Kの肖像(習作)
十体ほどのギリシャの頭部像は、いずれもわずかな微笑みを浮かべて伏し目がちに居並んでいた。石膏のマットな肌が作り出す沈黙は、梅雨時の湿った空気を吸い込んで重かった。俯き加減の頭部が並んだ奥に小さな扉がある。美術準備室と小さく刻まれた札の下には、申し訳程度に責任者の加賀の名が書き添えられていた。天窓を備えた小部屋は、たったひとりの美術教師のアトリエ兼私室になっていた。
曇天。少し開いた天窓の下で、部屋の主は無愛想な灰色の回転椅子に座って机に背を向けていた。だらしなく腰をずらして脚を組み、膝先に載せた6号程のキャンバスを眺めている。筋張った手が煩そうに額の髪を掻き上げた。それから手探りで、背後の机上からパレットナイフを取り上げた。わずかに目を細め、火を点けてくわえたなりの煙草には白い灰が長く積もっている。小ぶりな絵を見つめる瞳がいっそう細くなった。皮肉な笑みに唇が開く。紙巻がうねった上唇に張り付いて危なげに引っかかった。男は唐突に組んでいた脚を解き、目を光らせてナイフを逆手に握り直した。
鈍く光るものが振り上げられた時、突然弾むように扉が開いた。飛び込んで来た黒い影は、一瞬の間をおいて、躊躇なくキャンバスに飛びかかった。パレットナイフが滑らかなものを擦り、おおいに慌てた加賀の口元から煙草が落ちた。
「おい!危ない!何なんだお前!?血が出てるじゃないか!」
屈み込んで煙草を拾い上げ、腕を回して灰皿に落とす。脚の先の床には黒い襞スカートが丸く開いていた。キャンバスを胸に抱え込んで踞った少女は、二の腕の小さな傷から血を滲ませてこちらを睨んでいた。黒いまっすぐな髪の間から覗いた片目が射るように光った。
慌てた声とは裏腹に男は動かない。ゆっくりと立ち上がる少女を追って、差し上げられた顎の線がくっきりと際立った。ふたつボタンを外したノーネクタイの胸元を、パレットナイフを握ったままの指先が息苦しそうに摩った。それからナイフの丸い先でぴたぴたと自分の顎先を嬲った。
「勘弁してくれよ。これだって立派に凶器になるんだぜ?」
呆れたように拡げられた両腕、固さが残る声は作ったような笑いを帯びている。それにますます苛立ったのか、少女はぶるっとひとつ頭を廻し、ツヤツヤとした長い髪を獅子のように荒々しく振り上げた。
「だって、そんな怖い顔して自分の絵・・・どうかしてる」
「どんな顔しようが、俺の絵をどうしようが、俺の勝手だ」
むっと押し黙った少女は、腕を伸ばして食い入るようにキャンバスを見つめた。背中の髪をもう一度揺すり上げる。そのまま口を開く気配はなく、机上の小さな置時計がコチコチと息苦しい時を刻んだ。教師は開いた腕をぱたりと閉じた。
「若林。それ、返せ」
「破くんなら、駄目」
く、と苦笑が息になって漏れた。
「こっち来い、血が出てる」
伏せた目元が躊躇いに揺れた。諦めたようにのろのろと掲げた絵が降ろされた。ほんの数歩を拗ねた子どものように時間をかけて近づく。震える息が漏れた。
「あきら——」
「カガセンセイ」
「加賀・・・先生・・・」
語尾はますます震え、指先から肩までが小刻みに揺れていた。ごく小さな救急箱を探して、引き出しを漁っていた教師が振り向いた。
「お前、どうした——」
「毎年何人かに言い寄られるって言いましたね」
ぽたりと大粒の涙が落ちる。口調は教師に向かう生徒のそれに改められた。
「・・・まあね」
「でも私は別だって。今まで生徒を——あ・・・抱いたことないって」
「若林」
「かの子!」
だめだ。眉をしかめて頭を振る加賀に、少女はまるで地団駄を踏むように身を震わせた。長い髪が踊り、ぱたぱたと涙が落ちた。
「この絵のタイトル、何ですか?」
教師は無言だった。封をするように唇に指を当て、白い制服のシャツのその先を見ていた。
「タイトル!」
畳み掛けるように小さく叫ぶ。
「タイトルなんかない。まだスケッチだ」
「じゃあ今つけて」
乱暴な言い方だ。自分が画題だとわかってわざと言わせようとしているのだ。なぜ素直に応じてしまうのか、加賀は自分の口がゆっくりと開くのを他人事のように感じた。抗えないと観念した瞬間だった。いや、自分はこの少女に告げたいのだ。遠い視線のまま、加賀はぼそりと応えた。
「K。あるいはKの肖像」
なめらかな曲線で人物の横顔を描いた抽象画だった。刻んだようなマチエールは純白と薔薇色の海のようにも見える。厚く重ねながら埋めた下塗りを掘り起こすようなやり方だった。画面を縦に分割する線から浅く覗く横顔は、まっすぐ髪を下ろしたかの子の美しい横顔の線を捉えたものだ。画の中の少女は伏し目がちに彼方を見ている。
Kの肖像——。少女は一瞬満足気な目をして息を吸い込み、加賀が握ったままのパレットナイフに視線を戻した。すぐまた吐き出されたのは大きな溜息だった。
「は、はは・・やっぱり。・・・私を破くところだったんですね。そう、最近避けられてるのはわかってたけど。すみません、私、鈍くて、しかも間が・・・悪い・・・」
長い睫毛は見開いたまま濡れて張り付いていた。大きな瞳に絶望がなみなみと浮かび、すぐにまたこぼれ落ちた。画を抱いたままじりじりと後ずさり、今にも身を翻しそうになった少女を強い力が捉まえた。
「かの子」
加賀は掛けていた椅子から一足飛びに細い手首を掴んでいた。がさり、とも、ごとり、ともつかない音をたて、木枠に張られた画が床に落ちた。強く引いて抱き込んだ身体は靭やかで勁い。逃れようと身を捩ってもがくのを、深く回した固い腕が抑え込んだ。ゆるゆると抵抗は小さくなり、やがて動きが止まった。白い立襟のシャツは暖かく濡れ、かの子は胸の中でまたひとつしゃくり上げた。
「せんせい、残酷」
背中に回した手が、ゆっくりと頭を撫でた。鈍い光が注ぐ遅い午後。滑らかな髪を撫で下ろすと尻に届く。髪は細い腰に沿って流れ、加賀はいつしか掌で無心に曲線を追っていた。繰り返し撫で下ろすリズムは、小さな秒針の響きに溶けていった。
「オレは恐くなったんだよ。毎年毎年、お前等は颯爽と飛び立っていくんだ。お前にとっては一過性の熱病みたいなものかもしれん。なのにどうだ、オレは教え子にぞっこんなんだぞ?こんなことは終わりにしなきゃと、そう思ったってわけさ・・・どうだ、案外健気だろう?」
とろりと耳に注がれる囁きは蜜のようにかの子を満たした。埋めていた胸から上げられた美貌を画家は眩しく見下ろした。紅潮は目尻にしか現れず、半ば開いた薔薇色の小さな唇から濡れた舌が覗いている。特筆すべきはその瞳だ。間近で覗き込むと紫に煙るように見える。改めて銀色の網にかかったことを自覚し、加賀の瞳には自嘲混じりの笑みが浮かんだ。
「あんなひどいことしようとしたのに、笑ってる」
「・・・一年のとき、お前のファンクラブがあったなあ」
「みんな皮一枚しか見てません。だからすぐ、なくなったじゃないですか」
「ふん、皮一枚ねぇ。どうせ碌に相手しなかったんだろ?お前のアイス・クイーンぶりを知らない告白者たちは最近どうなんだ」
「もしかして、子ども相手に妬いてます?」
「子どもって、お前」
歳はお前も同じだろうと、そう言いかけて加賀はもう一度微笑んだ。高校生時分の男に、この少女を扱えるわけがない。かの子は美しいだけではなく、どこか甘い毒を秘めていた。それが生来のものなのか、加賀にはまだわからなかった。
「ひとり振ってはオレのとこに戻ってくる度、お前はパワーアップするなあって、そう思ってる」
「しょってる」
「ああそうさ。馬鹿にしていいぞ」
「馬鹿にしない。顕<あきら>はちゃんと私を見てくれるから」
見上げる瞳が菫色に燃えた。それは——どうだろう?そう望んではいるが。この美貌の下の魔性に、自分は捕まったつもりだが。脳裏で甘やかに呻きながら、加賀は襟を引かれるままゆっくりと屈み込んだ。
「先生、タバコ」
「あ?ああ」
フィルターが燃える匂いが立ちこめていた。
それ、消したら、キスしてあげる
あやすような口調は幻だったが、加賀は確かにそれを聞いた。床に落ちた画の中では少女が遠い視線のままかすかな笑みを浮かべている。吸わずに燃え尽きた煙草を強く押し付け、そのままの勢いで振り向いた加賀は、滑らかな二の腕に唇を付けた。傷は既に乾きはじめていたが、自分が画として裂こうとした肌を食むように吸った。震えて崩れ落ちる身体を抱きとめながら、若い画家は被せた唇で少女に血の味を移した。
(了)
梅雨空の下、遥か昔の美術室を思い出してつらつら書いたものです。