第26話 ナイトプール
金曜日の夜。
佐藤健司(35)は、一週間の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、ようやく自らの聖域…西新宿のタワーマンションの、その広すぎるリビングへと帰還した。
彼は、玄関で窮屈な革靴を蹴り飛ばし、首を締め付けていたネクタイを緩め、ソファへとその疲弊しきった体を投げ出す。カチャリと音を立てて、買ってきたばかりの限定醸造ビールのプルタブを開ける。喉を駆け下りる、黄金色の炭酸の祝福。
「…ぷはぁーっ!」
彼の口から、心の底からの安堵のため息が漏れた。
テーブルの上には、コンビニで買い込んだ大量のスナック菓子と、追加のビールが完璧な布陣で並べられている。壁の巨大な有機ELモニターには、今期の覇権と名高い異世界転生アニメ『転生したら最強聖女の無双執事だった件について』の、第一話が映し出されていた。
完璧だ。
あまりにも、完璧すぎる週末の始まり。
「これだよ、これ。俺の人生のゴールは…」
彼は、そのあまりにもささやかで、しかし何物にも代えがたい幸福を、心の底から噛みしめていた。
会社も、ローンも、そしてあの面倒くさい女子高生たちのことも、今この瞬間だけは、忘れられる。
彼が、その至福の瞬間に浸りきっていた、まさにその時だった。
ピロリン♪
静寂を切り裂くかのように、彼のスマートフォンが、間の抜けた、しかし彼にとっては悪魔の号令に等しい通知音を鳴らした。
画面に表示されたのは、彼がこの世で最も見たくないLINEグループの名前。
『健司さんを囲んで魔石を愛でる会』。
(…来たか)
彼の、完璧だったはずの週末計画が、音を立てて崩れ落ちていく。
その平穏を、パーティのLINEグループの通知音が破壊する。
トーク画面を開くと、そこには星野輝からの、あまりにもテンションの高いメッセージが、滝のように流れ込んでいた。
輝: 『ボスー!緊急事態!超ヤバい情報ゲットしたんだけど!』
輝: 『見てこれ!』
[きらびやかなARの招待状が、画面に表示される]
佐藤は、そのあまりにも悪趣味な、そしてどこまでもリア充の匂いがする招待状を一瞥すると、深いため息をついた。
そこには、『ギルド会員限定!天空のナイトプール・オープニングパーティ!』という、彼が最も嫌うタイプの単語が、踊っていた。
輝: 「ボス!これ、あたしたちのギルドの初仕事だよ!」
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも一方的な宣言。
彼女は、ARウィンドウに自作の、しかしどこまでもそれっぽいプレゼン資料を映し出した。そこには、『我々のコアコンピタンスと今後の事業展開について』という、あまりにも意識の高いタイトルが、躍っていた。
彼女は、このパーティがただの遊びではなく、新設ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の名を業界に売り込み、有力ギルドとのコネクションを作るための、極めて重要な「接待」であり「ネットワーキングイベント」であると、得意のプレゼン能力で熱弁する。
「いつまでも健司さんの個人パーティじゃ、税金対策も中途半端だし、社会的信用も得られない。ビジネスとして、次のステージに行くべきっしょ!」
「却下だ」
佐藤は、即答した。
彼の、絶対的拒否だった。
彼は、課長として、そして中間管理職としての全スキルを駆使して、その提案を全力で拒否する。
「馬鹿を言え。俺は、仕事でさんざんそういうのをやってきたんだ。休日にまで、愛想笑いを振りまいて名刺交換など、冗談じゃない」
彼は、そのサラリーマンとしての、そして中間管理職としての魂の全てを込めて、そのデメリットを熱弁し始めた。
「いいか、よく聞け。ああいう場所に行く人間は、二種類しかいない。コネを作りたい、腹の底では何を考えてるか分からないハイエナどもと、そいつらにたかることしか考えていない、中身のないインフルエンサー気取りの馬鹿だけだ。そこに、我々が行って得られるものは、何もない。時間と金の、無駄だ」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも正論な分析。
それに、輝はぐうの音も出なかった。
だが、彼女は諦めない。
彼女は、このパーティの、二つの最終兵器へと、その視線を向けた。
陽奈: 『でも…。でも、みんなで行くの、楽しそうです…』
その、LINEのトーク画面に、ぽつりと表示された、あまりにも純粋な一言。
輝: 『だよねー!陽奈ちゃん!』
輝は、それに乗っかった。
りんご: 『プール!ウォータースライダーあるかな!?』
その、あまりにも無邪気な、そしてどこまでも論点をずらしてくる、追い打ち。
そして、とどめとばかりに。
彼の視界の隅で、ピンク色のタコが、ARウィンドウに一つの巨大なグラフを映し出した。
「健司!輝の言うことにも、一理あるッピ!」
フロンティア君が、熱弁を振るい始めた。
「**データによれば、この種の交流会への参加は、ギルドの長期的な成長期待値を22.8%向上させるッピ!**これは、君のローン返済計画を、平均して1.5年も早める可能性がある、極めて合理的な投資だッピ!」
陽奈の、純粋な「感情論」。
りんごの、無邪気な「本能論」。
そして、フロンティア君の、無慈悲な「データ論」。
その、あまりにも完璧な三方向からの波状攻撃。
それに、彼は完全に包囲され、そして論理的に、感情的に、完全に敗北した。
多数決の結果、パーティはナイトプールへ行くことが決定。健司は、その場でソファに崩れ落ちる。
彼の、完璧だったはずの週末計画が、音を立てて崩れ落ちていく。
輝: 『やったー!じゃあ、早速明日、水着買いに行こ!陽奈ちゃん、りんごちゃん!』
陽奈: 『うん!』
りんご: 『あたし、ゴスロリ風のやつがいいなー!』
少女たちは、早速どの水着を買うかで、キャッキャとはしゃぎ始める。
LINEのトーク画面が、彼女たちの、あまりにも眩しい、そしてどこまでも楽しそうなメッセージで、埋め尽くされていく。
その光景を前に、健司はただ、その手に持っていた生ぬるいビールを、一気に呷ることしかできなかった。
彼はただ、自らの失われた週末を、嘆くことしかできなかった。
彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」は、また一つ、その面倒くささのステージを上げたのだった。




