前編
実在の地名が舞台ですが、本作品は完全にフィクションです。また、中編から後編にかけて、若干性的な描写が入っています。あるいは、読者様を不快にさせる要因になる場合があるかもしれませんので、閲覧の際にはご了承ください。
山手線の駅名を全て暗記した十二歳の夏休みに、川田政吉は、初めて電車に一人で乗った。
車窓の風景は時折若干の変化を見せるものの、概ねビルと商店街の連続である。
これなら、家でテレビゲームに興じていた方がましだったかもしれないーー。
政吉は、ひどく後悔していた。この計画に打ってでる前までの好奇心や探求心は、急速に彼の中で萎んでいく。
ドアにもたれて、駅構内の売店で購入したばかりの漫画雑誌を読み始めると、それは完全に零へと至る。
所詮、現実の冒険など、空想の世界のスリルには遠く及ばないのか…。
政吉にとって山手線とは、大都会の象徴であった。
東京、新宿、渋谷、原宿、池袋。
一度も足を踏み入れた事がなくとも、それらの地名は、僅か十二年の人生において、幾度となく政吉の耳に入ってきた。テレビを始めとするメディアや、小説によって。
新宿では、日々、国内やアジア諸国のマフィア達が血で血を洗う抗争に身を投じている。渋谷、原宿では、自分とさして年も変わらぬ少年少女が、時には体を売り、時には公園で若さに身を任せたまま、タフな野外生活を送る。池袋では、カラーギャングが服装の違いという理由だけで、日夜喧嘩に明け暮れている。
そんな無法地帯の全てを網羅し走る沿線ーー。
それが政吉にとっての山手線であったのだ。今日、実際に乗車を慣行するまでは。
現実は違う。窓の外で移りゆく景色は、平和そのもので、刺激など皆無。あるいは実際に降り立てば、そのシュールの一端でも味わえるかもしれないと、些細な期待は覚えるものの、どれも決め手に欠けていた。
彼の所有する金銭では、一度でも改札を出てしまうと、あとは帰宅の際に必要な電車賃しか残らない。
何か自分を惹きつける、それこそ刺激的でドラマチックな光景が車窓から垣間見えでもしない限り、そんなリスクを背負うのは御免だった。彼が、この冒険に必要な経費を小遣いで貯めるまでには、実に三ヶ月の月日を要したのである。
帰ろう。そうだそれがいい。結局、山手線も俺の夢想に過ぎなかったのだ。
そう思って、漫画雑誌を肩掛け鞄の中に放ると、次の停車駅は上野であった。
京成線や成田線を経由しつつ、日暮里駅から始まった山手線一周の旅が、もう間もなく終わりを告げる。
しかし、上野をでると、車窓の風景ががらりと変わった。
そこかしこに、ラブホテルが点在している。次の駅はーー。
車内に貼ってある沿線図を見るまでもなく、政吉は駅名を思い出す。
鶯谷だ。
政吉はドアの窓にペタリとくっついて、ラブホテル一つ一つを瞳の奥に焼き付ける。
そうだ、バイオレンスが駄目なら、セックスでもいいーー。
このようにして、政吉は鶯谷駅に降り立った。時刻は、午後三時を十分ほど過ぎた頃である。
改札を出ると、すぐ左に薬局店が見える。
なる程、ここで皆避妊具を購入するのかーー。
実際は大体のラブホテルにコンドームが備え付けられているものだが、無論政吉にそのような予備知識はなかった。
さて、と政吉は思う。
自分を変える第一歩は、ここから始まる。後は、ここで何をするのか、だ。
初めての精通を迎えてから自慰を覚えるまでに、それ程時間のかからなかった政吉である。セックスに対する興味は尽きない。
だからといって、いきなりセックス自体を目的にする程、政吉も無謀では無かった。何と言っても十二歳。自分がいかに社会的な弱者であるかは心得ている。彼はただ、見たかったのだ。ブラウン管やパソコンのディスプレイを通してではなく、肉眼で直接、想像を超えるドラマに巡り合いたかったーー。
何故か?
政吉はある日を境に、不登校となった。理由は政吉にとっても不明瞭である。友人がいない訳でも、明白なイジメが存在した訳でもなかった。ただ、急に行きたくなくなっただけだ。
小学校低学年の頃から、不条理な扱いをクラスメイトから受け、何度か稚拙な殴り合いの喧嘩をして、自分が正しいのにも関わらず、一度も勝てた試しがないからかもしれない。女子児童に
「政吉君て女の子にもてないよね」と何度か小馬鹿にされたからかもしれない。とにかく、政吉は学校というものに興味がなくなってしまったのだ。
そして、その不明瞭な理由を模索している内に、ある事に気が付く。
俺の人生は敗北にまみれているのではないかーー。
それは端的に言ってしまうと、喧嘩に勝てない、女性にもてないという二通りの、極めて主観的な敗北に過ぎないのであるが、少年である政吉にとって、絶対的かつ普遍的な敗北に思えた。
このままでは俺の人生はつまらない。
政吉は面白いものについて探求した。具体的には、バイオレンスとセックスについての物語である。
テレビ、漫画、小説、インターネットにおいて、リアリティのあるそれを探す際には、物語であるにせよ、実在の地名が舞台として使われているものをピックアップする。政吉にとって、未知の世界が広がっていた。
そして、その舞台に大体において山手線が走っている事実に感動した。
面白いものを直に見れれば、俺が失った学校に対する興味を取り戻せるのではないか。俺自身が、物語の主役になれるチャンスがあるのではないか。俺自身にも、勝利が訪れる日が来るのではないかーー。
妄想と現実の狭間に答えを探しながら、夏休みという、小学生が昼間に歩いていてもなんら問題のない期間を利用して、彼は鶯谷に立っている。
ホテル街を歩いてみた。
休憩三千八百円〜
宿泊七千五百円〜
などという表記がそこら中に見受けられた。
このように高い金銭を払ってまで、大人達はセックスしたがるのかーー。
鶯谷におけるホテルの利用平均値段は、都内でも安価である方なのだが、少年である政吉にとっては驚嘆に値する程の高額であった。
つまり、ホテルを利用しなければならない理由がある筈なのだ。恐らくドラマはそこにあるーー。
時々、ホテルから出てくる若い男女を見つける事があった。しかし《若い男女》がホテルを利用するのは、親の目を気にする結果である事くらい政吉にも解る。そこにドラマは有り得ない。
要は、不釣り合いなカップルを探しているのである。
例えば、親子程に年の離れたカップルや、あからさまに片方の合意が見えないにも関わらず、無理矢理ホテルに入ろうとするカップル。
そういうものにこそドラマは存在する筈だーー。
そう思って歩き回るものの、見当たりはしなかった。ホテル街に挟まれてひっそりと存在する公園のベンチに座りながら、政吉は失望にうなだれていた。
やはり、もう帰るべきなのか。日は暮れ、べたついた空気が政吉を一層不快にさせる。
そうだ、帰ろう。そもそも、いざそういうカップルを見つけた所で、生のセックスなどどうやって見れると言うのだーー。
自分の浅はかさに嘆きつつ、政吉は重い腰を上げる。
公園を出て、駅の方面に歩こうとする。
「ちょっと、あんた」
唐突に背後から掛けられた声に、思わずギクリと身を硬直させる。
ゆっくり振り返ると、そこには褐色の肌を黒のキャミソールで包んだ三十代前半と思われる女性が立っている。
「さっきから、こんな所をウロウロして何やってんのさ、あんたみたいな子供が」
女性の日本語のイントネーションは若干辿々しいものの、概ね流暢と言って差し支えない。
政吉は言葉を失った。外界とのコミュニケーションを廃絶して久しい政吉にとって、得体の知れない女性との会話など、宇宙人との遭遇に等しい混乱がある。
「何にせよ、あんたみたいな子供が夜に一人でフラフラする場所じゃないよ。早いとこ帰りな」
言われなくとも、そうするつもりだった。しかし、これはチャンスでないだろうか。この未知との遭遇が、あるいは俺の転機に繋がるのではないか。だとすればーー。
千載一遇のチャンスを、みすみす逃してなるものか!
政吉は高鳴る鼓動を必死に抑えつけながら、体中の筋肉をほぐし、何とか声帯を震わせる事に成功した。
「あの…」
「何さ」
「あなたは、これからセックスをしますか?」
女性は一瞬目を丸くして、次の瞬間には吹き出していた。