第1話 プラス・アルファ・フロンティア制度
時刻は、午後8時を少し回ったところ。
西新宿の摩天楼の一角を占める、IT企業のオフィス。そのほとんどの窓からは、まだ煌々と明かりが漏れている。佐藤健司35歳、システム管理課・課長――は、目の前のモニターに映し出された無機質なサーバーログを、死んだ魚のような目で見つめていた。
(…今日も、平和だな)
彼の平和とは、トラブルがないという意味ではない。昨日と同じようなマイナートラブルが起き、昨日と同じような手順でそれを処理し、そして昨日と同じように、この無意味な作業が明日も明後日も続くだろうという、絶望的なまでの「日常」のことだった。
彼は、大きく欠伸を噛み殺す。早く家に帰りたい。家に帰って、録り溜めた深夜アニメを見て、そしてコンビニで買った新商品のビールを飲んで、眠りたい。彼が3500万円のローンを組んで手に入れた、あの広すぎるタワーマンションの、静寂の中で。
「――課長」
背後から、遠慮がちな、しかしどこか弾んだ若い声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは彼の数少ない部下の一人、今年入社二年目の山田だった。その目は、まだ社会の理不尽に汚されていない、純粋な好奇心でキラキラと輝いている。
「ああ、山田か。どうした?また、サーバーが落ちたか?」
「いえ、そっちはもう大丈夫です!それより、課長!」
山田は、興奮したように身を乗り出した。
「例のやつ、始めたんですか?」
「例のやつ?」
「『プラス・アルファ・フロンティア制度』ですよ!週末冒険者!うちの課でも、もう三人始めてますよ!先週始めた田中さん、この前の土日でゴブリンの魔石を5個も拾ったらしくて、臨時収入で奥さんにバッグ買ってあげたって、めちゃくちゃ喜んでました!」
「はぁ…」
佐藤は、心の底から興味がなさそうな、深いため息をついた。
「馬鹿馬鹿しい。そんな暇があるなら、家で寝る。リアルでRPGとか、ただの苦行だろ。レベル上げは、コントローラーでやるもんだ」
「えー、でも税金控除、すごいらしいですよ!それに、運動不足の解消にもなるって!課長、最近『腰が痛い』って、よく言ってるじゃないですか」
図星を突かれ、佐藤の眉がピクリと動く。
山田は、その反応に気づかず、純粋な瞳で続けた。
「――えー、課長してないんですか?意外です」
その、あまりにも無邪気な一言。
それが、佐藤の心の最も柔らかな部分を、静かに、しかし確かに抉った。
「課長なら、ダンジョンでもすごい効率でマネジメントしそうじゃないですか。敵の出現パターンをExcelでまとめて、最適な狩りルートを構築して、パーティメンバーのタスク管理とか、めちゃくちゃ得意そうですもん!」
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも的外れな賞賛。
それに、佐藤は何も言い返すことができなかった。
「…まあ、俺はいい。お前らだけで、楽しんでこい」
彼は、そう言って会話を打ち切ると、再びモニターのログへと視線を戻した。
◇
午後9時。
部下たちが全員帰り、静まり返ったオフィス。
佐藤は一人、椅子に深くもたれかかり、天井を仰いでいた。
山田の、あの忌々しい言葉が、脳内で反響している。
『課長してないんですか?』
「……してないするか…」
彼は、独り言のように呟いた。
彼は、おもむろにブラウザを開き、自らのネットバンクのページにログインする。
そこに表示された、住宅ローンの残高。
ゼロが、いくつあるのか。もはや、数えるのも億劫だった。
彼は、深いため息と共に、もう一つのページを開いた。
ギルドが運営する、『プラス・アルファ・フロンティア制度』の公式ページ。
そこに並べられた、あまりにも胡散臭い、しかしどこまでも魅力的な言葉の数々。
『週末だけの冒険で、心も、お財布もリフレッシュ!』
『今なら、本業の税金も、大幅に免除!』
(…税金、か)
彼の、サラリーマンとしての魂が、その言葉に、わずかに、しかし確かに揺さぶられた。
彼は、窓の外に広がる夜景を見つめる。
あの無数の光の一つ。
そこに、俺の城がある。
俺一人が住むには、あまりにも広すぎる、空虚な城が。
「……………はぁ」
彼は、この日一番の、深いため息をついた。
そして彼は、まるで面倒な仕事のメールに返信する時のような、億劫な、しかしどこまでも手慣れた手つきで、マウスを操作した。
「…まあ、死ぬわけじゃねえしな」
彼の指が、クリック音を立てる。
画面に、無機質なテキストが表示された。
『兼業冒険者への登録が、完了しました。最寄りのギルド管理センターにて、ユニークスキルの鑑定を受けてください』
彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」が、今、始まった。