第10話 迷惑な交渉と、不本意すぎる盟約
E級ダンジョン【魔術師の廃墟】。
その名は、かつて高名な魔術師がその工房として使っていた遺跡がダンジョン化したことに由来する。ひんやりとした大理石の床、壁には色褪せたタペストリーが掲げられ、空気中には古い紙とインクの匂い、そしてどこか甘い魔力の残滓が混じり合っていた。
佐藤健司(35)は、そのどこかアカデミックな、しかし油断すれば即座に命を刈り取られる危険な空間を、慎重に、しかし手慣れた足取りで進んでいた。
「――陽奈、右翼から回り込め。俺が正面のゴーレムのヘイトを取る。お前は、その後ろにいるウィスプを先に処理しろ」
「はい、健司さん!」
彼の、システム管理課の課長として長年培ってきた的確な指示。それに、パーティメンバーである天野陽奈(16)が、元気いっぱいの声で応える。
二人の連携は、もはやF級の頃のぎこちなさを完全に脱していた。
佐藤が、頑丈な革の盾を構え、一体の石造りのゴーレムの前に立ちはだかる。ゴーレムが、その巨大な石の拳を振り上げた、その瞬間。陽奈の、初心者用の木のワンドから放たれた【火の矢】が、その後方で浮遊していた魔力の塊…ウィスプを正確に捉えた。
ウィスプが、甲高い悲鳴と共に消滅する。
厄介な遠距離攻撃の脅威が、消えた。
そして、その隙を佐藤が見逃すはずもなかった。
彼は、ゴーレムの大振りな一撃を盾で受け流し、そのがら空きになった胴体へと、長剣を叩き込む。
【パワーアタック】。
ガキンッという硬い手応えと共に、ゴーレムの石の体に深い亀裂が走った。
『おお、見事な連携!』
『健司さんのタンク役、板についてきたな』
『陽奈ちゃんのエイムも、めちゃくちゃ正確になってる!』
彼の配信を見守る、数十人の熱心な視聴者たち。そのチャット欄が、温かい賞賛の言葉で埋め尽くされる。
佐藤は、その声援に内心で少しだけ照れながらも、ポーカーフェイスを崩さない。
(…まあ、悪くない。悪くないが…)
彼の、サラリーマンとしての思考が、常に囁きかける。
(このペースでは、時給換算で3万円がいいところか。ローン返済への道は、まだ遠いな…)
その、あまりにも現実的で、そしてどこまでも夢のない思考。
それが、唐突に一つの甲高い怒鳴り声によって、断ち切られた。
前方の一つの、広大な書庫のような部屋。
そこから、若い男女の、激しい口論の声が聞こえてくる。
「――だから、ふざけんじゃねえって言ってんだよ、星野!取り分6割だぁ!?」
甲高い、リーダー格であろう少年の声が、高い天井に反響する。
「そうだそうだ!お前がやってることなんて、俺たちの後ろをついてきて、ドロップ品を拾ってるだけじゃねえか!」
「はぁ?あたしがいなきゃ、あんたたちの稼ぎ、5%は確実に減ってるんですけど?その貢献度を考えたら、6割でも安いくらいでしょ!」
勝ち気な、しかしどこか切羽詰まった少女の声。
(…うわ、始まったよ)
佐藤は、思わず足を止めた。
彼の、中間管理職としての長年の経験が、告げていた。
これは、プロジェクトの利益配分を巡る、最も不毛で、そして最も面倒くさいタイプのトラブルだ、と。
彼の脳裏に、営業部と開発部の間で繰り広げられる、あの忌々しい責任のなすりつけ合いの光景が、鮮明に蘇る。
彼の隣で、陽奈が、その大きな瞳を不安そうに揺らめかせている。
「…あの、健司さん。なんだか、揉めてるみたいです…」
「ああ」
佐藤は、深く、そして重いため息をついた。
「関わるな、陽奈。面倒なだけだ。行くぞ」
彼は、陽奈の手を引くと、その声がする書庫とは逆方向の通路へと、その歩みを進めた。そうだ。君子、危うきに近寄らず。それが、彼が35年間で学んだ、唯一の処世術だった。
◇
数分後。
二人が、別の広間で一体のゴーレムを倒し、一息ついていた、その時だった。
彼らが今しがた抜けてきた通路の奥から、一つの影が、苛立たしげに悪態をつきながら、こちらへと歩いてきた。
少し明るめに染めた茶髪をサイドポニーにした、ギャル系の少女。星野輝だった。
彼女は、健司と陽奈の存在に気づくと、一瞬だけ警戒の色を浮かべたが、すぐに陽奈の顔に見覚えがあることに気づいた。
「…あ?あんた、確か同じクラスの…。天野さん、だっけ?」
「あ、はい!星野さん!」
輝は、ふんと鼻を鳴らすと、そのまま二人を無視して通り過ぎようとした。
だが、その彼女の背中に、陽奈のあまりにも純粋で、そしてどこまでも優しい声がかけられた。
「あの!星野さん!もしかして、またパーティ追い出されたんですか?」
その、あまりにも悪意のない、しかしどこまでも残酷な一言。
それに、輝の足がぴたりと止まった。
彼女は、ギギギと音を立てるかのように振り返ると、その瞳に怒りの炎を燃え上がらせた。
「はあ!?違うわよ!あたしが、あいつらを捨ててやったの!あんたは見ない奴と組んでるけどあんたも追い出されたんでしょ?」
陽奈は、力強く頷いた。
「はい!でも、私も拾って貰いました!」
彼女は、そう言って健司の腕を、ぎゅっと掴んだ。
「この、健司さんに!」
そして彼女は、最高の笑顔で、とどめの一撃を放った。
「それにね!私、このパーティに入ってから、レベルも5に上がったんですよ!」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも魅力的な一言。
それに、輝の時間が止まった。
彼女の、その鋭い瞳が、信じられないというように大きく見開かれる。
レベル5?
この、E級スキル持ちの、落ちこぼれが?
たった一日で?
ありえない。
彼女の、盗賊としての、そして金への嗅覚が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
この、冴えない中年。そして、この無邪気な少女。
この二人、何かある。とんでもない、「お宝」の匂いがする。
彼女の、その態度は、一瞬で変わった。
先ほどまでの、不遜な態度はどこへやら。
彼女は、最高の、そしてどこまでも計算され尽くした、人懐っこい笑顔を浮かべると、陽奈へと駆け寄った。
そして、その肩を親しげに抱いた。
「えー!すごいじゃん、陽奈ちゃん!レベル5!?マジ、リスペクト!」
その、あまりにも現金な、手のひら返し。
「ねえ、へー、私も入れてよ!私も、追い出されたばかりだし!」
彼女は、そう言って陽奈の腕に、自らの腕を絡ませた。
そして、その上目遣いで、このパーティの唯一の決定権者…佐藤健司を、見つめた。
その瞳には、抗いがたいほどの、小悪魔的な魅力が宿っていた。
「ね、いいでしょ?健司さん?私、絶対役に立つから!友達の、お願い!」
その、あまりにもあざとい、そしてどこまでも計算された、押しかけ。
それに、佐藤はただ、天を仰ぐことしかできなかった。
彼の脳裏に、一つのあまりにも巨大な、そしてどこまでも面倒くさい単語が、浮かび上がっていた。
『ハーレム』。
「えー…」
彼の口から、心の底からの、呻き声が漏れた。
陽奈が、その大きな瞳で、彼を不安そうに見つめている。
「健司さん…ダメ、ですか…?」
その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも強力な一撃。
それに、佐藤の最後の理性の防壁が、音を立てて砕け散った。
「……………えー…」
彼は、もう一度、呻いた。
そして、彼は深く、深く、この日一番の、重いため息をついた。
「……………はぁ」
そして彼は、観念したように、その言葉を口にした。
その声は、これから始まる地獄を予感した、死刑囚のようだった。
「……まあ、しょうがないな」
スキル名: 【幸運は二度ベルを鳴らす】 (Fortune Rings Twice)
レアリティ: C級
種別: パッシブスキル / 確率操作
効果テキスト:
術者がパーティを組んでいる際、自分を含むパーティメンバーの誰かがC級以下の「魔石」をドロップさせた時、5%の確率で、その魔石が完全に複製される。
フレーバーテキスト:
神が与えるチップは、常に一枚足りない。
ディーラーは、必ずハウスの取り分を確保する。
ならば、奪うのではない。
ただ、その理不尽な確率の隙間から、もう一枚、静かに引き抜くだけだ。
世界の理不尽に抗う、ささやかな、しかし最も確実なイカサマ。