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今日は残業です

 人通りが早起きの老人か眠れなかったように視点が空気に向いていて何も見ていないであろう見える若い男だけである年季のある商店街通りを抜けようとしたところで突き当たりのパン屋の裏に無機質なコンクリートの壁が見える。あれが自分の職場だ。


 大通りを渡ってパン屋の横の小道を通り、一階の入り口の自動ドアから入る。いつもは病院とパン屋の隙間を通る必要があるスタッフ専用口から入るが、今日は受付の斎藤さんがだったので、誰よりも早くきて自動ドアを開けたのだろう。


 外は寒いのでやる気のない自動ドアが開ききる前に中に駆け込んだ。正面の受付にはやはり斎藤さんがいて、熟年のスマイルで挨拶をされた。

「おはようございます。今日も寒いですねぇ。私、今日なんか寒いなと思って起きたら冷房つけて寝てたのよ。歳よねぇ。ほんと困っちゃう。」

 この手のおばさんはなぜか話しやすいから嫌いではない。


 斎藤さんは今は50歳あたりで早くに夫を亡くし、女手一つで高校生と大学生の息子二人を育てているらしい。長男がもうじき就職するらしく肩の荷が軽くなると嬉しそうに話していた。彼女は元々この病院の患者だったらしい。夫を亡くした時にかなり酷めの鬱病を発症し、親族に半ば無理やり連れてこられた。そこでここの院長が当時実験段階だったあの治療を行い、それがうまくいったらしい。恩があるから、と今の病院で働くことにしたらしい。


 午前中は特に変化のないいつも通りの平和な診察だった。精神科で平和?と思う人が世間一般には多いだろうが、世の中の精神科の患者は意外と大人しいというか普通に見える人が多く、病院も荒れていないことが多いのだ。精神病を患っていても周りからは分かりにくいというのが非常に厄介だ。

 

 昼休憩は近くのコンビニで買った惣菜パンで済ませ、午後も普通になんの変化もない日常が過ぎていった。パソコン業務ばかりで多少退屈だが。就業時間の18時の間際に一人の痩せほそり無精髭を生やした若い男性がやけに膨らんだ革製のシワがついたバッグを抱えて受付にとぼとぼ歩いてきた。


「あのー、記憶が消せるって聞いたんですけど…。」

 吐いた息に掠れ声が乗っただけのような消え入りそうな声で尋ねてきた。他の患者に聞かれるのは多少まずいが、ここはあくまで精神病院なので病気で変な妄想をしているだけだと思われるので都合が良い。斎藤さんが患者を宥めるように、


「順番にお呼びしますので。保険証をお願いします。」

 そう言われて患者は大人しく待合の席の端に座った。


 その後彼の順番が来て病室に入っていった。彼は後回しにされていたので最後に呼ばれた。彼が病室に入って1時間ほど、かなり長い時間が経った後、アナウンスで

「神手さん、診察室へ来てください。」

 

 と患者を呼ぶような感じで呼ばれた。病室にむかい、木目調のドアを横へスライドして開けるとそこには先ほどの男と院長が丸い木製のテーブルを向いに座ってた。精神病院の診察室は患者にプレッシャーを与えないために観葉植物だとかカフェのような柔らかい椅子だとか病院らしくないものが多いのだ。テーブルの上には一千万円ほどの札束が裸のまま置かれていた。男は泣いた後のような腫れた目をして俯いていた。そして院長が言った。


「神手君、今日は残業だね。」

 

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