第3話 フロンティア君
F級ダンジョン【ゴブリンの巣】。
その名は、探索者という存在が生まれて以来、無数の若者たちの最初の「壁」となり、そして最初の「夢」の舞台となってきた、あまりにも有名な場所。
ひんやりとした湿った土の匂い。壁一面に自生する発光苔が放つ、ぼんやりとした青白い光。天井から滴り落ちる水滴が、不規則なリズムを刻み、静寂を際立たせる。
佐藤健司、35歳。彼は、そのあまりにもゲーム的な、そしてどこか陳腐ですらある光景を前にして、深く、そして重いため息をついた。
(…はぁ。マジで、来ちまったよ)
彼の足元には、先ほどまでいたはずの現実世界の喧騒はない。ただ、異世界の冷たい空気だけが、彼の履き慣れたビジネスシューズの革を、静かに撫でていた。
彼の周囲は、混沌としていた。
冒険者学校の真新しい制服に身を包んだ、希望に満ち溢れた若者たち。彼らは、これから始まる本当の冒険を前にして、目をキラキラと輝かせ、仲間たちと楽しそうに語り合っている。
「おい、見たかよ!俺のユニークスキル、『少しだけ足が速くなる』!これ、盗賊向きじゃね!?」
「いいなあ!私なんて、『パンを焼くのが少しだけ上手くなる』だよ?完全に、ハズレだよ…」
あるいは、彼と同じように『プラス・アルファ・フロンティア制度』に釣られてやってきたであろう、疲れた顔のサラリーマンたち。彼らは、慣れない手つきでレンタル品の剣を握りしめ、不安そうに顔を見合わせている。
「田中部長、本当に大丈夫でしょうか、これ…」
「馬鹿野郎、部長と呼ぶな。ここでは、俺たちは対等な『冒険者』だ。…それにしても、本当にウォーキングより安全なのかね、ここは…」
そして、そのどちらでもない、手慣れた様子で装備の最終チェックを行う、本物のF級探索者たち。彼らは、このゴールドラッシュに沸く初心者たちを、どこか冷めた、そして値踏みするような目で見つめていた。
(…最悪だ)
佐藤は、心の底からそう思った。
学生の、あの無邪気な熱狂。
サラリーマンたちの、あの哀愁漂う悲壮感。
そして、プロたちの、あの乾いた空気。
その、どのコミュニティにも、自分は属していない。
ただ一人、この場所にいる。
SSS級の、クソスキルを抱えて。
彼が、そのあまりにも居心地の悪い空間から逃れるように、洞窟の奥深くへと、最初の一歩を踏み出した、まさにその時だった。
ポポンッ!という、間の抜けた効果音と共に。
彼の目の前の、何もない空間に、一体の奇妙な生命体が、現れたのだ。
それは、頭に小さな冒険者のヘルメットをかぶった、デフォルメされたピンク色のタコだった。大きさは、バレーボールくらいだろうか。8本の短い足をもにゅもにゅと動かしながら、彼の目の前をふわふわと浮いている。その大きな瞳は、子供向けアニメのキャラクターのように、キラキラと輝いていた。
「――はじめまして、新人冒険者さんだッピ!」
その、あまりにも甲高く、そして元気いっぱいの声。
それに、佐藤の思考が完全にフリーズした。
「僕、フロンティア君だッピ!よろしくッピ!」
フロンティア君と名乗ったそのタコは、器用にその足の一本で敬礼してみせた。
「……………は?」
佐藤の口から、間抜けな声が漏れた。
彼は、自らのARコンタクトレンズの設定を、思い出す。
(…ああ、そういや、あったな。公式ギルドアシスタントとかいう、クソみてえな機能が…)
彼は、その場でAR空間に設定画面を呼び出した。そして、『フロンティア君』の表示項目を、OFFにしようと指をスライドさせる。だが、その項目は灰色に反転しており、操作を受け付けない。
「…おい。なんで、消えねえんだよ」
「それはできない相談だッピ!」
フロンティア君は、彼のその行動を予測していたかのように、元気いっぱいに答えた。
「僕は、君の視界情報をリアルタイムで解析して、最適なアドバイスを提供する最先端ARアシスタントだッピ!全ての新人冒険者の安全な活動をサポートするために、ギルドが開発したんだッピ!だから、強制表示が仕様だッピ!消せないッピよ!」
「…マジかよ」
佐藤は、絶望した。
彼は、最後の望みをかけて、自らのスマートフォンを取り出した。そして、検索エンジンを開き、震える指でキーワードを打ち込んでいく。
『ギルド マスコット 消す方法』
だが、その検索ボタンを押す、その直前。
彼の目の前に、ピンク色のタコが回り込んできた。
その大きな瞳は、潤んでいた。
「――待つッピ!」
その、あまりにも切実な声。
それに、佐藤の指が止まった。
「僕は、すごく役に立つフロンティア君だッピ!」
その声は、震えていた。
「他の冒険者さんたちは、みんな僕をすぐにOFFにしちゃうッピ…。でも、健司だけは、僕とお話してくれるッピ!だから、お願いだッピ!僕を、消さないでほしいッピ…!」
その、あまりにも孤独で、そしてどこまでも健気な魂の叫び。
それに、佐藤の、オタクとして長年培ってきた魂の最も柔らかな部分。
「孤独で、健気で、報われないキャラクターへの、共感」。
それが、無慈悲に抉られた。
「……………」
彼は、深く、そして重いため息をついた。
そして、その伸ばしかけた手を、乱暴に下ろした。
「…ちっ、まあいいか」
彼の口から、諦めの言葉が漏れる。
「分かった、分かったよ。OFFにはしねえ。だから、邪魔するなよ」
その、あまりにも不器用な、しかしどこまでも優しい一言。
それに、フロンティア君のピンク色の体が、ぱああっと、これ以上ないほどの輝きを取り戻した。
「――やったーッピ! ありがとう、健司!君は、最高のマスターだッピ!」
彼は、嬉しそうに佐藤の周りをくるくると飛び回った。
その、あまりにも無邪気な姿。
それに、佐藤は再び、深く、深いため息をつくしかなかった。
◇
「グルル…」
前方の曲がり角の向こうから、低い唸り声が聞こえてきた。
ゴブリンだ。
フロンティア君が、即座に反応する。
「敵性生命体を、検知したッピ!あれは、ゴブリンだッピ!戦闘準備を、推奨するッピ!」
「…うるせえな。分かってるよ」
佐藤は、悪態をつきながら、ギルドショップで5万円をはたいて購入した、新品の長剣を構え直した。安物の鉄パイプではなく、きちんとした「道具」に投資する。それもまた、彼のサラリーマンとしての、ささやかなプライドだった。
角から姿を現したのは、一体の醜い緑色の生命体だった。
その濁った瞳が、佐藤の姿を捉えた瞬間。
「グルアアアッ!」
獣のような叫び声を上げ、その手に持つ粗末な木の棍棒を振りかぶり、一直線に突進してくる。
だが、そのあまりにも単調で、そしてどこまでも愚直な攻撃。
それに、佐藤はもはや何の脅威も感じていなかった。
彼は、その突進を、最小限の動きでひらりとかわす。
そして、そのすれ違いざまに。
がら空きになった、その無防備な背中へと、長剣を、ザシュっと突き刺した。
確かな、手応え。
ゴブリンは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その醜い緑色の体を一瞬で光の粒子へと変え、この世界から完全に消滅した。
そこそこ高い剣だけあって、一撃で倒せるな…。
「…はっ」
彼の口から、乾いた笑いが漏れた。
「ストレス解消に、ちょうどいいな、これ」
理不尽な上司に頭を下げ、終わりのないクレーム対応に追われる日常。
それに比べれば、この、ただ目の前の敵を斬り伏せるだけの単純作業は、あまりにも心地よかった。
「そうだッピ!」
フロンティア君が、その言葉に同意するように、元気いっぱいに言った。
「データによれば、F級ダンジョンでの死亡率は、週末の都心部での交通事故遭遇率よりも低いんだッピ!つまり、ウォーキングより安全なのがF級ダンジョンなんだッピ!」
「…お前、本当に役に立つのかよ」
佐藤が、呆れたように言う。
だが、フロンティア君は、その言葉を最高の褒め言葉と受け取ったようだった。
「もちろんだッピ!」
彼は、胸を張った(ように見えた)。
「とはいえ、今の君の装備では、まだC級以上のダンジョンに挑むのは、無謀だッピ!そこで、僕から最高の提案があるッピ!」
彼はそう言うと、佐藤の視界に、二つのユニークアイテムの情報を、ARウィンドウで表示させた。
アイテム名: 清純の元素
種別: 首輪
レアリティ: ユニーク
効果:
・全耐性 +5%
・最大HP +40
・このアイテムに、Lv10の【元素の盾】スキルが付与される。
・【元素の盾】: 周囲の味方の火、氷、雷属性耐性を+26%するオーラ。
フレーバーテキスト:
王も、英雄も、神々でさえも、
皆、等しく、この小さな光から始まった。
恐れることはない。
その一歩は、祝福されている。
アイテム名: 元素の円環
種別: 指輪
レアリティ: ユニーク
効果:
・スキル【元素の盾】のMP予約コストを、100%減少させる。
(この指輪には、他のいかなる能力も付与されない)
フレーバーテキスト:
清純なる力は、あまりにも気高い。
未熟な魂では、その輝きを受け止めきれぬ。
だが、この円環を介せば話は別だ。
それは、神の盾を振るうための、最初の「資格」。
「この二つを買うことを、オススメするッピ!」
フロンティア君は、熱弁を振るい始めた。
「この二つを、同時に装備することで、君はMPを一切消費することなく、常に全属性耐性を+31%も上昇させるオーラを、その身に宿すことができるようになるッピ!これこそが、この世界の冒険者の、標準装備だッピ!」
その、あまりにも的確で、そしてどこまでも本質を突いたアドバイス。
それに、佐藤はただ感心するしかなかった。
「…なるほどな。帰りに買うか。どこで売ってるんだ?」
「アメ横だッピ!」
フロンティア君は、即答した。
「最近、需要が高まって少し値上がりしてるけど、セットで15万円もあれば、手に入るはずだッピ!しかも、今ならギルドから**補助金も出てるから、買ったら半額戻ってくるッピ!**実質7万5千円だッピよ!」
その、あまりにも有益な情報。
それに、佐藤は思わず呟いていた。
「…なかなか、良いじゃん、このタコ」
その、彼からの初めての、素直な賞賛の言葉。
それに、フロンティア君のピンク色の体が、ぽっと、これ以上ないほど嬉しそうに、赤く染まった。
そして彼は、その8本の足を、もじもじとさせながら、言った。
その声は、どこまでも照れくさそうだった。
「――いやー、照れるッピ!」