捧げる男
「神手君、今日は残業だね。」
院長が感情の読めない瞳でこちらを向いて言った。
昨日も残業だったのに…。残業についてこちらに拒否権はこちらにはないし、患者の虚な目を見たらやらないわけにはいかないと感じた。
院長は受付業務を終えた斎藤さんを呼び出して患者を治療室に連れていった。
「連日残業で申し訳ないが、こんな大金を積まれてはね…。」
院長は苦笑いしながら患者の説明を始めた。金に弱い医者だ。
「患者の名前は…」
院長の説明によると患者の名前は矢上 光。30歳。彼の両親は彼が物心つく前に離婚し、身寄りのない母親のもとで育った。母は平日は一日中働いていたが、彼はシングルの家庭を寂しいと思ったことはなかった。土日のどちらかは必ず休みを取ってどこか遊びに連れていってくれたし、平日だって彼が家を出る時と帰ってくる時には一度母は仕事から帰ってきてくれたからだ。パワフルでよく喋る人だったので彼の家はよその家庭に負けないくらい賑やかだった。
しかし、そんな生活は長くは続かなかった。彼が高校一年生の時、母は何の前兆もなく帰らぬ人となった。交通事故だった。母が帰って来るはずだった朝方に警察が理解できない現実を告げにきた。
彼には二つ上の姉がいた。母が死んだ時は1日中ひどい嗚咽を出し続け、感情を全て出し尽くしてからは急に抜け殻のようになってしまった。姉は苦労している母に楽をさせてあげるのが自分の使命だと頭が良かったので、アルバイトと勉強漬けの日々を過ごしながら、地方では一番有名な国公立大学を目指していた。しかし、彼女の原動力であった母は突然いなくなってしまった。母がいなくなった世界では勉強しても、働いても、朝ごはんを食べても、明日を迎えても何も意味がないのだ。姉弟の仲は良かったが、母の存在があまりにも大きかった。今まで全くなかった喧嘩が毎日のように起こるようになった。
彼らは形上、会ったこともない母の兄に引き取られることになった。赤の他人に引き取られたところでお互いあまり関わろうとしなかったので、姉弟は母の遺産で何とか二人で暮らしていた。高校へは二人とも行かなくなった。そんなある日、彼が家で求人広告を見ていると、何か重たいドンという音と中年女性の鋭い悲鳴が家の前の道路から聞こえてきた。そこには痩せ細った姉の姿があった。額から黒い血を流していた。
その時の感情は何とも言い表せない。絶望と衝撃、どうして神様は自分から大切なものを奪っていくばかりなのだろうかという疑問が混ざったゲロのような感覚だった。幸い姉は死ななかった。しかし、重い後遺症が残って介護が必要になった。彼女は歩行が困難になり、呂律も回りづらくなってしまった。
彼はそんな姉を助けようと鳶職をしながら姉を介護するようになった。考え直せば他に生き方の選択肢があっただろうが、母だったらそうしたと思って姉を世話することにした。仕事場の人たちは昔ヤンチャをしていたような人たちが多かった。割と真面目な自分とは本来合わなそうだったが、事情を知って暖かく迎えてくれた。仕事もあとは任せろと言われ、早めに帰らせてもらうことが多かった。
そうやって何とか生きていく生活を続けて10年ほど経ったある日、彼を破壊する出来事があった。




