第39話 プロジェクト・リフト:予算1000万円
B級ダンジョンでの初勝利と、ネファレム・リフトという新たな世界の理の発見。その、あまりにも濃密だった週末から数日が経過した、水曜日の夜。
佐藤健司(35)は、自らの城であり、今やギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の本部と化したタワーマンションのリビングで、信じられない光景を目の当たりにしていた。
(…なんだ、これは…)
彼の、その完璧なミニマリスト思想に基づいて設計されたはずの、広大で、そしてどこまでも生活感のなかった空間。
それが今や、彼の理解を完全に超えた、メルヘンチックな何かに、侵食されつつあった。
イタリア製の高級革張りソファの上には、なぜか手編みの、小さなレースのクッションが置かれている。床から天井まで続く巨大な窓ガラスには、可愛らしい肉球の形をしたジェルシールが、いくつも貼り付けられていた。
そして何よりも、彼の聖域であったはずのフィギュア棚の、そのすぐ隣。
そこに、四つの、あまりにも場違いな「祭壇」が、築かれていたのだ。
ピンク色の、ふわふわとした布が敷かれた小さな台の上には、小さな水の皿と、手作りの、不格好な虫のおもちゃが供えられている。
その四つの祭壇の前で、三人の少女たちが、まるで我が子を見守る母親のように、その優しい眼差しを注いでいた。
「ケロちゃん、今日のご飯は、F級ダンジョンで採れたてのコガネムシさんですよー」
天野陽奈が、その透き通るような声で、自らの肩の上でけろけろと鳴く、緑色のカエルの霊体に、語りかけている。
「ケロキチ!あんた、好き嫌いしないの!ちゃんと食べなさいよね!」
星野輝が、その隣で、自らのカエルの霊体…なぜか「ケロキチ」と名付けられたらしいそのペットの頭を、愛情のこもった、しかしどこか乱暴な手つきで、撫でていた。
「ケロ……」
兎月りんごは、何も語らない。ただ、自らのカエルの霊体と、無言で、そしてどこまでも真剣に、見つめ合っていた。彼女たちの間には、もはや言葉は不要な、魂の対話が成立しているようだった。
そして、健司の肩の上。
彼が、その場のノリと勢いで交換してしまった、名もなきカエルの霊体が、きょとんとした顔で、その光景を眺めていた。
その、あまりにも平和で、そしてどこまでもシュールな光景。
それに、仕事から帰宅したばかりの健司は、ただ玄関で立ち尽くすことしかできなかった。
彼の、サラリーマンとしてのHPは、すでにゼロだった。
「あ、健司さん!おかえりなさい!」
最初に、その主の帰還に気づいたのは、陽奈だった。
彼女は、満面の笑顔で、こちらへと駆け寄ってくる。
「見てください!私達の、ケロちゃんたちのお家です!可愛いでしょ?」
その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも悪意のない一言。
それに、健司は深いため息を吐いた。
「…陽奈。それは、霊体だ。飯も、家も、いらない」
「えー、でも、あった方が嬉しいじゃないですか!」
「そうだよ、ボス!」
輝もまた、その会話に割り込んできた。
「愛だよ、愛!あんたには、分かんないかもしれないけど!」
その、あまりにも正論な、そしてどこまでも彼の心を抉る、二方向からの集中砲火。
それに、健司はもはや、何も言い返すことはできなかった。
彼は、その日会社で受けた、理不尽なクレームの数々を思い出し、そして目の前の、このあまりにも平和な理不尽を、ただ受け入れるしかなかった。
◇
その夜の、夕食後。
リビングの巨大なローテーブルを囲み、彼らの新たな、そして最も面倒くさい「プロジェクト会議」が、始まった。
議題は、ただ一つ。
「今後の、ネファレム・リフト攻略について」。
口火を切ったのは、やはりこのギルドの、事実上の最高経営責任者、星野輝だった。
「――というわけで、ボス!」
彼女は、ARウィンドウに、SeekerNetのペット交換リストを、きらびやかなエフェクト付きで表示させた。
「あたしたち、いつまでもカエルのままじゃ、いられないわけ!やっぱ、目指すは、JOKERと同じ、九尾の狐っしょ!」
「わ、私も…」
陽奈が、その隣で、頬を赤らめながら、続く。
「あ、あの…。九尾の狐さんが、無理なのは分かってますけど…。でも、せめて、月の兎さんとか…」
「あたしは、ドラゴンがいいなー!」
りんごが、その会話に、どこまでもマイペースに、そしてどこまでも壮大な夢を、付け加えた。
その、あまりにも暴力的で、そしてどこまでも乙女チックな、欲望の奔流。
それに、健司は、こめかみを押さえた。
「…お前らな。あれが、何ポイント必要か、分かってんのか?1800ポイントだぞ。俺たちが、昨日手に入れたのは、たった1ポイントだ。単純計算で、あと1799回、あのリフトをクリアしなきゃならん。何年かかると思ってんだ」
「だから、B級に行くんでしょ!」
輝が、そのあまりにも真っ当な正論を、さらに大きな正論で、叩き潰した。
「B級のボスなら、要石が2分の1でドロップする!あれを、ひたすら周回して、ポイントを稼ぐ!それしか、道はない!」
「馬鹿を言え」
健司は、即答した。
「B級を周回するなど、今の我々の戦力では無謀すぎる。一度クリアできたのは、運が良かっただけだ。事故が起きたら、どうするんだ」
彼の、中間管理職として培ってきたリスク管理能力が、全力でその危険な提案を、拒絶していた。
だが、その彼の、あまりにも堅実な、そしてどこまでも正しい判断。
それを、輝は、まるで予測していたかのように、あっさりと、そして無慈悲に、覆した。
彼女は、そのARウィンドウの表示を、切り替えた。
次に表示されたのは、一つの、完璧な円グラフと、緻密な計算式で構成された、美しいプレゼンテーション資料だった。
タイトルは、『プロジェクト・リフト:費用対効果とリスク分析』。
「ボス、あたしは別に、今すぐB級を周回しろなんて、脳筋なこと言ってるわけじゃないよ」
彼女の声は、もはやただのギャルではない。
一つの巨大なプロジェクトを動かす、冷徹なCFO(最高財務責任者)の、それだった。
「ボスが、リスクを嫌うのは分かってる。だから、あたしからの提案は、これ」
彼女は、そのプレゼン資料の一点を、指し示した。
「――要石を、経費で買おうか」
「……………は?」
健司の、思考が、完全に停止した。
輝は、その動揺を意にも介さず、続けた。
「今、マーケットでの要石の相場は、大体1個10万円。あたしたちのギルドの口座には、グランプリの賞金とスポンサー契約料で、まだ8000万円近く残ってる。その中から、1000万円分くらい、要石の購入予算として、拠出することを提案します!」
その、あまりにも大胆不敵な、そしてどこまでも資本主義的な提案。
それに、健司は我に返った。
「待て、待て、待て!1000万だと!?そんな大金、ただの石ころのために使えるか!却下だ、却下!」
「まあ、そう言うと思った」
輝は、ニヤリと笑った。
そして彼女は、この中間管理職を説得するための、最後の、そして最も効果的な魔法の言葉を、口にした。
それは、彼が最も愛し、そして最も逆らえない、「合理的」という名の悪魔の囁きだった。
「ボス、よく聞いて?これは、ただの消費じゃない。投資だよ」
彼女は、ARウィンドウに、新たなデータを表示させた。それは、「夢魘の紋章」の取引ログだった。
「見ての通り、ナイトメア・リフトの報酬次第では、一回のリフトで数百万、いや数千万円の利益が生まれる可能性がある。もちろん、ハズレもあるけどさ」
「仮に、あたしたちが購入した100個の要石でリフトを100周したとして。そのうち、たった一回でも、『大量の魔石』が報酬の紋章を引けたとする。その市場価格は、今、大体700万から800万で安定してる」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、その美しい顔に、最高の、そして最も悪魔的な笑みを浮かべた。
「つまり、実質の損失は、250万円と、私達の時間くらいってこと。その程度のリスクで、1800ポイントの九尾の狐や、もしかしたら1000万円の価値を持つレジェンダリージェムが手に入るかもしれない。…この、費用対効果。ボスなら、分かるよね?」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、その沈黙を破ったのは、健司の、心の底からの、魂の叫びだった。
(――完璧な、プレゼンだ…)
彼は、完全に、論破された。
その、あまりにも美しく、そしてどこまでも合理的な説得。
それに、彼の、サラリーマンとしての魂が、完全にひれ伏した。
彼は、その場の、他のメンバーへと、その視線を向けた。
だが、その視線の先で。
陽奈と、りんごは、すでにその大きな瞳を、これ以上ないほどキラキラと輝かせ、輝の提案に、完全に同意していた。
「すごい…!輝ちゃん、頭良い!」
「あたしも、それに賛成ー!」
賛成、多数。
いや、満場一致。
健司は、その場で、深く、そして重いため息を吐いた。
そして彼は、観念したように、その言葉を口にした。
その声は、これから始まる地獄を予感した、死刑囚のようだった。
「……はぁ。分かった、分かったよ」
「ただし、1000万円だけな!」
彼は、その中間管理職としての、最後の抵抗を、試みた。
「**あと、リフトで出たドロップは、全部売却して、この損失を埋めるぞ!**いいな!?」
その、あまりにも切実な、そしてどこまでも哀れな魂の叫び。
それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。
そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で、その最高のボスへと、敬礼した。
「「「はーい!」」」
その日、ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の、新たな、そして最も無謀なプロジェクトが、可決された。
その、あまりにも騒がしく、そしてどこまでも面倒くさい冒険の始まりを。
健司は、ただ、そのキリキリと痛む胃を、さすることしかできなかった。
レジェンダリージェム例
絶望せし者の残響 (Echo of the Despairing)
[画像:内部に、苦悶に満ちた無数の顔が浮かび上がる、ひび割れた灰色の宝石。耳を澄ますと、遠い絶望のため息が聞こえてくるようだ。]
レアリティ: 伝説の宝石(Legendary Gem)
効果:
移動速度が低下している敵、または行動阻害効果を受けている敵に対する、あなたの全てのダメージが 10% 増加する。(ランクごとに+0.4% / ランク100で50%)
この宝石は、指輪(Ring)または首輪(Amulet)のソケットにのみ、はめ込むことができる。
同じ名前の伝説の宝石を複数装備しても、その効果は重複しない。
ランク25ボーナス:
15メートル以内にいる敵の移動速度を30%低下させるオーラを展開する。
フレーバーテキスト:
足掻けば足掻くほど、鎖は固く、闇は深くなる。
我らの絶望は、お前の力となるだろう。
お前が敵を討つたび、その亡骸の耳元で、我らが最後の嘆きが、静かに木霊するのだ。
[画像:手のひらに収まるほどの大きさの、まるで夜空の闇をそのまま切り取って固めたかのような、禍々しい紫色の石板。その表面には、見る者の精神を蝕むかのような、絶え間なく形を変える不可解な紋様が、血管のように脈打っている。]
名前:
夢魘の紋章
(Sigil of Nightmare)
レアリティ:
特殊 / フラグメント (Special / Fragment)
種別:
キーアイテム / リフトの紋章 (Key Item / Rift Sigil)
効果テキスト:
高ランクのネファレム・リフトで、ごく稀に発見される古代の石板。
オベリスクにて、試練の要石と共に捧げることで、ネファレム・リフトを、より危険で、より報酬の多い「ナイトメア・リフト」へと変質させることができる。
紋章には、そのリフトに課せられる、いくつかの「悪夢の詞」がランダムに刻まれている。
・このアイテムのナイトメア・アフィックスは「ランダム」である
(ランダムにデバフが付与される。HP自動回復が0になるや敵を倒すと氷の爆発物を残すクリティカル率が0になるなど)
・このアイテムの報酬は「ナイトメア・リフトクリア時にランダムを得る」である
(ランダムに報酬が付与される神のオーブ(250億円で売れる)や高貴のオーブ(2000万円で売れる)や大量の魔石(1000万円分)やレベルアップ1分の経験値(3000万円で売れる)など)
このアイテムは、使用すると消費される。
フレーバーテキスト:
賢者は、この石板を市場で売り、確実な富を手にするだろう。
だが、真に賢い者は知っている。
最も価値のある宝とは、安全な取引の先にあるのではなく、
自らが乗り越えた、悪夢の深淵の底にこそ眠っているのだということを。
さあ、お前はどちらの賢者だ?




