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天使と悪魔の争いで武器になる  作者: 南蛇井


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天使と悪魔の争いで武器になる



――旭川永山高校 二年B組

朝の教室


 チャイムが鳴る少し前。

 正門がゆっくりと閉ざされる、あの鈍い金属音が遠くに響いた。


 外薗優大そとぞの・ゆうだいは、その音をまるで別世界からの合図のように感じていた。


 窓際、一番うしろの席。

 そこは彼にとって教室の中で唯一、息をつける逃げ場のような場所だった。


 黒髪は寝ぐせで無造作に跳ね、姿勢も崩れ気味。見た目はどこにでもいるフツメンで、中肉中背という平凡さ。

 けれどその瞳だけは、妙に退屈そうに曇っていた。


「……閉じたな」


 校門が音を立てて閉まる瞬間。

 優大は、世界と学校とを隔てる巨大な壁が立ちはだかったような感覚を覚える。


 いつもならただの習慣的な風景。

 だが、今日に限っては――なぜか、外の世界と切り離される実感が胸に重く沈んだ。


 窓の向こうには朝の光に濡れた街路樹が並び、風に揺れている。

 ほんの数メートル先に広がるはずの「自由」が、果てしなく遠い。


「……今日の空気、なんか違うな」


 そう呟き、優大は頬杖をついた。

 まだ何も始まっていないはずの朝。

 それなのに、この教室に閉じ込められた瞬間から、彼の一日はもう別の色に塗り替えられていた。



「うぃーすっ」


 間延びした声とともに、軽快な足取りで近づいてくる男子生徒。

 佐上一輝――二年B組の“軽いノリ担当”。茶髪の短髪は寝癖すらスタイリングの一部みたいで、笑えばいつも歯が見える。


「……おう」


 外薗優大は、頬杖をついたまま気のない返事を返す。


 別に無視するほどでもない。だが、わざわざ会話を広げるほどでもない。

 その温度感を、優大は声色だけで表現するのが得意だった。


「いやー今日もダルいな。ホームルームまだ始まんないし」

「……そうだな」

「てか昨日の課題やった?」

「……まあ、適当に」

「おぉ、さすが真面目系フツメン」


 一輝は勝手に楽しそうにしゃべり、勝手に自分で落とす。

 優大はその相槌を最低限にとどめる。


 ――こういうやり取りは、もう何度繰り返したかわからない。

 別に仲が悪いわけじゃないし、気まずさもない。ただ“近い席だから話す”。それだけの関係。


「……」


 優大は窓の外へ視線を逸らす。

 閉ざされた校門の映像が、まだ頭から離れなかった。

佐上一輝が「じゃ、また後でな」と軽く手を振って自分の席に戻っていく。

 優大はそれに曖昧な会釈を返し、ようやく椅子に深く腰を下ろした。


 窓際の席から、何気なく廊下側へと視線を流す。

 すると――そこにいるのは、見慣れた横顔だった。


 味香月沙也加。


 ショートカットの髪が朝の光を受けて、さらりと揺れる。

 大きな瞳は、笑ったときに人を惹きつける力を持っていて、ただ教科書を開いているだけでも存在感が際立つ。

 クラスの中でも“目立つ方”。その言葉は、彼女のためにある。


(……相変わらず、可愛いな)


 優大は心の中でつぶやく。

 もちろん、声に出すなんてできない。

 いや、そもそも彼女とまともに会話をしたこともない。名前を呼んだことも、呼ばれたこともない。


 ただ――こうして教室の隅から眺めて、心の奥で思うだけ。

 それが、外薗優大という男にできる“最大の接触”だった。


沙也加の横顔を眺めていると、不意に――背筋をくすぐるような感覚が走った。

 視線。誰かに見られている。


(……ん?)


 優大はそっと目線をずらす。

 そこにいたのは、沙也加のすぐ後ろの席――クラス委員長の高峰玲子だった。


 漆黒のロングヘアが肩からさらりと落ち、切れ長の瞳が凛とした空気をまとわせている。

 整った顔立ちは、ただ無表情でいるだけで近寄りがたい美人の雰囲気を放っていた。


 ――が。


 一瞬、彼女の口元がわずかに緩んだ気がした。

 まるで、微笑んだように。


(……え?)


 優大は瞬きをして見直す。

 けれど、そこにあるのはいつもの冷たいまでに澄んだ無表情。

 黒曜石のような瞳は、何事もなかったかのように前を向いている。


(……気のせい、か?)


 胸の奥に、小さな違和感が残った。

 その違和感は、閉ざされた校門の重苦しさと同じように、今日という一日に妙な予感を忍ばせていた。


――その時だった。


 隣の席で、佐上一輝がギィ、と椅子を引く音を立てて立ち上がった。

 ゆっくりと。まるでスローモーションの映像を見ているかのような、不自然な速度で。


(……え? 何してんだ、一輝……?)


 優大は眉をひそめ、隣に視線をやる。

 だが奇妙なのは、彼の行動そのものではなかった。


 ――周りの反応だ。


 普通なら「何だよ、いきなり」とか「先生、佐上が立ってます」くらいのざわめきが起きるはずだ。

 だが教室は、静まり返っている。


 黒板に文字を書いていたはずの先生は、チョークを握ったままピクリとも動かない。

 クラスメイトも、鉛筆を持つ手を宙で止め、顔を上げたまま固まっている。

 まるで――時間ごと凍りついたかのように。


(……う、うそだろ……?)


 優大の心臓が、ドクンと跳ねた。

 喉が急に渇き、息が苦しくなる。

 立ち上がった佐上だけが、異様に遅い速度で腕を動かそうとしている。


「……と、止まってる……?」


 自分の声が、ひどく大きく教室に響いた。

 返事はない。

 ただ沈黙と静止が、優大の周囲を圧し潰すように広がっていく。


 理解できない状況に、不安と緊張が一気に押し寄せ――優大の全身から冷たい汗が流れ落ちた。


佐上一輝の体が、ぎこちなく前へと動き出す。

 まるで糸で操られた人形のように、ぎくしゃくと。


(……な、なんだよ……?)


 優大は息を呑む。

 教室は依然として静止したまま。

 先生も、クラスメイトも、まるで壊れた映像のコマ送りのように固まっている。


 その中で――佐上だけが、異様に遅い速度で味香月沙也加の席へ近づいていった。


(どこ行くんだよ……? 何を……何をするつもりだ……?)


 胸がざわつく。

 やがて佐上は沙也加の目の前に立ち止まった。

 彼女はノートを開いた姿勢のまま、完全に止まっている。

 その無防備な前で――佐上は、口を開けた。


 ガバァッ、と。


 最初は普通のあくびのように見えた。

 だが違った。


 開いた口は、どんどん大きく広がっていく。

 顎が外れそうなほどに。

 いや、人間の骨格の限界をはるかに超えて――。


「なっ……!」


 喉の奥は真っ暗で、底なしの穴のように見えた。

 歯列はぎしぎしときしみ、裂けた口の端は耳元近くまで達しようとしている。


(やめろ……やめろよ、佐上……!)


 恐怖が背筋を焼き、優大の手が震え出す。

 目の前で変貌していくクラスメイトに、声を出さずにはいられなかった。


「……ど、どうしたんだよ……なんだよ、佐上……!」


 だが返事はなく。

 その異様な口の奥からは、冷たい闇だけが覗いていた。


佐上の口は、あり得ないほどに裂け広がっていった。

 耳元どころか、首筋にまで達しそうなほど。

 その暗黒の空洞は――人ひとりを丸ごと飲み込めるほどの大きさに。


(やめろ……やめろ、やめろ……!)


 優大の心臓が悲鳴をあげる。

 けれど、沙也加はノートに視線を落としたまま、完全に静止していた。

 自分が狙われていることすら、知らない。


 ――次の瞬間。


 ガバァッ!!


 佐上の異様に開いた口が、沙也加の上半身を覆った。

 まるで無理やり飲み込むように、その体をずるずると引きずり込んでいく。


「なっ……や、やめろ!!」


 優大はガタッと立ち上がった。

 足が勝手に震え、喉がひきつる。

 それでも、叫ばずにはいられなかった。


「やめろよ佐上ッ! 何やってんだよ、それ……!」


 声は虚しく響くだけ。

 クラスメイトは誰一人として反応しない。

 止まった世界の中で、動けるのは自分だけ。


 沙也加の腕が宙を切り、脚が机に当たってガタンと音を立てる――が、それもすぐに飲み込まれ、消えていく。


 やがて。


 佐上の口はひときわ大きく歪み、最後にごくりと喉を鳴らした。


 ――味香月沙也加は、完全に姿を消した。


――飲み込まれた。


 目の前で、味香月沙也加が消えた。

 自分のクラスメイトの口に。


 理解を超えた光景に、優大は声を失った。

 立ち上がったまま、全身が固まって動かない。

 何もできなかった。

 叫んだだけで、結局。


 その時――。


「……あなた、動けるのね?」


 不意に、澄んだ女性の声が響いた。

 教室の静止した世界に、不釣り合いなほど鮮明に。


「……え……?」


 優大は反射的に声のする方へ顔を向ける。

 そこにいたのは――高峰玲子。


 黒髪のロングが肩に沿って滑り落ち、鋭いはずの目元に、今は柔らかな光が宿っている。

 そして、その唇には――これまで一度も見せたことのない“笑み”が浮かんでいた。


 同じ制服を着ている。

 同じ教室で、同じ時間を過ごしてきた。

 ただのクラスメイトのはずだ。


 なのに。


 その笑みは、高校生の枠に収まりきらない。

 大人の女が持つ洗練と、どこか底知れない力を帯びた、美しすぎる微笑みだった。


 優大の心臓は、恐怖とは違う意味でも大きく跳ねた。







教室に響いた女性の声に、優大の思考は一瞬で止まった。

「……あなた、動けるのね?」


その声音は、現状の異常さとは裏腹に、不思議なほど落ち着いていて澄んでいた。


声のする方へ視線を向けると――そこには高峰玲子がいた。

委員長として普段は無表情を崩さない彼女が、今は柔らかく、それでいて人を射抜くような美しさを持った笑みを浮かべていた。


まるでこの場にいるのが彼女ひとりだけであるかのような圧倒的な存在感。

同じ高校生、同級生だなんて、とても信じられない。


優大は口を開こうとしたが、喉が張りついたように声が出ない。

言葉が霧散していく。


「このままだと――味香月さん、死んじゃうわよ?」

玲子はあくまで穏やかな笑みを浮かべたまま、さらりと言った。

「助けないの?」


――助ける?どうやって?

混乱する頭を必死に押し動かし、優大はなんとか声を絞り出す。


「……助ける? どうやって……?」


その言葉は情けなく震えていた。




高峰玲子の口元の笑みは、ほんの少しだけ色を濃くした。瞳は静かに、でも確信を帯びて優大を見下ろしている。


「佐上君を――殺せば良いのよ。」


 言葉は淡々としていた。まるで数学の問題の答えを告げるかのように、無感情に。けれどその背後には、はっきりとした意志があった。


(は、は? 殺すって……佐上を?)


 優大の頭の中が真っ白になった。距離感のあるクラスメイトを――“殺す”だなんて。仲が良いわけでも、深い因縁があるわけでもない。ただ、隣の席でやたらと当たり障りのない会話を交わしてきただけの相手だ。


 それでも、目の前で味香月が飲み込まれた光景が甦る。血の匂いも、叫び声もない。だが消えた右横にぽっかりと空いた穴が、現実以上に現実を主張していた。


(そんなこと――そんなこと、できるわけないだろ!)


 優大は必死に反駁するつもりで声を絞り出した。だが、喉の奥で震えるのは言葉ではなく、恐怖と嫌悪だった。人を――佐上を、殺す? 自分が? そんな発想は、倫理でも常識でもなく、本能が拒絶する。


「あら、そう?」


 高峰は首をかしげるように見せて、でも笑いは消えない。その笑顔には、どこか子供じみた残酷さが混じっていた。


「早くしないと、味香月さんは助からないわよ?」


 言葉の端が、ほんの少しだけ楽しげに揺れた。まるで見物しているかのような間の取り方だった。


(助からない――って、どういうことなんだよ!)


 優大の全身が硬直する。時間が凍った教室の中で、高峰だけが確信に満ちた“動ける存在”として振る舞っている。彼女の提示した選択肢はあまりにも残酷で、しかしその背後にある論理は妙に筋が通っているようにも聞こえた。


 ――世界が狂っている。

 だが、ここで動かなければ、本当に誰かが消える。


 優大の胸の中で、正しいことと生存本能が押し合いへし合いした。答えは出ない。だが、一つだけ確かなことがあった。


 今、この場にいるのは自分と高峰と、そして口を開けたままの佐上一輝――三人だけだということ。



優大は喉を鳴らし、勇気を振り絞るように声を押し出した。


「ど、どうしたら……いいんだよ……?」


 助ける方法を、殺さずに済む手段を。わずかな希望にすがるように問う。


 高峰はすっと立ち上がった。スカートの裾がわずかに揺れ、彼女は迷いのない動作で優大の方へ身体を向ける。そして――


 細く白い指が、まっすぐに優大を指した。


「――魂よ。あなたの魂を、私に頂けるかしら?」


 その声音は、告白でもなければ脅迫でもなかった。ただの事実を述べるかのように、静かで美しい響きを帯びていた。


「た、たま……しい……?」


 優大の心臓が大きく跳ねた。魂なんて、宗教の説教や物語の中でしか聞かない言葉だ。だが、彼女の目は冗談の色を欠片も含んでいない。


「ちょ、ちょっと待って……なに言ってんだよ……! 魂って……そんなの渡せるわけ……」


 言葉が途切れる。声は震え、喉は渇き、背中には嫌な汗がにじむ。

 教室中のクラスメイトは依然として“停止”したまま。動いているのは優大と高峰だけ――それが、この言葉に一層の現実味を与えていた。


 目の前の美しい少女が告げたのは、人間らしいやり取りの範疇を越えた“取引”だった。


(魂を……渡す? そんなこと、できるのか? それに……渡したら俺はどうなる?)


 思考が絡まり、恐怖と疑念が渦巻く。

 優大はただ、立ち尽くすしかなかった。



「ちょっと借りるだけだから。死にはしないわよ」


 高峰は当たり前のように言った。その声音はどこまでも淡々としていて、冗談めいた軽さすら感じさせる。


「し、死なない……? いや、そもそも魂って……」


 優大の声は震えていた。理解を超えた言葉に、動揺が隠せない。魂を借りる? そんなの、物語の中だけの話だ。


 高峰は一歩近づき、目を細める。

「体力みたいなものよ。走れば疲れるし、眠れば回復する。……使い切らなければ、死ぬことはないわ」


 彼女の言葉は、奇妙に理屈が通っているようにも思えた。けれど、だからこそ恐ろしい。


(魂が体力……? そんなバカな……でも、もし本当なら――)


 脳裏に、佐上の異形に呑まれていく味香月の姿が蘇る。

 彼女はすでに喉の奥へ飲み込まれていた。助けなければ、消えてしまう。


「さあ、どうするの?」

 高峰は優雅な微笑みを崩さない。まるで、優大が迷うこと自体を楽しんでいるかのように。


 優大は拳を握った。胸の奥が締め付けられる。

 ここで選ばなければ、味香月は――


(俺が……選ぶしかないのか……?)


 選択を迫られる優大。心臓の鼓動が、やけに大きく響いていた。


優大の脳裏に、二つの顔が浮かんだ。

 無邪気に軽口を叩く佐上の顔。

 そして、クラスの中心でいつも笑っていた味香月の顔。


 その二つが重なり、胸をかき乱す。


(佐上は……あんなふうになってしまった。でも、味香月さんは……!)


 息が苦しい。

 喉が焼けるように乾く。

 それでも選ばなければならない――。


 優大は、唇を噛みしめた。


「……たま、しいを……」


 かすれた声が、ようやく漏れる。


「……ん? 聞こえないわね」

 高峰が首を傾げる。その笑みは相変わらず余裕を漂わせていた。


 優大は歯を食いしばり、腹の底から声を振り絞った。


「俺の魂を――使ってくれ! 使って、味香月さんを助けてくれッ!」


 教室の天井まで響きそうな叫びだった。

 心臓が破裂しそうに高鳴り、視界が赤く滲む。

 その瞬間、静止した世界の空気が――かすかに震えた。


「……わかったわ」


 高峰は静かにそう告げると、すっと右手を伸ばした。

 その人差し指が優大のおでこに触れる。ひんやりとした感触が、頭の奥へとじわりと染み込んでくる。


 ――ドクン。

 心臓の鼓動が、ひときわ大きく鳴った。


(な、なんだよ……これ……やばいくらいドキドキする……!)


 額に触れる指先から、何かが流れ込んでくるような奇妙な感覚。

 優大は呼吸を忘れ、ただ彼女の瞳を見つめていた。


「じゃあ――頂くわね」


 高峰は囁くように言い、顔を近づける。

 その距離が一瞬でゼロになる。


 ――唇が重なった。


「――――ッ!?」


 頭が真っ白になる。

 熱いものが口から流れ出していく。いや、吸い取られていくのか……?

 身体の奥底から魂を掬われるような、奇妙で甘美な感覚が全身を駆け抜ける。


「な、なにをっ……!」

 優大は目を見開き、必死に言葉を紡ごうとする。


 だが高峰は、微笑んだまま。

 唇を離したその顔は、同級生のはずなのに――どこか人間離れした妖艶さを帯びていた。


次の瞬間、優大の全身に電撃のような痺れが走った。


「う、あぁぁ……っ!」


 骨の髄まで焼かれるような痛み。心臓を握り潰されるような圧迫感。

 視界がぐにゃりと歪み、頭がぐらぐらと揺れる。

 意識が遠のく――このまま闇に呑まれてしまうのか。


(ダメだ……死ぬ……俺……!)


 しかし、その痛みは唐突に消えた。

 ふっと軽くなる身体。いや――


 優大が次に気づいたのは、自分の視点が異様に低くなっていることだった。

 手足の感覚がない。動こうにも動けない。


「……え?」


 ガシャン、と硬質な音が床に響く。

 それは――銀色に輝く、普通サイズのハンマー。


 優大は――ハンマーになっていた。


「……」


 目の前にしゃがみ込んだ高峰が、その金属の柄をひょいと持ち上げる。

 彼女は目を細めて、ふぅ、と小さく吐息を漏らした。


「この程度の武器……魂の容量30程度か、少なすぎね」


 冷ややかながら、どこか愉快そうな声色で呟く。

 そして優大――いや、ハンマーを軽く持ち上げながら、唇の端を上げた。


「あなた、本当に生きているの?」


 ぞっとするような言葉が、鋭く突き刺さる。



「は、はあ!? なんなんだよこれはぁぁっ!?」


 金属に反響するような自分の声が、頭の中で響き渡る。

 ハンマーになった上に、魂の容量がどうこう言われて――。


「ハンマーにされた挙句、軽くディスられて……ふざけんなよ!!」


 怒りと混乱でガチャガチャと心が暴れる。だが、声を張り上げても体は動かない。柄を握っている高峰の手に完全に支配されていた。


「事実よ」


 高峰は一言で切り捨てる。

 まるで、どんな言い訳も無意味だと言わんばかりの冷淡な声音。


「ぐっ……!」


 優大が言葉を詰まらせる間に、高峰はすっと立ち上がり、ハンマーを軽々と肩に担ぐ。

 そして、異形へと変貌した佐上に向かって、無駄のない足取りで歩み寄った。


 ――ゴンッ。


 無表情のまま、佐上の頭にハンマーを振り下ろす。

 まるで日常の一作業のように、容赦なく、躊躇なく。


 ――ドガッ。


 直立不動で、感情を欠いた機械仕掛けのように、ハンマーを振り上げ、振り下ろす。

 一撃ごとに空気が震え、異形の肉が鈍い音を立てる。


(お、おいおいおい……マジかよ……! 本当に殴ってる……! しかも、めっちゃ冷静だし……!)


 恐怖と驚愕と、わずかな安心がごちゃ混ぜになり、優大の心はめちゃくちゃに揺さぶられていた。



――ガンッ、ドガッ、ゴンッ。


 無感情に振り下ろされる衝撃が、優大の中で反響する。

(うわ……お、俺、目回ってきた……。ハンマーで殴るって、こんな気持ち悪いのかよ……!)


 金属の身体を通して伝わる反動で、優大の意識はぐらぐらと揺さぶられる。吐き気すら込み上げてきた。


 その時――。


「……ぐ、ぐぅぅぅぅ……!」


 佐上がうめき声を上げる。

 崩れていく人間の形。皮膚が裂け、骨格が軋み、教室の空気がねっとりとした異臭に満たされていく。


 そして現れたのは――羽の生えた巨大な蛇のような怪物だった。

 鱗が黒光りし、口からはねっとりとした唾液が滴り落ちる。

 蛇の眼がぎょろりと動き、狙いを定めたのは……高峰。


「し、信じられねぇ……佐上……お前……」

 優大はハンマーのまま、ただ恐怖で凍りつく。

(やばい!やばいやばい!襲われる!死ぬ!)


 怪物となった佐上が翼を広げ、猛然と高峰へ飛びかかる。


 だが――。


「……邪魔」


 高峰は表情ひとつ変えず、軽くステップを踏むと、ハンマーを振り抜いた。


 ――ドゴォッッ!!


 空気が爆ぜる。

 怪物の顎が砕け、巨体が教室の壁に叩きつけられる。


(……ま、マジかよ……! 俺、ただのハンマーなのに……! この人、全然怖がってねぇ……!)


 優大の恐怖と、高峰の冷徹な強さ。

 二人の温度差は、あまりにも大きかった。


「まだ足りない――」

 高峰の声は冷たい。


 彼女はハンマーを振りかざし、容赦なく振り下ろした。鈍重な衝撃音が連続し、石畳に反響する。優大は金属に閉じ込められたまま、目を回しながら耐えるしかなかった。視界がぐるぐる回って、吐き気すら覚える。


 やがて、倒れ込んだ佐上を高峰は片手で軽々と持ち上げる。直後――。

「……ッがはぁ!」

 肉を裂く音と共に、佐上の身体が深々と切り裂かれる。血と蒼い霧のようなものが舞い上がった。


 それでも高峰の表情は一切変わらない。ただ、唇の端に僅かな笑みを浮かべる。

「たいしたことないわね」


 そう呟くと、彼女は無造作にハンマーを投げ捨てた。


「ぎゃっ!?」

 鈍い音を立てて床に転がされた優大は、全身に響く痛みに呻きながら人間の姿へと戻っていく。肩で息をしながら床に手をつき、必死に顔を上げた。


「……俺……マジで……ただの道具扱いかよ……」



 荒い息をつきながら、優大はふらつく足で引き裂かれた佐上の元へと歩み寄った。

「……味香月さんは……?」

 血の匂いが鼻をつく。振り返った先――床に転がるのは、血と体液にまみれた味香月の姿だった。彼女の白い制服は濡れそぼり、息があるのかもわからない。

「……っ」

 優大の胸に冷たいものが走る。目の前に広がる惨状に、頭が真っ白になる。ただ、呆然と見つめることしかできなかった。

 その時。

 重い靴音が響く。ゆっくりと、しかし確実に――高峰が近づいてくる。

 その顔は、美しいはずなのに、鬼神のように恐ろしかった。影が伸び、視界を覆う。

「……なんで?」

 低く、震えるような声。彼女の眼差しが優大を射抜いた。

「あなた、生きてるの……? おかしいわね」

 高峰は足を止め、首を傾げる。その目は怪訝さを通り越し、不気味な確信めいた色を帯びていた。

「魂送料の三十――全部、使い切ったはずなのに」

 冷たい声が、優大の心臓を握りつぶすように響いた。

「待てよ——殺す気だったのか?」

優大は血の混じった床を睨みつけ、思わず声を荒げた。怒りと恐怖が入り混じり、言葉は震えている。

「だって、この状況を知ってる人間が生きていると面倒でしょ?」

高峰はあくまで平然と、まるで手間を数えるように言った。その口調には一切の後悔も、躊躇もない。

 優大は反論しようと口を開いた――その瞬間だった。

 指先の冷たさが、額に突き立てられる感覚。鋭い圧力が頭蓋を押し返すように伝わり、世界が一瞬で歪んだ。

「っ……!」

 声が喉で詰まり、瞳が激しく散る。熱と冷たさが交互に押し寄せ、耳鳴りのような音が頭の中で鳴り始める。視界の輪郭がぼやけ、床が遠のいた。

 痛みはあるのに、そこに血の描写はない。まるで誰かに存在ごと抉られるような、深い虚無感が優大を飲み込んでいった。

 言葉を発する余地すら奪われ、身体の重さに抗えず、膝を折る。

「……まあいいわ」

 高峰はため息のように呟き、優大の額に触れた手をすっと引いた。彼女の表情は相変わらず冷たく、美しい微笑みが唇に残っている。

 優大は地面に崩れ落ち、意識の縁で世界が震えるのを感じていた。目の前に広がるのは、引き裂かれた佐上と、動かぬ味香月。そして、冷たく微笑む高峰の背中。

(何なんだ、これ……)

 思考はかろうじて残っている。けれど、次に来るのは深い闇と、そこから逃れられないような重い眠りだった。

「……おかしいわね」

高峰が首を傾げ、じっと優大を睨んだ。その瞳には、どこか焦りすら混じっている。

「魂量は二十七……それくらい使い切ったはずなのに」

 優大は床にへたり込み、胸を押さえた。心臓がまだ打っている。呼吸もできる。

(……お、俺、生きてる……?)

 全身に走っていた痺れは次第に消え、代わりに体の奥からじわじわと力が戻ってくるのを感じる。

「回復してる……?」

自分の口から漏れた言葉に、優大自身が驚いた。

「そう……魂の源泉……まさか、あなたがそうだったなんて」

高峰の唇が歪む。笑っているようで、獲物を見つけた猛獣の表情に近い。

「だったら契約に基づき、私とともに殺すわよ。悪魔を」

 彼女はすっと手を差し出した。白く細い指先が、闇の中でやけに鮮明に見える。

 優大はその手を見つめ、息を呑んだ。

「……え?」

状況があまりにも唐突すぎて、頭がついていかない。さっきまで自分を殺そうとしていた相手が、今は同じ戦いへ誘っているのだ。

(なにか……とんでもないものに巻き込まれた……)

 冷たい汗が背筋を流れる。差し出された手は拒むこともできず、ただ目の前で揺れていた。



2話


――翌朝。

 旭川永山高校の二年B組。

 いつもと同じざわめきに満ちた教室に、優大は足を踏み入れた。

 けれど、彼の目は一人の人物に釘づけになる。

「……味香月さん……?」

 そこには、昨日――佐上に呑み込まれ、血と体液にまみれて倒れていたはずの味香月沙也加が、何事もなかったように笑顔で登校していた。

 友達と何気ない会話を交わし、元気そうに席に座る。

(……おかしい。絶対おかしい。あんなことがあったのに……どうして……?)

 優大の頭の中では、昨日の出来事がぐるぐると渦を巻いていた。

――暗転する記憶。

 血の匂い。

 異形へと変貌する佐上。

 そして、その佐上を引き裂きながら、冷たい瞳で笑っていた高峰玲子。

『だったら契約に基づき、私とともに殺すわよ。悪魔を』

 差し出された手。

 悪魔を殺すという言葉。

 あの瞬間の、逃げ場のない圧迫感。

 優大は無意識に拳を握りしめていた。

「なっ……なんでだよ!」

気づけば、声が喉を突いていた。

「俺を殺そうとしたくせに……そもそもなんなんだよ! 昨日のあれ……佐上はどうなったんだよ!」

 思い出すだけで胃の奥がひっくり返るような光景。

 叫ばずにはいられなかった。

 昼休み。

 人目を避けるように、優大は校舎裏へと足を運んでいた。

 そこには、すでに高峰玲子が立っていた。背筋を伸ばし、風に揺れる黒髪をそのまま受け止めながら、まるで待ち構えていたかのように。

「……来たのね」

「当たり前だろ!」

 優大は荒い息を吐きながら、彼女に詰め寄った。

「あれは……昨日のあれは何だったんだよ! 佐上はどうなったんだ!」

 高峰は、わずかに視線を落とした後、淡々と答える。

「――佐上君? あれはもう“悪魔”よ」

 その一言が、優大の中で爆弾のように弾けた。

「あっ……悪魔?」

耳を疑い、声が裏返る。

「悪魔って……なんだよ、それ……。そんなの漫画かゲームの中だけだろ! 昨日のあれが悪魔だって言うのかよ!」

 食ってかかるように声を荒げる優大に対して、高峰は微動だにしない。まるで感情を欠いた彫像のように冷たい眼差しを向けていた。

昼休みの校舎裏。

 冷たい風が吹き抜ける中、優大は高峰を睨みつけていた。

「……あれは何だったんだよ! 佐上は……佐上はどうなったんだ!」

 声は震えていた。怒りか、不安か、自分でもわからない感情が喉を掻きむしる。

 高峰は一拍の間を置き、ため息をつくように淡々と口を開いた。

「佐上君? あれは“悪魔”よ」

「……あっ、悪魔?」

 耳が拒絶するかのように、優大は声を裏返らせた。

「悪魔ってなんだよ、それ! 昨日のあれが悪魔だって……ふざけんな! じゃあ佐上はどこに行ったんだよ!」

 感情をぶつける優大に、高峰は微笑すら見せず、冷たい声で答える。

「悪魔は悪魔よ。――そもそも“佐上一輝”なんて人間は最初から存在しない」

「……は?」

 優大の思考が一瞬止まる。

 高峰は一歩近づき、影が優大の足元を覆った。

「奴は人の心に入り込んで姿を取る悪魔。あなたの記憶にある“佐上一輝”も偽物。一昨日まで、この世界に存在すらしていなかった」

「……そんな……」

 優大の背中に冷たい汗が流れる。

 振り返れば、毎日のように当たり障りのない会話を交わした佐上の笑顔が思い浮かぶ。

 だがそれは、すべて幻だったと――?

 ふと、高峰の瞳がぎらりと妖しく光った。

「だから言ったでしょう? 悪魔は悪魔よ」

 その眼差しは、人間離れした威圧感を帯びていて、優大の喉を再び凍らせた。

「な、何言ってんだよ……!」

 優大は思わず声を荒げた。

「佐上はいた! 確かに……昨日まで、いや、一昨日も……ずっとそこに存在してたはずだ!」

 脳裏に浮かぶ、茶髪の短髪を揺らしながら軽いノリで声をかけてきた姿。

『うぃーすっ』と気軽に話しかけてきた笑顔。

放課後に聞いた、他愛もない雑談の断片。

その全てが、今にも手に触れられるほど鮮明に思い出せる。

「佐上は……確かにいたんだ!」

 優大の声は必死で、しかし次第に震え始めていた。

 そんな彼を前に、高峰は冷たく、迷いもなく告げる。

「――いなかったわ」

 短く切り捨てるような声。

「だから今日、彼が居なくなっても誰も気がつかない。誰も“違和感”を覚えない。あなた以外は」

 優大の心臓が一瞬止まった気がした。

「……じゃあ、俺の記憶にある佐上は……なんなんだよ?」

 高峰の唇がゆっくりと持ち上がる。

「それは、悪魔が作った“偽り”。――あなたを含め、クラスの全員に刷り込まれた、存在しない人間の幻影よ」

 淡々とした声なのに、突きつけられた現実はあまりにも冷酷で、優大の頭はぐらぐらと揺れた。

(じゃあ……俺が一緒に笑ってたあの時間も……全部、嘘……?)

「――悪魔が死ねば、幻想は消えるのよ」

高峰は淡々と、まるで教科書の一節を読むような口調で続けた。風が抜ける校舎裏に、その言葉だけが凍りつくように響く。

「──じゃあ、俺の記憶は……? なんで俺だけ覚えてるんだよ!」

優大は必死に食い下がる。胸の奥で渦巻く違和感と怒りが、言葉となって飛び出してきた。あの“佐上”とのやり取り、笑い声、ありふれた日常の断片が、どうして自分の中に残っているのか。答えが欲しかった。

高峰は少しだけ表情を崩した――と言っても、それは同情でも親切でもない、観察者が記録を取る時のような冷たい柔らかさだった。

「あなたは、もうこちら側。全部を忘れることはできないのよ」

「何だよそれ……」

言葉がぽろりと落ちる。優大の胸に小さな穴が開いたように、世界の色が少し抜けていく。忘れられないということが祝福でもなく、呪いでもあると知らされる刹那だった。

高峰は静かに、一歩詰める。

「協力しなさい。私の武器となって、悪魔を殺すために」

その言葉には余計な感情が混じらない。命令でもなく、懇願でもなく――ただ1つの事実として投げかけられた選択肢だった。

「ふざけるな!」

優大は感情のほとばしりで叫んだ。拒絶は本能だった。自分を利用し、変え、道具扱いした相手に従うなんて耐えられない。

高峰は肩をすくめるようにして小さく笑った。

「まあ、良いわ。どのみち、あなたは逃げられない」

そう言うと、彼女は背を向けて歩き去った。黒髪の裾が風に揺れ、校舎の影に吸い込まれていく。残されたのは冷たい空気と、優大の荒い呼吸だけだった。

(逃げられない……って、なんだよそれ)

優大は地面にへたり込み、拳を強く握った。胸に渦巻く疑問と恐怖。だが、その奥に小さな炎のようなものが灯っているのも自覚していた――あの女が何を言おうと、誰かを助けたいという衝動だけは消えないのだと。

校舎裏の影はゆっくり伸びて、午後の時間が一層重く感じられた。

 午後の授業。

 教室の時計が一時限目から数えて四つ目の鐘を告げるころ、優大は国語の教科書を開いていた。

 ――佐上の席は、空白のまま。

 そこに椅子はあるが、誰も座っていない。

 当然のように、クラスメイトは誰も疑問を口にしない。

 「……」

 昨日まで確かに存在していたはずの佐上。

 あの笑い声も、会話も、視線の端に見えた後ろ姿も――。

 だが今は、まるで初めからいなかったように空気の中へ溶けていた。

 「どうして……俺だけ……」

 隣の席の味香月さんは、何事もなかったかのようにノートへペンを走らせている。

 その表情はいつもと変わらない。

 昨日の異変に心を乱しているのは、この教室で優大ひとりだけらしい。

 黒板にチョークが走る音。

 国語教師・楢原晴海が、淡々と本文の解説を続けていた。

 「――この“無常観”という言葉はですね……」

 響く声。落ち着いた口調。

 だが、その響きに、優大はふと背筋をぞわりとさせた。

 ――あれ?

 国語教師って……こんな人だったか?

 記憶を探る。

 楢原晴海、四十代前半、独特の抑揚で古典を語る人……のはずなのに。

 昨日までの姿と、今、目の前で言葉を紡いでいる人物とが、微妙に重ならない。

 「……違う……?」

 佐上が消えた次の日。

 今度は教師の存在までもが、優大の中で揺らぎはじめていた。

 思い出せない。

 確かに“違和感”を感じているはずなのに、そこに辿り着けない。

 喉の奥に何かが詰まったように、優大の頭はぐるぐると混乱していた。

 「うっ……」

 気持ちが悪い。吐き気に近い不快感が、胸の奥からじわじわと広がっていく。

 ――そもそも、国語教師って……女性じゃなかったか?

 そう思った瞬間、チョークを握る楢原晴海の背中が、やけに黒板に大きく映って見えた。

 耳に届く低い声が、耳鳴りのように反響する。

 「……」

 視線を感じて、優大は反射的に振り向いた。

 クラスの後方――高峰がじっとこちらを見ている。

 その無表情のまなざしに、血の気が引いていく。

 カタ……と椅子がわずかに軋む音。

 高峰がゆっくりと右腕を伸ばした。

 そして、ためらいもなく指を――国語教師の背中へ向ける。

 「……っ!」

 優大の全身に、氷を流し込まれたような悪寒が走った。

 ――やはり。

 その直感が、優大の胸を押し潰す。

 恐怖と緊張がないまぜになり、呼吸が乱れ、指先が冷えていく。

 心臓の鼓動がやけに耳の奥で響き、鼓膜を破るほどに煩わしい。

 次の瞬間。

 空気がぴたりと止まった。

 昼下がりの教室が、まるで密閉された箱の中に閉じ込められたように――外界との繋がりを断ち切られた。

 「……ねえ」

 不意に背筋を這うような声が響いた。

 黒板に文字を書き続けていたはずの国語教師――楢原晴海が、ゆっくりと動く。

 しかし振り返ったのは、体ではなかった。

 肩も腰も動かさず、首だけを、ぐるりと不自然に後ろへ捻じ曲げて。

 「なんで、気づいたの?」

 ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。

 目が合った――そう理解した瞬間、優大の理性は悲鳴を上げた。

 「うわっ……!」

 椅子ごと後ろへ倒れ込み、盛大な音を立てて床に崩れ落ちる。

 教室のざわめきも、驚きの声も、どこにもなかった。

 聞こえてくるのは、自分の荒い息と、楢原の声だけ。

 背後から、低いうなりのような音が漏れた。

 楢原晴海の背中が、あり得ないほどに歪み始める。

 ――四つん這いになり、手足が不自然に伸びる。

 人間の形を逸脱したその姿は、肌の下で何かが蠢くかのように見えた。声は震え、だがどこか子供じみた繰り返しの調子で響く。

「ね、ねえ、なんで? なんで?」

 楢原は問いを反復しながら、這い回るように優大へ近づいてくる。

 その動きは速くはない。だが、一歩ごとに心臓の鼓動が高鳴り、胸の空気が狭められていく。

 優大は動けなかった。足が鉛のように重く、叫ぼうとしても声が出ない。全身を冷たい汗が伝い、時間の感覚まで歪むようだった。

 教室の空気は静まり返っている。窓の外の光景も、仲間たちの表情も、何もかもが遠い幻のように感じられた。誰も反応しない。誰も、気づかない。

 ただ一人――高峰玲子だけは違った。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、確かな足取りで優大の前まで歩み寄る。周囲の異様さなど意に介さないように、冷たい美しさを保ったまま。

 高峰はぴたりと優大の前で立ち止まり、淡々と告げた。

「さあ、私の武器になりなさい」

 言葉は命令でもなく、誘いでもない。事実を淡々と宣告するだけの――それだけで充分に重かった。

 優大の胸の中で、恐怖と決意がごちゃ混ぜになって渦を巻く。

 彼は、この先どう動くのか――自分でもまだ答えを出せないでいた。

 「ま、待てよ……!」

 優大は喉を震わせて、震える声で高峰を拒もうとした。だが、その言葉は空気に溶けるほど弱々しい。

 高峰の視線は一片の迷いもなく冷ややかだった。

「このままだと、あなたも死ぬわ。そしてまた誰かが喰われる」

 淡々とした言葉が、優大の心を鋭く抉る。

 恐怖、不安、混乱――そして教室の誰かが死ぬかもしれないという現実。頭の中でぐちゃぐちゃに絡み合って、呼吸が浅くなる。

 (俺……俺は、どうすればいいんだ……?)

 心の奥で震えながら、優大はふと思う。

 ――そもそも、高峰玲子って一体何者なんだ?

 問いかけるように視線を向けると、高峰はふっと口元を吊り上げ、軽く首を傾げた。

「さあ?」

 次の瞬間、彼女は優大の胸倉を掴むようにして引き寄せ、そのまま顔を近づけた。

「なっ……や、やめ――!」

 優大は必死に抵抗しようと肩を押す。だが力が入らない。身体が痺れるように硬直し、わずかな抵抗はあっさりと絡め取られてしまう。

 高峰の吐息が触れる。距離は一瞬でゼロに縮まり、世界が凍りつく。

 次の瞬間――唇が重なった。

 優大の胸の中に、恐怖とも陶酔ともつかぬ激しい衝撃が走った。

 ――瞬間。

 優大の全身を突き抜ける、電撃のような激痛。

「ぐっ……あ、ああああッ!」

 骨が砕け、血管が裂け、魂そのものを無理やり裏返されるような、耐え難い苦痛が全身を貫いた。

 視界が白く弾け、次に気がついた時――自分の腕も足も、声すら存在していなかった。

 (……え?な、なんだこれ……!?)

 意識はある。だが、身体は消えていた。

 代わりに感じるのは冷たい金属の感触。そして机に置かれていたような、無機質な重み。

 ――自分は、事務用のカッターナイフになっていた。

 (……ふざけんな! なんでまたこんな……!)

 絶望と怒りが渦巻く中で、ひょい、と誰かに持ち上げられる感覚。

 振り返るように視線を向ければ、当然そこにいるのは高峰玲子。

 彼女はつまらなそうに、金属の切っ先を指先で軽く撫でながら、小さくため息を漏らした。

「……相変わらずしょぼいわね」

 吐き捨てるようなその声は、憐れみですらなかった。

 ただの事実を告げるように冷酷で――それが優大の怒りに火を注いだ。

 (しょ、しょぼいって……! 俺だって……!)

 だが、声は出せない。ただ心の中で叫ぶしかなかった。

 「ふふ……あははははっ!」

 教室に不釣り合いな高笑いが響いた。

 黒板の前で、カッターナイフを握る高峰玲子が、まるで舞うように腕を振り抜く。

 「この“しょぼさ”が、逆におかしくてたまらないわ!」

 金属音がシャッと走り、優大の刃――その細い切っ先が異形へと突き刺さる。

 楢原晴海の体がギチギチと軋む。伸びきった首が蛇のようにうねり、優大へ噛みつこうと迫るが――。

「遅いわ」

 高峰は冷ややかに呟き、容赦なくカッターを振り抜いた。

 ザクリ。

 次の瞬間、楢原の顔が紙細工のように切り裂かれる。

「ぎィィ……!」

 断末魔の悲鳴すら、クラスメイトたちの耳には届かない。誰一人、異変に気づかない。

 高峰は微笑んだまま、さらに何度も刃を閃かせる。

 シュッ、シュッ――無数の線が走り、楢原の異形の体が細切れになっていく。

 やがて、床には血と黒い靄のようなものだけが残り、楢原の形をしたものは跡形もなくなった。

 「……たいしたことなかったわね」

 まるで授業を終えた教師のような調子で、彼女は小さく息を吐いた。

 そして次の瞬間――。

 カラン、と乾いた音が教室に響く。

 高峰は手の中のカッターナイフ――つまり優大を、無造作に床へと投げ捨てたのだ。

 (いってぇぇぇ……! 俺は文房具じゃねえぞ!)

 痛みに呻きながら、優大の意識は再び揺らぎ、人間の姿へと戻っていった。

 「……う、ぐっ……!」

 床に膝をついた瞬間、優大の胃がひっくり返ったように激しい吐き気が襲ってきた。

 全身がふらつき、頭の奥で警報のような耳鳴りが鳴り響く。まるで自分がまだカッターナイフのまま、振り回され続けている錯覚に囚われる。

 「ふふ……やっぱり相変わらずしょぼいわね」

 高峰玲子は涼しい顔で、まるでテストの答案を評価するかのように、軽く言い放った。

 「ハンマーのときもそうだったけど……本当にこれで“武器”なの? 頼りなさすぎて笑えるわ」

 その言葉が、鈍器のように優大の胸に突き刺さる。

 (なんなんだよ……俺は、なんなんだよ……)

 悪魔に襲われ、命を賭けて戦って、そして――仲間どころか、武器にされてディスられる。

 心が折れる音が、自分でも聞こえた気がした。

 優大は額に手を当て、震える声で吐き出す。

 「……ふざけんなよ……なんで俺だけ、こんな……」

 「なんなんだよ……これ……」

 優大の喉から掠れた声が漏れる。膝をついたまま、両手で頭を抱え込むように震える。心が折れる――その言葉の意味を、今ほど痛感したことはなかった。

 「だから言ったでしょ。悪魔よ」

 高峰玲子は表情ひとつ変えず、冷ややかに告げる。

 「……っ、悪魔って……何なんだよ! 先生は……楢原先生はどうなったんだよ!」

 叫んだ瞬間、優大の目から涙が滲み出た。床に額を擦りつけるように、嗚咽を堪えきれず泣き崩れる。

 昨日までそこにいた教師が、あんな姿で消えていくなんて――。

 「“先生”なんて人は存在しない」

 高峰の声は無機質で、ただ事実を伝えるだけのものだった。

 「悪魔に食われた人間は、“最初から存在しなかったこと”になるの。記憶も、記録も、すべて消える。……悪魔も同じ。死ねば、この世界から痕跡ごと消え失せる」

 彼女の瞳は暗く、どこまでも冷酷だった。

 「存在していなかった――ただ、それだけのことよ」

 教室のざわめきが妙に遠く感じる。

 優大の耳には、クラスメイトの声も、黒板を擦るチョークの音も届かない。ただ冷たい高峰の言葉だけが、何度も何度も反響していた。

 優大はふらりと顔を上げた。

 視線の先――そこには、佐上が座っていたはずの席がぽっかりと空いている。

 (……いない。やっぱり、いない……)

 喉の奥がひゅっと狭まり、息が詰まる。

 昨日まで確かにそこにいて、軽いノリで話しかけてきた佐上一輝。その姿が、煙のように跡形もなく消えていた。

 ちら、と横目で見れば、味香月沙也加は相変わらず。ノートをめくり、ペンを走らせ、まるで何事もなかったかのように授業を受けている。

 昨日、あの佐上に飲み込まれかけた少女とは思えないほど、自然体だった。

 そして黒板の前。

 「……次の段落を音読してみましょう」

 淡々と声を響かせる――楢原晴海。

 その姿もまた、優大の脳裏をぐるぐると回り続けていた。

 (いや……待てよ。楢原先生は――悪魔になったはずだ。あんな異形の姿で……。でも、今は普通に授業をしてる? じゃあ、俺が見たのは何だったんだ?)

 佐上が“いた”記憶と、“いなかった”現実。

 楢原が“先生”だった記憶と、“悪魔”だった現実。

 複数の現実が、頭の中でぐしゃぐしゃに絡み合い、優大の思考を引き裂いていく。

 「う、うぁ……」

 両手でこめかみを押さえた瞬間、吐き気に似た混乱が込み上げる。

 教室の色彩がにじみ、世界そのものが揺らいでいる気がした。

 (どっちが本当なんだ……? 俺は、何を……信じれば……)

「どちらも――すべて現実よ」

高峰は顔色ひとつ変えずに、まるで教科書を読み上げるように淡々と告げた。

「悪魔になる前の世界も、悪魔になった後の世界も。並行して並んでいるの。あなたはその“はざま”にいるだけ」

「はざま……?」

優大の声は、思考を追いつかせられずに途切れた。言葉の意味が身体に落ち切らない。

高峰は小さく頷き、視線を細める。

「納得がいかなくても、気に入らなくても構わない。あなたは“はざまの人間”――私と一緒よ。どの世界にも存在するし、同時に存在しない。存在と不在のあいだにいる存在」

その説明は、理屈を超えた冷たい真実のように優大の胸に突き刺さった。

頭の中で言葉が何度も反芻され、思考が氷のように固まっていく。

(はざまの人間……存在するし、しない……? そんなの――)

納得できない感情が沸き上がる。怒り、恐怖、否定――あらゆるものが渦巻く中で、しかし体の芯はひんやりと凍ったように動かない。

世界が二重にも三重にも押し寄せてくる感覚。優大はその“重なり”の中心に、自分がいることを実感してしまった。

高峰の声が、まるで遠くで響く鐘のように響いた。

「さあ。あなたは選ぶか、従うか。はざまに立つ者にしかできないことがあるの」

優大の胸の奥で、何か小さなものが確かに砕ける音がした。


第3話



 教室のざわめきの中で、優大はふと視線を戻した。

 ――佐上一輝が座っていたはずの席には、見覚えのない女子が座っていた。

 ショートカットの茶髪で、スポーティな印象。

 整った顔立ちに、どこか活発そうな空気を纏っている。

 (……え? 誰だ……?)

 優大の胸の奥で、違和感がぐるぐると渦巻いた。

 これが――新しい現実? いや、違和感が強すぎて頭が追いつかない。

 そもそもこの女子は人間なのか――そんな疑念さえ、自然と湧き上がってくる。

 視界が揺れるような、吐き気に似た感覚が胸を押し潰す。

 ――そのとき。

 ショートカットの女子が、ふと立ち上がった。

 その動きに合わせ、優大の胸はざわつき、心臓の鼓動が跳ね上がる。

 (……あれ? この感覚……)

 どこか懐かしく、同時に危険な匂いを感じる――体の奥がぞわりと震える。

 教室の空気が、一瞬で張り詰めたように重くなる。

 優大は自分の呼吸さえ、息苦しく感じながら、その女子を見つめた。

 教室の空気が、ぎゅっと締め付けられるように重くなる。

 目を開けていても、どこか閉ざされた空間に押し込められたような感覚――。

 (……悪魔か……?)

 背筋に冷たいものが走り、全身の毛が逆立つ。

 その瞬間、先ほどのショートカットの女子が、静かに、しかし確実に優大へと近づいてくる。

 足音ひとつ立てず、まるで空気の流れのように、距離を詰める。

 ――そして、横を見ると。

 高峰も立ち上がり、優大の前に歩み寄る。

 胸の奥から、不快な感覚が押し上げられる。

 心臓が早鐘のように打ち、呼吸が浅くなる。

 (やっぱり……悪魔だ……)

 その存在そのものが、理屈を超えた恐怖と嫌悪を呼び起こす。

 優大は思わず後ずさり、両手を胸にかざして身を守るように構えた。

 閉ざされた空間の中で、二人の存在が迫り来る――不快と恐怖が交錯し、思考がまとまらない。

 教室の空気がさらに張り詰める。

 高峰とショートカットの女子――二人の視線が、鋭くぶつかり合った。

 「……何をしにきたのかしら?」

 高峰の声はけだるく、どこか嫌そうに響く。その瞳は冷たく光り、相手を試すかのようだった。

 女子はひょうひょうとした表情で、淡々と答える。

 「何って……悪魔を、殺しにだよ」

 その言葉の軽さと、どこか涼しい響きに、優大の胸はざわつく。

 恐怖と混乱で、声も出せず、ただ怯えてその場で見守ることしかできなかった。

 教室のざわめきは、優大の耳には届かない。

 二人の存在だけが、世界を切り取ったかのように際立ち、圧迫感を増していく。

 (……どうして、こんなことに……)

 優大の視界の端で、空間が微かに歪むように揺れ、息苦しさが胸に重くのしかかった。

 ショートカットの女子が、ふと優大のほうへ視線を送る。

 その瞳は冷たくも鋭く、しかしどこか興味深げな光を帯びていた。

 「君か……」

 女子は低く、ひょうひょうとした声で言った。

 「君が最近、高峰愛用の“武器”なんだね」

 言いながら、軽やかに優大に近づいてくる。

 その距離感に、優大の心臓は跳ね上がる。

 「今日は僕のために、役に立ってもらうよ」

 そう言うと、女子はためらうことなく唇を重ねてきた。

 優大は反射的に体を硬直させ、目を見開く。

 (な、何を……!?)

 驚きと恐怖、そして理解できない感覚が入り混じり、体の芯が震えた。

 その瞬間、教室の空気は再び張り詰め、時間が止まったかのように優大を包み込む。

 優大は、拒む間もなく――いや、拒む余地すら与えられず――唇を奪われた。

 全身に、昨日の“ハンマーの時”と同じような苦痛と不快感が押し寄せる。

 「……本当だ、噂通りしょぼいね」

 女子は軽く鼻で笑いながら、優大の“武器”であるホチキスを手に取る。

 「ホチキスって、もう武器要素ほとんどないし。完全に事務用品じゃん」

 ふらりと体を揺らし、ホチキスを振り回してみせる。

 「さーて、こんなもんでどうやって戦うのかな?」

 その軽やかな動作に、優大の頭が早くもクラクラと回り始める。

 視界が揺れ、吐き気に似た感覚が再び胸を押し潰す。

 (……こ、これ……どうなっちゃうんだ……)

 立っているだけでも精一杯――目の前の女子と、その軽口の刃が、優大を容赦なく追い詰めていく。

「なっ、神奈崎――あなた、私の武器を!」

高峰の顔が怒りで紅潮する。次の瞬間、彼女は神奈崎に掴みかかろうとした。

だが神奈崎はひょうひょうとした笑みを崩さない。

「暴力はんたーい」

指をひらひらと振ってみせ、肩をすくめる。

「ほらぁ、それにさ。そんなことしてる場合じゃないでしょ? だって――悪魔がそこにいるんだよぉ」

 神奈崎の指先が、教室の最前列に座る男子を指し示す。

「……は?」

思わず優大が声を漏らす。

神奈崎はその男子の後ろへ回り込み、乱暴に髪をわしづかみにする。

「ねぇ、いつまでしらばっくれてじっとしてるの?」

その声は、からかうようでありながら、ぞわりと耳の奥を冷たく撫でる不気味さを孕んでいた。

次の瞬間――。

男子の後頭部が、ぱっくりと縦に裂けた。

肉と骨が無理やり引き剥がされるように開き、その奥から現れたのは巨大な口。

ずらりと並ぶ牙が、教室の光を受けて不気味に煌めく。

「……っ!」

優大の背筋を冷たい汗が伝い落ちる。

“人間”が、“悪魔”に化けていく。

これが――高峰と神奈崎の言っていた“真実”。

「ふーん、良くない口だねぇ」

神奈崎は楽しげに呟くと、手に持ったホチキスをカチリと構えた。

カシャッ、カシャッ!

銀色の針が、男子の後頭部に開いた異形の口を留めていく。

「――あはははっ! 役に立つじゃない、ホチキス!」

ぞくりと、優大は自分の意識が針を打ち込むたびに引き攣れるのを感じた。

彼女の笑い声が教室に響き渡り、悪夢のような光景を彩っていく。

「ぐ、あ、あああっ……!」

男子――いや、悪魔は呻き声を上げたかと思うと、次の瞬間、全身の皮膚が波打つ。

ビキビキと音を立てて、腹や胸、腕や足の至るところが避け、次々と口が生まれた。

牙の列が身体中を覆い尽くし、だらりと涎が滴る。

「うわぁっ! 気持っ悪!!」

神奈崎はおどけたように声を張り上げ、飛びかかってくる無数の口を軽やかにかわす。

「でもでもでも――閉じちゃえばいいんだよねぇ?」

カシャッ、カシャッ、カシャカシャカシャ――!

次々と打ち込まれるホチキスの針。

閉じられた口から血と黒い液体が溢れ出し、悪魔の体はますます醜悪に歪んでいく。

優大は吐き気と恐怖の中で、自分が“その道具”として使われている事実に、どうしようもなく震えていた。

 神奈崎は満足げに小首をかしげた。

「うん、いいね。使っても使っても、なくならない──噂通りの回復力!」

 ホチキスの針が打ち込まれるたび、悪魔の身体はぐにゃりと歪む。だが、針を刺しても刺しても、得体のしれない力がそれを押し戻すように形を復元していく。神奈崎はそのたびに嬉々として笑った。

 やがて彼女は、素早く手際よく、教室中に生えた無数の口を次々と閉じていった。

 閉じられた口はパチン、と機械的な音を立て、やがて悪魔の動きを徐々に鈍らせる。もがき苦しむように小刻みに震えるその姿に、神奈崎はあっけらかんと言葉を洩らす。

「動き、封じられたね」

 悪魔は抵抗して体をひねるが、口が塞がれたことで力をまともに発揮できず、床に倒れこむようにもがいた。

 神奈崎は一拍置くと、ふと表情を引き締め──楽しげに言った。

「さて、後は殺すだけだね」

 言い終えると、彼女はホチキス(=優大)をしっかり握り替えた。

 軽い動作で構え、悪魔へと向き直る。ホチキスの先端が、まるで決意を帯びた刃のように光った。

 ──そして殴打が始まる。

 ホチキスが大きく振り下ろされ、悪魔の身体をたたきつける。カチ、カチ、と金属が弾く乾いた音が教室に響いた。たたかれるたびに悪魔は小さく呻き、形がさらに乱れていく。

 神奈崎の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 その目は子供じみたはしゃぎを帯び、同時に鋭い達成感を宿している。

(これで終わるのか、あるいは次が来るのか──)

 優大はその光景を、呆然と見下ろしていた。胸の奥で何かがざわめき、恐怖と興奮と羞恥が混じった複雑な感情が渦巻く。

 だが、今はただ目の前の現実に従うしかない──神奈崎の笑顔と、彼女の振るう“ホチキス”が示す残酷な合理性に。

 ぐしゃり、と嫌な音を立てて、悪魔の身体が崩れ落ちた。

 床に散らばった黒い塊は、しばらく蠢いていたが、やがて煙のように消え去っていく。

 悪魔がいたはずの場所には、もう何も残っていなかった。

 ──その余韻を断ち切るように、教室の一角で火花が散る。

「これは私が見つけた武器なんだけど!」

 高峰が苛立ちを隠さず声を張り上げる。

「えー?いいじゃん」

 神奈崎はひょうひょうとした調子で肩をすくめ、悪びれもせず続けた。

「だってさ、大概こういう“武器”って、魂使い果たしてすぐ死んじゃうんだよ? でもコイツは違うじゃん。しょぼいのは認めるけどさ──使い放題って最高じゃない?」

「勝手なこと言わないで」

「勝手ってなにさ? こんな便利なの、一人占めするなんてケチくさいよ。みんなのものだよ、みんなの!」

 二人の言い争いは、戦闘の直後だというのにどこか軽薄で、しかし空気を張りつめさせる緊張を孕んでいた。

 そして──その“議論”の中心にいるのは、間違いなく自分だった。

(……俺は、ただの“もの”なのか?)

 優大の胸に、冷たい衝撃が広がる。

人間でも、クラスメイトでもない。

高峰や神奈崎にとって、自分はただの“武器”──“使えるかどうか”だけで価値を測られる存在。

 その現実が、骨の髄まで突き刺さった。

 ショックと絶望に、優大は呼吸すら忘れてしまう。

 教室のざわめきも、彼女たちの言葉も、遠くかすんでいった。

ばさりと放り投げられ、床に転がった優大の身体は、ようやく人間の姿へと戻っていった。

 肺が空気を取り戻すたびに、全身が痛みを訴えてくる。ぐったりとした体を起こすだけでも一苦労だった。

「へえ、本当に死なないんだね」

 神奈崎は床に倒れた優大を覗き込み、無邪気な笑みを浮かべる。

「結構しっかり使ったつもりなんだけどなぁ。やっぱり噂は本当だったんだ」

「……っ、おまえ……誰なんだよ……」

 荒い息の合間に、優大はなんとか声を絞り出す。

 自分を“武器”として振り回し、なおも平然と笑っているこの少女──一体何者なのか。

 神奈崎は首をかしげ、楽しげに目を細めた。

「僕? 僕は神奈崎瑠理香かんなざきるりか。」

 一拍置いて、さらりと続ける。

「悪魔を──心から憎んでいる者さ」

 にこり。

 その笑顔は、屈託がなく眩しいほどに綺麗だった。

 ……だが。

 吐き出された言葉との不釣り合いに、優大の背筋を冷たいものが駆け上がる。

 会話の内容と笑顔が、どうしても結びつかない。

 その齟齬が、むしろ“異質さ”を際立たせていた。

 ぞくり──。

 優大の心臓が、恐怖と直感にかき乱される。

吹き飛んだ悪魔の残骸が黒い煙となって消えていく。

その余韻をかき消すように、場の空気が再びざわつき始めた。

「……おい、神奈崎」

高峰が眉をひそめ、声を低くする。

「お前、結局何しに来たんだ? さっきから好き勝手やってるが……目的は何だ?」

神奈崎はくるりと振り返り、にやけたような笑みを浮かべた。

「高峰、君、ほんと気づいてないの?」

その口ぶりに苛立ちを覚えつつも、高峰の胸が不穏にざわつく。

「気づいてないって……何をだ」

「だってさ、あんな下っ端の悪魔じゃない“奴”が――もうここにいるんだよ?」

神奈崎の声は軽やかで、無邪気に聞こえるのに、背筋を冷たく撫でる不気味さがあった。

高峰はハッと息を呑む。

「まさか……? そんな気配、感じなかった……」

喉の奥がひりつく。戦場の空気を読み違えるなんて、あってはならないことだ。

神奈崎はわざとらしく肩をすくめ、視線を滑らせる。

「――いつまで、そのままでいるつもりなの?」

そう言いながら、彼女はゆっくりと指を伸ばした。

その先にいたのは……味香月。

優大の隣で必死に状況を見守っていた少女に、冷たい指先が突きつけられる。

場の空気が一瞬にして凍りついた。

――まさか、味香月さんが……?


優大の心臓がどくんと大きく跳ねる。

誰もが次の瞬間を、息を詰めて待つしかなかった。

神奈崎の指先が、すっと味香月を指した瞬間。

彼女はきょとんとした顔で振り向き――そして、あどけない笑顔を浮かべた。

「……え?」

優大の思考が止まる。

――なんで?

味香月さんが……“動いて”いる?

さっきまで普通の女子生徒としてそこにいたはずなのに。

「ど、どういうことだ……?」

高峰が険しい目で睨む。声には焦燥がにじんでいた。

そんな二人の視線を受けて、味香月はひょうひょうと肩をすくめる。

「いやぁ、最近さぁ、悪魔狩りが激しくて危ないじゃん? だから――」

にっこり。まるで放課後の冗談を言うみたいに、彼女は続けた。

「わざと小悪魔に食べられたことにして、“存在が消えた”ことにして逃げようと思ったのよ。

なのに、なんで見抜いちゃうかなぁ……?」

その笑顔は無邪気で、少女らしい可愛らしさすらあった。

けれど告げられた内容は――人間ではあり得ない。

「……味香月、さん……?」

優大の喉が乾ききり、声はかすれていた。

信じられない。

優しい隣の席の彼女が――悪魔に「食べられた」なんて嘘をついて、ここにいた?

じゃあ彼女は一体……。

場の空気が張りつめ、全員が言葉を失う中、神奈崎だけが楽しそうに口角を上げていた。

「じゃあ……しょうがないか」

味香月はふっと息を吐き、まるで買い物帰りに寄り道でもするみたいに軽い調子で歩き出す。

向かう先は――優大。

「っ……!」

背筋に冷たいものが走り、優大は思わず身構えた。

目の前の“彼女”は、もう知っている味香月じゃない。

その笑顔の奥に、何かぞっとする闇が潜んでいる。

「なにを……」と問いかける暇もなかった。

味香月の白い手が優大の髪をがしりと掴む。

強引に優大の顔を味香月に向ける。

唇が重なる。

優大の鼓動が早くなり恐怖と興奮が混濁する。 

その瞬間――眩い光が弾け、全身を強引にねじ曲げられるような感覚が襲った。

「う、あああっ――!」

次の瞬間、優大の視界は砕け、意識は黒に沈む。

代わりに残ったのは――冷たい鉄と、血に飢えた衝動。

味香月の掌には、鋭い鉄爪を備えたナックルダスター。

金属が月光を反射し、不気味な光を宿している。

「……まあまあ、ね」

彼女は楽しげに呟き、その武器を自分の拳にはめた。

カチリ、と小気味よい音が響く。

その一音が、教室を一層冷たく沈黙させた。

「……あーあ、取られちゃったよ」

神奈崎が肩をすくめる。けれどその口元には、場違いなほど楽しげな笑みが浮かんでいた。

「じゃあしょうがない――こいつで良いか?」

そう言って、彼女は近くにいた男子生徒の腕をがしりと掴む。

「えっ、やめっ……!」と声を上げる間もなく、再び光が弾け――。

ごきり、と骨が折れるような音と共に、男子生徒の姿は鉄の塊へとねじ曲がっていく。

次の瞬間、神奈崎の手には無骨なナックルバスターが現れていた。

「……わかりやすいねぇ」

彼女はそれを嬉しそうに振り回し、舌なめずりする。

「殴り合いだ!」

「……っ!」

優大の胸を締めつけるような不安が広がった。

目の前で武器に変えられた男子――彼はどうなる?

自分と同じように、意識があるまま苦しむのか。

それとも……完全に消えてしまうのか。

「どうなっちゃうんだよ……あいつの存在……」

吐き出した声は、恐怖と吐き気が入り混じった。

そんな優大の動揺など意に介さず――。

神奈崎と味香月は、教室の中央で向かい合う。

互いの拳に、武器と化した“人間”を宿しながら。

冷たい火花が散るような、緊張のにらみ合いだった。

轟音と共に、拳がぶつかり合う。

教室の空気が震え、窓ガラスがびりびりと鳴った。

「はっ!」

「ふんっ!」

神奈崎と味香月、二人の拳が交錯するたびに床が軋み、机や椅子が弾き飛ばされる。

武器と化した人間たちの重みを宿した拳は、まさに殺意そのもの。

どちらも一歩も引かず、教室は殴り合いの戦場と化していた。

「……っ!」

しかし、やがて優勢が傾きはじめる。

味香月の額に汗が滲み、ナックルを握る手がじりじりと押し込まれていく。

「これは……ちょっとやばいかもね」

軽口を叩きながらも、その声音は焦りを隠せない。

神奈崎の笑みはますます深まる。

「どうしたの? もう限界?」

その瞬間――味香月がふいに視線を外す。

「甘いわよ」

彼女は近くにいた男子生徒の襟をつかみ、まるで紙くずのように神奈崎へと投げつけた。

「っち!」

飛来する人間をよけきれず、神奈崎の体勢がわずかに崩れる。

優大は凍り付いた。

味香月に投げ飛ばされた生徒の恐怖に満ちた目が、彼を真っ直ぐに見ていたからだ。

「邪魔なんだよッ!」

神奈崎の拳が炸裂し、投げつけられた男子生徒は壁に叩きつけられてた。

その瞬間――。

「じゃあね」

味香月はナックルをはめたまま、軽やかに窓枠に足をかける。

次の瞬間、ガラスを蹴破って外へと飛び出した。

風が吹き込み、カーテンが大きく揺れる。

優大の目が見開かれた。

「――っ! 逃げた!?」

神奈崎は窓際に駆け寄り、身を乗り出して唸る。

「チッ、逃げ足だけは速いんだから」

背後から乾いた笑い声が響いた。

「ふふ……追い詰めたのに、取り逃がすなんて。ほんと無様ね」

高峰が神奈崎を見下ろし、あざけるように笑う。

神奈崎は振り返り、むっとした顔で睨み返す。

だが、そんな二人の間で優大は思わず声を上げてしまった。

「ちょっ、待って……! 俺、さらわれてるんだよな!? どうなっちゃうんだよこれ……!」

自分が人間なのか武器なのか、もはやわからない。

混乱と恐怖に押し潰されそうになりながら、優大はただ震えていた。

「……ふん、別に問題ない」

神奈崎は倒れていた床から軽やかに身を起こす。

肩を軽く払って、ケロッとした笑顔を浮かべた。

「今から追いかけて、とっ捕まえれば済む話さ」

「本当に?」

高峰は口元を歪めて、艶やかな笑みを浮かべる。

「あなたにできるのかしら? また“無様に逃げられる”んじゃなくて?」

その挑発に神奈崎の眉がぴくりと動いた。

「へえ……言ってくれるね」

次の瞬間、窓際に駆け寄ると、身を翻し――。

「どっちに逃げた?」

校庭へ飛び降りる。

地面に着地した神奈崎は、しゃがみ込み、獣のように空気を吸い込んだ。

鼻先をひくつかせ、左右をかぎ分ける。

「……ふふ、いい匂いだ。こっちか」

校庭に吹く風の中、味香月の残り香を追いかけるかのように、神奈崎の瞳がぎらりと輝いた。




必死に走り抜ける足音が、雑踏の中に混ざっていく。

味香月は制服の裾を翻しながら、人の多い駅前へと飛び込んだ。

「……はぁ、はぁ……」

改札の手前で立ち止まると、額の汗をぬぐい、わずかに笑みを浮かべる。

「まあ、この辺までくれば……追っては来ないわね」

彼女は右手を見下ろした。

その拳にはめていたナックルバスターを、カチリと外す。

金属の冷たさが離れた瞬間――。

眩暈のような感覚と共に、そこに人間の姿が現れる。


「っ……!」

膝をつきながら息を荒げる優大。

つい先ほどまで武器にされていた感覚が、まだ体の芯をじくじくと苛んでいた。

「……っ、げほっ……」

喉にこびりついた鉄の味を吐き出すように咳き込む。

味香月はその姿を見て、わずかに目を見開いた。

「……あら?」

彼女の口から洩れた声は、驚きと、少しの愉悦が混じったものだった。

「生きてる。ほんとうに生きてるのね」

すっと優大の顎に指先を添え、無邪気に微笑む。

「外園くん……あなた、本当に特別なのね」

その笑顔は、駅前の雑踏のざわめきとは不釣り合いなほど、ぞくりとする妖しさを帯びていた。

「味香月さん……つまり、悪魔なんだよね? いつから……?」

優大の声は震えていた。頭の中で現実がぐるぐると回り、言葉がまともに紡げない。

味香月は肩越しに軽く笑い、どこか残酷な優しさで頷く。

「……ずっとよ。あなたの記憶にある“私”は、ずっと本物よ」

その言葉に、優大の胸はさらに掻き乱される。

(記憶って……会話したこともないんだ。思い出と言えるほどのものがあるわけじゃない――)

言葉に詰まりながらも、必死に抗おうとする自分がいた。

「でも……ずっと悪魔、って……。何が本物で、何が偽りなのか、もうわからないよ……」

味香月はふっと肩をすくめ、視線を遠くへ泳がせる。眉の端に薄い嘲りを宿しながら、淡々と言った。

「今ここにある現実が本物。それ以外は――興味ないわ」

その一言は冷たく、残酷で、優大の胸に深く刺さった。

彼の世界はまた一段、輪郭を失っていく。




4話


「ねぇ、私と組まない?」

味香月の声はいつもの彼女そのままだった――柔らかくて、どこか無邪気な笑みを浮かべている。その表情は、優大が覚えている――悪魔だと気づく前の、あの穏やかな味香月のままだった。胸の奥がぎゅっと締め上げられる。好意か、それとも罠か。判別がつかない。

差し出された手が、匂い立つほどに近づいてくる。

その掌は確かに女のものだが、どこか冷たく、ほんの少しだけ人間離れしている。優大は思わず半歩、また半歩と下がった。鼓動が耳鳴りのように早くなる。問いは喉に詰まり、言葉は震えた――「そもそも、味香月さんは……高峰さんたちは、一体、何なんだよ?」

味香月は笑いを崩さないまま、ゆっくりと目を細めて答えた。

「何って? 私は――悪魔よ。で、あいつらは天使」

言葉は軽く、説明するでもなく、事実を告げるだけだった。その刹那、優大の世界の色がもう一度、静かにひび割れていく。


「天使とか悪魔とか……その意味が──」

優大の声は震え、頭の中がさらに混乱の渦に飲み込まれていく。言葉が追いつかない。天使? 悪魔? そんな単語でこの現実の残酷さを説明できるのか、という疑念が胸を締めつける。

味香月は肩をすくめ、相変わらずの無邪気な笑顔で言う。

「悪魔は人を食べるの。で、天使は人を――全部、殺す」

その一言が、世界をざらつかせる。

悪魔は“選んで喰らう”残酷さ。天使は“全てを消す”徹底性。どちらを選ぶにせよ、人間は道具でしかないらしい。優大の胸の中で、小さな怒りと恐怖が同時に火を噴いた。

「──どっちの味方をすればいいんだ?」

問いは自然と口をついて出る。だが返ってきたのは、あっけらかんとした笑みだけだった。

「そっち? それともあっち?」

味香月の目は楽しげに瞬き、ほんの少しだけ好奇心を含んだように優大を見つめる。

優大は思わず声を荒げた。

「どっちも敵じゃないかよ! どっちを選んでも、人が壊されるだけだろ!」

その叫びが、彼の中でまだ消えずに残っている“人間らしさ”の証だった。

だが二つの顔が同時に笑う教室の中で、その叫びは、すぐに薄れていく。

答えを迫る視線。無情な現実。優大はただ、選択の重さだけをずしりと感じていた。

 ――いつの間にか、追手の気配が近づいていた。

 神奈崎と高峰が並んで、優大たちに追いつく。二人の顔にはそれぞれの“遊び心”と“興味”が混じっている。

「なんだよ、こんなところでいちゃついてんのかよ」

 神奈崎は肩を竦め、あざけるように笑う。いつも通りの軽やかさだが、その声には刃のような冷たさが潜んでいる。

「ふふ……今度は私が相手してあげようかしら?」

 高峰は低く囁き、瞳を細める。興味が湧いた獲物を観察する猫のような笑みだ。

「何言ってんだよ、これは僕の獲物だよ」

 神奈崎が即座に突っかかる。二人の間の空気がぴりりと張りつめる。

「じゃあ――ふたりでやるってのはどうかしら?」

 高峰の提案は、狩りの効率を計るかのようにまったく残酷さを躊躇しない。

 味香月の表情が、一瞬だけ焦る。

「しつこいわね……」

 その声には苛立ちが混じるが、すぐに淡い笑みを取り戻す。

「さあ、しっかりした武器になってちょうだい」

 彼女は、ぎゅっと優大を引き寄せた。優大は必死に抵抗しようと両手を伸ばす。

「や、やめ……!」

 だがその抵抗は一瞬で押し潰される。味香月の唇が覆いかぶさり、無理やりキスを奪われた。

 甘く冷たい接触とともに、優大の身体を引き裂くような激痛が走る。

「ぐあっ!」

 痛みに視界が白く滲み、身体がふわりと浮く感覚――そして次の瞬間、優大の意識は金属と皮の冷たさに満ちた感覚へと切り替わった。

 気づけば、優大は――バットになっていた。硬くてずっしりとした棒状の感触。握りしめられる部分の革の匂い。重力のかかり方すら、自分のものではない。

 味香月はバット(=優大)を手に取り、手元で試しに振ってみる。

「これで殴れってことね」

 目の端に、かすかな好奇と残酷な期待を宿して囁く。

「さて、どこまでいけるかしら……?」

 その問いは、まるで遊戯の開始を告げる合図のように響いた。優大の胸の奥で、小さく何かが砕ける音がした。




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