第32話 祝杯と、新たな世界のルール
土曜日の夜。
新宿の夜景を一望する、超高層ビルの48階。その一角に、その店はあった。
完全個室の、最高級焼肉店。磨き上げられた黒檀のテーブル、柔らかな間接照明に照らされた落ち着いた内装、そして窓の外に広がる宝石箱のような光の海。一杯数千円はするというワインがずらりと並ぶセラーを横目に、佐藤健司(35)は、そのあまりにも場違いな空間に、わずかな目眩を覚えていた。
「うおおおおおお!見て、陽奈ちゃん、りんごちゃん!A5ランクの特上カルビだって!一枚2000円!ヤバくない!?」
彼の、そのサラリーマンとしてのささやかな憂鬱を、一つのあまりにも明るい声が、無慈悲に吹き飛ばした。
声の主は、星野輝だった。
彼女は、その大きな瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせ、メニュー表の最も高価なページを、恍惚とした表情で指さしている。
「すごい…!お肉が、光って見えます…!」
陽奈もまた、その隣で、自分のことのように嬉しそうに、感嘆の声を上げていた。
「あたし、このタン塩10人前!」
りんごは、すでに戦う前から勝利を確信したかのように、高らかに注文を宣言した。
その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも遠慮のない少女たちの姿。
それに、健司は深いため息をつくと、その手に持っていたメニューを、静かにテーブルの上に置いた。
そして彼は、その場の空気を支配する、絶対的な権力者として、そしてこの宴の唯一のスポンサーとして、その重い口を開いた。
その声は、どこまでも、優しかった。
「――好きなだけ、食え」
その、あまりにも太っ腹な、そしてどこまでも父親のような一言。
それに、三人の少女たちの顔が、ぱっと輝いた。
「「「やったー!」」」
その、あまりにも息の合った、そしてどこまでも無邪気な歓声。
そして、そのテーブルの隅で、ピンク色のタコ…フロンティア君が、少しだけ寂しそうに、しかしどこまでも誇らしげに、その光景を見守っていた。
「僕は、食べられないのが残念だッピ…」
「だが、これも全て、君たちの輝かしい勝利の成果だッピ!今日は、思う存分祝うといいッピ!」
その、あまりにも温かい、そしてどこまでも平和な祝勝会。
それが、唐突に、一つのビジネスミーティングへとその姿を変えたのは、最高級の霜降り肉が、テーブルの中央に置かれた無煙ロースターの上で、じゅうじゅうと香ばしい音を立て始めた、まさにその時だった。
口火を切ったのは、フロンティア君だった。
彼は、そのピンク色の体をきりりと引き締めると、ARウィンドウに、一つの完璧な見積書を、ホログラムとして投影した。
「さて、健司!祝杯もいいが、次のプロジェクトの話をするッピ!」
その、あまりにも空気が読めない、しかしどこまでも有能な秘書のような一言。
それに、健司は眉をひそめた。
「…今、それ言うか?」
「当たり前だッピ!君は、もうただのサラリーマンじゃないッピ!賞金1億円を手にした、ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の、マスターなんだッピよ!次の投資計画を立てるのは、当然の責務だッピ!」
フロンティア君は、その見積書を指し示した。
そこには、B級で戦うための、最低限の装備一式のリストと、その驚くべき合計金額が、記されていた。
「**1000万円で、全員分の装備を買う準備はできているッピ!**これだけあれば、B級で戦うための、最低限のラインには立てるはずだッピ!」
「**しばらくは、B級でお金稼ぎッピね!**それが、最も合理的で、そして効率的な選択だッピ!」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも有無を言わさぬ提案。
それに、輝が、その口の周りをタレで汚しながら、異を唱えた。
「えー、でもさー、B級って、C級よりドロップ渋いって聞くじゃん?無理して行く意味、あんの?」
その、あまりにも素朴な、しかしどこまでも本質を突いた疑問。
それに答えたのは、健司ではなかった。
フロンティア君だった。
彼は、その大きな瞳をキラキラと輝かせ、この世界の、新たな「常識」を、その無知な少女(と、その隣で同じように首を傾げている中年)に、叩き込んだ。
「輝は、まだ何も分かっていないッピ!」
彼は、ARウィンドウの映像を切り替える。
次に表示されたのは、薄暗い洞窟の中、まるで水面のように銀色に揺らめく、不気味な鏡の映像だった。
「B級からは、新たな『ボーナスステージ』が解禁されるッピ!その名も、デリリウムだッピ!」
「デリリウム?なんだ、それ」
健司が、思わず呟く。
「えー、知らないのッピ?」
フロンティア君は、心底呆れたように言った。
「**デリリウムっていうのは、B級以上のダンジョンで、ごく稀に出現する特殊なギミックだッピ!**入り口にある、この鏡に触れると、ダンジョン全体が、禍々しい霧に包まれるッピ!」
「霧の中を急いで敵を倒して、最後にそれまでのドロップが、全部強化されてドロップするのだッピ!」
「そして、その報酬の中に、ごく稀に、とんでもないお宝が混じっていることがあるッピ!」
彼は、ウィンドウに、一つの巨大な、そしてどこまでも禍々しいジュエルの画像を映し出した。
「その中に、パッシブツリーを拡張する【クラスタージュエル】ってのがあれば、大当たり!」
「最低でも千万円からスタートの、パッシブツリー拡張ジュエルだよッピ!」
その、あまりにも甘美な、そしてどこまでもギャンブル心をくすぐる響き。
それに、輝の瞳が、ギラリと輝いた。
「…マジで?それ、ヤバくない?」
「そうだッピ!これこそが、B級の、本当の『うまみ』だッピ!」
「他にも、B級からは色々なギミックが解禁されるから、ちゃんと勉強した方が良いですよ」
それまで黙って肉を焼いていた陽奈が、その小さな口で、的確な助言を口にした。
その、あまりにも正論な一言。
それに、健司はぐうの音も出なかった。
「うーん、一度勉強してみるか…」
彼は、そのあまりの情報の奔流に、少しだけ目眩を覚えながら、呟いた。
「そうだッピ!」
フロンティア君は、満足げに頷いた。
「**パーティーとしては、B級でも大丈夫だけど、ソロではB級はつらいと思うッピ!**健司は、まだレベルも低いし、装備もC級のままだからなッピ!」
「**ソロの時は、C級に落として周回ッピね!**それが、最も安全で、そして効率的な選択だッピ!」
「そだね」
輝が、その言葉に同意するように、頷いた。
「**C級まではエッセンスも出やすいけど、B級からは一気に見かけなくなるし、**正直、金策だけならC級の方が安定してるまであるよね」
「実際、C級で稼ぎとしては充分なんだよね」
陽奈もまた、その分析に同意する。
「ソロは、基本的に戦力不足だしねー」
りんごが、その会話に、どこまでもマイペースな相槌を打った。
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも合理的な少女たちの分析。
それに、健司はただ感心するしかなかった。
(…こいつら、いつの間に、こんなに詳しくなったんだ…)
彼は、その成長を、どこか誇らしく、そして少しだけ寂しく、感じていた。
「そうだッピ!」
フロンティア君は、最後の、そして最も重要な情報を、付け加えた。
「宿命のカードも、美味しいよッピ!」
「どこからでもドロップする【神への挑戦権】は、5枚で神のオーブ1個と交換できるッピ!まあ、これは出ること自体珍しいから、期待しないで良いかなッピ!」
「でも、**1枚2万円で売れる【虚空】は、そこそこ美味しいし、**良いカードが出る場所を狙って、ターゲットファーミングする手もあるッピ!」
そして彼は、その長い、長いプレゼンテーションを、最高の笑顔で締めくくった。
「基本的に、ソロはみんな好きな事して良いと思うなーッピ!」
その、あまりにも自由な、そしてどこまでもプレイヤーに寄り添った結論。
それに、健司はふっと、その口元を緩ませた。
そうだ。
この世界は、確かに過酷だ。
だが、同時に、どこまでも自由で、そしてどこまでも面白い。
彼は、その網の上でじゅうじゅうと音を立てる、最高級のカルビを、一枚、ひっくり返した。
そして彼は、その最高の仲間たちに、そして自らの、新たな人生に、乾杯するように、言った。
その声は、どこまでも、楽しそうだった。
「――まあ、何でもいい。とりあえず、食うぞ」
「「「はーい!」」」
彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」は、また一つ、その面倒くささの、そしてそれ以上に大きな、楽しさのステージを、上げたのだった。




