第13話 検証結果と、不本意すぎる家庭訪問
月曜日の午後6時15分。
西新宿の摩天楼の一角を占める、IT企業のオフィス。そのほとんどの窓からは、まだ煌々と残業の光が漏れている。だが、システム管理課の島だけは、奇跡的にその光が消えていた。
佐藤健司(35)、システム管理課・課長。彼は、タイムカードを定時きっかりに切ると、周囲の部下たちの怨嗟と羨望の入り混じった視線を背中に感じながら、足早にオフィスを後にした。
「お、お疲れ様です、課長…」
「…ああ」
彼の背中にかけられる、か細い声。彼は、振り返ることなく、ただ手をひらひらと振って応えた。
彼の心は、もはやこの灰色のコンクリートジャングルにはない。
彼の、もう一つの「仕事場」。
そして、そこにいるであろう、二人のあまりにも手のかかる「部下」たちの元へと、すでに向かっていた。
(…はぁ。面倒くせえ…)
満員電車に揺られながら、彼は心の底からそう思った。
土曜日に、あの押しかけ系ギャル盗賊、星野輝を不本意ながらもパーティに加えてから、まだ二日しか経っていない。だが、彼の精神的な疲労は、一ヶ月分のプロジェクトを終えた後のそれに、匹敵していた。
彼の、孤独で、静かだったはずの冒険は、今や、二人の女子高生の姦しいおしゃべりと、ピンク色のタコの的外れなアドバイスによって、完全に支配されていた。
彼は、スマートフォンを取り出すと、慣れた手つきでメッセージアプリを開いた。
そこに表示されているのは、輝によって勝手に作成され、強制的に参加させられた、三人だけのLINEグループ。
グループ名は、『健司さんを囲んで魔石を愛でる会』。
その、あまりにもふざけた名前を見るだけで、彼の胃がキリキリと痛んだ。
彼は、そのトーク画面を開く。
佐藤健司は仕事終わりの定時後に天野陽奈と星野輝とのライングループを見てみると、検証結果が届いていた。
そこには、陽奈からの、あまりにも生真面目な、そして彼にとってはあまりにも残酷な「業務報告」が、長文で綴られていた。
天野陽奈:
『健司さん、お仕事お疲れ様です!本日のダンジョン探索結果について、ご報告します!』
『私と星野さん、二人で午後にE級ダンジョン【魔術師の廃墟】に籠もっていたのですが、その際に、健司さんのユニークスキル【盟約の円環】の効果について、いくつかの検証を行いました』
『まず、結論から申し上げますと、**経験値100%アップのバフは、一度も発動しませんでした。**私の【至福のひとさじ】のスキルも、アイスが2個生成されることはなく、元の1個だけの状態に戻っていました』
『次に、星野さんの【幸運は二度ベルを鳴らす】についてですが、こちらも数十体のモンスターを倒したにも関わらず、魔石の複製は5%という、本来の確率通りにしか発生しませんでした』
『以上の結果から、盟約の円環は、術者である佐藤健司さんがパーティにいないと、その増幅効果が発動しない、という結論に至りました。ご査収ください』
その、あまりにも的確な、そしてどこまでもビジネスライクな報告書。
それに、佐藤は深く、そして重いため息をついた。
(…だろうな)
彼は、その結果を、薄々予測していた。
この、あまりにも都合の良すぎるSSS級のクソスキルが、そんなに甘いはずがない。
つまり、どういうことか。
俺が、この女子高生たちと一緒に行動しなければ、このパーティの本当の力は、発揮されない。
俺は、この面倒くさいハーレムの、中心にいることを、強制されているのだ。
その、あまりにも不自由な、そしてどこまでも彼の望まない現実。
それに、彼の心は、どんよりとした灰色の雲に覆われていく。
だが、その報告は、まだ続いていた。
陽奈からの、追記のメッセージ。
天野陽奈:
『追伸:今日のダンジョンでは、**エッセンスファームをしてお金を稼いだので、その収益は全てパーティー貯蓄に回しますね!**二人で、25万円も稼げました!』
その、あまりにも健気で、そしてどこまでも前向きな一言。
それに、佐藤の心の中の灰色の雲に、ほんの少しだけ、太陽の光が差し込んだような気がした。
彼は、その不器用な指で、返信を打ち込んだ。
佐藤健司:
『ありがとう』
その、たった一言。
それが、彼にできる、精一杯の感謝の表現だった。
彼は、スマートフォンをポケットにしまうと、電車の窓の外を流れる、見慣れた夜景を、ただぼんやりと眺めていた。
やがて、電車は西新宿の駅へと到着した。
彼は、その人の波をかき分けるようにして改札を抜け、自らの城…そして、牢獄でもある、タワーマンションへと、その重い足取りを向けた。
◇
エントランスの、自動ドアを抜ける。
ひんやりとした大理石の床。
間接照明が、壁にかけられたモダンアートを優しく照らし出す。
コンシェルジュが、彼に深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、佐藤様」
「…ああ」
彼は、そのあまりにも丁寧な挨拶に、いつも通りぶっきらぼうに答えると、エレベーターホールへと向かった。
その、あまりにも非日常的な、しかし彼にとっては日常となった光景。
だが、その日の光景は、いつもとは少しだけ、違っていた。
エレベーターホールの前の、広々としたラウンジ。
その、高級な革張りのソファに、二つの見慣れた、しかし、ここにいるはずのない影があった。
冒険者学校の、真新しい制服。
サイドポニーにした、茶髪。
そして、ショートカットの、黒髪。
天野陽奈と、星野輝だった。
「……………は?」
佐藤の、思考が、完全に停止した。
彼の、サラリーマンとして長年培ってきた全ての常識が、悲鳴を上げていた。
なぜ?
どうして?
なんで、お前らが、ここにいるんだ?
その彼の、内なる絶叫。
それを、見透かしたかのように。
二人の少女は、彼の姿を認めると、ぱっと、その顔を輝かせた。
そして、彼女たちは弾むような声で、こちらへと駆け寄ってきた。
「あ、健司さん!お帰りなさい!」
陽奈が、満面の笑顔で言った。
「おっそーい!何時だと思ってんのよ、もう!」
輝が、その隣で不満そうに、しかしどこか嬉しそうに、頬を膨らませた。
「…はぁ?なんでいるんだ、お前ら」
佐藤が、ようやく絞り出したのは、そんな、あまりにも素直な、そしてどこまでも間の抜けた一言だった。
それに、輝は待っていましたとばかりに、得意げに、その胸を張った。
「決まってんじゃん!フロンティア君に、タワマンの住所、聞いてきたんですよ!」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも悪びれない一言。
それに、佐藤は絶句した。
(…あの、クソダコ…!)
彼の脳内で、あのピンク色の、常に笑顔の、そしてどこまでもプライバシーの概念がないマスコットの顔が、浮かび上がった。
「そうそう!」
輝は、楽しそうに続けた。
「陽奈ちゃんが、『健司さん、どこに住んでるんだろうね?』って言うからさ!あたしが、フロンティア君に聞いてやったのよ!『ねえ、健司さんの住所教えてー』って!」
「そしたら、あいつ、『マスターのプライベートな情報ですが、パーティメンバー間の情報共有は絆レベル向上に繋がるため、特例として開示しますッピ!』だって!超ウケるんですけど!」
その、あまりにも軽々と、そしてどこまでも善意から行われた、個人情報の漏洩。
それに、佐藤はもはや、言葉もなかった。
彼は、ただ天を仰いだ。
そして、その隣で、陽奈が申し訳なさそうに、しかしどこか嬉しそうに、言った。
「ご、ごめんなさい、健司さん!星野さんが、どうしてもって…!でも、フロンティア君が、健司はタワマン暮らしッピって言ってたし、来てみたんです…!」
その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも悪意のない、不法侵入(未遂)。
それに、佐藤は深く、深く、この日一番の、重いため息をついた。
そして彼は、観念したように、その言葉を口にした。
その声は、これから始まる地獄を予感した、死刑囚のようだった。
「…はぁ。分かった、分かったよ。とりあえず、入れ。ここで騒いでると、他の住人の迷惑になる」
ため息を付きながら、彼はタワマンに入る。
◇
カチャリと。
静かな電子音と共に、彼の城であり、牢獄でもある部屋のドアが開かれた。
その、あまりにも広々とした、そしてどこまでも生活感のない空間。
それに、二人の少女は、それぞれの反応を見せた。
「うわ、マジでタワマンじゃん!広っ!てか、何もない!ウケる!」
輝は、土足でずかずかとリビングへと上がり込むと、その宝石箱のような夜景に、目を輝かせた。
「お、お邪魔します…」
陽奈は、そのあまりにも豪華な空間に気圧されながら、おずおずと、その一歩を踏み出した。
その、あまりにも対照的な二人の少女の姿。
それを、佐藤はただ呆然と見つめていた。
そして彼は、その広すぎるリビングの、その中央で。
自らの、あまりにも歪な、しかしどこまでも確かな「家族」の姿を、目の当たりにしていた。
そして彼は、独り言のように呟いた。
その声は、誰にも聞こえなかったかもしれない。
だが、そこには、彼の全ての諦観と、そしてわずかな、しかし確かな覚悟が、込められていた。
「……女子高生を、家に連れ込むの大丈夫か、これ…」