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病院のトイレ-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/05/15

 雨は三日間、止まなかった。


 市立白鷺病院は、山の斜面を削って建てられた古い総合病院だった。新棟は硝子張りで近代的だが、問題は閉鎖された旧東病棟にある。


 昭和五十年代に精神科病棟として使われていたそこは、今ではカルテ保管庫と物置になっていた。


 間宮響子が病院に呼ばれたのは、夜勤看護師が一人、錯乱状態で保護されたからだった。


「……トイレに、子供がいるんです」


 看護部長は疲れ切った顔でそう言った。


「毎晩、個室の下から覗いてくる。最初は冗談だと思いました。でも見た者が皆、おかしくなる」


 響子は黙って頷いた。


 彼女は霊能者としてテレビにも出ていたが、心霊現象の大半が人間の狂気や罪悪感に根を持つことを知っていた。悪霊より恐ろしいのは、“人が見たくないもの”が形になった存在だ。


 案内された旧東病棟は、湿ったカビ臭に満ちていた。


 壁紙は膨れ、天井には茶色い染みが広がっている。蛍光灯は半分死んでいて、白い点滅がまるで痙攣する眼球のようだった。


 問題のトイレは、病棟の最奥にあった。

 女子用。

 古い和式便所が三つ並んでいる。

 一番奥の扉だけ、なぜか新しい鍵に交換されていた。


「ここです」


 看護部長が囁いた瞬間、響子は気づいた。


 臭い。


 腐敗臭ではない。

 もっと生々しい、“湿った口内”のような臭いだった。

 誰かの喉の奥に顔を突っ込んだ時のような臭い。

 響子の背筋を冷たいものが撫でた。


「ここで何がありました?」


 部長はしばらく黙っていたが、やがて観念したように話し始めた。



 三十年前。

 精神科に入院していた七歳の少女が失踪した。

 名前は真壁ユリ。

 重度の幻覚症状を抱えていたが、ある日突然、「トイレの中にお母さんがいる」と言い始めた。


 そして夜勤中、少女は消えた。

 見つかったのは三日後。

 ――便器の中だった。


 だが。

 警察記録には残っていない。

 なぜなら、少女の遺体は“入るはずのない形”で便器内部に押し込まれていたからだ。

 骨が砕け、関節が逆向きに折れ曲がり、肉が削げ落ちていた。


 まるで。

 便器の奥から、“何か大きなもの”が少女を引きずり込もうとしたように。


 響子は無意識に唇を舐めた。

 乾いていた。

 嫌な予感がした。

 非常に。


「……見ます」


 彼女は奥の個室の鍵を開けた。


 ギィ……。


 蝶番が濡れたような音を立てる。

 中は暗かった。

 和式便器。

 黒ずんだ床。

 壁に無数の引っかき傷。


 その時だった。

 コツ。

 便器の奥から音がした。

 響子は動きを止めた。


 コツ。

 コツ。

 まるで爪が配管を叩いているような音。

 そして。


「……ママ?」


 幼い少女の声が聞こえた。

 便器の奥から。

 響子は息を呑んだ。

 霊視を開く。


 瞬間。

 世界が変色した。

 トイレ全体が黒い水で満たされて見えた。天井から髪の毛が垂れ、床下を無数の裸足が歩き回っている。


 そして便器。

 その穴の奥に。

 “顔”があった。

 女だった。

 異様に白い顔。

 目がない。

 鼻がない。

 だが口だけが異様に大きく裂けている。

 その口の中に。

 さらに無数の顔が詰まっていた。

 子供。

 老人。

 女。

 男。

 全員、生きたまま押し込められている。

 顔たちは呻き、泣き、口を動かしていた。


 だが声にならない。

 女の顔が笑った。


 ぐちゅ。

 便器の奥から、白い指が這い出てくる。

 長い。

 異様に長い。

 関節が途中から増えている。

 響子は後退した。


 その瞬間。

 背後で扉が閉まった。

 バァン!!

 看護部長の悲鳴。


「間宮さん!」


 だが声が遠い。

 空間が歪んでいた。

 個室の中だけが別の場所になっている。

 響子は理解した。

 これは霊ではない。


 “穴”だ。


 人間の恐怖、孤独、虐待、自殺願望、精神崩壊。

 病院に集まり続けた負の感情が、配管の暗闇に巣を作ったのだ。


 この世の底に繋がる“口”。

 そして人間は本能的に知っている。

 便器の奥は暗い。

 深い。

 見えない。

 だから幼い頃、誰もが一度は思うのだ。


 ――何かがいる。

 女の顔がさらに近づく。

 口の中の無数の顔が一斉に響子を見た。


 その中に。

 響子自身の顔があった。


 まだ若い。

 十代の頃の顔。

 泣いている。


『助けて』


 響子の記憶が疼いた。


 幼少期。

 アルコール依存の母。

 暗い団地のトイレ。

 鍵を閉めて震えていた夜。

 ドアの向こうで怒鳴り声が響いていた。


 ――お前なんか産まなければよかった。

 その時。

 便器の中から声がしたのだ。


『こっちにおいで』


 優しかった。

 母よりずっと。

 だから。

 響子は。

 一瞬だけ。

 便器に手を伸ばしていた。


「……ッ!」


 我に返った瞬間、髪が掴まれた。

 女の口の中から無数の腕が伸びていた。

 引きずり込まれる。

 頬が便器に擦れる。

 冷たい。

 ぬるぬるする。

 穴の奥から息遣いが聞こえる。

 何百人もの。

 湿った呼吸。


『ここはね』


 女が囁いた。


『寂しい人が落ちてくる場所なの』


 響子は絶叫し、数珠を叩きつけた。

 破裂音。

 白い閃光。


 次の瞬間、彼女は廊下に投げ出されていた。

 看護部長が泣きながら抱き起こす。

 個室の扉は開いていた。

 中には何もない。

 古い便器だけ。


 だが。

 響子は見てしまった。

 便器の縁。

 そこに、小さな子供の指が五本。

 内側から。

 ゆっくり。

 這い上がってくるのを。




 翌日、旧東病棟は封鎖された。

 だが数ヶ月後。

 別の病院で同じ噂が流れ始める。


 夜中、個室に入ると。

 下から子供が覗く。

 そしてこう聞くのだ。


「ねぇ」


「あなたも、ひとりなの?」


 響子は今でも眠れない夜がある。

 トイレに入る時、無意識に便器の奥を見てしまう。


 暗闇がある。

 水がある。

 そのさらに奥。

 人間の孤独が沈殿する場所。

 誰にも愛されなかった感情が、腐って溜まり続ける場所。


 そして時々。

 深夜二時過ぎ。

 自宅のトイレから。

 コツ。

 コツ。

 と。


 小さな爪の音が聞こえる。

 響子は決して蓋を開けない。

 なぜなら彼女は知っているからだ。


 一度でも覗けば。

 向こうも、こちらを見返してくることを。



 ―(完)―

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