第2話 幸運の女神
土曜日の昼下がり。
西新宿の空は、梅雨明け前のじっとりとした湿気を含んだ灰色の雲に覆われ、アスファルトの熱気が陽炎のように立ち上っていた。都庁のすぐそばにそびえ立つ、ガラス張りの近代的な高層ビル――関東探索者統括管理センターの内部は、その陰鬱な天候が嘘のように、人の熱気でむせ返っていた。
空調が効いているはずの広大なロビーは、期待と不安と、そして一攫千金への剥き出しの欲望が入り混じった、独特の匂いで満たされている。
「次、345番の方ー!5番カウンターへどうぞー!」
無機質なアナウンスが響くたびに、プラスチック製の硬い椅子に座って自分の番を待つ人々の間から、どよめきとため息が漏れる。
その群衆の中心にいるのは、冒険者学校の真新しい制服に身を包んだ、希望に満ち溢れた若者たち。そして、そんな彼らをどこか羨ましそうに、あるいは値踏みするように眺めている、スーツ姿や普段着の上に申し訳程度の装備を身に着けた、大人たち。
先月、政府とギルドが鳴り物入りで発表した『プラス・アルファ・フロンティア制度』。その甘美な謳い文句に誘われて、この新しいゴールドラッシュへと足を踏み入れた、ごく普通の社会人たちだ。
佐々木彩は、7番カウンターの内側で、その光景をどこか他人事のように眺めていた。
彼女は、この関東探索者統括管理センターに勤めて5年になる、中堅の職員だ。艶やかな栗色の髪をきっちりとしたシニヨンにまとめ、ギルドの制服を寸分の狂いもなく着こなしたその姿は、絵に描いたような「デキる女性」。だが、そのマニュアル通りの完璧な笑顔の裏側で、彼女は深い、深いため息をつきたい衝動を必死にこらえていた。
(…また、この季節が来たか)
毎週末、繰り返される光景。
スキル鑑定を待つ、人々の長い行列。
彼らの瞳に宿る、キラキラとした光。
そのほとんどが、数ヶ月後にはこの世界から消えていくことを、彼女は知っていた。
「――はい、鈴木さんですね。ユニークスキルは…『調理』。D級です。お疲れ様でした」
「ちょ、調理!?あの、料理の…?」
「ええ。まあ、ダンジョンでの食事には便利なんじゃないですか。はい、次の方どうぞ」
彼女は、事務的な口調で、目の前の青年の夢を、木っ端みじんに打ち砕いた。顔を真っ赤にして俯く青年を、彼女はもはや何の感情もなく見送る。
これが、彼女の日常だった。
だが、そんな彼女にも、一つのささやかな「伝説」があった。
ギルド職員の間で、彼女は密かにこう呼ばれていた。
――『幸運の女神』、と。
彼女が担当した新人探索者の中から、なぜか、後に伝説となるほどの規格外の才能が、次々と生まれてきたからだ。
彗星の如く現れ、今やSSS級のトップランカーとしてその名を世界に轟かせている、あの“JOKER”。彼の最初のユニークスキルを鑑定したのも、何を隠そう、この彼女だった。
あの時のことは、今でも鮮明に覚えている。
どこか眠たげな、しかしその瞳の奥に底知れない狂気を宿した、一人の青年。
彼がスキル測定器に手をかざした瞬間、鑑定器がこれまでにないほどの異常な光を放った。そして、モニターに表示されたのは、『詳細不明』という前代未聞のエラーメッセージと、『SSS級』という、神々の領域を示す等級。
あの瞬間の、肌を粟立たせるような興奮。
あれがあったからこそ、彼女はまだこの単調な仕事に、わずかな希望を見出すことができていた。
(…また、来ないかな。あのJOKERさんみたいな、『本物』が)
彼女が、そんなありえない夢想に浸っていた、まさにその時だった。
『777番の方、7番カウンターへどうぞ』
そのアナウンスを聞いた瞬間、彼女の肩がわずかにピクリと動いた。
777。スリーセブン。
あまりにも、出来すぎた数字。
彼女の、ギルド職員としての直感が、告げていた。
――来る、と。
彼女は、背筋を伸ばし、その完璧なプロフェッショナルの笑顔で、その幸運な番号札を持つ男を、出迎えた。
そして、その男の姿を見た瞬間、彼女の心の中に灯っていた小さな期待の炎は、ほんの少しだけ、その勢いを失った。
そこに立っていたのは、英雄とは、あまりにもかけ離れた男だったからだ。
◇
佐藤健司、35歳。
彼は、自らの人生が、これほどまでに面倒くさい方向に転がっていくことを、まだ知らない。
彼の脳内を占めているのは、ただ一つの、あまりにも現実的な悩みだけだった。
(…住宅ローン、あと30年か…)
彼は、待合室の硬い椅子に座りながら、スマートフォンの電卓アプリを弾いていた。
月々の返済額。ボーナス月の加算額。そして、その果てしない道のり。
その数字の暴力が、彼の精神をじわじわと蝕んでいく。
(…課長になったとはいえ、給料は雀の涙ほどしか上がらなかったしな…)
(このままじゃ、定年までこのローン地獄が続くのか…)
その絶望的な未来予測。
それに、彼は深い、深いため息をついた。
その時だった。
彼の耳に、あの忌々しい、しかしどこか甘美な言葉が、蘇る。
『プラス・アルファ・フロンティア制度』。
週末だけの冒険で、税金が安くなる。
その、あまりにも胡散臭い、しかし彼のような「ハウスプア」にとっては、抗いがたい魅力を持つ、悪魔の囁き。
『課長してないんですか?』
部下の山田の、あの無邪気な一言。
それが、彼の最後の理性の箍を、外した。
そうだ。
やってみるか。
どうせ、このまま会社に飼い殺しにされるだけの人生だ。
少しぐらい、非日常のスパイスがあったって、バチは当たるまい。
何より、税金が安くなるのなら。
彼は、そのあまりにも不純な動機で、この場所にいた。
『777番の方、7番カウンターへどうぞ』
「…お、俺か」
彼は、そのやけに縁起の良い番号に、少しだけ心を躍らせながら、立ち上がった。
そして、指定された7番カウンターへと向かう。
そこにいたのは、きっちりとした制服に身を包んだ、美しい女性職員だった。
その完璧な笑顔。
それに、彼は少しだけ気圧されそうになる。
(…うわ、美人だな。こういう、ちゃんとした人が一番苦手なんだよな…)
彼は、オタク特有のコミュ障を、その無愛想なポーカーフェイスの裏に隠しながら、彼女の前に立った。
「はい、佐藤健司さんですね。では、こちらの測定器に手をかざしてください」
女性職員…佐々木彩の、その鈴を転がすような声。
それに、彼は黙って頷くと、その少しだけ汗ばんだ掌を、黒いパネルの上へと置いた。
ひんやりとした、感触。
その瞬間だった。
彼が、これまで感じたことのない現象が起こった。
測定器の中央に埋め込まれた水晶が。
まばゆい、黄金の光を放ち始めたのだ。
それは、彼がこれまでの人生で一度も浴びたことのない、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも神々しい光の奔流。
そのあまりにも異常な光景に、待合室にいた全ての探索者たちが、一斉に息を呑み、そのカウンターへと視線を集中させた。
彩の、完璧だったはずの笑顔が、凍りついた。
彼女の、ギルド職員としての全ての経験が、警鐘を鳴らしていた。
これだ。
この光は、あのJOKERの時と、同じ。
いや、それ以上だ。
彼女の目の前のモニターに、その結果が表示された。
彼女は、その文字を読み上げようとして、言葉を失った。
その顔は、蒼白だった。
その瞳は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、そして小刻みに震えていた。
彼女は、何度も、何度も、モニターと目の前の、冴えない中年男性の顔を見比べた。
そして彼女は、震える声で、ようやくその神の御名を、口にした。
「――等級、SSS…」
「スキル名…【盟約の円環】…?」
ユニークスキル【盟約の円環】
レアリティ: ユニークスキル (等級:SSS)
種別: パッシブスキル / 盟約 / 増幅
効果テキスト:
術者は、パーティを組んだ女性の探索者と『盟約』を結ぶことができる。
『盟約』を結んだパーティメンバーは、術者を含む全員が、パーティ内に存在する他のメンバー全員のユニークスキル(A級以下)を、共有し、使用することが可能になる。
パーティメンバー同士の「絆」が深まる(仲が良くなる)ほど、共有されたユニークスキルの本来の持ち主が使用する際の効果が、爆発的に増幅される。
その増幅率は、時にA級スキルをSSS級の領域にまで跳ね上げることがある。
フレーバーテキスト:
王は、玉座に一人では座れない。
その力は、彼に忠誠を誓う騎士たちの魂の輝きを、束ねることで初めて完成する。
見よ。
その円環は、もはやただの契約ではない。
その、あまりにも荘厳な響き。
それに、佐藤の心臓が、ドクンと大きく音を立てた。
(SSS…!?マジかよ…!)
彼の脳内に、これ以上ないほどの、高揚感が駆け巡る。
人生、大逆転。
ローン完済。
そして、悠々自適の、早期リタイア。
その、バラ色の未来。
だが、その彼の甘い夢想は、モニターに表示された、その詳細な効果テキストを読んだ瞬間、木っ端みじんに打ち砕かれることになる。
レアリティ: ユニークスキル (等級:SSS)
種別: パッシブスキル / 盟約 / 増幅
効果テキスト:
術者は、パーティを組んだ女性の探索者と『盟約』を結ぶことができる。
(――は?女性限定?)
『盟約』を結んだパーティメンバーは、術者を含む全員が、パーティ内に存在する他のメンバー全員のユニークスキル(A級以下)を、共有し、使用することが可能になる。
(――パーティ必須?しかも、A級以下のスキルだけ?微妙すぎだろ…)
パーティメンバー同士の「絆」が深まる(仲が良くなる)ほど、共有されたユニークスキルの本来の持ち主が使用する際の効果が、爆発的に増幅される。
(――絆?仲良く?ギャルゲーかよ、これ!)
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、その沈黙を破ったのは、佐藤健司の、心の底からの、魂の叫びだった。
彼は、思わず呟いていた。
その声は、絶望に満ちていた。
「――クソスキルじゃねーか…」
その、あまりにも不遜な一言。
それに、彩ははっと我に返った。
そして彼女は、そのプロフェッショナルな仮面の下で、必死にその感情を押し殺しながら、言った。
その声は、完璧なまでに、感情が抜け落ちていた。
「――えー…良い、スキルですね」
その、あまりにも棒読みな、そしてどこまでも心のこもっていない一言。
それに、佐藤は深く、そして重いため息をついた。
そして彼は、このあまりにも理不尽な、しかし揺るぎない現実を、受け入れた。
俺の、ユニークスキル。
それは、SSS級の、役立たないクソユニークスキルなのだと。
◇
鑑定所を出た佐藤の足取りは、重かった。
彼の心は、もはや無だった。
だが、彼はまだ諦めてはいなかった。
そうだ。
スキルがクソでも、税金控除は、ある。
俺の戦う理由は、それだけで十分だ。
彼は、そのあまりにも現実的なモチベーションだけで、自らを奮い立たせた。
彼は、管理センターの地下にある、ギルド公認の装備ショップへと向かった。
彼のなけなしの貯金をはたいて、最低限の装備を揃えるためだ。
初心者向けの、安い長剣。
申し訳程度の、革の胸当て。
そして、全ての探索者の必需品。
【AR型コンタクトレンズ】。
彼は、その場でコンタクトレンズを装着した。
視界の隅に、HPやMPを示すUIが表示される。
そして、一つのポップアップが、彼の視界に現れた。
『公式ギルドアシスタント『フロンティア君』を起動しますか?』
「…いらねえ」
彼は、そのポップアップを、即座にスワイプして消した。
こんな、チャラチャラした機能は、俺には必要ない。
彼は、そう思っていた。
その、ピンク色のタコが、彼の人生を、さらに面倒くさいものにすることなど、知る由もなかった。
全ての準備を終えた、佐藤。
彼は、転移ゲートへと向かった。
彼が、その最初の戦場として選んだのは、全ての始まりの場所。
F級ダンジョン【ゴブリンの巣】。
ゲートの前には、おびただしい数の探索者たちが、殺到していた。
冒険者学校の、希望に満ちた若者たち。
彼と同じように、税金控除を夢見る、疲れた顔のサラリーマンたち。
そして、一攫千金を夢見る、本物のプロのF級探索者たち。
その、あまりにも混沌とした、そしてどこまでも欲望に満ちた光景。
それに、佐藤は、深く、そして重いため息をついた。
そして彼は、その人の波をかき分けるようにして、ゲートの光の中へと、その一歩を踏み出した。