極道と桃色
何中はソファから飛び起きた。
脳裏には、自分の身体が爆発し粉々になる光景と、あの言葉が繰り返し浮かんでいた。
「その優雅な猿には気をつけろよ!」
額から汗が噴き出し、衣服はすでに汗で濡れきっていた。
――滴答。
その音に導かれるように、何中は顔を向けた。
「ああ――!」
何中は恐怖に突き落とされ、ソファから転げ落ちた。
左の掌は生々しく切り落とされ、耐えがたい痛みが神経を駆け抜ける。
「目を覚ましたか。」
吉田の優雅な声が響く。
手には何中の掌を、もう一方には血の滴る短剣を持っていた。
――シュッ!シュッ!
吉田は素早く二本の指を切り取り、片方を山崎の酒杯に、もう片方をホルマリンの瓶に沈めた。
その光景を目にした瞬間、何中の胸に怒りの炎が燃え上がった。
「てめぇ……!」
激痛に耐えながら立ち上がり、吉田へ拳を振り下ろす。
しかし拳が吉田の衣に触れる前に、彼は短剣を優雅に翻し、何中の動きを止めた。
「怒るのは当然だ。だが、私の大口客はもっと怒っている。」
血に濡れた刃先が、頸動脈まであと数センチに迫る。
「猿の頭をぶち砕いてやる……」
何中は焰龍を呼び覚まそうと、刃へ自ら飛び込んだ。
瞬間、頸動脈が裂け、大量の血が扇状に噴き出した。
意識が震えながら遠のく――だが、蒸気は立ち昇らなかった。
「時龍・空間転移。」
吉田が龍法語を唱える。
――ドンッ!
何中の身体は壁際へと吹き飛ばされ、吉田の腕がその首を掴む。
掴んだ腕から青銅の鱗甲が隆起し、銅の錆が蠢きながら頸動脈の裂け目を修復していく。
「龍血にはクールタイムがある。次に無駄遣いしたら、この短剣で虫の標本にしてやるぞ。」
意識を取り戻しかけた何中が、朦朧とした瞳で見下ろすと――
眼鏡のレンズの奥には、半人半龍の鱗に覆われた吉田の瞳孔が光っていた。
【相撲……】
その言葉は、吉田の手に喉を締め上げられ、途切れた。
【お前はまだ簡単には死ねない。なぜなら唯一、質は低いが龍血を覚醒できた実験容器だからだ。】
吉田は何中をソファに放り投げた。
柔らかい弾力が衝撃を和らげるが、それでも何中は床に転がり落ちる。
【今のお前の価値は、私に資金を供給することだ。闇の拳闘で稼いだ金こそが、お前の生き延びる希望になる。】
吉田は側に回り込み、何中の腹を蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
悲鳴とともに激痛が走る。
しかし頸の大裂傷はすぐに回復し、割れ痕だけが残った。
【やれやれ、容器体を育てるのは骨が折れるな。】
さらにもう一蹴り。鱗が青銅色に輝いた。
「クソ猿……殺されるのが怖くねえのか?」
何中の瞳には怒気が宿り、焰龍の赤き瞳孔が浮かぶが、解放には至らない。
「殺す? 馬鹿なことを言うな。お前の中の龍血は、すでに完全に私が抑えているのだ。」
吉田は半面に嘲笑を浮かべ、口角を耳元まで吊り上げた。
その顔を見た何中は、焰龍の笑みを思い出し、嫌悪感に身を震わせる。
「仮に龍血を暴走させても、私は確実に仕留める。」
「信じられぬなら……まあ、口喧嘩する必要もないな。」
吉田はしゃがみ込み、何中の頬を軽く叩いた。
右手の甲には青銅の龍紋が浮かび上がる。
「お前は『共生』。だが私は『半生』だ。」
吉田は何中の背を踏みつけ、灰黒色の髪を鷲掴みにした。
「ここに監視カメラはあるか?」
何中の荒い口調を真似しながら、吉田が吐き捨てる。
脳裏に成田空港で殴り合った不良たちの顔が一瞬よぎる。
「俺を監視していたのか?」
「フン! お前が入国ロビーに足を踏み入れた瞬間から、ずっと監視対象だったのさ。
昨夜、刺客を始末した映像まで残っている。……王を名乗るとは笑わせる!」
吉田は何中を放り捨て、机上の酒杯を掴み、一気に飲み干した。
指ごと、喉に流し込む。
「はあ……龍力が一気に満ちたな!」
身なりを整え、椅子に腰を下ろし、匕首を弄ぶ。
「なあ、妙に私に恐怖を感じることはないか?」
何中は怒りを押し殺し、沈黙を保つ。
「黙っているのは、やはり恐怖しているからだな!」
それでも何中は答えない。
「そうか。まあ当然だ。お前の安っぽい龍血が、私の高貴な龍血に圧されるのは仕方のないこと。王を名乗るなど――」
言葉は途中で遮られた。
酒杯が吉田の顔面に叩きつけられたのだ。
ガシャッ!
杯は粉々に砕け、破片が床に散らばる。
だが吉田の顔には傷一つ残っていない。
代わりに何中の鼻から血が噴き出していた。
「身の程知らずが! 成長しろ、何中!」
(※傷害転移は吉田の龍法によるもの)
吉田は再び人の姿へ戻った。
【遊びはここまでだ。お前には仕事をしてもらう。】
匕首を何中の肩へ突き刺す。
鋭い刃は鎖骨を断ち切り、歯を噛み締めても呻き声が漏れる。
「昨日、刺客を差し向けた頭目を消せ。
鉄心一家――不動院・鉄心だ。」
そのまま手のひらで鼻梁を叩き折った。
――パキッ。
「創傷は応急処置しておいた。……仲間たちも到着しているだろう。」
吉田はホルマリン瓶を抱え上げる。
温かな灯りが緑色の液を透かし、浮かぶ中指と、ほとんど透明なガラス面に刻まれた一文字を照らし出す。
「梁!」
それを見た何中は衝撃を受けた。
(梁田……あいつのことか?)
心中で呟くと、吉田は扉口で振り返った。
「そうだ、ようこそ『龍組織』へ。……これから客に詫びを入れに行く。」
時計を確認し、ドアを開けると、井田と麗子がすでに待っていた。
「おや! ずいぶん前から待っていたのか。さあ、作戦会議を始めよう!」
吉田は優雅な紳士の礼をして去る。
だが井田と麗子は彼を無視して通り過ぎた。
吉田の背中を見送りながら、何中は苛立ちを隠せない。
――やつは芝居がかりすぎている。
まるで自分がただの馬鹿に見えるじゃないか。
だが――
「ハハハハ……!」
井田は話を聞き終えると笑い出し、腹を抱えて机を叩く。
ドン!ドン!
「ダメだ……笑いすぎて腹が痛い!」
そんな彼女を見て、何中は後悔するどころか、つい視線を上下に泳がせた。
豊満な胸が揺れる――
「おい、どこ見てんのよ!」
色欲に満ちた視線に気付いた井田は、頭突きを叩き込む。
ゴッ!
骨と骨がぶつかり、何中は目眩を覚える。
「この暴力女……いったい何がしたいんだ! だが……胸がセクシーすぎる……!」
思わず下卑た笑みを浮かべ、印象を大きく落とす。
井田は不良制服を裂き、背中に刻まれた実験番号の痕を晒した。
「笑ってるのは、お前が昔の私と同じくらい愚かだからだ!」
雀斑は稲穂の紋を形作っていた。
だが何中には、それすら“ご褒美”に見えた。
「不良少女の制服……黒ストのスリット旗袍……俺を誘惑してコスプレさせたいのか?」
意識朦朧のまま指差すと、二人はうなずき合い、
――結果、何中は豚のように腫れ上がった。
「なぜ今日、こんなに傷だらけに……」
「お前の口が悪いからだ!」
二人の声が重なった。
「……はいはい。」
何中は苦笑を浮かべる。
「で、作戦計画は?」
「全員が揃ってからだ。」
麗子は脚を組み替えながら答える。
何中は黙り込み、俯いて考え込む。
「吉田はいつも厄介事を押し付けて、自分は余裕ぶるのよ。」
井田が吐き捨てるように言う。
「仕方ない。私たちはあいつの道具にすぎない。利益が対立すれば、私たちに殺しをさせる。そして最後は優雅に称える……」
麗子も脚を組み替え、言葉を続けた。
その大腿に刻まれた蛇の刺青に、何中の視線が釘付けになる。
「だから私はあまり関わりたくないのよ。」
井田は腕を組み、蔑むように言った。
「正しい判断よ。誰かさんみたいに怒りで突っ走り、結局吉田に手玉に取られるよりマシ。」
麗子は意味深に見やりながら口調を強める。
何中は言い返さず、代わりに観察を続ける。
――因龍印。
焰龍の声が脳裏に響く。
【麗子の大腿内側、両側を見ろ。そこに囚龍印があるはずだ。】
確かに、彼女は数分ごとに脚を組み替える癖がある。
その瞬間――
彼女の蛇紋が一瞬、赤く灼き輝いた。
何中の眼球が縦に裂ける。
右目に激痛が走り、「吉田が注射器を持ち、A-10 実験体へ薬液を注ぐ」映像が脳裏をよぎった。
麗子の大腿深部、左側には――
【A-10】
淡い紅色の刻印が浮かんでいた。
――シュッ!
麗子の蹴りが襲いかかる。
本能で腕を交差させて受け止める。
「目か舌か……どちらかを失う覚悟をしなさい。」
麗子の艶やかな声は、挑発的に響く。
「……お前も父親と同じく下劣ね!」
彼女が声を荒げようとした時――
コン、コン。
ノックの音が部屋に響いた。
麗子は察して脚を収め、扉へ向かった。




