第25話 早すぎる成長と、高すぎる壁
土曜日の昼下がり。
西新宿の空は、久しぶりに雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。だが、その晴れやかな空とは裏腹に、C級ダンジョン【忘れられた錬金術師の工房】の内部は、ひんやりとした薬品の匂いと、どこか甘い魔力の残滓が混じり合った、独特の空気に満ちていた。
佐藤健司(35)率いる、あまりにも歪なパーティは、この日もまた、その異常なまでの成長速度で、ダンジョンの生態系そのものを破壊し尽くしていた。
彼らのレベルは、陽奈のアイスによる経験値100%アップのバフのおかげで、すでに22に上がっている。
その、あまりにも安定しきった、しかしどこか退屈な「作業」の時間。
それを、終わらせたのは、一人の、あまりにも空気が読めない、しかしどこまでも正直な少女の一言だった。
戦闘が終わり、ドロップ品を回収している、その合間。
輝が、自らのARウィンドウで、SeekerNetのトップランカーの配信を眺めながら、深いため息をついた。
「はぁ…。私も、そろそろビルド変えようかな」
その、あまりにも唐突な呟き。
それに、佐藤は眉をひそめた。
「…なんだ、いきなり。お前のそのビルド、別に弱くはないだろ。むしろ、強すぎるくらいだ」
「分かってないなー、健司さんは」
輝は、呆れたように言った。
「あたしのビルドは、確かに強いよ?でも、それはあくまでC級までの話。この先、B級、A級ってなってくると、だんだん火力が足りなくなってくる。それは、データが証明してる」
彼女は、そう言うと、一つの配信画面を、佐藤の目の前に共有した。
そこに映し出されていたのは、北米の冒険者学校で、今、最も注目を集めているという、一人の天才少女の姿だった。
ホリー・ミラー。
彼女が、その手に持つ武器ではない、無数のフラスコを投げつけ、B級のモンスターを、まるで蹂躙するかのように倒していく。
「見てよ、これ。アメリカのS級冒険者学校生のホリー・ミラーが使ってる、ポイゾナスコンコクション+フィニッシュ・オブ・アゴニーのビルド」
輝の瞳が、これ以上ないほど、キラキラと輝き始めた。
「あのビルド、クソ強いからな。武器に依存しないから、序盤のコストも安いし、何より、混沌ダメージだから、ほとんどの敵に安定してダメージが通る。あたし、変えたいなー」
彼女は、そう言って、佐藤の顔をチラッチラッと、上目遣いで見つめた。
その瞳には、抗いがたいほどの、小悪魔的な魅力と、そしてどこまでも分かりやすい「おねだり」の色が宿っていた。
(…はぁ)
佐藤は、深く、そして重いため息をついた。
彼の、サラリーマンとしての、そして中間管理職としての魂が、そのあまりにもあからさまな「根回し」に、降伏の白旗を上げた。
そうだ。
これは、ただのわがままではない。
部下の、スキルアップのための、前向きな「提案」なのだ。
そして、その提案を、無下に却下するような上司は、三流だ。
「……はー、仕方ないな」
彼の口から、諦めの言葉が漏れる。
「分かった、分かったよ。スキルジェムと、必要な装備。経費で落として良いから、ビルド組み換えしなさい」
その、あまりにも物分かりの良い、そしてどこまでも甘い一言。
それを聞いた瞬間。
輝の顔が、ぱああっと、これ以上ないほどの、満開の花のような笑顔になった。
そして彼女は、その喜びを、全身で表現した。
彼女は、佐藤へと飛びつき、その首に、力いっぱい抱きついたのだ。
「――やったー!大好きよ、ダーリン!」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも破壊力のある一言。
それに、佐藤の思考が、完全に停止した。
(…だ、ダーリン…?)
彼の、35年間の独身人生において、一度も呼ばれたことのない、その甘美な響き。
だが、その彼の硬直を、現実へと引き戻したのは、彼の配信を見守っていた数十人の視聴者たちの、あまりにも無慈悲なコメントだった。
『うわああああああ!』
『ダーリン呼び、きたああああ!』
『犯罪!これは、犯罪です!』
『通報しますた』
「――ダーリン言うな、ダーリン!」
佐藤は、絶叫した。
彼は、慌てて輝の体を、引き剥がす。
「**どう見ても、犯罪者になるだろ!**俺は、お前の保護者だ!違う、上司だ!いや、それも違う!」
その、あまりにもしどろもどろな、そしてどこまでも哀れな言い訳。
それに、輝は腹を抱えて笑い転げた。
陽奈は、その光景を、ただ頬を赤らめながら、見つめていた。
◇
その日の夜。
彼らは、健司のタワーマンションのリビングで、緊急の家族会議(という名の、不毛な口論)を開いていた。
議題は、ただ一つ。
B級への、挑戦についてだった。
「…というわけでだ」
佐藤は、ARウィンドウに表示させた、自作のプレゼン資料を、指し示した。
その資料は、彼が会社の昼休みに、なけなしの時間を削って作成した、完璧なものだった。
「我々が、B級ダンジョンに挑むためには、まず、この『B級の呪い』…全耐性-30%のデバフを、相殺する必要がある。そのためには、装備を、一新したいですね。ただ、お金が必要ですね」
彼は、次のページをめくった。
そこには、フロンティア君が算出した、恐るべき数字が、記されていた。
「B級で、最低限の生存を確保するための耐性装備。その相場は、一人、最低180万円。だから、4人で720万円です。我々の、現在のパーティ貯蓄では、到底足りない」
「したがって」と彼は結論付けた。
「B級への挑戦は、時期尚早であると、私は判断します。まずは、このままC級で金策を続け、十分な資金が貯まるまで、待つべきです」
その、あまりにも正論で、そしてどこまでも手堅い、中間管理職としての完璧な提案。
それに、輝はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ちぇー。つまり、あと2週間は、足止めくらっちゃいますねってこと?」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも彼の神経を逆なでする一言。
それに、佐藤は深く、そして重いため息をついた。
そして彼は、その心の中だけで、静かに、そして深く、戦慄していた。
(…二週間…?)
彼の脳内で、警鐘が鳴り響く。
(そもそも、俺たちがこの世界に足を踏み入れてから、ここまで4週間ぐらいだろ?まだ、一ヶ月も経ってないのに、レベル22かよ。バグってるな、これ…)
彼は、そのあまりにも巨大すぎる力の奔流を前にして、改めて、その恐怖を実感していた。
だが、彼のその内なる恐怖を、少女たちが知る由もない。
彼は、その表情をポーカーフェイスの裏に隠し、リーダーとして、その最終的な決定を下した。
「…そうだ。じゃあ、この後の2週間は、各自、F級ダンジョンのエッセンスファーミングしつつって感じですね。周回速度を、上げていこう」
その、あまりにも現実的で、そしてどこまでも退屈な提案。
それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。
そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で頷いた。
「「「はーい!」」」
その、あまりにも元気な返事。
それが、彼らの新たな、そしてどこまでも地道な冒険の始まりを告げる、合図となった。




