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第36話「渋谷へ」


五十一日目の朝、好代はぱんでむの扉の前に立った。


自分で空間を開けることは、千姿になってからできるようになった。


でも今日は少し止まった。


渋谷に行こうとしていた。千姿として、初めて。クルーの仕事でもなく、訓練でもなく、ただ歩きたかった。


においを確認した——渋谷のにおいが来ていた。石畳のにおい。街路樹のにおい。今日の朝の空気のにおい。


全部が今ここにある。でも、行かないと積もらない。


廊下で秩序ちゃんとすれ違った。


「今日、渋谷に行きます」と好代は言った。


秩序ちゃんが少し止まった。書類を持ったまま。


「……記録を取らせてください」と秩序ちゃんが言った。インカムを差し出した。「千姿として初の外部活動です。声で報告してもらえれば記録します」


「大げさではないですか」


「大げさではありません」と秩序ちゃんが言った。「記録すべきことです。特に——」


少し間を置いた。


「……好代さんが渋谷を歩くたびに、ぱんでむのにおいが渋谷に積もっていくという現象が、昨日の測定で確認されました。記録が必要です」


好代はそれを聞いた。


「……昨日の測定、というのは」


「千姿になってからの二日間で、すでにぱんでむのにおいが渋谷の路地一区画分に積もっています」


「一区画分」


「はい」と秩序ちゃんが言った。「今日、何区画になるかを記録します」


好代はインカムを受け取った。




第一章「渋谷のにおい」


◆ 空間を開けた


自分でやってみた。


渋谷の路地のにおいを確認して——その場所に向かって空間を薄くした。


扉が開いた。


朝の渭谷の光が来た——違う。朝の渋谷の光が来た。


「……着きました」とインカムに言った。


「確認しました」と秩序ちゃんの声が来た。「測定を開始します」




◆ 渋谷を歩く


晴れていた。朝の人が動いている。


においが来た——今日の石畳のにおい。今日のコーヒーのにおい。今日の排気ガスのにおい。三年間毎日ここを通って積み重なってきた層の上に、今日の分が来ていた。


歩いた。


歩くたびに、足元から少しずつぱんでむのにおいが出ていく感触があった。


積もる。薄く、かすかに、でも確かに積もる。


「……歩くたびに積もっています」とインカムに言った。


「記録しています」と秩序ちゃんの声。「速度は昨日の測定値と一致しています。約十メートル歩くごとに一センチ四方分が積もる計算です」


「それは多いですか、少ないですか」


「……比較対象がないので判断できません」と秩序ちゃんが言った。「ただ——千姿の記録にこういった現象は一件もありませんでした。今日が初日です」


好代は歩き続けた。




◆ マクドナルドの前


マクドナルドの前に来た。


においを吸い込んだ。


今日のバーガーのにおい。昨日のバーガーのにおい。三年分の層。


「うまそう」と言った。


変わらない感触だった。十七年間ずっとこれだった。千姿になっても同じだった。


でも今日は——その後に、もう一つ来た。


「来てほしい」という感触だった。


好代は少し止まった。


朝の人たちを見た。急いでいる人。疲れている人。スマートフォンを見ている人。笑っている人。


「……どうしましたか」とインカムから秩序ちゃんの声。


「来てほしいと思いました」


「誰がですか」


好代はその人たちを見た。


「この人たちが。ぱんでむに」


インカムが少し静かになった。


「……記録します」と秩序ちゃんが言った。それから、珍しく続けた。「……なぜですか」


「バーガーのにおいを知ってほしいです。ここのにおいじゃなくて——ぱんでむのにおいを。前が広い感触を知ってほしいです」


また静かになった。


今度は長かった。


「……千姿ちゃんは」と秩序ちゃんが言った。「旧千姿ちゃんは——そういうことを言いませんでした」


「そうですか」


「ぱんでむは「来た者に届ける場所」でした。「届けに行く場所」ではなかった」


「これから両方になりますか」


秩序ちゃんがまた間を置いた。


「……記録します」と言った。「「届けたい」——これが旧千姿との差異です。記録します」




第二章「知らない人のにおい」


◆ 路地の角で止まった


路地の角を曲がった時、においが来た。


知らない人のにおいだ。


疲れているにおい。眠れていないにおい。それから——何かを好きだったにおいが、かすかにある。今は好きじゃなくなっているか、忘れているか、諦めたか。どれかはわからない。でも「かつて好きだったもののにおいの残滓」がある。


好代は少し止まった。


「……気になりますか」とインカムから秩序ちゃんの声。


「はい」


「届けますか」


好代は少し考えた。


「今日は——まだ何も持ってきていないです」


「次に来る時に、ですか」


「何を持っていけばいいかわかりません。まだ」


「……おいを読み続ければわかりますか」


「そう思います」


秩序ちゃんが書く音がした。「……記録します。「五十一日目、渋谷路地角にて。届けたい対象・第一号。未確定。継続観測予定」」


好代はその言葉を聞いた。


「継続観測」


「はい」と秩序ちゃんが言った。「またここを通る時に、においがあるかどうか確認します。あれば記録します。なければ記録します。どちらも記録します」


「……それが秩序ちゃんの仕事ですか」


「そうです」と秩序ちゃんが言った。少し間を置いた。「……ずっと、記録してきました。バーガーを食べた数も、知識が棚に入った回数も、分類不明バーガーへの反応も、全部。でも今日の記録は——今まで書いたことのない種類の記録です」


「どんな種類ですか」


「「届けたい」という感触の記録です」と秩序ちゃんが言った。「今まで——ぱんでむには「届ける側」という概念が薄かったと思います。でも今日から、この記録が増えていくかもしれない」


好代はそれを聞いた。


「増えますよ」


「……そうですか」


「前が広いので」


インカムの向こうで、秩序ちゃんが少し止まった音がした。それから「……記録します」と言った。




第三章「帰る前に」


◆ もう一度マクドナルドの前


帰る前に、もう一度マクドナルドの前に立った。


においを吸い込んだ。


今日の分が積もっていた。朝来た時より少し、ぱんでむのにおいが混ざっていた。


「……さっきより積もっています」とインカムに言った。


「確認しました」と秩序ちゃんが言った。「今日の総計は——渋谷の路地一・三区画分です。昨日と合わせて二・三区画分になりました」


「増えましたか」


「はい」と秩序ちゃんが言った。「昨日より多いです」


好代は少し嬉しかった。


数字が増えた。一・三区画分。具体的な数字がある。


「明日も来ます」と好代は言った。


「……わかりました」と秩序ちゃんが言った。「記録します」




◆ 帰り際、もう一つのにおい


帰りの空間を開こうとした時、もう一つのにおいが来た。


マクドナルドのにおいではなかった。


渋谷の、路地の、石畳の下の方から来ていた。古いにおいだ。


好代は少し止まって、そのにおいを読んだ。


三年前より古い。好代がここを通う前からあったにおいだ。


誰かがここで——バーガーを食べて、笑った記憶のにおいだった。


名前はわからない。顔も姿もわからない。でも確かにここで笑った人間のにおいが、石畳の下の層に残っていた。


「……何かありましたか」とインカムから秩序ちゃんの声。


「石畳の下に、古いにおいがあります。誰かがここで笑った記憶のにおいです」


「……どのくらい前のにおいですか」


「三年より前です。もっと前かもしれないです」


秩序ちゃんが少し間を置いた。「……記録します」と言った。それから「……好代さん」と続けた。


「はい」


「そのにおいは——届けられますか」


好代は少し考えた。


「……わかりません。でも受け取りました」


「それだけで十分です」と秩序ちゃんが言った。「受け取ったことを記録します」


好代は空間を開けた。


渋谷の朝のにおいがかすかに手についていた。石畳のにおいと、バーガーのにおいと、誰かが笑った記憶のにおいが、少し混ざっていた。


ぱんでむに戻った。




第四章「報告」


◆ 秩序ちゃんに


ぱんでむに戻ったら秩序ちゃんが廊下に立っていた。インカムを返した。


「報告を整理します」と秩序ちゃんが言った。「記録室に来てもらえますか」


記録室に入った。


秩序ちゃんが今日の記録を読み上げた。


「ぱんでむ拡張:二・三区画分。届けたい対象・第一号:路地角の人物、継続観測予定。受け取り:石畳下の古いにおい。差異記録:「届けたい」という感触——旧千姿記録にない項目」


「……合っていますか」と秩序ちゃんが聞いた。


「合っています」


「もう一つ、記録していいですか」と秩序ちゃんが言った。


「はい」


秩序ちゃんがペンを取った。


「……今日、好代さんに「なぜですか」と聞きました。私が聞いたのは——記録として不完全だったからではなくて」


少し間があった。


「……気になったからでした。「来てほしい」という感触が、なぜ生まれたのかが、気になりました」


好代はそれを聞いた。


「……秩序ちゃんに「気になる」という感触がありましたか」


「ありました」と秩序ちゃんが言った。「珍しかったです。私は今まで、何かを記録する時に「なぜ」と聞いたことがなかった気がします。記録するだけでよかったので。でも今日は——聞きたいと思いました」


「それは何ですか」と好代は言った。


「わかりません」と秩序ちゃんが言った。「でも記録します。「五十一日目、秩序、初めて「なぜ」と聞く」」




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

**秩序——五十一日目**


記録を整理した。


二・三区画分。届けたい対象・第一号。石畳下の古いにおいの受け取り。


そして——私が「なぜ」と聞いた、という記録。


今まで私は「何が起きたか」を記録してきた。


「なぜ起きたか」を聞いたのは、今日が初めてだった気がする。


「届けたい」という感触が、なぜ好代さんの中から出てきたのか。


設計に含まれていたのか、渋谷の十七年間で獲得したのか。


わからない。でも聞きたかった。


これは「記録への欲求」ではなく——何だろう。


まだ言葉がない。でも今日のこれを記録する。言葉がなくても、記録はできる。言葉は後からつく。


今日のぱんでむの拡張記録:**渋谷・二・三区画分。**


明日も更新する。



──────────────────

**渾沌——五十一日目**


すきよちゃんが渋谷に行った。一人で。帰ってきた時においを確認した。


渋谷のにおいが混ざっていた。石畳とバーガーと、古い誰かの記憶のにおい。


ぱんでむのにおいも混ざっていた。外から帰ってきたのに、ぱんでむのにおいがする。


……当たり前か。すきよちゃんはもうぱんでむのにおいだから。


ぱんでむが渋谷に積もっているってことは、すきよちゃんが渋谷に積もっているってことだ。


渋谷に積もっている。


「来てほしい」って思ったのか。渋谷の人たちに。


……私は思ったことある?


ぱんでむに来てほしい、とは思う。でも「あの人に来てほしい」は——


よくわかんない。でもそういう感触、あるのかもしれない。


ちょっと考えてみる。



──────────────────

**千姿——**


——


──────────────────


【エピローグ】五十一日目の夜


夜、記録室に一人で来た。


秩序ちゃんが作ってくれていた一枚の紙が、新しく壁に貼られていた。


「ぱんでむ拡張記録」


縦軸に数字がある。横軸に日付がある。今日の欄に「2.3」と書いてある。


数字が一つある。


明日は増える。


好代はその紙の前に少し立った。


「来てほしいです」と言った。声に出して。


今日渋谷で見た人たちを思い出した。疲れた人。急いでいる人。笑っている人。路地の角の誰か。石畳の下で笑っていた誰か。


全員のにおいが、今も来ていた。


受け取った全部が、今ここにある。


前が広い。


——それはずっと変わらない。




**◆ぱんでむ拡張記録:2.3区画分(五十一日目)**




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