第27話 課長の憂鬱、あるいは不本意な水着鑑賞会
土曜日の昼下がり。
西新宿の空は、久しぶりに雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。だが、その晴れやかな空とは裏腹に、佐藤健司(35)の心は、梅雨明け前のじっとりとした湿気を含んだ、重く陰鬱な雲に覆われていた。
彼の、サラリーマンとしてのHPは、すでに残り1ミリ。
そして今、彼は自らの意思とは全く無関係に、その人生において最も縁遠いと思っていた場所へと、その重い足取りを向けていた。
新宿、伊勢丹。
その、あまりにもきらびやかで、そしてどこまでもリア充たちのエネルギーに満ち溢れた、ファッションの聖地。
彼の、孤独で、静かだったはずの週末は、星野輝の「ギルドのコネ作りも、ギルドマスターの重要な仕事でしょ?」という、あまりにも正論で、そしてどこまでも悪魔的な一言によって、無慈悲に奪われたのだ。
そして今日は、その地獄の前哨戦。
ナイトプールで着るための、水着選びだった。
(…なんで、こうなった)
彼は、心の底から後悔していた。
彼の隣では、天野陽奈が、その大きな瞳をキラキラと輝かせながら、ショーウィンドウに飾られたお洒落な洋服に、感嘆の声を上げている。
「わあ…!可愛い…!」
その半歩前を、星野輝が、まるで自分の庭を歩くかのように、自信に満ちた足取りで闊歩している。
そして、その後ろを、兎月りんごが、興味の赴くままに、あちこちへとふらふらと消えては現れるを繰り返していた。
その、あまりにも混沌とした、そしてどこまでも彼の精神を削り取る光景。
それに、佐藤は深いため息をついた。
彼の視界の隅では、ピンク色のタコ…フロンティア君が、楽しそうに解説を続けている。
「健司!データによれば、このデパートの客単価は、平均で3万5千円だッピ!君の、先月の小遣いに匹敵するッピよ!」
「…うるせえ」
彼らが、目的の売り場…高級デパートにて、きらびやかな照明に照らされた、婦人用水着売り場へと足を踏み入れた、その瞬間。
佐藤の、サラリーマンとしての、そしてオタクとしての魂が、その場のアウェイ感に耐えきれず、悲鳴を上げた。
周囲は、幸せそうなカップルや、女子高生のグループばかり。
その中心に、一人だけ、よれたTシャツとスウェットに身を包んだ、死んだ魚のような目をした中年男性。
あまりにも、場違い。
あまりにも、不審者。
彼は、今すぐポータルで、自室の薄暗い安らぎの中へと、逃げ出したかった。
だが、その彼の、ささやかな願い。
それを、少女たちが許すはずもなかった。
「よーし!じゃあ、早速見て回ろっか!」
輝が、そのサイドポニーを揺らしながら、号令をかけた。
「健司さんは、そこの椅子に座って、あたしたちの審査員やっててよね!もちろん、お会計も、よろしく!」
彼女は、そう言って悪戯っぽくウインクすると、陽奈とりんごの手を引き、その色とりどりの布切れが並ぶ、ジャングルの奥深くへと消えていった。
後に残されたのは、婦人服売り場の片隅に置かれた、あまりにも小さく、そしてどこまでも座り心地の悪い椅子と、そこに座らされた、一人の哀れな中年男性だけだった。
◇
そこから、彼の人生で最も長く、そして最も不毛な時間が始まった。
4人は高級デパートにて、様々な水着の鑑賞会が行われる。
数分後。
試着室のカーテンが、シャッと音を立てて開かれた。
最初に現れたのは、陽奈だった。
彼女は、白い、フリルのついたワンピースタイプの水着に身を包んでいた。そのあまりにも初々しい、そしてどこまでも清純な姿。彼女は、その顔をリンゴのように真っ赤に染め、恥ずかしそうに、もじもじとしていた。
「あ、あの…。どう、でしょうか…?」
その、あまりにも健気な問いかけ。
それに、佐藤は、その35年間の人生経験の全てを注ぎ込んで、最も安全で、そして最も無難な答えを、導き出した。
「…ああ。可愛いね!」
その、あまりにも心のこもっていない、しかしどこまでも優しい一言。
それに、陽奈の顔が、ぱっと輝いた。
「ほ、本当ですか!?よかった…!」
彼女は、嬉しそうにくるりと一回転すると、再び試着室の中へと消えていった。
(…よし。これで、いい)
佐藤は、安堵の息を吐いた。
そうだ。
この、「可愛いね」という魔法の言葉。
これさえ繰り返していれば、この地獄も、きっと乗り切れるはずだ。
彼は、可愛いね!しか言わないBOTとかしていた。
次に、現れたのは輝だった。
彼女は、黒い、紐で結ばれた、あまりにも布面積の少ないビキニに身を包んでいた。その、あまりにも大胆な、そしてどこまでも彼女らしい姿。彼女は、モデルのように腰に手を当て、自信に満ちた表情で、ウインクしてみせた。
「どうよ、健司さん?あたしの、この完璧なプロポーション。あんたの、その死んだ魚みたいな目も、少しは癒されたっしょ?」
その、あまりにも挑発的な問いかけ。
それに、佐藤は、その視線をどこにやっていいか分からず、ただ狼狽えることしかできなかった。
そして彼は、再び、あの魔法の言葉を口にした。
「…あ、ああ…。か、可愛いね!」
「ちぇっ。もっと、他に言うことないわけ?」
輝は、少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、まあまあの反応に満足したのか、再び試着室へと戻っていった。
最後に、現れたのはりんごだった。
彼女が着ていたのは、もはや水着ではなかった。
黒い、フリルとレースで過剰に装飾された、ゴスロリ風のドレス。
「えーと、これ、可愛いんだけど、泳げるのかなー?」
彼女は、その場でくるくると回りながら、こてんと首を傾げた。
その、あまりにも理解不能な、そしてどこまでも彼女らしい光景。
それに、佐藤はもはや、言葉もなかった。
彼は、ただ、その魂の全てを込めて、最後の魔法の言葉を、絞り出した。
「…………可愛いね」
その、あまりにもシュールな、そしてどこまでも不毛な鑑賞会。
その一部始終を、ピンク色のタコが、的確に、そしてどこまでも無神経に、実況していた。
「陽奈の水着は、彼女の清楚な魅力を92.7%引き出しているッピ!だが、パーティのリーダーとしては、もう少し威厳を示すデザインも考慮すべきッピ!」
「輝の水着は、少し大胆過ぎるッピ!防御面積が32%しかないため、プールサイドでの不意のモンスター襲撃に対する物理防御性能は、極めて低いと判断するッピ!」
「りんごの水着は、独創的だッピ!だが、その過剰な装飾は水中での抵抗を18%増加させ、機動力を著しく低下させる可能性があるッピ!戦闘には、不向きだッピ!でも、どれも可愛いッピ!」
その、あまりにも的確なアドバイス。
その地獄のループが、数回繰り返された、その時だった。
様々な水着に着替えながら見せてくる3人。
ついに、彼女たちの、その堪忍袋の緒が、切れた。
試着室から、三者三様の、しかしその怒りのベクトルだけは完全に一致した三人の少女たちが、仁王立ちで現れたのだ。
「ねー、健司さん!」
輝が、その口火を切った。
「あんた、さっきから、少しは別の事言ってよ!『可愛いね!』しか、言ってないじゃない!」
「そ、そうです…!」
陽奈が、その大きな瞳に涙を浮かべて、続く。
「健司さん、本当に、見てますか…?私達が、一生懸命選んでるのに…」
「つまんないのー」
りんごが、その頬をぷくりと膨らませた。
そして、輝がとどめとばかりに、その魂の叫びを、叩きつけた。
「一番見てほしい人が、無関心って、どういう事よ!」
その、あまりにも正論な、そしてどこまでも乙女心に満ちた、三方向からの集中砲火。
それに、佐藤はもはや、なすすべもなかった。
彼の、サラリーマンとして長年培ってきた全ての処世術が、今、完全に、その機能を停止した。
彼は、その場で頭を抱え、うずくまりたい衝動に駆られた。
そして彼は、その社会人としての本能に従い、唯一の、そして最も効果的な魔法の言葉を、口にした。
「…すまん、すまん」
その、あまりにも心のこもっていない、しかしどこまでも丁寧な謝罪。
だが、彼の心の中は、嵐だった。
(…早く、終わらねぇかな…)
(もう、何でもいい。何でもいいから、早く、家に帰らせてくれ…)
彼の、そのあまりにも切実な、そしてどこまでも哀れな魂の叫び。
それが、天に通じたのか。
あるいは、ただ、少女たちが彼のそのあまりのポンコツぶりに、呆れ果てたのか。
輝は、深く、そして大きなため息をつくと、言った。
「…はぁ。もう、いいわ。どうせ、あんたに聞いたあたしが、馬鹿だった」
彼女は、そう言うと、最初に試着した、あの黒いビキニを手に取った。
「あたし、これにするから。会計、よろしく」
「あ、私も、最初のワンピースがいいです!」
「あたしは、これー!」
りんごが、なぜかアロハシャツを手に取っていた。
その、あまりにもカオスな、そしてどこまでも一方的な決着。
それに、佐藤はただ、その黒いクレジットカードを、取り出すことしかできなかった。




