと手を掛けると、何やら押し問答のようなおかしなやり取りがセイムの耳へと届いてきた。
『だから、あたしは今急いでるんです! ちゃんと陛下の書状もあるんですよ!』
『そう言われても困るよ。だからまず手紙を出して空いてる傭兵に連絡を取ってからでないと……』
『そんなんじゃ間に合いません! 今すぐ探して下さい!』
片方は明らかにセイムより若い少女の声であり、朝早くから何なんだとため息をつきながら扉を開くと、人目につきそうな赤系の服装をした少女はどんどんとカウンターを掌で叩いて、その先で席についている困り顔の受付の男に何事かを叫んでいる。
「これは勅命なんです! 今対応してくれないと国家反逆罪に当たりますよ!」
「分かった分かった、その台詞はさっきも聞いたから、まずそこの椅子に掛けてくれ」
傭兵組合そのものは国家の管理下にあるので、ある意味彼女の言い分は間違っていない。
「そんな暇ないんですよ、国家の危機なんです! 今すぐ人員を割いて下さい!」
待合室にもならない狭い空間で書状らしき紙を片手に怒鳴り散らす少女を横目に、顔見知りである髭だらけの厳しい顔の受付に麻袋を手渡すと、少女が鋭い視線をセイムに向けてきた。
「むっ、割り込むのは止めてくれる!? あたしが先でしょ!」
「こっちは夜通し仕事してさっき帰ったとこなんだ。それに、どんな勅命か知らないけどここは兵士の詰め所じゃない。いくら怒鳴ろうがすぐに人は来ねえよ」
「っ……何その言い方は!?」
「ついさっきまで受付にごり押ししてたのはどこの誰だよ」
今度はセイムと少女の間に不穏な空気が走ったところで、受付の男が困り顔で「まあまあ」と二人の間に手と言葉を差し入れる。
「セイム。君がこの仕事を請けたらどうだろう」
「ちょっと、どういうことですか!? こんな弱そうな子供に仕事頼むなんて嫌ですよ!」
その言葉に真っ先に不満を漏らしたのは他でもない少女だった。セイムは一瞬少女の言い草に顔をしかめるが、傭兵では珍しい十代という若さと小柄な体格から、初見では信頼されないこともしょっちゅうだったので取り立てて騒ぎはしない。
「だが、現状ですぐ呼べる人材は他にいないし、何より彼は確かに若いが腕はそこらの傭兵どころか宮仕えの騎士よりもはるかに上だ。貴女の言う陛下勅命の仕事も何度かこなしてるし、詳しいことは緘口令があるので話せないが、つい昨日もたった二日でミラドーマ四世勅命の仕事を完遂したばかりだよ」
「ちょっと待てクルーシャ、俺はやるとは言ってないぞ」
無言で疑惑の眼差しを向ける少女へ、クルーシャと呼ばれた受付の男は追い討ちを放つ。
「その書状に書かれている依頼の話はこっちにも届いてる。貴女も行動を共にするんだろう? もちろん時間さえもらえればセイムより大柄で屈強な傭兵も用意できるが……まさか私のように髭もじゃで垢と汗臭い男と寝食を共にしたいわけじゃないだろう?」
ここで初めて少女がぐっと言葉に詰まり、苦しげにうつむいてクルーシャとセイムを見比べた。クルーシャは頭を抱えた少女から後ろの小さな木棚を振り返る。それぞれの段にはぎっしりと羊皮紙の束が積まれ、そのうち一枚をおもむろに引き出すと正面へ体を戻してから、ペンを片手にセイムに問う。
「ああそうだ、さっきの仕事の報酬はどうする?」
「ん? いつも通りそっちで預かっててくれ」
「ではそう帳簿に書いておこう……で、貴女はどうするのかな」
クルーシャはセイムから少女へ視線を移して、さらさらと数字を筆記すると片肘を突いてペンの尻をこめかみに当てた。少女が先ほどの勢いを失ったためか、表情にはだいぶ余裕が戻っている。
「……分かりました、お願いします」
まさしく苦渋の決断という風に、少女はうなだれた。
「なあ、だから俺は……」
「いや、いずれにしろこの仕事は君に頼もうと思っていたところだ」
セイムは乗り気ではないが、クルーシャもまた譲らない。
「勘弁してくれ。しばらく寝てたいんだよ」
「聞いてたと思うがこの仕事は、彼女が任務で行動を共にする。私が言うのも何だが、傭兵と言えば大抵は酒と金と女に飢えてると相場が決まってる。いいのかな? そんな男たちに彼女を任せても」
「っ……」
「報酬も悪くない。詳細は後で説明があるだろうが、とても重要な仕事だから最大で金貨三枚まで出る。今回の任務でさえ金貨一枚出るかどうかの仕事だったろう?」
今度はセイムが言葉に詰まり、灰色の天井を仰ぐと唸り声を上げた。
「……ま、いいよ。その代わり、これが終わったらしばらく休むからな」
セイムが折れた瞬間、クルーシャはにんまりと微笑んで、さっきとは別の羊皮紙とペンをカウンターの下から取り出した。
「よし決まりだ、ではこの契約書を読んでくれ。この内容で問題がなければ、署名を」
「最初から俺に押しつけるつもりだったな……」
厄介払いが済んだとばかりにクルーシャはいつもの受付の顔に戻り、立ち上がって奥にいたもう一人の若い男と共に書類の整理を始めてしまう。
「ったく……ここ置いとくぞ!」
署名を済ませてカウンターに羊皮紙とペンを放置し、欠伸を噛み殺して少女へ向き直った。
「セイム=ワドルだ。よろしく」
そこへ二人のやり取りを呆然と眺めていた少女が、思い出したようにセイムを正面から見据えて頭を下げる。
「さっきは変なこと言ってごめんなさい。頭がかーっとなってつい……」
「あ? いや、よく言われるから別にいいけど……」
セイムがきょとんとしていると、少女はおずおずと頭を上げる。
意識している様子はないが、上目遣いの少女の栗色の瞳は子猫のように可愛らしい。
「お願い、力を貸して欲しいの。あたしは傭兵じゃないけど、魔道士だから、少なくとも邪魔にはならないわ」
言葉を聞き終わると、セイムの目が驚きで見開いた。
「あんた、魔道士なのか」
「うん、王立魔法研究所所属、ミーナ=ビット、こちらこそよろしく」
魔道士流の自己紹介なのか、ミーナは軽く右手の掌を上に向けると、人魂のように揺らめく炎が顕現し、すぐに手を振って炎をかき消した。
「仕事の細かい説明をしたいんだけど……場所替えていい?」
「そうだな……あ、クルーシャ! やっぱり路銀がいる! 銀貨十枚ほど頼むわ!」
ベルトに下げた拳大の金袋をまさぐり、手持ちがないことに気づいたセイムは奥のクルーシャを慌てて呼び止めて、彼が渡したのとは別の麻袋から銀貨を受け取り、もう一度署名を行なったのだった。
セイムとミーナが馬の手配を済ませてから揃って宿に戻ると、年老いた主人が下世話な笑みを浮かべたが、二人とも挨拶だけで相手にはせず部屋のベッドにお互い腰掛けた。
ミーナは朝食を済ませていなかったので、セイムが買ったところと同じ露店でパンを買い、水差し片手に食事を済ませるのを待つ。
「とりあえず、俺は何をしたらいいのかな」
クルーシャから見せられた契約書には大雑把なことしか書かれていなかった。
馬・宿など移動と宿泊の費用は各自が負担する。怪我の保証は一切しない。
基本的な任務の内容は案内人に従うこと。
「ていうか、よく内容も聞かずに請けたわね」
最後のひとかけらを飲み込んだミーナは、不思議そうにセイムに尋ねた。
「別にあんなのはしょっちゅうだよ。傭兵なんて現地に着くまで何をするか知らないなんて珍しくもない。俺の師匠も傭兵をやってるが、かれこれ一年近く海の向こうにいるからな。それに、今回は聞ける人間がすぐ近くにいるから問題ない」
「そんなもんなの?」
「よほどきな臭い仕事でもない限りはな。で、ビットさん、俺は何をしたらいいんだ?」
ミーナは髪留めでまとめられた髪を一なでして「ミーナでいいよ」と気安く言い、セイムもまた「なら俺もセイムと呼んでくれ」とお互い言い合って、話を戻す。
「まずあたしと一緒にティルの町へ向かってもらうわ。行ったことはある?」
「二、三度だけ。いい町だが、最近良からぬ噂を聞いたな」
「そうなのよね、今回の件はまさしくそれなのよ」
セイムは水差しの水を呷ると、近くの机に戻してから「どういうことだ?」と先を問う。
「元々ティルはこのヴェリモールと同じくらい大きな町なんだけど、周りに森が多いせいか、昔からならず者が潜伏しやすい場所だったのよ。で、最近また不穏な情報がお上に入ってきたってわけ。かなり厄介なのがね」
「この時期だと、内乱絡みか?」
「うん、ここ最近ティル周辺でならず者の動きが慌しくなってるって。三年前にも南の方で大規模な内乱が起きたばかりだから、国王のミラドーマ四世もあまり悪い印象を各国に持たれたくないんだと思う」
「……騎士の一団が造反したやつだな。先代が内乱が原因で体壊して死んだくらいだからな……神経質になるのも当然だろう」
セイムは窓辺に頬杖を突いて外を物憂げに見つめ、ふと真下に目をやった。
「馬が二頭来たな」
「あれ、意外と早いわね。これから宿を引き払ってもらうけど、荷物の準備はいい?」
ミーナの平然とした提案に、セイムが背中を不意打ちされたように顔を歪める。
「いきなりかよ……仕方ない、すぐ済ませるから待ってろ」
セイムがどたばたと荷作りを始めたのと、馬屋が部屋をノックしたのはほぼ同時だった。
「はー疲れた……。すぐに出るならそう言ってくれ」
「ごめんごめん、さっきのやり取り聞いてたと思ったからつい」
「すっかり忘れてたよ」
げんなりとセイムは前髪を垂らし、二人は馬に揺られてなだらかな草原が脇に広がる道を進んでいく。若干の傾斜はところどころにあるものの、馬の足には危険な枝や石ころもなく、さほど気にしなくても明日の朝一番にはティルに辿り着けそうなくらい陽気な道と空模様だった。
背にしたヴェリモールの町も豆を盛りつける小皿程度に小さくなり、馬の尻を見ても括りつけられた荷物が後ろ足に合わせて尻尾と一緒に揺れ動くだけで、昨日ろくに眠らなかったことを考えるとむしろ振り子のように眠気すら誘われてしまう。
「ねえセイム」
ふと、隣を歩いていたミーナが声を掛けてきた。
「んー?」
「素朴な疑問なんだけどさ、何で傭兵になったの?」
落馬しないのが奇跡的なほどまぶたを上下させているセイムへ、心配そうな視線を送りながら尋ねる。セイムも答えづらい雰囲気など特に見せず、目をこすると我慢出来ずに大欠伸をした。
「ふあー……。傭兵になりたかったわけじゃない。昔から剣術が好きで、これで食っていくのに一番手っ取り早いのが傭兵だったってだけだ。むしろ、ミーナが魔道士だってのにびっくりしたけどな」
セイムはミーナをしっかりと見据えて、言葉を続ける。
「俺の中では魔道士って言ったらもっと歳食ってるのしか浮かばないけどな。しかも王立魔法研究所って言ったら軍事大国ミラドーマ唯一の魔法研究所だろ。子供なのにそんなとこ入れるなんて凄いんだな」
「どういう意味よ! これでもあたしは十八なんだから!」
「えっ、嘘だろ……俺と同い年……?」
開いた口が塞がらないセイムに、ミーナは犬歯を剥いて殺気を漂わせている。
セイムが驚いたのは、それほどミーナが幼く見えたからだった。ただ小柄なだけではなく、左目の上で分けられた前髪と、楕円形の髪留めで束ねられて肩に下がった後ろ髪、猫を思わせる丸く幼い目鼻立ち、内側に杖を収めた赤の厚手の上衣に胸元から覗くすっきりとした鎖骨、同じく赤の際どいパンツから伸びる両脚もほっそりとしていて、下手をすると十代前半と言われてもおかしくないくらいだった。
「これでも童顔なの気にしてんだから! 研究所入りたての頃なんか子供が迷い込んだって何回も間違われてつまみ出されたこともあったのに!」
泣きそうな顔で不満を語るミーナに、セイムはあまりのおかしさに吹き出してしまう。
ただし、セイムも人のことをとやかく言える容姿ではない。
「笑うなーっ!!」
顔まで真っ赤にしたミーナが叫んだ弾みで手綱がぶれ、馬が首を振っていななき立ち止まった。セイムの馬も釣られて立ち止まってしまい、当のミーナは両耳にぶら下がったピアスを揺らしながら肩で息をしている。
「それ以上馬鹿にするなら魔法で丸焼きにしてやる……」
「悪かったもう言わないから止めてくれ」
小さな口から呪いの言葉を漏らしながら右手からまたも炎が上がり、セイムは馬共々迷惑気に首を横に振ってみせた。 たまたますれ違った旅人の集団も、紅蓮に燃え盛るミーナの手に気づき、揃って顔から血の気が引いていた。
「分かればよろしい」
「……で、さっきの話の続きなんだが」
気を取り直して、セイムは腰に下げた革袋の水に口をつける。
「そう言えばそうだったわね。えっと、どこまで話したっけ?」
「ティルの辺りで不穏な動きがあるってところまでだったな」
ミーナはぽんと手を叩いて、「あーそうだった」と静かに手綱を握り直した。
「ここからが本題。そのティルに妙な連中が増えてるらしいんだけど、どうもそいつらをまとめてる奴がいるみたいなのよ。平たく言えばそいつを捕らえるのが、あたしたちの仕事ってわけ」
セイムは草むらで追いかけっこをする野兎をちらりと見る。
「あたしは途中で傭兵組合に向かったけど、もう一人仲間がいて、あ、その人も同じ研究所の魔道士なんだけどね。その人は先にティルに入って密偵を動かして情報収集をしてるの。だから詳細はティルに着いたら新しい情報が入るはずなんだけど……」
「要はお前はよく知らないってことか」
「いちいち揚げ足取るな! 明日の朝には着くから嫌でも分かるわよ!」
また睨んできたミーナなど気にも留めず、そよ風を馬上で受けながらセイムは言う。
「それもそうだな。不確かな情報を当てにすると足元をすくわれかねない。はっきりしてるのは、傭兵組合に仕事が来る時点で命の危険があるってことだけだ」
本日何度目かの欠伸を出したセイムとは対照的に、ミーナは物陰で身じろぎ一つしない鼠の如く手綱を握り締めた。
太陽が空の頂上まで昇り切った頃、小川のほとりでセイムとミーナは休息を取っていた。馬にも川の水と付近に生えている草を食ませ、二人も大きな樹に寄り掛かってどっかりと腰を下ろし、パンを口にする。朝食べたものより黒くやたら硬いそれを苦もなくバリバリとかじるセイムへ、驚いているのか呆れているのか分からない視線を向けながらミーナは柔らかく中身の白っぽいパンをちびちび食べている。
「……よくそんな硬いのを平気で食べられるわね。パンを食べてる音じゃないし」
「ん? そりゃ顎も鍛えないといけないからな」
「そういう問題じゃないってば」
セイムが食べているライ麦パンは、普通なら薄切りにしてから水やスープでふやかして食べるもので、間違ってもミーナの食べている小麦パンのように気軽にかじられるようなものではない。彼は石臼を挽くようにごりごりとパンを咀嚼し、握り拳よりも大きかったパンは十分と持たずに胃に収まってしまった。
周囲には先ほどと同じように背の低い草原が広がり、ところどころには樹が生い茂っているせいで見晴らしはさほど良くないものの、小川のせせらぎを子守唄にこのまま寝転がって日なたぼっこをしたくなるような気分に誘われてしまう。
ミーナが最後の一口を頬張ると、小高い丘になっている道の先から、隊商らしき数人が厳重に覆いを被せられた荷馬車を囲みながら、セイムたちが来た方向へと歩いていく。
「もしかしてティルから来た人たちかな あっちのこと聞いてみようか?」
セイムは距離が狭まってきた隊商をしばし見定め、残念そうに首を傾げた。
「たぶん違うと思う。見る限り武装はしてないが、馬車を先導してる奴も含め、みんな旅慣れた雰囲気だ。確かもうすぐ南への分かれ道があったはずだから、そっちから来た連中じゃないか?」
「参考にはならない、か。どうする、そろそろ行く?」
「このまま眠りたいとこだけど、明るいうちに先を進みたいから、そうしよう」
木陰でひと休みしていた馬に跨り、二人は道へ戻ると再び目的地へ足を進め始める。
しかし、小さな丘を登り切ったところでセイムの表情は一変した。
「身構えろ。何かがおかしい」
ミーナが聞き返す間もなく、周辺の木陰から男たちが一斉に飛び出して通り道を塞いだ。
「お前ら、ゆっくりと馬から降りて武器を捨てろ!」
馬の鼻先に槍を突きつけられ、二人は顔を見合わせてから、指示通りに馬を降りるとセイムは腹の革紐を外し、背中の剣を足元へ放る。
「全部で四人か……」
「セイム、大丈夫なの?」
「いつでも杖を抜けるようにしとけ」
不安そうに囁くミーナへ言葉だけ返すと、先にセイムが槍を構えた一人に両手を上げて近づき、相手の装備を確かめた。
「よし、まずは金をもらおうか」
手前の最も体格の良い一人は槍を構え、側でセイムを睨む二人は剣と戦斧をそれぞれ持ち、二歩後ろで油断なくミーナまで見定めている年長風の男は何も手にしていない。
(後ろの手ぶらの男の出方が分からない……。他に伏兵がいない保証もないが、この距離なら……いける!)
右腰に下げた銀貨入りの袋をこれまた紐を解き、男がそれを受け取ろうと槍から片手を離して差し出したその瞬間、袋が突然支えを失い、男が腕を引き込まれて地面真っ逆さまに顔面がめり込み頭の真横に袋がどすっと落ちる。
「てめえ!!」
「やりやがったな!」
残る二人が突撃する際にはセイムが足元の鞘の端を踏んで柄を持ち上げて片刃の剣を抜き、ミーナも慌てて杖を懐から引き抜いた。短剣とほとんど変わらない程度の、とても短い杖を構えて正面を向くと、二人が別々に放った一撃を動き一つでかわして先に戦斧使いの肩から胸へ一太刀入れる。
「うぎゃあ!」
血を流した男はその場に転び、セイムは間髪入れずもう一人の剣士へ狙いを定めた。
「うわっ、うわっ」
矢継ぎ早にセイムに打ち込まれて狐のように細身の剣士は間の抜けた声を漏らしているが、ここで奥に佇んでいた年長の男が反対の手を懐に入れたまま長い薄緑の杖を二人に向けて呟き始める。
「舞い降りた天の心よ、我を縛りて仇を縛りて、荊にまみれたこの血が……」
「あれは……魔法! あいつは魔道士!」
男の足元に描かれる薄緑色の光の筋と言霊に気がついたミーナが倒れた二人に一瞬だけ気を配ると、鎬を削り合うセイムらを避け、先端に小さな紅玉をはめた杖を突き出し、どこか虚ろに見える瞳で詠唱を始めた。
「我の魂に火を点けろ、真っ青に凍りつく前に……」
ミーナの周囲を漂う空気が変わり、彼女を守るように赤みを帯びた風が舞う。
杖を構えた男の顔色が強張り、セイムもはっとミーナの体を覆う魔力に気がついた。
「戦の遺灰をこの地へ残せ、『魂火球』!」
瞬間、赤い風が杖の先端へ収束され、人の頭よりも大きな二つの火球と姿を変え打ち出された。一つは詠唱途中の魔道士の掲げた腕を見事に焼き、もう一つはセイムの剣を辛うじて受けていた剣士の右肩を直撃して、二人とも服を燃やしながら急斜面になった丘の反対側へと無様に転げ落ちていく。
セイムは眼前の敵が突然消えても、油断なく最初に地に伏した二人を睨んだ。
「やばい! 逃げろ!」
「……お、おう!」
セイムの殺気に死人の如く青ざめて体を起こすと、二人とも手負いながらも武器だけは持ったまま、転がっていった仲間を助ける様子もなく逃げ去った。
「やれやれ、終わったか」
もう一度セイムが丘の下を見ると、転げ落ちた二人もその辺で意識を失い、剣士に至っては途中に生えていた樹でしたたかに腹を打ってぐったりしている。
ミーナはその場にへたり込んで、恨めしげにセイムを見上げた。
「あー冷や冷やした。やるならやるって言ってよ」
「言ったら奴らにバレるだろ」
「それはそうなんだけどさー」
ため息をついたセイムはしゃがんで鞘と金袋を拾い、剣をボロボロの布切れで拭って収めると、正反対の方角であるティルとヴェリモールを交互に見据えた。
「どうかした?」
「……いや、こんなところにまでごろつきが出てくるのが滅多にないなと思って。しかもそのごろつきの中に魔道士がいたってのが……」
「まだヴェリモールからそこまで離れてないのにね……」
杖を懐にしまい、立ち上がったミーナも彼のように前後を見渡して顎に手を当てた。しかし考えても分からないと判断したのか、ふっと息を吐いて馬に跨り、馬の首に手を掛けてややもたつきながらも背中をまたぐ。
気持ちを切り替え、二人はまた手綱を握る。
「それにしてもびっくりしたね。怪我はしてない?」
「俺は大丈夫だ。それよりもミーナの魔法にびっくりしたよ」
「あたしだってセイムの戦いぶりに驚いちゃったよ。剣もなしに敵を叩き伏せて、そのまま次の敵まであっさり倒しちゃうんだから。何て言うか、格好良かった」
ミーナはくすぐったそうに表情を緩ませながらセイムの横顔を見る。彼も照れ臭さを隠せずに、視線をミーナとは反対方向へ逸らすと、ごくごくと水を呷った。
「けどさっきはちょっとだけ焦っちゃったな。あの魔道士も地の利を生かした魔法を使ってきたからさ。発動してたらきっと無事じゃ済まなかったもん」
「地の利?」
「魔法はね、それぞれに属性っていうのがあるの。で、さっきの男が使おうとしてたのは〝樹〟。文字通り植物の力を使うんだけど、この辺は草木がたくさん生い茂ってるでしょ? 魔法ってのはその場にあるものに属性を合わせて使用すれば、力を強めたりそこにあるものに干渉出来たりするのよ。火事場で〝火〟を使えば炎を強められるし、川辺で〝水〟を使えば川の水を使って攻撃出来たり、魔法の力そのものを強めたり出来る、って感じで」
「ならお前もあの時〝樹〟を使えば良かったんじゃないか?」
ミーナはゆっくりと首を横に振った。
「人にも生まれつき対応する属性、一言で言えば得意な属性があるの。あたしの場合は〝火〟。得意な属性なら力も強くなるし、短い詠唱文でも発動させやすくなるから。それに、〝樹〟は〝火〟に弱いから、万一お互いの発動がかち合っても、相手の魔法を打ち消してあたしの魔法が届くって寸法よ」
得意気なミーナの語り口は、確かに研究者を名乗るに相応しい魔法への造詣があることを感じさせた。容姿は幼くとも彼女は間違いなく魔道士であり、戦いに慣れた兵士や傭兵ならいざ知らず、戦場で的確な判断を下し、実行したのは魔法に長けているからといってそうそう行なえるものではない。
セイムには、少しだけミーナが大人に見えた。もちろん、ほとんど少女にしか見えないことは身の安全のためにもこれ以上は口に出さなかった。
「どうしたの? 早く行こう。足止めされた分遅れちゃうからね。もうすぐティルへの森が見えるはずだし、日没までに森を抜けよう」
「……あ、ああ。森を抜ければ後は目と鼻の先だからな」
賊を退けた丘が見えなくなると、道は傾斜や起伏も皆無に等しくなり、膝くらいの高さの草で左右を黄緑色に染めた原っぱが広がっている。少し目を凝らすと南への分かれ道とそのさらに奥に、人間の身長の数倍はありそうな木々が城壁の如く一面を埋め尽くしていた。
「深い森……。迷わないかな」
「森の中も道はしっかりしてるから、はみ出さない限りは一本道だ」
旅の修道士や商人たちとすれ違いつつ、矢印つきの看板が立てられた分岐点を過ぎて、森へと入り込んでいく。ヴェリモール付近の草原とは違う、見るからにじめじめした草と苔が樹の土からはみ出した根まで樹を覆い、青臭さともかび臭さとも取れる臭気が森全体に立ち込めていた。
また、情勢が芳しくないことを証明するかのように、森から出て来る者もいなければ、セイムたちのようにティルへ向かう人間も見当たらない。
「確かに、ティルで何かが起こっているのは間違いないんだろうな」
「だね。まあ物資の行き来って意味なら、ヴェリモールよりもさっきを南に進んだ町からの方が多いからね。山奥には農村もいくつかあるそうだし」
「それはまずいな」
「そうね、もし首謀者が何か厄介事を起こそうとしてて、捕らえるのをしくじって農村に潜伏でもされたら、問題が長引いちゃうからね」
「そうじゃない。まあそれももちろんあるんだが」
セイムは馬の胴体でふらふら揺れるミーナの脚を一瞥してから、視線を落とし気味に続ける。
「仮に農村に敵の勢力が逃げたとしよう。そうすれば俺たちみたいな傭兵が、あるいは国の兵士が村を攻めることになる。その間に敵は村の連中を煽って仲間に仕立て上げるだろう。そうなれば敵でも何でもない無関係の人間が確実に死ぬってことになる。傭兵や兵士ならまだしも、元々武器も戦意も持たない、ただの人間を巻き込むのはごめんだ」
桃色の唇をわずかに開き、目も大きく見開いてセイムを見たのはミーナだった。
「……何だ?」
「いや、えっと……思ってたのと違うなと思って」
「?」
セイムは正面へ向き直り、地面に半分埋まった石ころを視界に捉えると、手綱を操って足をくじかないように馬を石ころから避けさせる。
「傭兵ってもっと野蛮な人たちだと思ってたな……」
地面に吸いつく馬のひづめと吹き込む風の音にミーナの独り言はかき消され、セイムには届かない。
数時間掛けて森を抜けた頃には、空は星がはっきり見えるほどに黒く染まっていた。
太陽が見えなくなっても肌寒さはさほど感じられず、天気が崩れる気配もない。森を抜けてからは空気も湿気がなくなって、野宿をするのには絶好の日和だった
人の背よりも大きな岩陰で火を起こし、馬を繋いだ紐を樹の幹にくくりつけ、セイムは樹の根に座って夕食の準備を始めていた。余った枝を短剣で削って棒を二本作り、そこに干し肉を小さくぶつ切りにして串のように数枚刺す。焚き火の上に石と木片で組んだ土台に乗せて、火が通ったところをパンと共に頂く。
「なあミーナ。俺が飯の準備してた間、何やってたんだ? ……これ熱いぞ」
セイムが懐に短剣をしまって串焼きの片方をミーナに差し出しながら言った。
食事の準備を手伝わなかったことを責めているわけではない。セイムの視線の先にあるのは、自分たちを取り囲むように描かれた二重三重の円と、それに沿うように描かれた文字なのかも分からない奇妙な文様、ところどころに書き加えられた小さな星状の印だった。
「この円はね、魔法陣」
「何だそれ」
肉をくわえたミーナがまたもや得意気な顔をするが、セイムは先端の干し肉を歯で引っ張り出しながら、焚き火で朱色に照らされた彼女の顔を穏やかな表情で眺めている。
「使い方は色々あるんだけどね。あたしが今書いたのは、侵入者の反発と術者への報告」
ミーナはパンと水を口に含んで一息に嚥下すると、セイムの横槍が入る。
「……説明になってない」
「まだ途中。そもそも魔法陣ってのは、詠唱をする代わりに魔力を込めた文字や属性を暗示する図形を書くことで、あたしが何もしなくても条件を満たせばすぐに魔法を発動させられるの。これの場合で言えば、たとえあたしたちが眠ってても、この円の中に他の誰かが入って来れば、弾き返した上でそのことに気付いて目を覚ませるってこと」
「へー、便利なもんだな……魔道士になったら何でもありじゃないのか?」
相変わらず硬いパンをりんごの如く食いちぎるセイムに嘆息しつつ、「そうでもないんだけどね」と前置きをした。
「確かに、魔法陣を敷いたりあらかじめ様々な詠唱文を書いた魔道紙を揃えておけば、大抵の魔法は使えるし、一度に行使出来る魔力もずっと大きくなるわ。けど言い換えれば、魔法は準備しないと本来の力を出せないのよ。特に戦う時なんかはのんびり詠唱する暇なんかないから、仲間の補助を受けたり、詠唱文が足りなくても発動させやすい下級魔法でちまちま戦うって戦略を取るしかないの」
「万能にはなれないってことか。難しいもんだな」
「なかなか上手く行かないのよねー。さっき戦った魔道士みたいに、そこそこの魔法を完全詠唱しようとしたら百文字は下らないんだから」
セイムは最後の肉を口内へ滑らせて棒切れを火にくべると、ミーナも程よく熱の収まった肉を食べ始める。
「……考えてたら眠くなってきた。悪いが先に寝るぞ」
「うん、食べ終わったら火も消しとくね」
馬の荷物から大きなぼろ布を取り出し、蓑虫のように体に巻きつけると、樹に寄りかかって瞬く間に寝息を立ててしまう。
「もう寝たの? そう言えば昨日寝てないって言ってたっけ。ふあぁ……あたしも寝なきゃな」
うとうととまぶたを上下させ始めたミーナはおもむろに焚き火を指差した。
「激しい雨の中で歌ってよ……濡れた心が引き裂かれる前に……『清雨』」
すると真上から降り注いだ滝壷で巻き起こる霧のように涼しげな雨が焚き火を湿らせ、朱色の炎を放っていた木々がぶすぶすと音を立てて炭くずへ成り果てていく。
少年のような寝顔で布に顎をうずめるセイムに向かい合うようにミーナも毛布代わりの布切れを取り出して被ると、隣の樹に横になった。
真っ暗だった空が朝焼けで地を照らし出し、自然とセイムのまぶたも開く。
意識が不明瞭にも関わらず、布を脱ぎ捨てて上衣も一枚脱ぎ、樹に立て掛けていた剣を手にした。
「昨日はやってなかったな……。その代わり、襲って来た連中はいたから運動にはなったかも知れないが」
ミーナからも道からも見えない木陰まで足を進め、剣を構えて素振りを始める。
一太刀一太刀に踏み込みを入れて振り抜くたびに剣が風を切り、足元が沈み、セイムの灰がかった茶髪が遠心力で舞い上がる。眼前の敵に立ち向かう様を頭の中で描きながら身をこなし、剣をなぎ払い、地に突き立て、横へ転がり立ち上がる。
全身に汗が滲んでいくのに合わせて生命力を研ぎ澄ませ、寝起きから脱却しつつある頭と体が完全に覚醒したその時、かっと目を見開いて叫んだ。
「ここだ!」
セイムが足元から思い切り振り上げた剣から、かまいたちにも似た等身大の一閃が飛び出し、足元の草木を切り裂きながら、倒れた朽木を甲高い轟音を立てて真っ二つに断ち切った。
草原の爪痕から倒木までゆっくり視線を流して、肩に剣の峰をこんこんと当てながら満足気にうなずくセイム。
「よし、今日も調子いいな……」
「え、何? 今の」
振り返ると、岩陰から頭を覗かせたミーナが驚いた猫のような表情で彼と倒木を交互に見比べていた。
「よいしょっと。今の、セイムがやったの? まさか『闘気』ってやつ?」
ミーナは岩の上から軽く飛び降り、汗で顔を光らせたセイムを凝視する。
対するセイムは、未だに何か立ち上っているような気がする剣を鞘に収めて、顔を手の甲で拭ってから言った。
「起きてたのか。て言うかこれ知ってるのか」
「今さっきね。まあ、見るのは初めてだよ。歴戦の戦士だけが使える技だって話に聞いたことがあるだけ」
ミーナはしゃがんで地に刻まれた切っ先を手で触れ、終着点である枯れ木の断面まで歩いて追い掛ける。
「すごい……。斧や鉈で切ったみたいに綺麗な切り口」
指で切り口をなぞってから駆け足でセイムの元へ戻り、ミーナは目を爛々と輝かせた。
「いつ覚えたの? 他の技ってあるの? 傭兵ってみんなあんなこと出来るの?」
「いっぺんに聞き過ぎだ!」
自分が汗だくなのに身を寄せての質問の嵐にセイムはうんざりしつつ、恥ずかしげに背を向けて馬の元へ戻り、服を着直して毛布をまとめていく。
そもそも、セイムは仕事柄女性と接した経験が少なく、任務を共にするのも当然ながら皆男ばかりだった。そんな状況下で悪意も何もなく体を近づけたり瞳を輝かせるミーナに対し、それなりの年頃の男であるセイムが賢人の如く無でいられるはずもない。ましてやミーナも少女のような雰囲気でこそあるものの、容姿は誰が見ても整っていると言って差し支えなく、よくよく見れば体の線も細身ながら年相応に出るところは出ており。そんな彼女がころころと表情を変えながら詰め寄られれば、動揺をしてしまうのも全く無理はなかった。
「待ってよ! 朝ご飯食べてからにしよう」
「馬に揺られながら食え!」
思わずぶっきらぼうに返してしまい、馬に飛び乗ってさっさと歩き始めてしまう。
「何怒ってんだろ……地雷踏んだのかな」
ミーナも荷物を袋に詰め込んで、目ざとく取り出しておいたパンをかじりながら馬の鼻先をなでて、背中に跨ってセイムを追い掛けていく。
「ちょっと、何よー? あたし変なこと言った?」
仏頂面のセイムに並走し、やや顔色を伺うような声色でミーナは尋ねた。ピアスが横風で震えるようになびき、彼女は軽く耳を押さえる。
「そういうことじゃないんだが……」
またもセイムは顔を背け、苦しそうに眉を寄せる。どう返すべきか、何を言うのが一番正しいのかを馬上でぐるぐると巡らせ、頭を抱えてしまった。
「もしもーし」
「何でもねーよ……」
うなだれたままで、セイムの暴発した思考ではこれが精一杯だった。
「……? でさ、さっきのはどうやって覚えたの?」
たいして気に留めていない風のミーナに肩透かしを食らったが、これはこれで幸いかとセイムは背中の剣をちらりと見てから彼女と視線を合わせる。
「どうって言われてもな……。ひたすら腕を磨いて、気がついたら習得してた」
「そんな簡単なものなの?」
「さあな。少なくとも、他に闘気を操れる奴は、ほんの数人しか会ったことはない」
「そっか、あたしも騎士に知り合いいるけど、話しか聞いてないもん」
「それは習得してても周囲に教えたがらないだけの可能性もあるぞ」
なぜ? とでも言いたげにミーナは目を丸くした。
「この力を使えると知られるだけで色眼鏡で見られるからさ。使えなくても騎士や傭兵連中ではこの力は有名だから、多少でも使いこなせるだけで羨望の的になる。それにこの力は、ただ遠くの敵を攻撃出来るだけじゃない」
「他の用途があるの?」
「むしろそっちの方が大事だ。足に巡らせれば脚力は上がり、腕に回せば力は強くなり、全身にまんべんなく広げることで身のこなし自体が鋭くなる。その代わり使えば使うほど体力を消耗するから、たとえ闘気の扱いに長けた奴でも、普段は使わずに温存しとくものだけどな」
ミーナの口から感嘆の声がこぼれ落ち、セイムを足元から舐めまわすように見つめる。
「人は見掛けに寄らないね……」
「今何て言った?」
「何でもなーい」
「あ、おい待て! ……あーも、子どもかあいつは!」
捨て台詞を残した悪人の如くミーナの馬が走り出し、不満気なため息を馬と共に吐いてセイムは後を追う。彼女が駆ける景色の先には茶色い市壁に囲まれたティルが目と鼻の先まで届き、二人が町に到着するまで軽快なひづめの音が静まることはなかった。
「よし、荷物をあらためる。袋を見せろ」
馬が揃って息を荒げながら門の前に到達すると、二人が寝てる間に森を抜けたのか、若い旅人が背中の大きな袋を下ろして検査官へと渡していた。丁寧に木を組み上げられた市壁には十人乗りの馬車でも楽に通れそうな門と扉が設置され、槍と金属の胸当てに身を包んだ二人の検査官が町の出入りを監視し、税を集めていた。一人は荷物をごそごそとほじくり、もう一人は町へ入ろうとする者が金目のものを隠し持っていないかを直接体に触れて調べている。
「うむ、特別なものは持ってないな。中で銅貨二枚を払ってくれ。通ってよし」
その言葉と共に検査官は荷物を返し、もう一人が両開きになっている扉を開ける。旅人が一礼して町へ入っていくと、検査官らは馬を降りて待っていたセイムたちへ視線を移した。
「よし、君たちの番だ。荷物を見せてくれ」
「ミーナ、書状」
「あ、そっか」
セイムに促されたミーナは慌てて昨日クルーシャへ荒っぽく振り回していた書状を上衣から取り出して検査官に差し出した。通常町へ入る者は荷物を検査され、一定以上の資産を持つ場合に税を徴収されてしまうのだが、国王や貴族の署名がされた書状を見せれば免除される。
特に国王の勅命を持つ者への徴収は、国王への侮辱となってしまうからだ。
「私たちは陛下の勅命で参りました。こちらをご覧下さい」
「……む、確かに。陛下のご署名のようだ。押印もある。おい、門を開けてくれ!」
とは言えそこまでかしこまったものでもなく、セイムらも特に横柄な態度を見せもしないので、壮年の検査官は特に嫌な顔をせずに後ろの部下に指示をした。
「行こう」
「待って、書状しまうから」
そこで唐突に、検査官が書状を返しながら声を掛ける。
「傭兵か騎士とお見受けするが、今は治安が良くない。一月で既に二人も国の兵士が殺されてしまった。腕に自信があるのかも知れないが、夜道には出歩かない方がいい」
一度セイムとミーナは真顔で見合わせ、「ありがとう」と静かにうなずいた。
再び扉が開き、馬を引いて門をくぐると、簡素な扉には似合わない重苦しい音が辺りに響いて門は閉ざされる。
「確かもう一人仲間がいるんだっけか。どこで落ち合うんだ?」
「えっとね、日中だったら組合の前、夜だったら酒場に使者がいるみたい」
「なら組合だな。前と同じならこっちだ。近くに馬屋もあるからこいつらを預けよう」
さっそくセイムは歩き出し、ミーナは周りをきょろきょろしながらも町並みを吟味する。
「なんか店が多いね……」
「旅人の多い町は自然とそうなる」
ティルは長方形に近い市壁に囲われた町で、東西南北の門から中央の通りに多くの店が軒を連ね、裏通りに民家や住宅が密集する形を取っていた。情勢が良くないとは言え町に住む人々の多くは日々の暮らしに追われており、店の軒先で代金を巡って争う商人や、日当たりのいい場所で羊の皮を伸ばす羊皮紙職人が小間使いに怒鳴り声を上げるなど、一見普通の町となんら変わりはない。
程なくして見つけた馬屋に馬たちを預け、すぐ側の傭兵組合の前に使者と思しきみすぼらしい服装の少年が突っ立っており、二人に気づくと走って近づいてくる。
「セイムさんとミーナさんですね? お待ちしておりました」
「おはようございます、ショーンさんは今どこに?」
ミーナは自分よりも若そうな少年に会釈をして尋ねた。
「宿で調べものをしてるはずです。荷物を組合に預けたらここから三つ先の通りを右に曲がったところにある『時の雫』と言う名の宿に来て下さい」
そう言って少年は報告のためか先に宿の方へと歩き出す。遠ざかる彼を見送って、セイムは大きな袋をゆうゆうと担いで組合へと入る。ヴェリモールと同じように建物も内部も狭く、小さな受付と人がどうにかすれ違える程度の廊下、煙でいぶし続けたようなくすんだ壁にクルーシャより取っつきにくそうな髪型も顔も四角い男がカウンターで羽ペン片手に書き物をしており、光の差し込んだ入口を見もしない。
「失礼、荷物を預けに来た。こっちの女は連れだ」
「紋章」
やはり視線は羊皮紙へ落ちたまま、手だけを横着に出す。セイムも慣れたもので、金袋にぞんざいに入れていた紋章を男の掌に放り投げる。
「何、今の」
「俺たちにとっての身分証みたいなもんだ。正式に傭兵組合に加入した奴だけがもらえるものでな。これを持ってれば通行税が免除されたり、宿や馬屋を優先して使えたりする」
「ならさっきあたしが書状出す必要なかったんじゃないの?」
「その手もあったけど、人によっては傭兵に嫌な感情持ってる奴もいるからな。今の制度が出来たばかりの頃は横柄な態度の傭兵が多くて、特権を使いまくっては遊び歩いてる奴もいたらしくてな。それで恨みを買って、酔っ払って宿に帰る途中に闇討ちに遭って死んだって話もある。それに一傭兵の紋章より陛下の書状の方が権力はでかいだろ」
「……ああ、君がセイム=ワドルか」
男がようやく顔を上げてまともな口を利いたのは、傭兵組合に掲げられたものと同じ剣と盾の紋章を裏返した際に、刻印されたセイムを示す番号に気づいたからだった。
「荷物だけか。宿は?」
「ひとまず自分で探す。先に落ち合う仲間がいるからな。荷物もたぶんすぐに取りに来る」
無愛想なままで口元もほとんど動かさずに男は「そうか」と小さく呟き、セイムはミーナの荷物も抱えるとカウンター越しに男へ渡し、さっさと建物を出て行く。
「さっきの受付感じ悪い! 何なのあれ!?」
ご機嫌斜めと言った感じで口を尖らせて黙っていたミーナが、外に出るなり中に聞こえそうな音量で口を開いた。
「まあまあ落ち着けって。ちゃんと仕事はやってくれるだろうから」
「信じられない! あれが人と話す時の態度なの!?」
初対面のお前も似たようなものだったぞ、と心の中で呟いたセイム。
「それより、ショーンだったか? 早く会いに行こう。人形みたいな受付の話をしてる暇なんかないぞ」
「むっ……分かってるわよ!」
まともにミーナに取り合うのを止め、セイムは少年が教えてくれた宿へと歩き出す。
「まったく、ちょっとは人の話聞きなさいよ」
「お前が言うな……待て待て分かったって大通りで炎を出すな」
ミーナの右手にまた赤い渦が巻き起こったところでセイムは息を荒げ、半ば本気で彼女の右手を押さえに掛かった。もちろん性的興奮を覚えたわけではない。
納得しがたい視線を投げ掛けるミーナを適当になだめて、目的地へ足早に向かっていく。
「ショーンさんと会うのも二週間ぶりくらいだなー。どこまで調査進んでるんだろ」
「二週間? ならこの仕事はだいぶ前から決まってたのか」
「ううん、そうじゃないよ。あたしはこの件を昨日聞いたんだけど、先にこの町に入ってたショーンさんはたまたま別の仕事で隣町に来てたらしいから。その流れでこの仕事も任されたみたい」
「なるほど、となるとまだそこまで情報は集まってないかもな」
「うん、難しいかも。仮に敵を見つけたとしても、攻めるための準備も必要だもの」
剣を引っ掛けた肩紐を直しながらセイムはうなずいた。
「……うー」
「何だ」
「いい匂いがする……」
「……」
ミーナが餌に釣られる野良猫の如く鼻を鳴らした先には、露店が何軒も立ち並んでいた。よくあるミートパイやビールなどの酒、豚や鳥の串焼きはもちろん、この辺りでは比較的珍しい野菜や塩漬けの魚を挟んだパンまで売られている。
「大丈夫よ。子供じゃないんだし、食べるのは一段落してからにするわ」
「いい心掛けだ」
露店だらけの通りを越えると、丁度良く『時の雫』が二人の視界に入る。一階一階は広くはなさそうだが、木をしっかり組んで作られた建物は四階建てでも頼りなさはどこにも感じなかった。
「ここだね」
ミーナの呟きを合図にしたように二人は宿に入り、番をしていた婦人へ問い掛ける。
「失礼します。ショーン=クリスが泊まっている宿はこちらで間違いないですか?」
「ああ、聞いてますよ。三階の一番手前の部屋にいらっしゃいます」
姿勢を正したミーナに婦人は逆に面食らったようで目をぱちくりさせて端っこの階段を指差した。「ありがとうございます」とこれまた礼儀良くお辞儀をして階段を上がり、セイムも会釈をして彼女の後を追っていく
部屋の扉の前に立ち、こんこんと数度扉を叩く。
扉越しに「どうぞ」と聞こえたのを確かめて、ミーナは静かに扉を押し開けた。
「やあ、ミーナ」
「お疲れ様です、ショーンさん」
握手を交わして、ミーナは振り返ると男二人を対面させた。
「セイム。こちらがあたしの先輩のショーンさん」
「初めまして、僕がショーン=クリスだ。どうぞ遠慮なくショーンと呼んでくれ」
「こちらこそ初めまして、セイム=ワドルだ。俺もセイムでいい」
二人もまた握手を交わし、セイムは頭一つ大きいショーンを見上げる。ぼさぼさの白髪交じりの黒髪にくたびれた上下の魔道士用の丈の短い法衣を身にまとい、一見すると根を詰め過ぎた学者にも見える。魔道士らしくさほど鍛えられた体ではないが、指先をよく見るとミーナ以上に指先にはペンだこや荒れた爪が伺え、四六時中書き物や研究に耽っていることが伺えた。全体的に割と線の細い方で、瓜を思わせる長めの顔立ちに鷲鼻、大きめの口が際立っていた。
「さて、お疲れのところ悪いが、早速仕事の話をしたい。万一聞き耳を立てられていると困るので、場所を変えたいがいいかい?」
断る理由もなく二人はうなずき、三人揃って階段を降りて行った。