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【悲報】結婚願望ゼロの天才魔女さん、クズ貴族の罠を破るためオーク名誉男爵に「わたしを奪って」と迫った結果、スパダリすぎる彼に心掴まれて泣きながら逆プロポーズしてしまう

作者: 柏原夏鉈
掲載日:2026/07/31


窓から差し込む陽光が、大理石の床に洗練された光の幾何学模様を描いている。


オルガンの荘厳な音色が響き渡る中、魔女エルザは純白のウェデングドレスに身を包み、祭壇の前に立っていた。


目の前にいるのは、国内でも有数の美貌で知られる若き子爵、ジュリアン。


洗練された立ち振る舞いと甘い言葉で世の令嬢を魅了してきた男だ。


神職者が神聖な声で問いかける。


「ジュリアン・フォン・ローゼンバーグ。汝、エルザを妻とし、健やかなるときも病めるときも愛することを誓いますか?」


「誓います」


ジュリアンは自信に満ちた笑みを浮かべ、エルザを見つめた。


続いて、神職者の視線がエルザへと向けられる。


「エルザ。汝、ジュリアンを夫とし――」


「お断りよ」


静寂が、一瞬にして式場を支配した。


オルガンの旋律が途切れ、張りつめた空気の中、エルザはドレスの裾をわずかに持ち上げ、きっぱりと言い放った。


「言ったはずよね、ジュリアン。わたし、結婚願望はない。付き合うのは"結婚を迫らないこと"が条件だったはずよ。もし破ったら賠償を支払うっていう誓約書まで交わしたじゃない」


エルザの紫水晶のような瞳が、冷ややかにジュリアンを射貫く。


当のジュリアンは、自信に満ちた笑みを崩さない。


神聖な婚姻の儀を台無しにされたというのに。契約違反だと糾弾してるのに。


その表情は、雄弁に語っている。――何をしても無駄さ、と。


「今まで通りの舞踏会だ、このドレスも特別なプレゼントだ、そう言ったわね? だまして、この式場に連れ出して、わたしは平民だから、大勢の貴族たちの前なら、怯えて頷くとでも思ったの? わたしをなめないで頂戴。契約魔法によって生成した正式な誓約書よ。その効力は悪魔ですら従うわ」


列席した貴族たちから、小さく息をのむ音が漏れた。


しかし、ジュリアンは焦る様子もなく、むしろ可哀想なものを見るように、目を細めた。


「……平民は、どこまでいっても平民か。まさか本気で、あの紙切れ一枚で、高貴なる身分と、渡り合えると思っていたのかい?」


ジュリアンはゆっくりと歩み寄り、エルザの耳元へ顔を寄せた。


「誓約書の末尾になんと記されていたか、覚えているかい? "社交界における身分は、戴冠の余白(コローナ・ヴァカンテ)の慣例に準拠する"。……君には"平民が社交界に入るための仮初めの身分規定だ"と説明したはずだ」


「ええ、聞いたわ。契約魔法も嘘とは判定しなかった」


「ああ、嘘ではないからね」


ジュリアンは勝利を確信した笑みを深めた。


「だが。平民の君は、貴族社会の"歴史"を知らなかったようだ。この式場に足を踏み入れた時点で、君は自らの意思で、我が家に嫁ぐことに同意したとみなされる」


「そんなことに、同意した覚えはない」


「いや、同意したのさ。戴冠の余白(コローナ・ヴァカンテ)の慣例に準拠する、これにサインした以上、君は同意したことになる。かつて、貴族たちが手続きの隙間を突き、互いの婚約者を奪い合った野蛮な時代の名残だよ。正式な婚約期間を経ずとも、パートナーとして社交の場に同伴させた時点で、婚約は成立したとみなす慣例……。それが『戴冠の余白(コローナ・ヴァカンテ)』だ」


ジュリアンはエルザの手を取ろうとしたが、エルザはそれを冷たく払いのけた。


「君がここで拒絶しようとも、無駄だ。君の言葉を借りれば、悪魔でも従う。君が本物の魔女であったとしても従うべきだ。この私は誓約書に、何も反していない。何故なら、私が君に結婚を迫ったのではない。君が、君の意思で、そのドレスを着て、私の前に立ったのだ。すでに君は、婚約に同意したも同然。婚約とは、すなわち結婚するという約束だ。それに同意したのだから、契約を破ろうとしているのは、私ではない。君だ」


「……」


「君はすでに私の”妻”なんだよ。さあ、あきらめなさい、エルザ」


式場を埋め尽くす貴族たちから、くすくすという嘲笑が漏れ始めた。


誇り高き魔女が、貴族の知恵と罠に嵌まり、狼狽し、やがて崩れ落ちて命乞いをする――誰もがその無様な結末を期待している。


しかし、エルザの表情には動揺の色一つなかった。それどころか、呆れたように小さく溜息をついて見せた。


ジュリアンはわずかに眉をひそめる。


「……理解できていないなら、もう一度説明してあげようか? 平民には難しい概念だろう?」


「いいえ、結構。十分理解しているわ」


エルザはフッと口元を緩めた。


「でも、あなたこそ"慣例"というものの、本当の恐ろしさを理解しているのかしら?」


「何……?」


「慣例は、契約ではない。過去に何度も繰り返されてきたから"今回もそう扱いましょう"っていう、言わば口約束の拡大版よ」


「しかし、貴族社会では絶対的な制約だ」


「知ってるわ。だから貴族なんて大嫌いなの。――けれどね、慣例には"例外"が存在するのよ。一度でも認められた"前例"があれば、後の時代でも等しく認められる。そうでしょう?」


「ああ。違いない。それがどうしたというのだ?」


戴冠の余白(コローナ・ヴァカンテ)という余白は、上書きすることが出来る」


エルザは踵を返し、純白のバージンロードを逆走し始めた。


列席者たちの間を、堂々とした足取りで歩いていく。


貴族たちは好奇の目を向けていたが、彼女が進む先を視線で追うにつれ、ざわめきは次第に驚愕と恐怖へと変わっていった。


式場の最奥、日陰になった壁際に、異様な圧迫感を放つ巨躯が佇んでいた。


緑色の皮膚、強靭な筋骨、そして口元から覗く鋭い牙。


それは、誰が見てもあきらかな"オーク"だった。


しかし、彼は粗末な皮鎧ではなく、寸分の狂いもなく仕立てられた深い紺色の礼服を纏っていた。


胸元には王家から授与された勲章が誇らしく輝いている。


ゴード名誉男爵。


元は奴隷の身分でありながら、先の戦乱において圧倒的な武勲を挙げ、国王自らが異例の騎士爵を授けた。


その後も国への貢献を重ね、ついには五爵の末席――名誉男爵の位を賜るに至った英傑であった。


元の身分は低くとも、その実質は"王の直臣"である。


エルザはゴードの目の前で立ち止まると、ドレスの裾を優雅に広げ、一礼した。


「ゴード名誉男爵。わたしの招待に応じてくださり、感謝いたします」


なぜこのような異形がこの場にいるのか、誰も知らなかった。


ジュリアンでさえ、席を埋めるために、誰かが気を利かせて手配した、数合わせだろう、そう思っていた。


まさか、エルザ自身が彼を招待していたとは。この場は、彼女を嵌めるための罠であったはずなのに。


ゴードは腹の底に響くような低い声で答えた。


オークの頭蓋では、人の言葉を話すのは難しい。そのため、彼ら亜人は魔道具を使い、思念を出力する。


「……ご招待を賜り、参上いたしました」


エルザは微笑み、まっすぐに彼の黄金色の目を見つめた。


「ゴード名誉男爵。――わたしと、今ここで婚約していただけますか?」


「なっ……!?」


ジュリアンが悲鳴に近い声を上げた。


「い、いったい何を考えているんだ、オーク相手に! エルザ! 気が狂ったのか!?」


しかし、エルザは振り返りもせず、ゴードだけに語りかける。


「わたしの身分は、慣例に従えば、ジュリアンの婚約者。けれど、彼が言った通り、この慣例は"他人の婚約者を奪い合う時代"の遺物。そして、この婚約に異議あらば、奪うことも出来る。過去、"余白"を利用して、別の貴族がその場で婚約者を奪い去った前例が存在する」


エルザはゴードに向かって、そっと細く白い手を差し伸べた。


「だから……。あなたに、わたしを奪ってほしいの」


「……」


ゴードは無言のまま、じっとエルザを見つめている。


「この場にいる貴族は、すべてジュリアンの手の内。だれも私を奪ってはくれない。けれど、陛下の直臣であるあなただけは違う。あなたは誰の顔色もうかがう必要がない、真に独立した貴族よ。もちろん、タダでとは言わないわ。見返りは用意する。わたしの持てるすべての力で、あなたの望むものを叶えてみせる」


式場中の視線が、一人のオークに集まった。


ジュリアンは顔を蒼白にし、冷や汗を流しながら叫ぶ。


「だ、騙されるなゴード! その女は平民の不躾な魔女だぞ! 仮にも陛下より爵位を賜ったのなら、きさまも、我ら貴族の面目を――」


ジュリアンの怒号を遮るように、ゴードは大きな手袋を外した。


現れたのは、意外にも"人の手"であった。


オーク特有の頭部に反して、豚のようなひづめではない。


ましてや、鈎爪もない。無骨だが、清潔に手入れされた"人の手"だった。


忌避を抱かせない"人の手"が、エルザの差し出した華奢な手を、壊れ物を扱うかのように優しく包み込む。


「――お受けしましょう」


ゴードの口元が、わずかに緩んだ。


「断る理由が、どこにも見当たりませぬゆえ」


「ありがとう、我が婚約者様」


エルザは爽やかに微笑むと、ゴードの太い腕にそっと自身の腕を絡めた。


「ちょっと! 待て! 待たないかエルザ! ゴード! それは私のものだ――!」


取り乱して喚き散らすジュリアンと、あっけにとられる貴族たちを背にして。


エルザは最高のエスコート役に護られながら、悠然と式場の重厚な扉を押し開き、光の差し込む外の世界へと歩み去っていった。



━━━ (・oo・) ━━━



騒乱の結婚式場を脱出し、エルザとゴードを乗せた乗合馬車がたどり着いたのは、王都の喧騒から少し離れた静かな職人街だった。


足を踏み入れると、ひんやりとした空気の中に、特有の金属臭と魔術触媒の甘酸っぱい香りが漂っている。


棚には所狭しと複雑な魔導回路が刻まれたパーツや、何に使うのかもわからない実験器具が並んでいた。


「ちょっと散らかっていて、ごめん。ここがわたしの工房よ」


エルザは純白のドレスを乱暴に脱ぎ捨てながら、気だるげに言った。


紳士として、外に出て待とうと申し出たゴードを「いいから」と制し、慣れた手つきで動きやすい作業着へと着替えていく。


「まずはお詫びを言わせて。あなたを巻き込んでしまって本当にごめんね。あの場でも言ったけれど、わたしにできる限りのお礼はするわ。本当に助かったの」


ゴードは部屋の真ん中にたたずんでいた。


彼の巨躯には、工房の椅子は小さすぎる。大きな体を縮めるようにして、彼は静かに告げた。


「身に覚えのない招待状が届き、貴族の嗜みとして応じたまで。……ですが、説明を要求します」


ゴードの、魔道具によって出力された、低い声が工房に響く。


「我は貴族といえど、武勲で成り上がった新参者。高名なあなたやローゼンバーグ子爵のお名前は存じ上げていたが、結婚式を挙げるほどの深い関係であったことは存じ上げませんでした。そして、断る口実に我が使われた、その理由がわかりかねます」


エルザは作業台に腰掛け、長管の煙管キセルに火をつけた。紫煙をくゆらせながら、ふっと息を吐き出す。


「そうね。説明する責任があるわね。……ごめん、あなたが座れる椅子が無いわ、床にでも座って?」


ゴードはドシンと音を立てて床に腰を下ろした。礼服が汚れるのも、シワがつくのも構わず、豪快に。


エルザは淡々と語り始めた。


「わたしは魔道具の開発を得意としているの。今、町で誰もが当たり前に使っている道具にも私の発明が使われている。……それに、公にはされていない、機密扱いなんだけど、国の兵器開発にも関わっている」


「ええ、あなたの高名については存じています。全ての魔道具の動力源、魔石の代わりとなる"人工魔石"を作られた天才魔導技師です」


「王家を除けば、国で一番の金持ちよ。だから、国中のあらゆる貴族が利権目当てでわたしを狙ってきたわ。ジュリアンもその一人。でも、彼は他の男たちとは違ったの。『君を救いたい。誰のものでもないままでは求婚が絶えず、面倒だろう? 私と付き合っていることにすれば風避けになる。社交界で自慢できれば私にも十分な利がある。結婚の必要はない』……そう言ってきたのよ」


「それで、付き合うが結婚はしない、という風変わりな誓約書を交わしたということですか」


「話が早くて助かるわ。そう。彼からの要求は、月に一度、社交界にパートナーとして参加することだけ。実際、彼と付き合っていると公表してからは求婚がぴたりと止まり、わたしも研究に専念できて助かっていたわ。……けれど、今回は違和感があった」


エルザは指先で煙管の縁を軽く叩いた。


「今まではその場限りの貸衣装だったのに、今回は念入りな衣装合わせをして"このドレスは君にあげる"なんて言ったの。そのときは、まだ、一般的なパーティドレスだったのよ? でも、嫌な予感がして金を使って調べさせたの。そうしたら、舞踏会だと説明されてたのに、彼が用意した会場は"結婚式場"だって言うし、一般的なパーティドレスは純白のウエディングドレスに仕立て直されたらしい。神職者の手配までしてた。この時点で断っても良かったけど……」


「そうなさるべきでした。我が招待に応じない。あるいは、あの場に我がいても婚約に応じない。あなたも、薬などによって意思を奪われるなど、いくらでもリスクは潜んでいた。そうならなかったのは、運が良かった、そうとしか思えない結果です」


「そうね。でも、あのバカ貴族に意趣返しする手を思いついちゃったから、ね。悔しがる顔が見たくなった。それに、あのまま望まない結婚を強要されたら、最後の手段は用意していた」


「最後の手段、とやらを、おききしても?」


「会場となる場所はわかってたからね。金で人を雇って、爆弾を仕込ませた。キーワード一つで、爆破して逃げるつもりだった。あ、もちろん、怪我はしないようにちゃんと配置は工夫してあるし、音は派手だけど火傷はしない。あれはあれで、試してみたかったけど。……いやあ、でも、結婚は絶対にしたくなかったから、助かったわ。本当に、あなたには感謝してるのよ」


ゴードは胸元の勲章に視線を落とし、ふむ、と頷いた。そして、素朴な疑問を口にする。


「なぜ、我だったのです?」


「必然よ。未婚で婚約者のいない、五爵位の一員で、かつ、わたしの招待に応じてくれそうな、ジュリアンとの繋がりが全くない成人貴族は、この国では貴方だけよ。騎士爵だと、ジュリアンが貴族と認めない可能性もあったし」


「なぜ、結婚を拒むのです?」


エルザはくすりと笑った。


「単純よ。結婚願望がないから。必要ないから。わたしは魔道具の権利収入だけで一生何不自由なく食べていける。その上、軍事開発に関わっているから、国が護衛をつけてくれているわ。今もこの工房の周りを何人も見張っている」


エルザは窓の外を顎でしゃくってみせた。


「つまり、女だけど、男の庇護に入る必要がないの。この国では、女一人じゃ、何も出来ない。物も買えない。それは文化だし、歴史だから、仕様の無いことだけど、わたしは、そんな心配がない。ぜんぶ金で解決できるし、国が守ってくれる。なら、結婚なんて面倒なこと、わざわざする必要がないでしょう? 男が欲しいなら買えばいいわ。お金だけの関係の方が、後腐れがなくて一番楽よ」


あまりにも身も蓋もない魔女の告白に、ゴードは咎める風もなく、ただ淡々と頷いた。


「事情は理解しました。……それで、これからどうされますか?」


「これから?」


「仮初めとはいえ、我々は公の場で婚約しましたね。このまま婚約関係を続けるのか、あるいはすぐにでも破棄するのか。それを問うものです」


エルザは煙管を置き、肘をついてゴードを見上げた。


「そうねぇ……。あなたは、どうしたいの? まだ、あなたの望むお礼のことも聞けてないわ」


「お礼は辞退します。婚約については、あなたの意志を尊重したいと考えています」


「それは困るわ。なにかないの? いっそ、お金で良ければ、都合がいいけど?」


ゴードは首を振って、拒絶した。


「我は、人の社会に紛れ込んではいますが、異物であることに変わりありません。衣食住はすべて王家から支給されている身分。金を持っていても使い道がありません。ひとたび戦争になれば、兵器として徴兵され、使い潰される宿命にありますから」


「『戦時徴兵令』ね。オークは強制狂化させられ、敵地を壊滅させる兵器として前線に放り込まれる」


「ええ」


エルザの瞳に、計算高くも冷徹な光が宿る。


「都合がいいわ」


「ほう?」


「貴族の婚約を解消するのはひどく面倒なの。でも、あなたが戦争に行って名誉の戦死を遂げてくれれば、解約の手続きはすべて国がやってくれる。おまけに婚約者として、保証金まで手に入る」


「……なるほど。そういう考え方もありますか。あなたにとって不都合でないのなら、このまま婚約者でいることが互いに都合が良いでしょう」


「本当は、婚約するのだって大変。今回は慣例に従い"婚約扱い"になってるだけなんだけど――」


「手続きは、我がしておきましょう。あなたは高名だが平民であり、我は家名も許されない名誉男爵。そう難しくはありません」


「そう? じゃあ、お願い。費用は請求して。……でも、あなたにとっても、利はあるの?」


「ええ。なまじ貴族の端くれになったものでして。社交界という場所は、必ずパートナーを同伴することが求められますが、頼む相手がいないので、夜会や催しの招待を断るのに苦慮していたのです」


「なるほどね。お互い、見せかけのパートナーが欲しいわけだ」


エルザは満足そうに笑みを深めた。


「いいわ、一ヶ月に一度の社交同伴なら、付き合ってあげる。……でも、これだけは絶対に忘れないでね」


「結婚はしない、ですね」


「ええ。あなた相手には不要とは思うけど、念のため、誓約書を作りましょう」


「ええ」


巨躯のオーク騎士と、利己的な天才魔女。


愛も恋も存在しない、極めて冷酷で合理的な"仮初めの婚約"が、煙草の煙が揺らめく工房の中で静かに結ばれたのだった。



━━━ (・oo・) ━━━



――朝。


薄暗い工房の窓から、うっすらと白み始めた茜色の光が射し込む。


カチャン……と、金属と陶器が触れ合う極めて小さな音が静寂を揺らした。


厨房に立っているのは、天井に頭が届きそうなほどの巨躯を誇る緑色の騎士――ゴードだ。


その無骨で太い指先からは想像もつかないほど、彼の手つきは繊細かつ軽やかだった。


オーク特有の強靱な筋力を極限まで制御し、繊細なガラス器具や土鍋を音ひとつ立てずに扱っている。


煮込み鍋からは、新鮮なハーブと根菜、そして丁寧に引き出された上質な出汁の芳醇な香りが立ち上っていた。


スープの火加減を弱火に調整すると、ゴードは静かに勝手口から外へ出た。


手にしているのは、工房のサイズにまったく合っていない巨大な竹箒である。


サッ、サッ、と規則正しい音を立てて、工房の入り口から周囲の路地裏までを鮮やかに掃き清めていく。


職人街の朝の冷気が、彼の洗練された所作によってどこか清々しく感じられた。


掃除を終え、手足を綺麗に拭ったゴードは、足音を完全に殺して二階の寝室へと向かった。


ドアをわずかに開き、ベッドで丸くなってぐっすりと眠っているエルザの姿を確認する。


「……エルザ。朝食の準備が整いましたよ」


魔道具を通した、低く静かな思念の音声が、部屋の中に優しく響く。


「……んん……あと五分……」


「今日は人工魔石の新しい触媒実験の予定ではなかったのですか?」


「……うう、起きるわよ……」


ベッドからつむじを揺らして起き上がったエルザは、乱れた髪のまま重い足取りで一階へと下りてきた。


テーブルの上に、整然と並べられている二人分の朝食。


湯気を立てるスープ。表面がカリッと香ばしく焼かれた焼き立てのパン。そして色鮮やかな旬の野菜サラダ。


「いただきます……」


寝ぼけ眼のまま、木製のスプーンでスープをすくい、口へと運ぶ。


瞬時に、エルザの目がカッと見開かれた。


重厚なコクの中に、素材の甘みが溶け込んだ、優しくも深い味わい。


胃袋の奥から体全体へと染み渡っていくような、完璧な温かさ。


(……どうなってんの。普通に、美味しい。いや、普通にって言うのも変だけど、この場合は普通なのが変なのよ)


エルザは思わずゴードの顔をじっと見た。


エルザが彼のために用意した大きく丈夫な椅子に座り、その太すぎる指で器用に木製スプーンをつまみ、スープを口にする。


満足気に見えるのは、気のせいではないだろう。


だが、オークだ。


緑色の巨躯。鋭い牙。黄金の瞳。


オークが、美味しいスープを作って、味わって微笑んでる。こんなの普通じゃない。


(オークって、生肉かじってるイメージしかない。けど、この王宮料理人みたいな繊細なお味。オークに味覚ってあるんだ?)


「……お口に合いませんでしたか?」


ゴードが心配そうに頭を傾ける。


「い、いいえ! すごく美味しいわ! びっくりしただけよ!」


「それはよかった。熱通しと毒抜きには、気を使います。生死を分ける重要な工程ですから」


淡々と語るゴードの言葉に、エルザは心の中で(オークが言うことなの?)と突っ込みつつ、スープとパンを平らげた。


食事を終えると、ゴードの"手際の良さ"はさらに加速した。


エルザが手を出そうとする間もなく、彼は食器を下げ、洗い物を終わらせてしまう。


エルザが食後のお茶を楽しんでいる間に、工房の床を掃き、薬品のボトルを片づけ、清潔さを整えていく。


それだけではない。


「エルザ、洗濯物を出しておいてください」


「えっ……あ、うん」


「紳士として、適切に取り扱いますのでご安心を」


「わたしは気にしないから、好きにしてもらっていいんだけど」


(紳士としてって言われても、あなた、オークだからね? 下手な人間よりよっぽど信頼できるのも不思議)


エルザが戸惑いを抱えつつ工房の作業台に向かうと、ゴードはテキパキと洗濯物をまとめ、日当たりの良い裏庭へと向かっていった。


――昼。


工房の中は、静寂と魔導回路の作動音に包まれていた。


エルザは繊細な魔力を指先に集中させて、人工魔石の基板に微細な回路を刻み込んでいる。


一度集中モードに入ると、彼女は時間の感覚を失う。喉の渇きも、空腹も忘れて没頭するのが常だった。


カチャ。


作業台の端、エルザの視界を絶対に遮らない絶妙な位置に、小さなトレーがそっと置かれた。


見上げると、そこには湯気を立てる柑橘系のハーブティーと、ひと口サイズの香ばしいスコーン。


「集中を阻害して申し訳ありません。ですが、根を詰めすぎると良い結果は遠退く。少し休息を」


ゴードの声は、耳障りにならない完璧な音量で届いた。


「ありがとう、ゴード。ちょうど喉が渇いていたところよ」


エルザがお茶を口にし、サクサクのスコーンを噛みしめる間、ゴードは静かに工房の買い出しリストを確認していた。


「食材と、日常消耗品の補充に行ってまいります。何か必要なものはありますか?」


「いえ、今はないかな。あとで請求してね」


「そうですか。では、行ってまいります。護衛がついているとはいえ、防犯を意識してください」


「だいじょうぶ、侵入者に反応してブザーが鳴るから」


「では、安心ですね。それでは」


「ええ、気をつけてね」


そう言って出かけていく彼の背中を見送りながら、エルザはポツリと呟いた。


「……何に、気をつけるの? オークを襲うバカはいないでしょ」


自分で言っておいて、自分で信じられなかった。


彼の何を案じる必要がある?


――夜。


買い出しから戻ったゴードが手早く準備した夕食は、香ばしく焼き上げられた肉料理とグラタンだった。


もちろん、味に文句のつけようがなかった。


二人でテーブルを囲み、今日の研究の進捗や、街の噂話、そして来たるべき貴族たちのパーティーに向けた対抗策などを静かに語り合う。


食事を終え、後片付けも完璧に済ませたゴードは、深々と一礼した。


「本日もお邪魔いたしました。我はこれにて、王宮の宿舎へと戻ります」


「ええ、お疲れ様。明日も来るよね?」


「ええ、勿論。それでは、良い夜を、エルザ」


巨躯の騎士が静かに扉を閉め、夜の闇へと消えていく。


一人残されたエルザは、あくびを噛み殺しながら二階の寝室へと上がった。


扉を開けた瞬間、ふんわりとした心地よい太陽の香りが鼻腔をくすぐった。


ベッドを見れば、昼間のうちに天日干しされた寝具が整えられ、シーツがピンと張られている。


サイドチェストの上には、洗われ、綺麗に乾燥され、寸分の狂いもなく畳まれたエルザの衣類が置かれていた。


「……」


エルザはベッドに倒れ込み、ふかふかの枕に顔をうずめた。


「どこから、変なのか、わかんなくなってきた。待って、わたし、何が起こってるの?」


エルザは、彼を"男"だと意識していなかった。


それはそうだ。だって、オークなのだから。


目の前で着替えたって、下着を洗濯されたって、ちっとも羞恥を感じない。


彼は、エルザの生活ペースを、一切邪魔しない。


それどころか、苦手な家事をすべて引き受けてくれて、研究に専念させてくれて。


食事は美味しいし、部屋は綺麗だし、話していて楽しいし。


なんで、オークが、パン屋のおばさんと普通に世間話して、スコーンおまけしてもらってるの?


最近はボヤ騒ぎが続いてるから、火の扱いは気を付けてって、そんな世間話を楽しそうに報告された。


パン屋のおばさんには、優しい新婚の旦那様にでも見えているのだろうか。


オークなのに。


エルザは、煙管に火を入れ、口の中で、紫煙を転がすように吹かした。


そして、呆れたように口元を緩めた。


「オークじゃなきゃ、ぶっちゃけ、理想の彼氏像なんだけど?」


静かな工房に、天才魔女の小さく照れくさそうな呟きが、煙とともに溶けていった。



━━━ (・oo・) ━━━



煌びやかなシャンデリアが輝く大ホールは、着飾った貴族たちと華やかな音楽で満ちあふれていた。


高台のテラスから、ジュリアンがワイングラスを手に、下界を見下ろしている。


今か今かと待ちわびているのだ。


あの生意気な平民魔女と醜い野獣が、貴族の洗礼を受けて惨めに取り乱す瞬間を。


<しつこい男って、本当に救いようがないわね>


それを見上げたエルザは、小さく呟いた。


<ローゼンバーグ子爵は、我から見てもわかりやすい顔をしてます。あれは、忌々しい平民と成り上がりの元奴隷を社交場へ引きずり出し、無知ゆえの大恥をかかせて社交界から失脚させる、そのことしか考えていませんね>


<まったく、呆れた男よ。……まあいいわ、せっかくのパーティだもの。盛大に返り討ちにしてあげましょう?>


司会進行役が、来賓を告げる。


「ゴード名誉男爵、ならびに婚約者エルザ殿!」


会場が一瞬で静まり返った。 エスコート役に寄り添い現れたエルザの姿に、誰もが目を奪われる。


夜空を切り取ったかのような深い群青のドレス。


そして、彼女の左目には、見慣れぬ意匠が施された繊細で美しい片眼鏡スマートグラスが装着されていた。


一方、隣に立つゴードもまた、小さな眼鏡を鼻上に乗せている。


貴族たちはオークの顔をまじまじと直視するのを忌避するため、まさかオークが眼鏡をかけているという奇異な様相を、誰も気づかない。


<うまく作動している?>


エルザが口元をかすかに動かし、小さく呟く。


<ええ、我の声も明瞭に聞こえているようですし、あなたの視界の共有も完璧です>


ゴードの声が、エルザの耳奥だけにクリアに届いた。


オークの頭蓋では人間の言葉を繊細に発声するのが難しい。


そのためゴードは、日頃から魔道具を用いて、思念を音声に変換して喋っている。


これを応用し、コミュニケーション用のスピーカーモードと、エルザの耳に装着した微小なイヤホンモードを切り替えている。


天才魔道技師であるエルザにとっては、造作もない。ただ――。


(彼の思念を出力する魔道具、妙に複雑だったわね。誰の作品かしら? それに、オークの思念って、もっと単純だと思ってたわ)


ともあれ、魔道具はきちんと動作していた。


ゴードからの指示は耳元への極小の耳打ちとなり、エルザの囁き声はオーク特有の超鋭敏な聴覚で拾い上げる。


貴族から見下されまいと必死に独学し、貴族社会のしきたりを隅々まで熟知したゴード。


そして、それを瞬時に可視化・数値化するエルザの魔導技術。


ジュリアンの罠を読んだ二人が用意した、最強の連携システム。


大理石の階段を下りようとした瞬間、ゴードの警告を発した。


<エルザ、足元の絨毯に注意してください。特定の色の糸で織られた紋様を踏んではいけません。高位貴族のみに許された不可視の領域です>


<なるほど、初手から地雷原ね。じゃあ、マーキングで可視化するわ>


エルザは腰元に隠したタッチパネルを指先で軽やかに操作した。


次の瞬間、彼女の片眼鏡の視界の中、ゴードの眼鏡の中、それぞれに、絨毯に描かれた複雑な模様の一部が真っ赤なハイライトで浮かび上がる。


<うん、これなら間違っても踏んだりしないわ>


エルザは優雅な足取りで、まるで美しいステップを踏むように、目に見えない貴族の結界を避けて通る。


高台で"踏んだ瞬間につまみ出せ"と合図を送る準備をしていたジュリアンは、早くも目を丸くして固まった。


――社交の場は、そんな思惑など喧噪に隠して、順調に進んでいく。


給仕が運んできたドリンクのグラスに手を伸ばそうとしたエルザに、再びゴードが囁く。


律紋旗ドミニオン・バナーは、ローゼンバーグ子爵のものではありません。古参貴族の管轄のようです。杯の作法が変わります。間違えないように>


<なにそれ、あいつが招待状を送って来たのに? ひっかけのつもりなのね>


心の中で吐き捨てつつも、エルザは完璧だった。ゴードが出す細かい指示に従う。


グラスの持ち手から一口目の口のつけ方、引き際のお辞儀まで、初見のはずのローカルマナーを完璧になぞってみせる。


せせら笑う準備をしていた周りの取り巻き貴族たちは、肩透かしを食らって呆然とした。


――次々と、ジュリアンの用意した罠を躱していく二人。


特に、ゴードの貴族社会の精通ぶりには、エルザも舌を巻く。


(こう言っては、彼に失礼だけど。やっぱりオークとは思えないわ。恥をかかないように研究したとは言ってたけど、どれほど学んだからと言って運用は別の話。指示もそつがない。的確だし、判断が早い。見た目はともかく、愚かな男たちの中でも、最もわたしの知性に近い。因果なものね)


今も、貴族たちの歓談に、にこやかに応じながら(本人は、きっとにこやかにしてるが、誰も見てはいない)、エルザを気にしている。


(ほんとうに、オークなの? 中身は別物なんじゃない? 背中にチャックでもついていて、イケメン貴族でも出てくるんじゃ?)


――エルザがそんなことを考えているあいだにも、クライマックスである国王陛下への御前挨拶(謁見)の時間が訪れる。


ジュリアンは冷や汗を拭いながら、ここが勝負どころだと、凝視しているのを感じた。


<エルザ、相手の身分によって膝を曲げる角度と頭の深度が細かく規定されています。陛下に対しては一分の狂いも許されません>


<めんどう、の一言ね。練習の通り、やるだけよ。あなたの視点共有で、理想的な像を投影、リアルタイム計測。表示に合わせ、制御する>


エルザの片眼鏡に、ゴード視点で見た自身が投影された。同時に、もう一人の自分のシルエットも投影される。


国王との距離、膝の曲げ角、体幹の傾きが、完璧に調整された理想像が、数値と共に、ガイダンスとして投影される。


エルザは、数値を参照して、機械のように正確で、かつ舞踊のように美しいカーテシーを披露した。


練習の成果である。もちろん、その隣ではゴードも臣下の礼をとっている。


長年王宮に仕える厳格な老貴族たちすらも、思わず息をのむほど完璧な姿勢だった。


その異彩を放つ美しさに興味を惹かれた国王が、深く重厚な声でエルザに直接言葉を投げかける。


「――深き森の静寂に、気高き一輪の薔薇が咲く」


それは単なる挨拶ではなかった。


<今のは建国期に詠まれた古典詩の一節です。返答もまた、対となる詩句を引用しなければ不敬とみなされます>


(陛下までわたしたちを試すわけ? まったく、この会場は敵だらけじゃない!)


内心で激しく毒づきながらも、エルザはゴードが耳元で流れるように囁く言葉を、そのまま口にのせた。


「――その棘は王冠を護り、その香は我が国に永遠の栄えをもたらさん」


幼少期から王室の教養を叩き込まれてきたかのように、滑らかで、情熱的で、気品に満ちた返答。


国王は一瞬目を見開いた後、心底満足そうに深々と頷く。周囲の貴族たちからは、感嘆と称賛の溜息が波のように広がっていく。


「見事だ。誇り高き魔女と、勇敢なる我が騎士よ。良き夜を」


「お言葉、勿体なく存じます」


王の言葉を受け、二人は優雅にその場を辞した。


一方、張り巡らせたすべての罠を軽々と、それもあまりにも鮮やかに踏みつぶされたジュリアンは――。


手にしていた高級ワイングラスを握りつぶさんばかりに震わせ、顔を真っ赤にして絶句していた。


<……ふふ、見た? あいつのあの顔>


壁際に寄ったエルザが、シャンパンを一口含みながら意悪く囁く。


<ええ、実に見事な敗北の顔でしたね。お疲れ様でした、エルザ>


<あなたもお見事だったわ、ゴード。……意外と悪くないわ。こういうパーティーで、楽しい酒は、初めてかも>


<光栄です>


魔女の型破りな最先端技術と、オークの秘められた高潔な知性。


絶対に相容れないはずだった二人が、貴族社会の悪意を完膚なきまでに打ち砕いたのだった。



━━━ (・oo・) ━━━



冷たく湿った石造りの壁が、重苦しい静寂を放っていた。


取調室と名付けられたその狭い部屋を照らすのは、高窓から射し込むわずかな灰色の光だけ。


使い古された木製テーブル、そして脚のガタつく椅子の輪郭だけを浮かび上がらせている。


(どうして……こんなことになったの?)


エルザは己の細い指先を見つめ、小さく息を吐き出した。


今朝、突然やってきた憲兵たちによって拘留され、理由も分からぬままこの部屋へと放り込まれたのだ。


いつも隣にいたはずのゴードの姿はない。


取調官が淡々と告げた事態の全貌は、悪夢のような内容だった。


始まりは、街の片隅で起きたごく小さな火災だったという。


火元が見当たらず、不審火として噂されたぼや騒ぎは、ここ数日で街のあちこちへと伝染するように広がっていった。


そのすべての現場に残されていた共通点――それが、エルザが開発し、人々の生活を一変させた"人工魔石"だった。


「設計上の欠陥ではないのか? 十年という年月が経ち、限界を迎えて発火しているのではないか」


取調官の詰問に、エルザは強く首を振った。


「そんなはずはないわ! 第一に、魔力が尽きたら回収業者が回収することで運用してるのよ? その際に、チェッカーを使って品質を検査する。第二に、わたしは過剰負荷がかかっても自壊し、安全に魔力を逃すように設計した。第三に、わたしは権利を持っているだけで、製造は各商人が抱える職人たちに委任しているわ。製作工程での不備か、安全装置のない粗悪な模倣を疑うべきよ!」


「だが、特定の商人や職人の人工魔石だけに問題が出ているわけではない」


取調官は冷ややかに書類を叩いた。


「今までの十年間に問題がなかった以上、製造過程のせいにはできん。やはり、設計そのものに根深い欠陥があったと見るのが自然だ」


「一度、工房へ帰らせて! 発火したという人工魔石を分析すれば、すぐに原因を特定してみせるわ!」


しかし、エルザの叫びはあっさりと退けられた。


保釈の許可は下りない。


取調官のほのめかす言葉や、言葉の端々に漂う陰謀の匂いから、エルザは悟った。


取調官が、事あるごとに、囁くのである。


「確かな身分の方に、助けを求めれば、今すぐにでも、ここから出られるぞ?」


これが誰の手筈によるものなのか、明らかだった。――ジュリアン。


(あの男……どこまで卑劣なの……!)


拒絶を叩きつけ、取調室に隣接する牢獄のような休憩室へと身を引いたエルザは、膝を抱えて項垂れた。


これまで、自分の頭脳と魔導技術だけを頼りに生きてきた。


この王国において、女は、"男の付属物"でしかない。


名乗ることすら許されない。未婚のうちは"父の娘"、嫁げば"夫の妻"と呼ばれるだけ。


成人すれば、親の法的庇護が切れて、別の男へ引き渡されるか、家を継ぐ男兄弟の従属人にならない限り、社会的な存在を失う。


契約権すら持たない。どれほど金を積もうと自分名義で家を借りることも、建物を買うこともできない。


エルザが、その地位を認められているのは、その発明が認められて、王家の後ろ盾があるからだ。


今回の件も、いずれ王家がエルザの身元引受人となり、釈放される。


しかし、そうならないということは、おそらく、ジュリアンが手をまわしているのだろう。


(あいつが、わたしを追いつめるためだけに、仕組まれたことね。わたしが、あいつに助けを求めるのを待っている)


こればかりは、ゴードには頼れない。


彼は、名誉男爵としての地位はあっても、社会的には、どこまでも"オーク"である。


司法に介入できるほどの政治力など持っていない。そのようなことが出来るのは、ジュリアンのように、古き貴族の特権。


己の技術と知性、そして、絶大な財力によって、男と対等に渡り合ってきたつもりだった。


だが、自分という存在がいかに脆く、無力な"身知らずの女"に過ぎなかったかを突きつけられる。


『結婚なんて面倒なこと、しなくて済む。誰の庇護に入る必要もない』


過去に自分が口にした強がりが、虚しく頭の中で空回りした。


どんなに優れた魔女であろうと、本物の権力と陰謀によって身柄を拘束されてしまえば、無力。


何も証明できない。お金を使うことさえ出来ない。無力感と孤立感が、冷たい手となって胸をきつく締め上げた。


冷たく湿った床に膝を抱えたまま、エルザは激しい絶望の波に呑み込まれていった。


その時だった。


<――エルザ>


胸元に隠していた通信魔道具から、微小な音声が鼓膜を揺らした。


壁の向こう、建物の外からの通信。その声の主を悟った瞬間、エルザの心臓が大きく跳ねた。


「ゴード……!?」


<静かに。我の聴覚であれば、囁きでも十分に拾えます。手短に、状況を説明してください>


壁に背を預け、エルザは震える声で事態をかいつまんで、囁くようにして、伝えた。


人工魔石の発火事故、冤罪の不当な拘束、そしてジュリアンの影。吐露するうちに、抑えていた不安が溢れ出しそうになる。


ゴードは静かに耳を傾け、深い低音で言い放った。


<わかりました。待っていてください。黙秘を続けてください。時間を稼ぐのです。我が必ず、助けますから>


「あなたに、何ができると言うの? あなたは貴族といえ、オークよ? 借り物の権力で、本物の権力に――」


<我を信じてください>


ゴードの声には、強さがあった。折れそうだったエルザの心を支える、頼りとなるチカラを感じた。


「――ゴード。無茶なことはやめて。まさか、陛下に頼ったり、あるいはジュリアンを殴りに行くんじゃないでしょうね?」


<ははっ! あやつを殴りに行くのは、良い思い付きです。今度、試してみましょう>


彼が笑うと、不思議とエルザにも笑みがこぼれた。ぜひ、その時は、エルザも見てみたいと思った。


<しかし、まだ、その時ではない。大丈夫です、当てはあります。だから、待っていてください>


「わかった。待ってる」


<では、次は、あなたがそこから出てくるときに会いましょう>


通信は途切れた。 冷え切った牢部屋の中に一筋の確かな熱を残していった。


――それからの尋問において、エルザは一言も口を開かなかった。


何を問われようと、どんな脅しを受けようとも、ただ固く唇を閉ざし、沈黙を守り抜いた。


現在の彼女の身分は、仮初めとはいえ「ゴード名誉男爵の婚約者」である。


無冠の平民でもなければ、完全な貴族でもない宙吊りの立場。


その絶妙な立ち位置のおかげで、憲兵たちも安易な暴力や拷問には踏み切れず、ただ拘束を続けることしかできなかった。


取調官たちは繰り返し、「ローゼンバーグ子爵に助けを求めろ」「折れて彼に頼めば済む話だ」と揺さぶりをかけてきた。


そして、ついに痺れを切らしたジュリアン本人までもが、取り調べ室に姿を現した。


「やあ、痛々しいね、エルザ」


ジュリアンは哀れむような、しかし欲望を隠そうともしない笑みを浮かべた。


「私に助けを求めれば、今すぐにでもここから出せる。君が差し出すべきものは、わかるね?」


エルザは一切目を合わせず、ただ床を見つめ続けた。


ジュリアンは蔑むように鼻で笑った。


「まさか……。あのオークに何か期待しているのかい? 武勲だけで成り上がった野蛮な化け物だぞ?」


その言い様に、エルザはジュリアンをにらむ。まるで、自分を傷つけられたかのような、痛みを感じた。


「言っておくが、あの男が一度だけ使える"陛下への不問直訴(ふもんじきそ)の特権"なら、とうに無効化してある」


やはり、手を回していたのか。エルザは強く噛み締め、ぎりりと音がした。彼が出来る唯一の手段だったのに。


「その表情。やはり、そこに希望を残していたのか! ははは、平民とは愚かだな。これで、あいつができることと言えば、力任せに押し入って君をさらうことくらいだ。だがそうなれば、即座に討伐対象に指定される。その時は私が喜んで騎士団を率い、あいつを焼き払ってやろう。……極上の『焼き豚』の完成だ」


ジュリアンの顔面を今すぐ全力でぶん殴ってやりたいという激しい怒りが、エルザの胸の底から湧き上がった。


だが、それと同時に――エルザの脳裏に浮かんだのは、ジュリアンが嘲笑するような「野蛮なオーク」の姿ではなかった。


(でも、彼は言った。当てがあると)


仮初めの婚約を結び、工房で共に過ごすようになって知ったゴードの素顔。


確かにその見た目は厳めしい巨躯と鋭い牙を持つ異形だったが、その内面は呆れるほどに繊細で、知的で、洗練されていた。


今、目の前で顔を歪めて笑う男の方が、よほど不細工に見える。


(ゴード……)


ジュリアンの罵倒を聞き流しながら、ゴードの姿を思い浮かべるだけで、不思議と冷え切っていた胸の奥がじんわりと温かくなっていった。


こんな絶望的な状況であるにもかかわらず、深い安心感が彼女の心を包み込んでいく。


その様子を見たジュリアンは、ふんと鼻を鳴らして、踵を返した。


「――己の愚かさを、身にしみて思い知るがいい。また来るとしよう。次は容赦しない。お前が誰の所有物になるべきか、嫌というほど教えてやる」


そう言い残し、ジュリアンは去っていった。


エルザは最後まで、ジュリアンに対して一度も口を開かなかった。


口を開けば、いくらでもジュリアンへの恨み言が出てくるかもしれない。


あるいは、気持ちに反して、泣き叫び、ジュリアンに縋って、助けを求めてしまうかもしれない。


どちらにしても、エルザは沈黙を貫くべきだと、気持ちを強く保った。


(だって、彼がそう言ったもの。……ふふふ、不思議ね。わたしが男の言うことを聞くのなんて、ぜったい許せないと思ってたのに。逆に、安心するんだね)


――拘留されてから数日が過ぎた頃。


突如として取調室の重い扉が開き、厳しい表情をした取調官が入ってきた。


「……エルザ殿。解放だ。出て行きなさい」


「え……?」


理由も分からぬまま、エルザは呆然と手続きを済ませ、重厚な施設の外扉へと案内された。


建物の外へと一歩踏み出すと、眩しい太陽の光が目に突き刺さった。


目を細め、視界を塞ぐ光の眩しさに耐えながら前を見やる。


そこに、立っていた。


威風堂々とした佇まいで佇む、巨躯の騎士。ゴード名誉男爵が、静かにエルザを待っていたのだ。


「ゴード」


声が震えた。理屈も、利害関係も、これまで築き上げてきた意地も拒絶も、すべてが吹き飛んだ。


エルザは衆目を気にせず、突き動かされるように駆け出した。


「ゴード……ッ!」


一直線に駆け寄り、彼女は大きなその胸に向かって、全身で抱きついた。


「迎えが遅くなり、申し訳ありません。体調を崩していませんか? エルザ」


ゴードの腹の底に響く低い声が、頭上から降ってくる。


彼の大ぶりの手が、戸惑いながらも、優しく、包み込むようにエルザの背中に回された。


その温もりと心地よい圧迫感に触れた瞬間、エルザの目からボロボロと大きな涙がこぼれ落ちた。


(ああ。無理かも。もう無理だわ。気づかないふりはできない。これが……、恋に落ちるっていうのね)


男の庇護などいらないと突っぱねていた孤独な魔女は、自分を固く抱きしめてくれる緑の騎士の腕の中で、初めて素直な恋心を自覚したのだった。



━━━ (・oo・) ━━━



#時間を少し戻そう。


#これは魔女が捕まり、オークが事情を知ったあとの話。




冷ややかな風が、王都の薄暗い裏路地を吹き抜けていく。


貧困特有の饐えた臭いが充満するこの一角は、華やかな社交界とは完全に遮断された異界だった。


ゴードは深いフードを目深に被り、巨躯をかがめながら、石造りの古びた酒場の地下へと足を進めた。


(……さて、時間がないな。エルザをあんな場所に長居させるわけにはいかない)


表面上は感情を殺した無表情を保ちながらも、ゴードの思考回路は極めて合理的、かつ猛スピードで回転していた。


王都の影には、人間たちが忌み嫌い、やりたがらない過酷な労働や裏稼業に従事する亜人たちがごった返している。


奴隷上がり、身寄りのない流れ者、そして法の網を潜り抜けて生きる者たち。


彼らを統べる顔役――かつての顔馴染みの亜人のもとへ、ゴードはまっすぐに向かった。


「久しぶりだな、ゴード。いや、名誉男爵様と呼ぶべきか?……そんな顔をするな、食い殺されそうだ。軽口も聞けないほどのことか? 穏やかじゃないな」


「街で多発している謎の発火現象について、お前の耳に入っている情報をすべて出してもらいたい」


ゴードは低い声で切り出した。


問題となっているのは、エルザが開発した「人工魔石」だ。


天然魔石は、命がけで地下深くの鉱山から掘り出す希少品であり、一部の富裕層や高位魔術師だけの専売特許だった。


しかし、エルザは全く異なる技術的アプローチにより、人工的に魔力触媒を製造する術を確立させた。


それは人々の生活を一変させた世紀の大発明であり、同時に王家の重要な財源でもあった。


製造業者は王家に特許料を納め、その一部がエルザのもとへ還元される仕組みだ。


国家の威信と巨大な利益が絡んでいる以上、粗悪な模造品などを市場に流通させれば、即座に国家規模の厳重な捜査が入るはずだった。


顔馴染みの亜人は、煙草の煙をくゆらせながら、眉間にしわを寄せた。


「妙な噂ならある。ここ最近、不自然なほど安い"模造品"が出回っていた。人工魔石ってのは、魔力が底をついたら回収業者に引き渡して充填済みと交換する。その回収業者の連中の一部が"もっと安いのがある。容量は変わらんからこっちにしろ"と持ちかけていたらしい」


「ふむ……。だが、庶民が安さに飛びついた結果の発火事故、という単純な構図ではなさそうだな」


「そうだ。驚いたことに、そんな怪しい話に応じた奴はほとんどいなかったんだよ。ここはエルザ様の膝元だ。みんな、生活を豊かにしてくれたあの賢いお嬢さんに深く感謝している。"模造品なんぞ使ってたまるか"ってな。……だがな、被害に遭った奴に話を聞くと、妙なことを言うんだ。"正規の品に交換したはずなのに、いつの間にか模造品に変わっていた"とな」


ゴードの黄金色の瞳が、冷たく光った。


「すり替えか」


「ああ。気づかないうちに、何者かが正規の人工魔石を欠陥だらけの模造品にすり替えている。それも町中のな」


「間違いなく回収業者だな。どこに魔石が配置されているかを正確に把握し、日常的に出入りできるのは彼らしかいない」


「だが、すり替えて、やつらに利があるとは思えないが。そうやってすり替えて手に入れた正規の品が出回っているって話も聞かない。妙なのさ」


「聞くべき相手がわかった。……すまんな。今日は何も持ってない。今度、酒樽を抱えてくる」


立ち去ろうとするとゴードに、顔役が背中から声をかけた。


「ゴード、おまえらしくないな。何を恐れてる? 面倒に首を突っ込むやつじゃないだろ? せっかく手に入れた地位を危うくするぞ?」


ゴードは足を止め、振り返らずに小さく息を吐いた。


「俺の婚約者が、泣いている。たまらないんだ」


「……オークが言うセリフかよ」


ゴードの背に、呆れたように声をかけたが、届かなかった。


――どれほど広い王都の中であっても、亜人の目はあらゆる場所に向けられている。


亜人のコミュニティの中で、ゴードは一目置かれた存在で、一声かければ、協力は惜しまれない。


亜人にして、貴族になった男。その武勇は、亜人にとって誇りであった。


彼らから得た情報で、ゴードは追い詰めていた。


雨上がりの濡れた路地裏。


逃げ場を失った一人の回収業者が、腰を抜かしていた。


その目の前にそびえ立つのは、夜の闇に溶け込む巨大な緑の影。


「ひっ……! た、助けてくれ! 俺は何も知らねえ! 何も知らないんだ!」


男はガタガタと震え、暴力による恐怖に怯えている。


ゴードは無情にもその太い腕を伸ばし、男の胸倉を掴んで強烈な圧迫感とともに持ち上げた。


威圧感と牙を露わにし、低く地響きのような声で耳元に囁く。


「オークを知っているか?」


「な、なに? なにを言ってる? 俺は何も知らない! 何も言えないんだ!」


「オークを知ってるか、そう聞いている。オークが、どのように恐ろしいか、知っているか?」


「しらねぇ、なにもしらねぇんだ!」


「そうか。なら、教えてやろう。空腹を満たすために襲う野獣や、無感情な本能で襲う死人とは違う。お前らの痛みや恐怖の感情を理解しているんだ。どう扱えば、お前らが、恐れ、悔やみ、苦しみ、恥じ、痛み、縋り、乞い、そして、死ぬのか。命の尊厳を踏みにじる悪意の権化だ。さあ、どこから食って欲しい? 一番食われたいところは最後にしてやろう。一番食われたくないところからだ。生きたままに肚を食われたことはあるか? 臓物を引きずり出され、掻き回されるのは格別に苦しいぞ?」


「ひ、ひぃ……ッ!」


「よし、おまえがオークを知ったところで、はじめようか。聞きたいことは、あとだ。あとで、いい。どうせ、言わないんだろ? なら、楽しんでからにしよう。お前の心臓が止まりそうなら、俺が尻から手を突っ込んで心臓を握って動かしてやるからな。まずは、穴だ。穴を開けよう。俺のは格別だ、尻じゃ割けて血が止まらなくなっちまう。喉がいいな。顎を大きく開こう、それがいい。骨を外せば意外に大きく開く。何も言えなくなるが、構わないな?」


「や、や、やめ――」


「だが、慙愧の念など抱いていないな? 自分がしたことで、どうなったのか。同族が苦しむのを見ていて、血の一滴ほどにも、悪いことをしたなど、思ってくれるなよ? 不味くなる。そんなもの、不味くて、不味くて、食えたものではない。お前は、人工魔石をすり替えた。だが、それは金のためだろう? 自分の欲望のためだな? そうでなくてはいけない。俗物であれば、あれるほど、美味いんだ。そうであってくれよ?」


「ま、ま、まて! そうだ! 俺はすり替えたんだ! だが、あんな騒ぎになるとは思ってなかった!」


「……なに?」


「そりゃ、金をもらったんだ! 金のためにやった! 回収の時に模造品とすり替えろって指示された! どこの誰かは知らん! だが、えげつない身なりの貴族様だった! 間違いねえ! 俺だってこんな人死が出るような大惨事になるとは思わなかったんだ……! 金に目が眩んだんだ、許してくれ……! 悪いことをしたって思ってるんだ!」


男の顔には、罪悪感と自責の念が滲み出ていた。


ゴードは男を地面に下ろすと、静かに服の埃を払ってやった。


先ほどまでの、凶暴で、野蛮で、慈悲の無い、最も人間的で下劣な悪意を持った怪物ではなくなっていた。


優しく、諭すように、囁いてやった。子どもに諭すように。


「罪を償え。お前がやったことは決して許されることではないが……。自首し、すべてを証言するならば、我の名において憲兵からの不当な処罰からは守ってやる。来い、連れて行ってやる」


ゴードの手回しは迅速かつ完璧だった。 捕らえた業者の供述だけではない。


亜人のコミュニティーを駆使して、他の買収された業者たちを次々と特定・拘束した。


すり替えられた模造品の現物を多数押収し、それがエルザの設計図とは根本的に異なる粗悪な構造であることを魔導技師たちに証明させた。


その裏で糸を引いていたジュリアンの資金ルートや、すり替えられた正規の人工魔石が運び込まれている別邸を突き止めた。


あらゆる手段を択ばずに、すべてを、白日の下に晒してみせたのだ。それでも、魔女を解放するのには、数日もかかってしまった。


――取調施設の重厚な扉が開く。


雲ひとつない青空の下、ゴードは静かにその佇まいを正し、出てくるであろう彼女を待っていた。


(……取調べで酷い目に遭っていなければいいが。あんなに気が強いくせに、根は繊細な人だからな)


しばらくすると、施設から小さな人影が歩み出てきた。 眩しそうに光を遮り、周囲を見回すエルザ。


彼女の紫水晶の瞳が、自分を捉えた瞬間――。


「……ゴード」


エルザの表情が一変した。


次の瞬間、彼女は、なりふり構わずこちらへ向かって一直線に駆け出してきたのだ。


「ゴード……ッ!」


ドスン、と心地よい衝撃が胸に響いた。


エルザが全身の体重を預けるようにして、ゴードの巨躯に強く抱きついてきたのだ。


普段の彼女なら、「見せかけの婚約者」に対してこのような素直なスキンシップをとるはずがなかった。


抱きついてきた細い体が、かすかに震えている。見上げれば、その瞳から大粒の涙が溢れ落ちていた。


「迎えが遅くなり、申し訳ありません。体調を崩していませんか? エルザ」


ゴードは自分の不器用で巨大な手をそっと動かし、壊れ物を扱うかのような慎重さで、彼女の背中を優しく包み込んだ。


(やれやれ……。人前でオークに抱きつくなど。よほど、追い詰められていたらしい)


しかし、ゴードの口元は誰にも見えない位置で、微かに満足そうに緩んでいた。


青空の下、ゴードは泣きじゃくる大切な婚約者を、ただ静かに抱きしめ続けていた。



━━━ (・oo・) ━━━



王都の外れ、鬱蒼とした深い森に囲まれた場所に、ジュリアンの豪奢な別邸は佇んでいた。


白磁の壁と黄金の装飾に彩られた邸宅は、主の歪んだ虚栄心をそのまま形にしたかのように威容を誇っている。


しかし、その重厚な意匠の玄関扉は、今や乱暴に蹴破られ、無残に砕け散っていた。


「な、何事だ! 貴様ら、ここを誰の邸宅と心得ている!」


館のホールに響き渡ったのは、優雅さを完全に失ったジュリアンの狼狽した悲鳴だった。


大理石の床を重い軍靴の音が踏み鳴らす。


雪崩れ込んできたのは、重装の憲兵たち。


そして、騎士服を纏った巨躯のゴードと、魔女もかくやというウィッチハットにトラディショナルのエルザだった。


ジュリアンは顔を極限まで引きつらせ、血走った目でエルザを睨みつけた。


子爵という貴族の特権を盾に、すべてを影から操っていたと思い込んでいた男だ。


自分の私有地である別邸に、まさか国家の憲兵が直接踏み込んでくるなど、夢にも思っていなかったのだろう。


「エルザ……! なぜお前がここに! それにゴード、貴様のような野蛮なオークが憲兵を引き連れて何をしに来た! 無礼だぞ!」


「やあ、痛々しいわね、ジュリアン」


エルザは冷ややかに言い放ち、手に持っていた"何か"をジュリアンに向かって投げ渡す。


ジュリアンはとっさに避けて、ゴトンと床に転がった。


彼の指示により、すり替えられた粗悪品の人工魔石。


エルザが指を鳴らせば、それはポンと音を立てて何かが弾け、火が噴き出してきた。


「ひぃ!」


「呆れた物よ。こんなものを、わたしが魂を込めて工夫した、安全な人工魔石とすり替えるなんて。怒りより、悍ましさが勝るわ」


すでに、町中のすり替えられた粗悪品は回収済みだ。ゴードの人脈により、亜人たちの協力も得て、総出で回収した。


「すり替えたのなら、正規の人工魔石は証拠隠滅のために廃棄するなり、すればよかったのに。まさか、溜めこんでいたとはね」


エルザが視線をやると、そこには別邸内の一室。


憲兵が中から一箱を抱えて持ち出し、エルザの前で開けると中には、正規の人工魔石が納められていた。


物証を目の前に突きつけられ、ジュリアンは口をパクパクと開閉させた。


「な、なぜ……なぜこの場所が分かった……!? ここは王室の捜査権すら及びにくい私有地のはず――」


エルザはフッと呆れたように鼻で笑い、髪をかき上げた。


「盗難防止用の微弱な位置発信を仕込んでいるのよ。まあ、そうでなくても、ゴードが人の流れから突き止めていたけど」


「な……ッ!?」


「これで証拠と犯行の手口、そして現物のすべてが完全に揃ったわ」


間髪入れず、憲兵隊長が前へ出ると、王家の金箔紋章が燦然と輝く書面をジュリアンの目前に突きつけた。


「ジュリアン・フォン・ローゼンバーグ子爵! 人工魔石は王家が直接取り扱う国家の重要財産。それを粗悪な模造品へとすり替え、莫大な私益を得ただけでなく、大勢の市民に危害を加えた罪! これは明白なる『国家反逆罪』に相当する! 同行願おう!」


「こ、国家反逆罪……!?」


王家の威光を前に、ジュリアンの顔からは一瞬で血の気が引き、土気色へと変わった。


これまで彼が振りかざしてきた貴族の威光、血統の誇り、緻密に張り巡らせたはずの陰謀。


そのすべてが、反転した。


彼は、最初からエルザに惚れて結婚したかったのではない。


彼女の持つ財産、そして人工魔石の利権、それらを手にしたかっただけなのだ。


そのうえに、証拠を隠滅するのではなく、回収した正規の人工魔石を他国に流出させてまで、私腹を肥やそうとした。


完璧な敗北。退路を完全に断たれたジュリアンは、青ざめた顔を突如として真っ赤に跳ね上げ、見苦しく叫び始めた。


「ふざけるな! ふざけるんじゃないぞ平民の分際で!! お前が私の妻になってさえいれば! この利権も、膨大な魔石の権利も、すべて私のものになっていたんだ! 私のものを私がどう売ろうと、私の勝手だろうがぁぁぁッ!!」


極度の逆上と錯乱。理性を完全に失ったジュリアンは、隠し持っていた細身の魔術杖を素早く抜き取った。


「消えろ! 私の邪魔をする奴らは全員殺してやる!!」


杖の先から放たれたのは、至近距離から解き放たれた極大の炎魔法。


紅蓮の劫火が、防具も身につけていない無防備なエルザに向かって爆風とともに襲いかかる!


そのエルザは、魔女と呼ばれるほどに、深く魔術に関わる者だ。


当然、その予備動作や、魔力の動きで、ジュリアンの最後のあがきを読んでいた。


防衛魔法の準備は済んでいる。あとは発動するだけ――。


だが、視界を遮るようにして、突如として圧倒的な"巨大な壁"が前に躍り出た。


ゴードだった。視界が遮られたことで、展開場所が視認できず、防衛魔法が発動できない。


「だ、だめ!」


彼は一切の躊躇もなくエルザをその背中に庇い込み、ジュリアンが放った灼熱の炎魔法を、無防備な自らの背中で真っ向から受け止めた!


轟音と熱風が広間を吹き荒れる。


「ハハハハハ! 馬鹿め! オークごときがでしゃばるからだ! 予定通り、私の魔法でこんがりと焼き豚にしてやったわ!!」


ゴーゴーと燃えさかる紅蓮の炎を前に、ジュリアンは狂ったように高笑いをあげた。


しかし――。


「……笑止」


凄絶な低音が、炎の渦を切り裂いた。


炎を強引に薙ぎ払うようにして、ゴードが一歩、前へと踏み出した。


その高級な上着は焦げ落ちていたものの、顕わになった緑色の分厚い皮膚は、驚異的な生体反応によって火傷の傷口を瞬時に塞いでいく。


「な……!? なぜ立っている!? 焼き尽くされたはずだ!!」


「オークの圧倒的な肉体再生力を侮ったな。……この程度の生ぬるい火、痛みすら感じん」


ゴードの黄金色の瞳が、冷徹な捕食者の光を帯びてジュリアンを捉えた。


丸太のように太く強靭な腕が、空気を切り裂いて振り抜かれる。


「ぐはっ……!?」


一撃。


たった一撃の打撃によって、ジュリアンの体は弾丸のように吹き飛ばされ、豪奢な大理石の壁へと激突した。


壁に蜘蛛の巣状のヒビが入り、男はそのまま力なく崩れ落ちてあっけなく意識を失った。


「子爵を確保! 連行しろ!」


気絶したジュリアンを取り囲み、憲兵たちが次々と縄をかけて連行していく。


あれほど誇り高く立ち振る舞っていた美貌の貴族の最後は、哀れなほどに見苦しく、惨めなものだった。


静まり返った広間に、焦げた臭いだけが漂っている。


エルザは我に返り、足をもつれさせながらゴードの背中へと駆け寄った。


「ゴード! あなた、無茶よ! 怪我は……! 怪我を見せて!!」


自分を庇って焼かれた彼の背中を見つめ、声が激しく震えた。涙が視界を滲ませていく。


ゴードはゆっくりと振り返ると、焦げた袖を少し気にするようにしながら、呆れるほど穏やかに、優しく微笑んで見せた。


「心配いりませんよ、エルザ。……大切な婚約者を、無事に守れてよかった」


その低く温かい声。 そして、不器用だけれどどこまでもまっすぐで、見返りを一切求めない深い微笑み。


それを目の当たりにした瞬間――。


ドクン、と胸の奥で大きな衝撃が跳ねた。


これまでエルザに近づいてきた男たちは、誰も彼もが、エルザの利用価値しか見ていなかった。


エルザが持つ「魔導の才能」や「特許の財産」、あるいは「平民の魔女」という、ネームバリュー。


言葉巧みに愛を囁きながら、裏ではエルザを所有物として扱おうとする者ばかりだった。


けれど、目の前にいるこの人は違う。


見返りなんて何一つ求めず、自身の身を盾にしてエルザを庇い、ただ"守れてよかった"と、心から嬉しそうに笑うのだ。


(あぁ……わたし……)


エルザは胸の奥から溢れ出す熱い感情に、抗うことなんて出来なかった。


最初は、寄ってくる男を追い払うための"契約"に過ぎなかった。


面倒な貴族の手続きを回避するための"仮初めの婚約"だったはずだった。


(わたしも……、やっぱり女。男に守られて、安心する。大きな体に身を寄せて、安らぎを得たいって渇望する)


呆れるほど簡単に、今まで掲げて来た"看板"が、落ちていくのを見つめていた。


今は、素直になろう。感情に従い、彼に抱き着いた。



━━━ (・oo・) ━━━



王都の北端、沈みゆく茜色の残照を背にして聳え立つ、巨塔のシルエットがあった。旧・魔力供給塔。


まだ魔導工学が黎明期であった時代、黒ずんだ鉄骨と無骨な魔導回路を網目のように組み上げて建設された、過去の遺産である。


エルザが「人工魔石」という世紀の発明を成し遂げる以前。


生活インフラは、すべてこの巨大な塔から大気中へ向けて伝波のように電磁的魔力を垂れ流し、人々の魔道具に動力を供給することで成り立っていた。


しかし、その伝達効率は劣悪の一途をたどり、膨大な魔力の八割以上が空中で雲散霧消してしまうという、極めて欠陥の多い大仕掛けでもあったのだ。


エルザが開発した人工魔石が世界を鮮やかに塗り替えた瞬間。


この巨大な塔はその歴史的役割を完全に終えた。


今や誰ひとりとして足を踏み入れる者もなく、ただ潮風と雨露に晒されながら風化を待つだけの、巨大な廃墟と化している。


誰も来るはずのない最上階。


錆びついた鉄格子が軋み、寂寥とした高所特有の夜風が吹き抜ける展望デッキで、エルザは一人、膝を抱え込んで小さく丸くなっていた。




"結婚願望はない"なんて嘘だ。


今まで、わたしが掲げて来た"看板"だ。


それはもう、落ちてなくなった。それがなんだったのか、考えていた。


自己の自立性を必死になって守ろうとしてただけ。誰かの付属物になりたくなかっただけ。


本気で恋をしたことがなかっただけ。


今までの恋人は、好きだし、愛していて、大切にもしていたけれど。


あのジュリアンでさえ、あんなことをしなければ。


ただ、わたしは、個人は個人だし、それを尊重したいって思ってた。


わたしはもう、それが許されるんだって思ってた。呆れるほどの財力と、国に守られた身分。


一人で暮らしていても許されると思ってた。そして、誰かと、一緒に暮らしたいとは思わなかった。


家族になる必要性を感じなかった。


付き合うことが、結婚することの約束のように扱われるのが、嫌だった。


――でも、違うってわかった。


それは、感情だったんだ。


本気の恋をして、彼だけの存在になりたいって感情が沸いて来て、彼の代わりなんていないってわかったとき。


何ができる?


口で「わたしだけのものになって」って約束して、彼は、必ず守ってくれるの?


彼なら守ってくれそうだけど、結局は、無理よね。


浮気するのは、男の常。男のさがって言ってもいい。彼を責めても無駄。


彼、優しいから、きっと、誰にでも優しいから。


また、誓約書を作る?


無理よね。


ジュリアンとも、反対の意味だったけど、誓約書を作ったのに、その裏を突いて、裏切られた。


何ができる?


何もできない。閉じ込めておくことさえ、出来ればいいけど。


彼を閉じ込めておくものをつくるのは、わたしにしても、むずかしいな。


なにせ、怪力無双のオークだ。


――感情が叫ぶ。どうにかしろって、叫ぶのよ。


結婚って、契約とか、手続きとか、ゴールとか、いろいろ間違った認識してた。


違う。


それは、お互いに誓い合うということ。それが、結婚だ。


誰の前だっていい。神でも、精霊でも、人の前だっていい。


ただ、それだけのことで、それ以上ではなくて、でも、これ以上はない。


誓い合い、それを信じ、互いに傷を刻みあう。


自分に刻まれた傷をそっと撫でて、自分が負うもの。彼に負わせるものじゃない。


そうして、ようやく自分の感情が満たされる。そのために、結婚したいって思う。


家族になりたい、一緒に暮らしたい、庇護されたい。そのための結婚じゃない。


彼に誓って欲しい。彼に誓いたい。あなたのものにして、あなたのものになりたい、と。


それは、願望じゃなかった。一方的な欲望だと間違ってた。本当の恋を知らなかったから。


――それしか、できない。切望だった。




ギシ……ギシ……と、重く太い金属の踏み込み音が、階段の闇の底から響いてきた。


姿を現したのは、ゴード。


「こんなところにいらっしゃいましたか、エルザ。工房におられなかったので、捜しましたよ」


低く、包み込むような温かみを持った声。 エルザは膝にすっぽりと顔を埋めたまま、子供のように不機嫌そうに唇を尖らせた。


「見つけないでほしかったわ」


「おや、拗ねていらっしゃいますか」


「拗ねてなんかないわ。……ただ、聞きたくなかったの。あなたがここに来るってことは、そういうことでしょ」


ゴードは静かな足取りで彼女の傍らに歩み寄ると、胸ポケットから一通の折りたたまれた書面を取り出した。


重々しい赤い羊皮紙の封蝋。そこに刻まれているのは、王家と軍部が連名で用いる紋章だ。


「『戦時徴兵令』です。……元奴隷のオーク貴族である我は、前線にて強制狂化を施され、使い捨ての兵器として敵地へ赴くことになります。婚約の解除や、私の死後の保証金受取の手続きは、国が代行するよう手配を済ませてあります。あなたに面倒はかけません」


淡々と、何でもない雑談のように語られるゴードの言葉が、夜風に混じって虚しく響く。 エルザはゆっくりと、力なく顔を上げた。


高台から見下ろす王都には、夕闇の訪れとともに、ひとつ、またひとつと街の街頭や家々の窓に灯り始めている。


彼女がその手で生み出した"人工魔石"のあたたかな橙色の灯りは、かつてこの愚かしい供給塔が撒き散らしていた無駄な光とは違う。


人々の暮らしを確実に支える、優しく力強い光だ。


「……最初は、都合が良いと思っていたのよ」


エルザの口調は、どこか自分自身を他人事のように俯瞰するような、痛々しいほどの静けさを帯びていた。


「戦時徴兵令であなたが死んでくれれば、面倒な手続きなしに保証金が入って、手間が省ける。そう言ったわよね、わたし。……でも、それがこんなにも残酷な知らせになるなんて、思ってもみなかったわ」


街を見下ろすエルザの瞳が、切なく揺れる。


ぽつり、ぽつりと溢れ出す言葉は、彼女がこれまで築き上げてきた合理性とロジックを、自分の手で乱暴に、叩き壊していく。


「今まで、知らなかったのよ。恋に落ちるなんて、わたしにとっては完全に他人事だった。どうして世間の人が"付き合う"ってことを"結婚"に結びつけたがるのか、まったく理解できなかった。わたしには結婚願望なんて無かったし。結婚なんてしなくても、二人でいるときだけ、楽しい時間を過ごせばいいじゃない。面倒な手続きとか、ぜったい喧嘩するのに一緒に暮らすなんて、する必要ないって、本気で思っていたの」


風がエルザの髪を乱す。彼女は切なさを含んだ笑みを口元に浮かべながら、己の胸元を強く握りしめた。


「でもね……。自分がそうなって、初めて知ったのよ。ああ、こりゃ、どうしようもないんだなって。自分の感情なのに、びっくり。恋って、本当にどうしようもないのね。好きな気持ち、ずっと結ばれていたい気持ち、離れたくない気持ち……。こんな気持ちを、どうやって処理すればいいの? どうやって保持すればいいの? 何度も、感情を手を放せば済むって頭で考えるの。でも、感情が目をそらすことさえ許さない。あなたが失われてしまうかもしれないっていう不安が押し寄せてきて、どうしても消えてくれないのよ」


自笑するように首を振るエルザの頬を、つーっと透明な一すじの筋が伝った。


「代わりの男なんてどこにでもいるじゃない、って……過去のわたしなら平気で言っていたわ。でも、びっくりよ。いないの。代わりが居ないのよ! いるはずがないって、思っちゃうの。こんな気持ちになったのが人生で初めてだから、本当に、びっくりしてる……。ほんとうに、ほんとうに、あなたの代わりなんているはずがないのよ!!」


堰を切ったようにポロポロと涙が溢れだし、エルザは自分の胸を強くかきむしるように抱きしめた。


天才魔女として持て囃され、誰の庇護も要らないと孤独を誇り、冷徹に金を計算していた強がりは、もうどこにも無かった。


「抱きしめて、離したくない……! あなたを失うってことは、自分の心を失うのと同じなの! 心だけ奪っていくだなんて、そんなのやめてよ!! 体も、魂も、全部奪っていってよ!! 一緒に連れていってよ……!」


しゃくりあげ、声をつまらせ、目元を真っ赤に濡らしながら、エルザは歪な笑みを浮かべた。


「あはは……こんな、乙女みたいなこと、わたしでも言うんだね。恋って恐ろしい。世間や男に勝てても、恋に勝てる女はいない。とにかく、自分でもびっくりだよ……」


立ち上がったエルザは、ゴードの太く頑丈な胸板へと自分から激しく飛び込んだ。


ドスンと大きな衝撃とともに、彼の上着の布地を細い指先で強く掴みしめる。


「わたし、今から契約違反するよ。違約金、お金なんかあげる。権利もあげる。でも――」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げたエルザは、まっすぐにゴードの黄金色の瞳を見つめ返した。


「わたしと、結婚してよ! 仮初めなんかじゃなくて、本当の夫婦になって!!」


「エルザ……」


「わたしに、消えない傷を残していってよ! あなたの妻になったという、逃げられない重い責任をわたしに背負わせて!! もし自分が死んだら、あの女を未亡人にして傷ものにしてしまうっていう消えない傷と呪いを、あなたに残して!! そうすれば、あなたがわたしのもとへ、帰ってくる理由ができるでしょう!? わたしを妻として残していけば、あなたみたいな義理堅い男が、わたしを一人にして死んでなんていられるわけがないじゃない!!」


損得勘定も、合理的な契約も、貴族への反発も、すべてを投げ捨てた。


ただ愛する男が、生きて自分の元へ戻ってくること。そのためだけに、一生解けない呪いをかけようと泣き叫ぶエルザ。


ゴードは驚きに黄金の目を大きく見張った。


そして次の瞬間、彼の胸の奥から込み上げてきた激しい愛おしさと情熱が、その表情を優しく崩した。


ゴードはゆっくりと、しかし確かな力強さをもって、己の太く逞しい両腕を回した。


小さな肩を震わせて泣きじゃくる彼女の身体を、温かく、力強く、二度と手放さないと言わんばかりに抱きしめる。


「……オークを知っていますか?」


「知ってる。倫理も交渉も通用しない圧倒的な暴力。悪意が持った知性。そう言われてる」


「ええ。我は、オークではありません」


その一言に、天才エルザの優れた頭脳ですら、理解するのに数拍を置いた。


「え」


「我は、自分をオークだと名乗ったことは一度もありません。まあ、あえて誤認を否定もしないのですが」


「……、やっぱり。わたしも、ずっと思ってた。オークじゃないみたいって。だって、あまりに素敵すぎるんだもの」


「我の背中を確認してください。そこにチャックがありますから、それを下すと――」


エルザは、すぐに飛び跳ねるように、彼の腕から抜け出し、背中へと廻った。


そして、大きな背中を無遠慮に撫でまわし、真剣にチャックを探す。


――あるはずもない。


「え、ないよ? どこ? どこに――」


必死になって太い背中を撫でまわすエルザの手が、ふと止まった。


触れている大きな背中が、かすかに、けれど規則的に揺れていた。


彼が、静かに震えている。


「……ゴード?」


背後に回り込んだエルザの目には、彼の表情はわからない。でも、ぽたり、ぽたりと、何かがこぼれ落ちるのが見えた。


エルザは悟った。


彼は、見せないように。背中へとエルザを誘導させた。


いつも冷静で、知的で、隙を見せなかった巨大な騎士。その彼が、声を殺し、巨大な手で顔を覆って泣いていた。


オークの厳つい頭蓋から漏れ出るのは、魔道具を通さない、かすかな掠れた息の音。


彼もまた、耐えていたのだ。 身分に、宿命に、過酷な運命に。


そして何より、手に入れたばかりの愛しい存在と引き裂かれる恐怖に。


「我が、オークであることを、これほど恨んだことは、ありません」


「ゴード……、ほんとうにオークなの?」


「ええ。不本意ながら、転――」


低く出力される魔導音声が、途切れ途切れになる。


「――して、これまで、オークとして、生きてきました。期待を抱かせてしまった、のなら、申し訳ありません。しかし、不格好なところを……、お見せするわけには。我が泣けば……、あなたを不安にさせてしまう。我は騎士であり、男であり……、何より、あなたを護る者でありたかった」


「バカ……、バカ言わないでよ……!」


エルザは彼の背中に、額を強く押し当てた。


「泣いていいに決まってるじゃない! 嫌だって言ってよ! 行きたくないって駄々を捏ねてよ! 一緒にいたいって、わたしにすがってよ!!」


ゴードはゆっくりと振り返ると、涙で濡れた顔をエルザに向け、壊れ物を扱うように彼女の涙を太い指で拭った。


「エルザ。我も……あなたとずっと、この街で暮らしたい。毎朝あなたを起こし、朝食を作り、あなたの研究を一番近くで見守っていたい」


初めて吐露された、無骨な騎士の切望。


「なら!」


「だから、約束をしましょう」


「え?」


ゴードは自分の首元――。オークという肉体を象徴する境目に手を当て、静かに微笑んだ。


「戦場で……。我は"オーク"を脱いできます。背中にあるチャックを下ろして、中から這い出てきます」


「え……?」


「国の兵器としての命は、戦場で終わらせてきます。お役御免となります。あなたを愛する一人の"男"になって、帰ってきます」


ゴードは膝をつき、エルザに視線を合わせた。


「だから……。チャックの中身は、我が戦場から無事に帰ってきた時に、お見せしますよ。我が愛しい、妻よ」


「……ぜったいよ? 誓約書を作るからね?」


「ええ。あなたのご希望通りに、イケメンが出てくれば良いのですが」


「あれ。口に出てたのね。もう……。それも誓約書に書きましょう。イケメン以外お断り」


「誓いのキスは、その時までお預けにしましょう。オークの口では、口づけすら許されません」


「いいわ。でも、わたしがするのは、自由だからね」


背伸びをした魔女の腕が首に巻きつき、武骨な牙へと、愛おしそうに誓いの唇が重ねられた。


二人は二人だけの夫婦となり、やがて騎士は宿命を断ち切るため戦地へと旅立った。



━━━ (・oo・) ━━━



静かになった工房には今も、二人分の食器と、彼を迎える準備が整えられている。


一方的な庇護ではなく、互いを求める愛を知った魔女は、誇り高く微笑みながら窓の外を見つめる。


「遅いわ、旦那様」


彼女は今日も愛する夫を待ち続けている。



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