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光の方へ

 家を業者に明け渡し、1000万円が入ったカバンを抱えて例の病院の方へ向かった。


 やはりこの時期の夕暮れは冷える。中学生の誕生日の時姉がくれた紺の手袋と母が残した紅樺色のマフラーを巻いて夕焼けで赤く染まった道を歩いた。母と姉の記憶を消したら夢で悪夢なりにも母と姉の声を聞くことはできなくなるんだろうか。自分は普通の幸せを手に入れることができるのだろうか。別に幸せでなくてもいい。今ある苦しみから解放されたい。


 駅へ向かう道中、スーパーから家に帰るところに見受けられる子連れの若い女がいた。手を繋いでいた。自分はこれから母の手の穏やかな暖かさを忘れてしまうのだろうかと思うと何だか息が詰まる思いがした。この親子はこれからもずっと健やかに暮らしていけるのだろうか、母がいなくなっても、子は未来へと進んでいけるのだろうか。父親は…。


 そんなことを考えているうちに最寄駅へ着いた。病院はここらと比べるとやや田舎にあるので、あまり使わない方面の電車に乗った。とは言っても電車に乗ったのは久々だが。最近の電車はやはり老人が増えた。自分が子供の頃は同年代の子をよく見かけたものだが。子供は苦手だ。自分自身子供時代からあまり素直ではない性格だったせいか、子供が考えていることがよくわからない。だが、子供は希望だ。決して人間として生きている以上切っても切り離せない。たとえ、自分に子供がいなくても。

 

 一回の乗り換えをして病院の最寄り駅へ着いた。昔の都会といった感じの駅だ。古ぼけた商店街を通り過ぎるとやっと見えてきた。「さくらクリニック」


 思ったよりも遅くなってしまった。落ち着いた外装の中に入ると人の良さそうな中年女性の受付がいた。あまり大声で言うことでもないと思い、声を潜めて


「記憶が消せるって聞いたんですけど…。」

 

 受付の女性は全く焦ることなく席につくよう促してきた。

 周りの患者がいなくなって最後に呼ばれた。精神科だからかやけに温かみのある木目調のドアを開けると、小学生くらいのサイズの合わない白衣を着て聴診器をかけたの格好をした女の子が座っていた。理解ができなかった。医者の子供がお医者さんごっこでもしにきたのだろうか。精神科でそのようなことをするのは子供に悪影響ではないか。


「あのー…君は。」

「あたし、お医者さんなの。」

「はぁ。」


 子供は役にすっかり入ってしまっている。怪訝な顔をしていると

「あなた、あたしのこと信用してないでしょ。」


 面倒臭い子供だ。

「いや、そんなことないよ。」

「そんなことある!」

 そう言って頬を膨らませた。そこで年配の医者らしき人物が入ってきた。


「お待たせしました。院長の佐竹です。うちのチビが失礼しました。」

「チビじゃないもん!」

 また怒ってしまった。


「こう見えてこの子、あなたの治療を担当する医者なんですよ。子供なので免許持ってないですけど。」

 医者はにこやかに言った。おかしいのではないか。この人は。やっぱり記憶を消そうとする医者はおかしいのか。唖然としていると、医者は続けた。


「驚くのも仕方ありませんが、まずこの子にあなたの状況を話してもらいます。治療のために必要なのです。」


「あたし、春日かすが 永海なみっていうの。よろしく。あなたの頭の中がどうなっているのか知らなきゃいけないから。嘘つかないで話してね。」


 子供になんで話さないといけないのかと思っていたら、急に手を握ってきた。赤ん坊のような柔らかい手だ。赤ん坊を抱いたことはないけれど。


「ママがよくこうしてくれたんだ。あたしが泣いてるとき、手繋いで、大丈夫だからママに話してみてって。全部話した後ぎゅってしてくれたんだ。今、ママはお空にいるんだって。おじさん、話せないことあるんじゃない。」


 そう言われた時、昔母が自分が学校で喧嘩したとか悔しいことがあったとかでべそをかいている時、頭を撫でながら話を聞いてくれたことを思い出した。胸がキュッとしまった後、じんわりと涙腺と共に開いていくことがわかった。気づいたら全部話していた。母と姉が亡くなったこと、母は自分たちに何か隠し事をしていたこと、今の自分には生きる意味がないこと、ずっと苦しかったこと。もう、全部忘れたいこと。


 子供にこんなに話していいのかと思ったが、口が止まらなかった。全部吐き出したかった。話し終えると永海はありがとうと言って手を離した。そこに入り口から受付にいたもう一人の男が入ってきた。院長はその男に向かって言った。


「神手君、今日は残業だね。」



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