働く男
人は十代のうちに得られなかったものを一生かけて追い求め続けるという。自分が求めていたものはなんだったのだろうか。どこかで失ったもの、いや、手放したもの。この固くなった身を包んで温かく、ほぐしてくれるもの。息が深くなり、こんな自分でもこの世で生きていていい場所があるんだという実感。それを、一言で表すなら、無償の愛とでも言おうか。
いつものように乗り換え駅のあるような都会から少し離れたシャッター街のはずれにあるやや古めで清潔でも不潔でもなさそうなこじんまりとした精神病院を目指していまだにサイズが合わないのか履き慣れていないのかわからないが革靴を靴擦れしないように慎重に歩いている。昨日は残業だったこともあり、睡眠不足のストレスからかえって鋭敏になった五感が気分を静かに高揚させるような初冬の冷たい空気を厚みのない撫で肩で切る。
世の中には仕事が嫌いな人間と好きな人間がいる。労働とはなんだろうか。古代ギリシャでは労働は奴隷がするもので上流階級の人間は学を深めたり、政治をする、戦争に参加することが生活の幹出会った。であれば、全人類は労働が嫌いなはずである。しかし、現在では労働なしには生活ができないような世界である。労働が義務なのであれば、楽しんだ方がいいのだろう。とは言いつつも、自分は労働があまり好きではない。大嫌いとまではいかない。労働をすることで他人から認めてもらえるような気がしたからだ。小さい頃に失敗するたびに親から叱られたことが影響しているのか、競争や成功かはっきりするものは大嫌いだ。
小学校のとき、テストで悪い点数を取るたびにヒステリックを起こした母親に言われた「どうしてできないの」のセリフのときの失望していることがあまりにも感じられる潤みつつも光のない瞳、上擦った声が段々低く独り言のようになる様子、気まずそうに少し離れたテーブルで一人晩ごはんを食べる父、他に逃げ場がないかのように外には光がないことを教えてくる闇を映すガラス窓。全てが嫌な光景だった。
勉強のできない自分は医者ではなく、今の病院では受付をやっている。特に精神科の受付は今まで幾千もの手強い患者を相手してきたであろう逞しいおばさんか気の強そうな若い女性が多い印象があるが、自分は週1程度の特別業務を任されることを条件に雇ってもらっている。受付といっても元々患者が多い病院ではないし、他の受付係には先ほど言ったような屈強な女性陣しかいないので座っているだけで終わる日がほとんどだ。早速特別業務とは何かと疑問を持たれる方もいると思うのでが、説明すると長いので一言で表そうと思う。
それは、記憶を消す仕事だ。




