後編
男は、控えめに言って醜悪であった。
五十を幾つか過ぎた頃であろうか。禿げあがった頭部。額に滲みでた脂汗。点々とした無精髭。どこまでも突き出る肥えた腹。
背広を着込んだその出で立ちはサラリーマンを思わせる。
男は政吉を一瞥すると、リエに向かって下品な笑みを投げかけた。
「へえ、どこでこんなガキ手に入れたんだ」
「成り行きよ。どう?満足した?」
「ああ。いいよ。俺の倅と同じくらいの年頃だろう。こいつの目の前で、いつも以上にズタボロにしてやるさ」
「その前に、お金」
「解ってるよ」
男は内ポケットから財布を取り出すと、その中から一万円札を十枚摘んでリエに渡した。
リエはそれを自分の財布に丁寧にしまうと、ベッドの上に腰を降ろした。
「さあ、ケツをあげてうつ伏せになれ。坊主、お前はベッドの前に立って、リエを見続けるんだ。絶対に目をそらすんじゃねえぞ」
政吉は言われた通りに、立ち上がってベッドに寄った。男は乱暴に服を脱ぎ捨てると、ブリーフだけの姿となって、ズボンからベルトを外した。男の半裸はその醜悪さをさらに助長させている。
リエはうつ伏せのまま、顔だけ上げて政吉を見ていた。
次の瞬間、乾いた音と共に、リエの表情が歪んだ。
男が、リエの尻を皮のベルトで叩いている。渾身の力を込めて。
室内に流れる有線のBGMを、リエの悲鳴がかき消した。
男は高らかに笑って、鞭に見立てたそのベルトを幾度もリエの尻に叩きつける。
これは何だ?何のドラマだ?一体俺は何を見ているーー。
政吉はリエが苦痛に顔を歪めていく様を、しっかりと見続けた。それは労働を果たす為というよりも、このドラマにどのような意味が込められているかを見極める為に、必要な作業であるように思われたからだった。
政吉とリエはお互いを見続けていた。男はブリーフを降ろして、そそり立ったそれを露わにする。
それには、世の中の暴力や邪悪といったもの全てが収められているような、極めて不快なエネルギーが内在しているように、政吉の眼に映った。
男がリエの下着を強引に引きずり降ろす。政吉の角度から性器は見えない。
政吉は見たいと願った。ここでそれが見えないのであれば、全ての行動が意味を失う。
しかし、政吉は動けなかった。
全身の筋肉が硬直している。たっぷりとクーラーが効いた部屋なのに、冷や汗が頬を伝って床に落ちる。
男はそれを挿入する。
政吉は以前、そういった行為には、それを円滑に行う為の手続きがあると聞いた事があった。その手続きを踏まないと、女性は大きな苦痛を味わう事になると。
男の行為には手続きがないように思われた。そしてそれは正解だった。リエの悲鳴は叫び声に変化して、政吉の耳をつんざいていく。
男は荒い息を立てながら、腰を振り、今度はリエの全身をベルトで打った。
「坊主!しっかり見ろお!リエ!どうだ?こんなガキの前で、こんな何も出来ないチビの前で無残にいたぶられる気持ちはよお!」
あははははははは。
男の笑い声とリエの叫び声が混ざる。とてつもなく悪趣味なオペラが、政吉の目の前で開演された。
リエは涙を流していた。苦痛によるものなのか屈辱によるものなのかは解らない。
セックスとバイオレンス。まさに政吉の望んだ二つの要素が重なり合い、ドラマとして展開されている。
どうした。これが俺の望んだもののはずなのに、なぜ、俺はこんなにも苛ついているんだーー。
叫び声。笑い声。肉を打つ音。ベッドが揺れる音。
全てが耳障りだった。
政吉は動かなくなった体を奮い立たせる。何故奮い立たせなければならないかは解らなかった。それでも体に動けと命じる。
あははははははは。
笑い声。黙らせたい。
リエの叫び声。抑えたい。
だから何故だ?何故俺は自らドラマを止めたがるーー?
《助けて》
声がした。リエの声にも聞こえるし、自分自身の声にも聞こえた。
記憶が刹那に逆流した。学校。クラスメイトとの喧嘩。女子児童からの蔑み。失われた興味ーー。
俺の興味を奪ったのは、誰なんだ?俺を殴った連中か、俺を馬鹿にしたクソ女かーー。
どれも正しく、どれも間違っていた。
天恵の如く、唐突に答えが政吉の元に舞い降りた。
そうか、俺は抗えないという事に気付いてしまったのだ。この世界の不条理が織りなす不平等に。俺自身の弱さに。俺はそれを拒否する為に、自ら興味を失う事で俺自身を庇護していたのかーー。
何て皮肉な話しだろう。俺はせっかく自分が守ろうとしたものを、再び自ら傷付けようとしていたのかーー。
痛めつけられるリエの姿に、政吉は自分を投影した。
この世界の不条理を作り出しているのは誰なんだ?ーー目の前のその男だ。
《助けて》
リエが俺に助けを求めている。俺が俺に助けを求めている。
目の前の男が、この世界の不条理だーー。
政吉の中で、元々大きくなかった一つ一つの敗北が、男が生み出した不条理によって抑えがたい程巨大なものに変換されていった。
俺はこの男に負け続けていたのだーー。
《助けて》
このドラマの本質は、俺がリエと俺自身を救う事にあったのだ。俺がこの男に勝利する事にあったのだーー。
あははははははは。
男はリエを叩く。リエの体は痣だらけになっていた。
体よ動けーー動いた。
政吉は灰皿を手に取る。
「おい、ガキ、目をそらすな」
男の声ーー無視した。
男に向かい、走る。
ベッドに足を掛け、跳んだ。
男にぶつかる。
セックスに集中していた男の反応が僅かに遅れた。灰皿を額に全力で叩きつける。男がよろめく。叩きつける。血が額で汗と混じる。リエがやめなさいと言う。叩きつける。男が抵抗した。叩きつける。男が抵抗をやめた。叩きつける叩きつける叩きつける。ベッドが血に染まる。男が動かなくなった。叩きつける。
リエに体を引っ張られ、政吉はようやく叩きつけるのをやめた。
「何て事するの!」
リエは怒っていたーー何故怒っている?
「死んじゃったじゃない。どうすんの、どうすんのよ!」
リエは政吉の肩を掴んでまくし立てた。
「だって、助けを求めていたでしょう?」
「誰がそんなもん求めるのよ!仕事でやってるの!金の為にやってんのよ!どうすんの、これ、どうすんのよ!」
政吉はよく解らなかった。せっかくの勝利が興醒めしていく。
「あんた、私の人生どうしてくれんの?あんたが捕まんのはいいけど、これじゃ私だって逃げられないじゃないよ!」
リエは何を言っている?何故喜ばないんだ?
「あんたのせいで、何もかもがおしまいよ」
リエの呪詛が、政吉を混乱させる。
これがドラマの結末か?俺の勝利を、お前の勝利を、何故お前は祝福しないーー?
「殺してやる」
リエの手が、政吉の首を締め出した。薄れゆく景色の中で、政吉は男の血がこびりついた灰皿を握りしめ、リエに対する自身の勝利と、ハッピーエンドを想像した。